2006年7月10日

OUKOKU-TEN painting exhibition 2006


「OUKOKU-TEN」 (アトリエ宮崎王国)を鑑賞しました。


宮崎さんら倉敷芸科大出身の5人のグループ展でした。

宮崎政史さんの作品は真っ白いキャンバスの前面と背面の2つの平面のみで表現されたシンプルな作品でした。これは視覚で物の形を認識するときの原初の段階ではないでしょうか。色彩や細部などが認識されるよりももっと前の段階、認識が働き始める原初の瞬間を捉えたような作品でした。それはとてもシンプルで透明でクリアな、そしてピュアな形象です。認識が完成される前、社会的な認識で汚される前の、純粋な心の働きです。まるで認識が種子の殻から芽を出したばかりの瞬間を捉えたような作品でした。

伊藤玄樹さんの作品は、心の奥にある情念のマトリックスの上に銀色のメタリックな線条で押さえるかのような印象でした。線条の内側にはこのような赤いマグマのような情念が秘められているのかもしれません。

廣川達也さんは爽やかな色彩の作品です。朝、目覚めたとき、世界は新鮮な色彩で輝いています。曇りのない目で世界を眺めたとき、こんな色彩で世界は僕らを歓迎してくれるのかもしれません。

紙本真理さんの作品は、セザンヌが印象派を飛び越えて、いきなり抽象画を描いたかのような作品でした。原色がとても綺麗でした。コリン・ウィルソン のいうアウトサイダーに見えるヴィジョンもこの絵のようなものかもしれないと想像しました。


児玉知己さんの作品は、草間彌生 の「無限の網」のような作品です。この作品の原体験は、元々は鬱蒼とした草々を見つめたときのヴィジョンではないでしょうか。地面一杯に生い茂る草にじぃっと見入ると、前後などの遠近感を失くします。さらに草と自分という主客を失くして、そこには草と一体となった自分がいるかもしれません。そうしているうちに、グラグラと眩暈を起こして、いつしか草に飲み込まれて心はサイケデリックな空間に陥ってしまいます。そこでは魂はそのサイケデリック空間でネイキッドな状態に晒されます。そこではもっとも敏感な部分が剥き出しになったように空間の息づかいを魂にダイレクトに感じます。日常世界よりも、もっともっと深いリアリティがそこにはあります。この作品には伊藤若冲 の鶏画のような生々しい艶やゴッホ の糸杉やひまわりに通じる生命力があります。この作品は日常空間を飲み込んでしまうほど強力な生い茂る破壊的生命力に溢れています。

(写真の撮影・掲載を許可下さった宮崎さん・伊藤さん、ありがとうございました。)

「OUKOKU-TEN」 はギャラリーすろおが463 で7月17日(月)まで開催されています。