2006年7月23日

オリエント美術館


僕は時々、山の中や神社を歩きたくなる。木洩れ日を見上げたり、土を踏みしめたくなる。そうしないと何だか身体の調子が悪くなる。僕にとって、オリエント美術館 はそういった森や神社に代わる場所だ。


暗がりの中に展示された古代の器たちが僕を遥か過去へと引き戻す。注口が3つもある壺、周りに子壺を配した壺、動物達を模した土器など、実用的ではないが横断的な意味を込めた器たち。そして、それら土偶を見るとき、僕の中の縄文的感性が時代と場所を越えて共鳴する。そうして言語領域が完成される以前の自分、直感的・野性的・始原的な自分を取り戻す。


特別展として「中国古代の暮らしと夢」 が開催されていた。
墓の中へ副葬される明器と呼ばれるミニチュアの展示だった。来世での理想の暮らしのために、様々な物や人をミニチュアに模して埋葬した。祭器は人の道具、明器は鬼神の道具だそうだ。明器にはいろいろな装飾が施されている。例えば、蝉。蝉は死者の再生を象徴しているそうだ。または熊。熊は神獣として四隅を守っていたりする。熊・・・。アイヌのイヨマンテ や宮沢賢治の「なめとこ山の熊」 が思い出される。

また、農民や楽士や舞人など人々をかたどったものを俑(ヨウ)というそうだ。農作業をしたり、音楽を奏でたり、踊っていたりとダイナミックな動きを捉えた人々の姿だ。そのダイナミックに躍動する姿は、あともう少しで漢字という記号に生成される寸前、その一歩手前の状態だ。現実世界を漢字の森(意味世界)で覆い尽くした漢字文明も、死者の世界に対しては記号以前であるミニチュアを用いてモノの魂を託すのだろうか。死後は魂と魄に分かれるという。これらミニチュアには、秩序的な楷書や知的に脱構築した草書とも違う、もっと野性的なスピリチュアルな精神性を感じる。

(そういえば、漢字とはまた違った趣きのあるアラビア書道 なんかも興味深い。)


死者の世界に思いを馳せていたとき、視線を感じて振り返ると、
青く浮かび上がった有翼鷲頭精霊像が死の法官のように僕を見据えていた。
そして、奥の方では黒石に刻まれたハムラビ法典が掟を示して生きる厳しさを教えていた。


熱に浮かされた僕は、水のせせらぎに導かれて、二階の噴水に辿り着く。

ちょろちょろと流れる噴水の水音だけが静かに聞こえる。
ここはモスクのドームのようであり、嘆きの壁のようでもある。
天窓を見上げると、曙光が差し込んでいる。
まるで、階梯を登ることをヴェルギリウス が誘っているかのようだ。
ここから見上げる天空が僕には天使たちのカタパルトに見えた。


その後、喫茶イブリクの異国情緒なアラビックコーヒーで目を覚ましたのだった。