2006年6月11日

新潟


「新潟」                        

2月のはじめごろやったと思います。
凍りついた渓谷に冬の日光が反射するのがあんまりキレイで
車を止めてワンカップを飲みながら詩なんか書いてたら
村の人2人、おっちゃんとおばちゃんが近づいてきて、
うちに来なさいって。
へ??
あれ、あれというまにうちにあげられて
おいしい鍋とか地元の酒とかいっぱいでてきて、
「話したら楽になるもんやから、なんでも聞いてあげるから、、って。」
あ?? う、、うん。
なんか、悪いなあと思って、
とりあえず、死んでしまいたいなあと思ってましたってことにして
日頃の愚痴とか、いろいろきいてもうた。
いや、べつに死にに来たんとちがうんやけど、
なんか、ほんまは死にに来てん、みたいな気分になって、
素朴な人らにはげましてもうてるうちに、ちょっと泣いてもうた。
ほんなら今度は、「今日はもう遅いから、泊まっていき、って」。
あ、、うん。ありがとう、、って  変な話や。
んで、次の夏にもういっぺん、お礼を持って行ったときにはほんまのこと話したら、
えらいうけてて、大阪を見てみたいっていうもんやから案内したり。
僕のほうも、近くに温泉が湧いたっていうもんやからまた遊びに行って、
晩はまたうちに泊めてもうて。
2004年10月24日
連絡がとれんようになった。
あんなええ人らの足元から、何回も、何日も地震が襲って、村はこわされた。
1週間ほどしたら、突然電話がかかってきた。
もう、「もしもし」からしてあの優しい、ちょっとおもろい方言やから
一発でおっちゃんやってわかった。 生きててん。
うちはこわれたけど、ワシらも近所のみんなも無事や、、って。
僕はあんまり腹が立って、
自然なんかもう、、最低の憎たらしい奴や、とか
阪神大震災の時にも友達がいっぱい殺されて・・・とか、
つい話してしまおうとしたら、
「もう、いいやん」って。
日本に住んでる以上はしょうがないって。
それより、落ち着いたらまた遊ぼな、って。
言いながら、泣いてはるのがわかった。

2日後に手紙が来た。
おっちゃんとこの息子さん、って僕より年上やって言ってたけど、
単身赴任やなかったんか。・・神戸の震災で亡くなった・・    と書いてある
毎日電話がかかってきて、関西の言葉になじみにくい、とか
でも住みやすいとこやし、頑張るから、、、って言ってはった矢先の事やったとか・・
もういい。 全部わかった。 変な話や、とか言っててごめん。
あのとき、途中まで書いてた詩は、
「ここはまんが日本昔ばなしに出てくる天国か」っていう題名。
破って捨てといた。
それより、
おっちゃんら、ちょっとでも早よう、会いにいくからな。
鍋つくったげるから、 また地酒のみながら話し、しよう。
話したら、ちょっとでも楽になるもんやから。
なんでも聞かしてもらうから。