2008年5月25日

岡山の娘


福間健二監督「岡山の娘 」を鑑賞しました。

この映画を見に行く前、アルファブロガーのブログを読んでいたら「某有名人が硫化水素自殺か?」という記事が出ていました。後になって誤報と分かりましたが、そのとき検索すると該当するニュースはありませんでしたが、一般人の自殺のニュースはたくさんありました。年間3万人もの人が自殺しているので、一日あたり百人くらいの自殺があるはずです。ですので、ニュースになっているのは、これでもまだ少ない方なのだと思います。ただ、今日の私には、とても象徴的に思えました。というのも、昨夜から私が見ていた幾つかのブログの中で自殺をほのめかす記事がとても多かったからです。五月病と言われるように憂鬱な季節の所為かもしれませんが、理由は様々でした。生活保護を受けている人だったりとか、また新たな借金ができた夜勤の女性だったりとかで、とても心配しました。原油高で物価は確実に値上がりしているし、生活保護費を削減するという新聞記事は出ているしで、彼らが嫌になる気持ちも分かります。とりあえず、ブログになんとか自殺を思いとどまらせるコメントを残そうと思いましたが、なんとコメントしたら良いのか、正直、ずいぶん迷いました。というのも「明日はきっと良くなるから希望を持ちましょう」などとはウソっぽくて書けないと思ったからです。彼らのブログには、この世界への絶望と無力な自分自身に対する怒りが切実な言葉で綴られていました。安易な言葉ではいけないと思いながらも、結局、言葉が見つからず、自分でも説得力がないと感じつつ、思いとどまるようにコメントしました。そんなちょっとやり切れない気持ちで、この映画を見に行ってきました…。

さて、映画ですが、まず、映画のストーリーは、母と二人で暮らしてきた娘が母親の突然の死で経済的にも精神的にも苦労・苦悩する話です。放浪していた父が外国から帰ってくるので、父と娘の話かと思いましたが、そうではなくて娘の心の移り変わりを描いた映画だと思います。娘は母の死で生活のために学生を辞めて働くのですが、うまく行かずに精神的に張り詰めてゆきます。銀行強盗や逃走を夢想したり、父に対しても怒りをぶつけたくなるような心持になったりします。後半に電話で友人に怒りをぶちまけるシーンがありますが、何に対して怒っているのかというと、実は自分自身に対してだったりします。そうして、自己破産したり、失業したりして、いよいよ娘の気持ちが張り詰めてきます。そんなとき、突然、母の歌声が聞こえてきます。この幻の歌声によって、娘は閉塞した重苦しい気持ちから、広々とした空間に出て一気に涼しい風を浴びたように開放した気持ちに転換します。ラストに娘は述懐します。「昨日までこうだったから、今日も同じようにこうでなくっちゃならないと思ってた。でも、昨日は昨日で、今日は今日なんだ。今日は昨日と違ってもいいんだ。そう思えるようになった」と。たぶん、希望もないかもしれないけど、絶望もしない。今日は昨日までと違って”豊か”ではないかもしれない。けれど、今日に対して昨日と同じような”豊かさ”を求めない。今日は、昨日とは違うありのままの今日を受け入れる。そんな境地なのかもしれません。

この映画では、この転換を表わすのに音楽を効果的に使っていると思います。母の歌声が聞こえるまで、この映画の中では音楽をまったく使っていません。映画がラストに近づくにつれて、音楽が無いことが、どんどん息苦しい閉塞した気分となって観客にも伝わってゆきます。見ていて、こんなに音楽を渇望した映画は初めてです。中にはそれをストレスに感じたお客さんもいたのではないかと思います。もちろん、それは主人公の閉塞感とシンクロするようにわざと作っているのだと思います。これは他にはない、なかなか大胆で非凡な表現だと思います。そして、母の歌声が聞こえたとき、「やれやれ」とホッと一息つけた気持ちになります。肩の荷を降ろした気持ちになります。母の歌声は娘に「そう張り詰めなさんな。ちょっと一息つきなさいよ」と言っているように思います。今日に希望はないかもしれない。昨日に比べたら今日は絶望的かもしれない。けれど、そんなに思い詰めなさんな。肩の力を抜きなさいよ。そう言って張り詰めた娘の気持ちを解きほぐしているように感じられました。

ちなみに父においても、音楽ではなしに笑いで、同じような転換を試みているように思います。この映画、詩的表現がユニークでニヤリとするような味わいが随所にあるのですが、いわゆるジョーク的な笑いが途中にほとんどありません。ところが、浮世離れしたことしか言わなかった詩人のバルカンがラスト近くで初めて現実的な問いを父にします。「娘の生活費のために、生命保険をかけて死ぬためにおまえは日本に帰ってきたのじゃないのか?」と。すると、父はポツリと答えます。「成田家の湯豆腐を食べたくなったから帰ってきた」と。本当は照れ隠しなのかもしれません。が、どこまでもふざけたダメな父親です…。が、個人的にはちょっと笑っちゃいました。(鳥酢じゃないのかというツッコミを入れたくなりましたが。)思うに、ここでも同じように肩の力が抜けたように思ったのです。父は言います。「日本はなんでも手続きが必要で面倒だ」、つまり、外国は手続きなんて不要で自由に気楽にやっているよ、と。父親もまた肩の力を抜けよと言いたいのかも知れません。そういえば、上映前の舞台挨拶で福間監督は「気楽に見てください」と言っていたように思いますが、実はそんな主旨が込められていたのかもしれません。

さて、この映画の物語は以上のように読み解きましたが、撮り方もとてもユニークでした。まず、監督自身が詩人でもあるので言葉に対する感性がひと際輝いている作品のように思います。言葉が押し付けがましくはならずに、詩と映像がクロスして味わい深い雰囲気を漂わせていました。この映画の醍醐味は、この詩と映像の切り結びにあると思います。

次に、映像による現実の捉え方について色々と考えさせられました。ドキュメンタリータッチとドラマ仕立てが交錯するような作り方で現実が錯綜します。これは現実は複数あるということなのかもしれません。まず、主人公が生きている現実があります。そのほかにも、バルカンをはじめとする詩的な登場人物が生きている現実、インタビューに答える若い女の子たちが生きている現実(始めはその中に主人公みづきもいるのですが)があります。
みづきが電話で怒りをぶちまける演劇的なまでの現実がありますが、映画の場合はそれを距離をおいて見るので、みづきの現実もひとつの現実に過ぎないと観客は気付いたかもしれません。例えば、自分に振り返ってみると、一生懸命やっているんだけれど空回りしている自分を見つけたとき、滑稽な自分に自分で笑ったりするみたいに。みづきの場合は、この電話で怒っている対象は自分自身であることに気付き、次に母の歌声によって現実の色合いが変わるように、一つの現実からもう一つの現実にシフトしたのだと思います。

考えてみれば、いま、映像はいたるところに溢れるようになりました。安価なハンディカメラで誰でも撮影が可能となり、YouTubeのような動画サイトで誰でも公開して閲覧することが可能になりました。私たちが捉える現実も映像のイメージに影響されることが増えたように思います。極端な言い方をすれば、例えば、政治家などは昔は言葉だったのが、今は見た目になったかもしれません。映像は必ず現実なのかというと、現実として受け入れられやすいけれど、ありのままの現実ではなくて、恣意的でもあります。CGやVRになったらそれこそ何が現実か分かりません。そういった意味では、この作品は現実を複数個描くことによって、私たちの現実感を揺さぶっているのかもしれません。例えば、みづきが生きている現実もみづきが考えているひとつの現実に過ぎないんだよ、と。(*この記事の文末に、この映画を見て思い浮かんだものをメモ書きした図を置いておきます。まだ一回しか鑑賞していないので誤読もあるとは思いますが。)

ただ、この作品には社会批判がないようにも思います。映画としては良いのですが、メッセージとして「不幸な現実を受け入れろ」と誤って受け取るのは違うと思います。例えば、さゆりのような空っぽな自分になる経験は安易に受け入れられない現実のひとつだと思います。このような作品が撮られた社会的背景には、斜陽な日本経済とプレカリアートな現実があるのではないかと思います。たしかに若者は思いつめて性急になってはいけないけれど、変わらない世界に諦めてしまってもいけないと思います。ネグリ のいうような

もうひとつの世界は可能だ

(アントニオ・ネグリ「未来派左翼 」より)

という希望を捨ててはいけないと思います。でなければ、冒頭のようなやり切れない気持ちの行き場がなくなってしまいそうです…。

それから最後に、出演者が素晴らしかったです。映画の中で、様々な形で詩の朗読が入ってくるのですが、違和感なく詩と映像がマッチしていたと思います。観客に自然に受け入れられたのですが、実はこれ、けっこう難しいことだと思います。また、皆さん、キャラが本当によく立っていました。特に詩人バルカン役の東井さんと信三役の入海さんは、本当にハマリ役でした。今度は「岡山のオジサン」を見てみたくなりました(笑)。

*映画を見て思い浮かんだものをメモ書きしました。