2006年10月22日

荻野美術館


「荻野美術館」を鑑賞しました。

道に迷った路地裏で、顔を背けるようにひっそりと佇んでいた、土蔵のような美術館に迷い込んでしまいました。江戸時代に北前船で財を成した下津井港の豪商荻野家の書画や器物などの美術コレクションとのことでした。

木の香りのする館内には、円山応挙、松尾芭蕉、伊藤若冲、森寛斎、浦上春琴らの書画があるとのことですが、何故か見付けられずに、いつの間にか裏の庭園に迷い込んでいました。

庭園には、奇岩巨石が配され、座敷の奥には幽玄不可思議な掛軸がかけられ、小さな池には金魚が泳ぐでもなく止まっているように佇んでいました。また、膨らんだ黄色い腹に黒い縞模様の大きな蜘蛛が、池の上に伸びた木に爪弾けば音が響きそうな太い蜘蛛の糸を張っていました。入ってきた門を振り向くと稲荷の祠の横で黒斑の猫が丸い目でこちらをじっと見つめていました・・・。

鵬の旋風でしょうか、天籟の風が音もなく吹いていました。

帝子北渚に降る。目眇眇として予を愁へしむ。
嫋嫋たる秋風、洞庭波だって木葉下る。
白薠に登りて望を騁せ、佳期を與にせんとして夕に張る。
鳥何ぞ蘋の中に萃まれる。罾何ぞ木の上に為せる。
・・・・・・

(屈原 「楚辞  九歌 湘夫人 」より抜粋)

何か不思議な時間が流れていました。

・・・・・・
四荒を經営し、六漠を周流し、
上って列缺に至り、降って大壑を望む。
下は崢嶸として地無く、上は寥廓として天無し。
視は儵忽として見る無く、聴は惝怳として聞く無し。
無為を超えて以って至清に、泰初と與にして隣と為る。

(「楚辞 遠遊 第九段」より抜粋)

いつの間にか荘周胡蝶の夢のように蝶となって迷い出てしまったのでしょうか・・・。意識は渾沌として何の区別も付かず、物みな斉しく見えるような何も見えないような心持がしました。どこにいるのかも分らず、何も無いモノが有るような無何有の郷に遊んでいる、そんな真空妙有なありもしない時間が流れていました・・・。

夢と現実の彼岸に抜け落ちてしまいそうな中、次のような荘子 が思い出されました。

丘や汝と皆夢なり。予の汝を夢むと謂ふも亦夢なり。
是れ其の言や、其の名を弔詭と為す。
萬世の後にして一たび大聖に遇ひ、其の解を知る者は、是れ旦暮に之に遇ふなり。

(「荘子 斉物論第二」より抜粋)

あるいは  

故曰、至人無己、神人無功、聖人無名。

(「荘子 逍遥遊第一」より抜粋)

もう訳がわかりません・・・。気がつけば、携帯電話が鳴っていました・・・。
どうやら癲狂にして愚かな僕は昼間から目覚めぬ夢を見ていたようです・・・。

2006年10月15日

浦上玉堂 回顧展


「浦上玉堂 最高最大の回顧展」 (岡山県立美術館)を鑑賞しました。

浦上玉堂 は岡山出身で江戸時代後期に詩・書画・音楽など多彩な分野で活躍した人物です。50歳の時に脱藩して諸国を放浪して60代半ばからは京都を拠点に詩書画琴に親しむ自適の生活を送ったそうです。

彼の水墨画は一見、スケッチや漫画のように感じます。水墨一般は精緻さや幽玄さを醸し出すことが多いですが、彼の水墨画は滲みが多く、繊細さよりはラフなタッチで描かれてように見えます。普通の水墨画の美を求めると期待外れに感じるかもしれません。彼の作品は、水墨画の印象派 といった感じがします。彼の水墨画は静ではなく、ある種の動を表現しようとしています。草や木々の生い茂る葉を横線として描いたり、風の流れを描いたりと、動を描こうとしていたと思います。(自動車などの運動体を描いた未来派 の速度に似ています。)

玉堂は、さらに、うねって盛り上がる岩や山を描いたり、生命力豊かに伸び上がる樹木を描いたりして、画面全体がまるで渦巻く竜巻のような臨場感を持ちます。そして、私たちの目前に存在感を持ってせり上がってきます。そこでは、山や木々全体が収縮運動をして、まるで呼吸をしているように感じます。また、玉堂は円窓形や扇形のフレームの中に描くことをよく試みています。彼は目に映るヴィジョンを全体として捉えることを意識していました。空間が中央から一挙に展開したり、逆に折り畳まれたりするように感じます。そこでは、ヴィジョンが震え、目が眩みます。孔子 が語ろうとしなかった怪力乱神の源泉を彼は描こうとしているかのようです。

そんな彼の水墨画を見ていると、中国宋代の儒学者・朱子 のことを想起したりします。朱子によると、儒者たちは静坐 と格物窮理 の実践から、心が終極の未発へ到達して、さらに未発が已発となる「無極而太極 」に転換するといわれています。儒者たちは格物窮理の積習から、突如、脱然貫通 して窮極の理の境位である「無極而太極」に達するそうです。浦上玉堂のこのリアルが震えるような水墨画からは、そういった今にも脱然貫通しそうなリアルの転換する瞬間を感じます。

では、その瞬間、何が見えるのでしょうか。

詩人マラルメ が、友人カザリスに宛てた次のような手紙を想起したりしてしまいます。

仏教を知ることなしに私は虚無に到達した。
虚無を見出した後で、私は美を見出した。
私が今どんな清澄の高みに踏み込んだか、君には想像もできまい。

マラルメの見出した世界は、絶対美の、しかし、限りなく冷たい、あらゆる生あるものが消滅する死の世界だったようです。

冷たくきらめく純粋な星たちの国
この上もなく純粋な氷河地帯
幸いにも私は完全に死んだ

(カザリス宛)

鬼気迫る緊迫の中で、マラルメは彼の詩的形而上学でいうところの「偶然」を超脱して自身を昇華したようです。「私が完全に死ぬ」ことによって達した「無極而太極」の境位だったのかもしれません・・・。そして、彼はそのとき絶対言語を手に入れたようです。

私が花!と言う。
すると、私の声が、いかなる輪郭をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方に、
我々が日頃馴れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、
どの花束にも不在の、馥郁たる花の本質そのものが、音楽的に立ち現れてくる。

(マラルメ「詩の危機」より抜粋)

しかし、このような高みの中、詩人としてのマラルメは終焉してゆきます。

さて、また、玉堂の描く山には、まるで刀剣で切り取られたような不自然な円形の断面を多く見つけることができます。それは、そこにあった巨大な岩がまるで空間ごと切り取られたかのようで、あまりにも非現実的な突飛な切断です。水墨画に不似合いな、この不思議なヴィジョンはどうも易経 の影響らしいです。

八卦 や六十四卦 を生み出した易経はとても理知的なシステムです。しかし、その根本には、とても不思議な意識の働きがあるようです。「周易 繁辞上伝」で、易の記号体系の「象 」の成立について次のように説いています。

聖人、以て天下の賾を見る有り、而して諸をその形容に擬え、その物宜に象る。この故にこれを象と謂う

短文ですが、深いものがあるようです。ただ単に、外から客観的に科学的態度で観察しただけで、そこに事物の普遍的な永遠不変の本質を見出したのではないようです。それは、何というか内から事物の本質に辿り着くような意識の働きだったようです。

次のような芭蕉 の言葉が想起されます。

物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし。
その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究むるべし。

(服部土芳「赤冊子」より)

あるいは

松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ。

(服部土芳「三冊子」より)

さて、切断された山々で玉堂が何を表現したかったのかは分りません。ただ、現代感覚でさえ突飛な切断をなしえた彼に、ただただ驚くしかありません。彼は、自分はあくまで素人であって、専門家ではないと言い続けていたようです。また、音楽においても「一曲にて足る」とも言っていたそうです。彼のこの世人を超脱したかのような感覚が、私たちには見えない何かを捉えていたのかもしれません。

2006年10月9日

イサム・ノグチ展


「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」 (高松市立美術館)を鑑賞しました。

「顔」、「神話・民族」、「コミュニティーのために」、「太陽」という4つのキーワードによって分類された展示会でした。

イサム・ノグチ は、岡本太郎 と比較すると、岡本が縄文で、ノグチは弥生のように感じました。ただ、稲作的暖かさはそこに無く、静かで冷たい感じがします。抽象的なのですが、複雑さや知の集積でなく、数学的ではありません。何というか宇宙的で詩的空間のようです。詩人である父・野口米次郎の遺伝でしょうか・・・。

「プレイグラウンド」などは、幾何学模様などどこか古代文明的ですが、文明の持つドロドロした濃さは感じません。どちらかというと濃い寺院よりは希薄な神社に近いようです。あるいは、アニミズムのような、でも、人格神や動物神ではなく、超自然的な感覚でインディアンのいうグレートスピリットのような感じがしました。

作品「太陽」では、中心を空虚にして、無に無限を見るように思います。中谷宇吉郎 博士が示した雪の結晶を連想しました。雪の結晶の中心は埃や塵であったりします。それを中心に雪は結晶化されてゆくそうです。中心は何でもないモノ、塵や埃などだったりするのです。そのように考えると、究極的に中心は無(空隙)なのかもしれません。

舞台美術を担当したマーサ・グラハムのダンスには、無機的・抽象的な祭儀を感じます。ダンスなので動いているのですが、静を感じました。作品「死すべき運命」や「サイレンスウォーク」は、動が終わり、永遠の静へ向かう感じがしました。

また一方で、ジョージア・オキーフ を思い出します。大地と骨、死のイメージが浮かび上がってきます。スペインからの亡命詩人トマス・セゴビアの次のような詩が想起されます。

夜以上の何かが降っている
取り戻せない杯の底へ
時間が音もなく降っている
・・・・・・
今日わたしにはよく分る
悲しみの悲しい
愛がわたしを高める日
美しく崩壊する生命の断片をわたしは
ベールに包んでためらいなく賞賛する
・・・・・・
時間よ わたしに触れてくれ
おまえの指のために未だわたしは裸でいるのだから

(「現代メキシコ詩集」からトマス・セゴビア「時間の連鎖」より抜粋)

さて、また、「広島の原爆死没者慰霊碑」はとても巨大な重量感のある、ズシリとした重さを感じます。

日本の若いアーティストには、もっと原爆(核エネルギー)について表現して欲しいと思います。アインシュタインのE=mc² は”物質はエネルギーである”という物質の秘密を解明しましたが、一方でオッペンハイマー によって核兵器を生み出して、戦争を変えただけでなく、人類の歴史を変えました。広島・長崎の悲劇の歴史を持つ日本のアーティストには、もっと深く、根源的に表現してほしいと思います。当時は峠三吉 らが詩で表現しましたが、(村上隆などもリトルボーイ展として表現していますが、)現代を生きるアーティストにも、もっと自由に深く探求してほしいと思うのです。

2006年10月8日

AWC 30th Kagawa Special


「ALL WORDS COA Kagawa Special」 (Poetry Live "AWC" The 30th commemoration)を鑑賞しました。

marippeさん、かまぼこ板さん、山中さん、OLD FLAGさん、喜田さん、中ちゃんさん等々が朗読されました。司会進行は椿さんでした。

皆さん、聴く人に優しい、耳に心地良い朗読でした。全体的に、女性性や若者らしさを感じました。柔らかさやしなやかさのある朗読会でした。あるいは、若かった頃を追憶させるコトバたちでした。
 
でも、OLD FLAGさんは独自路線の絶叫系でした。ホムラさんの叫びは聴く者に言葉をぶつけてきます。聴く者は全身で彼の詩を受け止めることになります。真正面からの言葉の激突はまるで本当に礫を投げつけられたように感じます!また、エアさんの音響効果も迫力がありました!朗読には、ちょっぴりマリリン・マンソン を感じました。ただ、マリリン・マンソンは一線を越えて狂気に没入しますが、彼らはあくまで理性的で文学空間なんだと思いました。
 
それにしても、AWCは今回で30回目とのこと!これはとても凄いことです!スゴいよ、椿さん!

オランダの光


ピーター=リム・デ・クローン監督「オランダの光」 (in PEPPERLAND)を鑑賞しました。

能勢伊勢雄さんが月1回催されている上映会”VIDEO HACKING”の第176回でした。今回は光シリーズの第一弾とのことでした。

オランダの光には独特の自然光があり、レンブラント やフェルメール など多くの画家に影響を与えてきたそうです。ヨゼフ・ボイス はエイセル湖の反射光にその原因を見つけます。この映画では絵画や風景を交えながら、アーティストや学者がオランダの光について語ってゆきます・・・。

この作品が指摘するように、オランダの低い地平線と湖面と雲が独特の自然光を生み出す原因だというのが実験や繰り返し映し出される風景映像でよく分りました。

それにしても、17世紀オランダ絵画が新鮮でリアルな輝きを放っていると私たちが感じるのは何故でしょうか。それはレンズの焦点を合わせるように、眼も瞳孔を調整してフォーカスしているところに起因しているように思います。フォーカスするとき、希に光をダイナミックに散瞳的に捉えるため、あのように透明でリアルな光の絵画が生まれてきたのではないでしょうか。

瞬間、意識の連続性が途絶えて判断停止(エポケー)となり、次の瞬間、散瞳的に生起してくるリアルな光を捉える。そんなプロセスがこれらの絵には無意識にあるような気がします。連続性が途絶えるとき、音は消えて完全な沈黙が訪れるように思います。そのため、これらの絵には音楽や物語が無いといわれたりするのだと思います。そして、特別開かれた目が光をよりリアルに捉えるのではないでしょうか。モンドリアン の絵などもまさに止観後に生起してくる瞬間の光を捉えたのではないでしょうか。

また、ジェームス・タレル の「肉眼のための天文台」もおもしろかったです。まるで自然の天空そのものをイスラムのドームに見立てたように感じました。岩のドームでのムハンマド の「夜の旅」 が想起されました。本当に青天が霹靂したり、至聖溢出したりするように感じられます。

そして、タレルがセスナに乗って、「光を追いかけて光と一体になるんだ」といった光の探求から、光の形而上学の師スフラワルディーを想起しました。彼によると、自我を完全に消滅したとき、ぼんやりした真っ白な茫然自失状態ではなく、はっきりした全く別の意識が心の中に煌々と輝いてくるそうです。それはこれ以上にないリアルな存在で、光の中の光として体験するそうです。その瞬間、”我は彼”となるようです。修道僧バスターミーの次のような言葉が思い出されます。

蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分自身の殻を脱ぎ捨てた。
そして、私は自分自身を眺めて見た。
どうだろう、驚いたことに、私はまさに彼だった。

(サッラージ「閃光」より)

さて、また、ヤン・アンドリーッセの淡い水色は空を連想しました。船上のアトリエからあるがままに光を捉えようとする彼の姿勢はジャコメッティ を思い出させます。また、もっと強烈な青であるイブ・クライン の青を思い出したりもしました。

また、鑑賞後の能勢氏の解説がとても興味深かったです。眼球が胎生的に脳が突出して出来るというお話。エイセル湖が地球の眼であり鏡なんだというお話、トルマリンのお話などなど。能勢氏のお話からはとても大切な何かを伝えようとする愛が感じられました。