2006年5月16日

みっちゃんの惑星


みっちゃんの惑星                                     遙伸也

「みっちゃんが危篤らしいわよ」
いらいらしている時に突然携帯電話が鳴り響いたので、、相手を確かめることなく、「はい、はい」とぶっきらぼうな声で応対すると、耳に飛び込んできた言葉がそれだった。
郷里の女友達、瑞穂が報せてきたのだ。
来月から始まる新型車販売に向けての、重要な営業戦略会議が、今まさに始まろうとしていた、矢先の出来事だった。
危篤―
その言葉は、圧倒的な威圧感をもって、私の心に大きくのしかかり、それまで私を煩わせていた、焦燥感や緊張感といった一切のごく些細な感情を、瞬時にして私の体の中から払拭してしまった。そしてその後に残ったのは、悲しみでも絶望でもない。ただ透き通った、虚しさだけだった。
私の中にできあがった無という空間。やがてそれが、次第に私の中で膨らんでいって、体全体を飲み込んでしまうような感覚にとらわれると、私は思わず気を失いそうになった。
だがそんな私を現実の世界に引き戻そうとするかのごとく、瑞穂が耳元で、矢継ぎ早に声を浴びせてきた。
きっと懸命に状況を説明しているのだろうが、私の心の中には全く届いて来ない。
「とにかく行くよ」
私はそんな瑞穂の言葉を遮るようにそっけなく答えると、そのまま電話を切った。
そしてうつろな表情のまま会議室の前まで歩くと、重たいドアをどうにか開いた。
中を見回すと、既に自分以外の社員は皆着席して、会議が始まるのをそわそわしながら待っていた。まだ営業所長は着席していないようだ。私はそのことを知ると、すぐに部屋を出ていった。
私一人が欠席し、いなくなったからといって、誰も気には止めないだろう。所詮私は、四十過ぎの冴えない平営業マンだ。毎月の販売成績はドンジリとまではいかないが、かといってパッとすることもない。しかしリストラ対象の筆頭候補であることは間違いない。
そんな影の薄い私など、会議にいてもいなくても同じことだ。私はそう開き直って自分に言い聞かせながら、そそくさと階段を下り、そのまま玄関からこっそり外へ消えようとした。だが顧客との商談を終え、まさに会議に赴こうと事務室から出てきた所長と、ばったり廊下で鉢合わせになってしまった。
しかし意外にも、私は落ち着いていた。私は所長にお辞儀をすると、淡々と言った。
「郷里の親友が危篤との一報が入りましたので、早退させてもらいます」
その時、文句の一つや二つ飛び出すかと思い、一瞬身構えたが、返ってきた言葉はそっけなかった。
「あっ、そう」
所長は一言そう言い残すと、何事もなかったように、ゆっくりと二階へ上がっていった。
その見捨てるような態度は正直、嫌味の一言を言われるよりも辛かった。しかし落ち込んでいる暇などない。私は気を取り直すと、急いで営業所を飛び出して車に乗り込み、駅に向かって走らせた。

みっちゃんと私とは、小学生時代の同級生だ。当時みっちゃんは、丸顔で、お下げ髪が良く似合う、可愛らしい女の子だった。そんなみっちゃんと久しぶりに再会したのは、五年前のこと。
高校の同窓会で帰郷した時、偶然近所のスーパーで出くわしたのだ。みっちゃんは、あの頃の面影を宿してはいたものの、さすがに歳には勝てず、今や顔には小じわが目だち、大分やつれた感じがしていた。 
それでも当時の愛らしい笑みは健在で、こんな歳になって、未だにやもめ暮らしを続けている冴えない私にとって、彼女は十分すぎるほどの魅力を持った女性ではあった。
その後、喫茶店に入って、みっちゃんと昔の思い出話に興じた私は、暫しの間、幸せな気分を満喫した。
話を聞くと、みっちゃんは幸か不幸か、三年前に夫を病気で亡くし子供もなく、今は寂しい独身生活を送っているということだった。私は胸を躍らせた。このままうまく交際を続けていれば、もしかして、彼女と結婚できるかもしれない。私に微かながら、希望の光がさしかかってきたとその時は思った。だが世の中、そうたやすくは思い通りにいかなかった。
彼女と話していたら、突然私の脳裏に、ずっと心の奥底に封印していたはずの、忌まわしい記憶が蘇えってしまったのだ。
あれはまだみっちゃんと同じクラスになる前、つまり彼女と知り合う前の出来事だった。
そう。確か、小学校三年生の時だ。当時私には、近所に行きつけの駄菓子屋があった。
その駄菓子屋は、人のいいおじいさんが一人で営んでいて、私にとっては心やすらぐ、憩いの場であった。当時私の父は、今の私同様、安月給の万年平サラリーマン。しかも子供を四人も抱えていたから、家計を支えるのに死に物狂いだった。そんな家庭環境下にあって、四人兄弟の末っ子であった私が、スズメの涙ほどの小遣いしかもらえなかったのは、至極当然のことだ。
そんなわけで、駄菓子屋に行ったとて、欲しい物がすぐに買えるわけでもなく、ただよだれをたらしながら、飴玉やラムネ菓子、そしてメンコなど玩具を眺めては帰る。そんな日がほとんどだった。それでもおじいさんは、そんな私を、いつも笑顔で迎えてくれた。だから私は、欲しい物が手に入らなくても、そこにいるだけで幸福な気持ちになれたのだ。

しかしある日を境に、事情は一変した。魅力的な商品が、忽然と店頭に登場したのだ。 それは「ウルトラファイター」という、ウルトラマンもどきのヒーローのフィギュアであった。しかもそれはただのフィギュアではなかった。三十センチほどの大きさで、当時主流であった超合金と呼ばれる金属製のシリーズであるらしく、シルバーメッキで加工されたそのボディは、この世の物とは思えぬほど美しい光沢を放っていて、その一流の出来栄えに、私は一目で魅了されてしまった。 運のいいことに、そのフィギュアはくじの景品だった。「ウルトラファイター」の、一枚十円の板ガムを買うと、包み紙がくじになっていて、一等が出れば、そのフィギュアが手に入る仕組みになっていたのだ。この手のくじは、当時どこの駄菓子屋でもお目にかかれたが、恐らくこんなに豪勢な景品の物はなかったと思う。だから十円玉一枚さえあれば、貧乏な私にでも、豪華なフィギュアを手に入れるチャンスがあるという訳だ。

以来私は、小遣いはおろか、今までこつこつと貯金していたなけなしの小銭までも投じて、果敢にくじに挑戦するようになってしまった。だがやはり、世の中思い通りにはいかない。一等の当たりが出ることなど、全くなかった。たまに当たりが出たとしても、三等が関の山だった。三等の景品は怪獣カードだ。それは「ウルトラファイター」の敵である怪獣や宇宙人の写真カードで、私にはどうでもいいものだった。
こうして、貯金を全額はたいて、くじに挑戦したものの、結局怪獣カードが数枚、手元に集まっただけだった。せめて二等の「変身メガネ」でも当たってくれればまだ救いはあったのだが、それすら叶わなかった。「変身メガネ」とは恐らく、ウルトラファイターに変身するための小道具なのだろうが、その詳細はいまだに謎に包まれている。
そしてそんなある日のこと、事件は起こった。
貯金をはたいて以来、もう二度とくじは買うまいと心に誓った私だったが、その日は久しぶりに親から小遣いを貰ったので、ついつい足が店に向いてしまった。躊躇しながらも店に入ると、まだ一等のフィギュアが、誰にも奪取されていないのを見て、とたんに気持ちに火がついた。早速、例のごとくおじいさんに十円玉を手渡して、ガムを買ってしまった。
そしてわくわくしながらそっと包み紙を開いた。すると結果はまたしてもはずれ。
私はがくりと肩を落とした。ここまではいつも通りだった。
だがその時、突然おじいさんが左胸を右手で押さえ、うううっと、うめき声を上げて苦しみだしたのだ。突然のことで私は驚いた。店には私以外、誰もいない。どうしたらいいのか分からず、あたふたしながらも、私はその様子を見つめることしかできないでいた。
やがておじいさんはもがきながら、床の上に転倒してしまった。その時おじいさんは、救いを求めるように、私に右手を差し伸べた。だが私は恐くて、じりじりと逃げるように後退した。私は金縛りにあったように、身動きひとつできないでいた。数分後、おじいさんはそっと目を閉じると、そのまま動かなくなってしまった。ついに息絶えたようだった。
その時、私に悪魔が囁いた。今だ。今がチャンスだと。その声を聞いた時、まるで凍りついていた全身が氷解するように、突然金縛りから解放されたのだ。私は周囲を見回し、誰もいないことを確かめると、あのフィギュアをそっと手に取った。
そして気がついた時には、店を飛び出し、無我夢中で走り続けていた。
やった。ついに念願のフィギュアを手に入れたぞ。
右手にフィギュアの重みを感じながら、私は心の中で叫んでいた。
だが家にたどり着き、自分の部屋に戻って、しげしげとフィギュアを眺めた時、不思議なことに喜びは一気に消え失せてしまった。その代わり、やがて言いようのない虚しさが私を苛んだ。その時になって初めて、自分の行為が間違っていたことに気づいた。だがもう時すでに遅しだ。やらかしてしまったことは、今さらどうにもならない。いいじゃないか。くじに当たったことにすれば。十円払ってガムを買ったのだ。ちゃんとお金は払った。
だから、自分は泥棒などではない。私は何度も自分にそう言い聞かせ、自分の気持ちをごまかした。そうすることしか、できなかったから。
そして翌日、母親からおじいさんが亡くなったことを聞かされた。その時まで、もしかしたらおじいさんが助かっているのではないかと、微かながら希望を抱いていただけに、真顔で母から、おじいさんの死を正式に告げられると、さすがに私は落ち込んだ。全身から一気に力が抜け、立っていることですら辛かった。私はその日学校を休み、一日中床に臥せった。精神的にやっと立ち直れたのは、確かそれから一週間ほど経ってからだった。私は忌まわしい記憶を封印するために、フィギュアを箱に詰めると、押入れの奥に仕舞いこんだ。以来、箱の蓋を開け、フィギュアと対面することは二度となかった。
おじいさん亡き後、駄菓子屋の経営は娘に引き継がれたが、それからというもの、私がその店に近寄ることはなかった。
その翌年、小学校四年生に進級した私は、クラス替えがあり、みっちゃんと同じクラスになった。みっちゃんとは気が合って、すぐに仲良くなった。
そんなある日のことだった。学校の帰りがけに、みっちゃんが家に招待してくれることになり、私は何の気になしに彼女についていった。だが家に案内された時、愕然とした。
なんとあの駄菓子屋が、彼女の実家だったのだ。
以来私は、罪の重さを背中に背負いながら、みっちゃんと接しなければならなくなってしまった。だが時間の経過というのは都合のいいもので、やがて成長し、大人になっていくにつれ、私の中でそんな忌まわしい過去の記憶も風化していき、いつしか脳裏から完全に消え去っていた―
だが五年前、久しぶりにみっちゃんと再会した時、突然その記憶が蘇ってしまったのだ。
いつかは私の罪をみっちゃんに告白しなければならない。そして晴れてみっちゃんから許しをもらえた時、正式に彼女にプロポーズするのだ。もし許してもらえなければ、彼女のことは諦めよう。私はそう心に決めていた。
だが思い切って告白しようと彼女に電話を掛けるのだが、いざ彼女の声を聞くと、つい決心が鈍ってしまう。もし許してもらえなかったらどうしよう?
そんな悪い想像ばかりが頭をよぎり、ずるずると、告白できないまま今日まで来てしまった。だがもう時間はない。
みっちゃんは癌が全身に転移し、もう余命いくばくもない。これが最後のチャンスなのだ。
いつしか雨が降り始めていた。八月の通り雨だ。やがて雨粒は勢いを増し、運転席のフロントガラスを激しく打ち付けた。私はその時、自分の心も、誰かに打ち付けられたような気がした。
気がつくと、無理に平静を取り繕うとしていた頑なな心が解れ、私は目からはらはらと涙をこぼしていた。


故郷の静岡県H駅のホームに降り立った時には、天候はすっかり回復し、空は夕焼けで薄紅色に染まっていた。私はふらふらと、夢遊病者のようにおぼつかない足取りで階段を下り、コンコースを抜けた。そして改札口を前にしたとたん、突然足が地面に張り付いたように動かなくなってしまった。ここに来て、急に恐くなってしまったのだ。みっちゃんとの別れが。そして死に瀕した彼女に向かって、贖罪を請うことが。
こんな小さな存在の自分に、果たしてそんな大それたことができるのだろうか?
私は立ち止まったまま、目の前を行き交う人々の流れをじっと見つめた。そして自分の体を、無理やりにでもそんな人々の流れにうまく同調させようと試みたが、どうにもだめだった。体が重たいのだ。私はその時、ふと気づいた。ボストンバッグに仕舞ってある「ウルトラファイター」のフィギュアの存在を。
そうだ。このフィギュアが体も、そして心までも重くしているのだ。その時私の脳裏に、あの駄菓子屋のおじいさんの、怒った顔が浮かんだ。きっとおじいさんが、あのフィギュアを返せと、私に訴えかけているのだ。私は決心した。まずこのフィギュアを、あの場所へ供えようと。
まずおじいさんの霊を供養することが先決だ。そして身も心も軽くした後で、みっちゃんに会いにいくのだ。そうすれば事がスムーズに運ぶだろう。
この地に立ち、妙に霊感が冴えてきた自分に戸惑いながらも、私は自分の勘に従うことに決めた。すると不思議なことに、突然体が、何事もなかったように前へ進み始めた。
こうしてようやく改札口を抜けると、タクシー乗り場でタクシーを拾い、私はあの駄菓子屋があった場所へと向かった。あの場所には今、コンビニエンスストアが建っていた。おじいさんが亡くなった後、みっちゃんの父親は離婚していなかったから、駄菓子屋は彼女の母親が引き継いだ。でもその母親が病死すると、今度はみっちゃんが店を譲り受けた。だがみっちゃんを更なる不幸が襲った。夫が病死したのだ。みっちゃんは不幸な過去と決別する意味で、思い切って店を取り壊した。そして新たにそこでコンビニエンスストアを開店し、今まで生計を立てていたのだ。
やがてタクシーは、見慣れた風景だが、どこか懐かしさの漂う、故郷の街並みを軽快に駆け抜けると、目的のコンビニエンスストアに到着した。
そのコンビニは、店の外観は白塗りで美しく、駐車場も完備されていて、なかなか繁盛しそうな雰囲気の店だった。
私は恐る恐るタクシーを降りると、こっそりと店の裏手の方へ歩いていった。
窓ガラス越しにちらりと店内を眺めると、思った通り客の入りはよかった。
私は人に見られないように警戒しながら、店の裏手にある、かつて駄菓子屋の入口があった付近まで歩くと、バッグからフィギュアを取り出し、そっと地面に置いた。
そして両手を合わせると、固く目を閉じて祈った。
「おじいさん。フィギュアはお返しします。どうもすみませんでした。どうか、お許し下さい」 
そして祈りを終えて立ち上がった時、ふと店内を眺めてみようと思った。
懐かしいあの場所が、どんな風に様変わりしたのか、この目で確かめ、心に刻み付けておきたくなったのだ。私は再び表へ回ると、入口のドアを開け、そっと中へ入った。
すると、店内にいた客が、一斉に私に注目した。皆、不思議そうな顔で、私を見つめている。私は戸惑った。何か顔にでもついているのだろうか?
私は咄嗟に、右手で顔中を撫で回してみたが、何も異変は感じられない。
私はそのまま、わざと人々の視線を無視し、平静を装って、店内に進んだ。すると人々は、何事もなかったように再び正面を向き、買い物を続け始めた。
異様な雰囲気に戸惑いながらも、私はほっと胸を撫で下ろすと、店内をぐるりと見回した。目の前には、ごく普通のコンビニの風景が広がる。しかし、ふとコーナーの一角を見たとたん、私の視線はそこに釘付けになった。
そこには、懐かしの駄菓子コーナーが設けられていたのだ。ヒーロー物のメンコや、ふ菓子、ココアシガレット、ラムネ、マーブルガムなど、どれもこれも、あの当時売られていたままのパッケージで陳列されていた。私は思わずコーナーへ駆け寄り、商品一つ一つを手に取って見つめた。このコーナーには、まさに亡き祖父を偲ぶ、みっちゃんの優しさが溢れていた。するとその時、コーナーの片隅に、意外な物が二つ三つ置かれているのに気づいた。もしやと思い、目を凝らす。とたんに私の胸は躍った。
それはシルバーの細長いメガネだ。震える手で、ゆっくりそれを掴むと裏返してみる。
やはり思った通り、赤い文字で「ウルトラファイター変身メガネ」と印刷されている。
そう。これはあの二等の景品だった、「変身メガネ」そのものではないか。 
あの当時、ついに手にすることができなかった物に、今こうして出会えた喜びは、何物にも代え難かった。私は恥も外聞もかなぐり捨て、早速、それを掛けた。そして店内を見回してみた。
だが、メガネ越しに見えた店内の風景は、現実の世界ではなかった。私は驚きのあまり、「ああっ」と声を上げた。体は大きくのけぞり、思わず尻餅をついていた。何と、周囲のあちらこちらにいる客の姿は、皆怪獣や宇宙人に変わっていた。オメガ星人、ステロドン、バルドン星人、アンギラーなどなど。そう。あの怪獣カードに名を連ねていた連中だ。馬鹿な。これは目の錯覚か?私は慌てて起き上がろうとしたが、興奮のあまり地にうまく足がつかず、再び尻餅をついてしまった。するとバッタのような顔をしたバルドン星人が、フォッフォッと笑いながら、はさみの形をした手を差し伸べてきた。私は恐怖のあまり「あああーっ」と情けない叫び声を発し、じりじりと尻餅をついたまま後退した。すると今度は、ナメクジのような体をしたステロドンが近付いてきて、ギギーッと私を見て笑った。完全に腰が抜けてしまった私は、もはや成す術がなく、その場に凍りついたまま、じっと動けないでいた。 ここはコンビニなどではない。怪獣ランドだ。私は咄嗟にそう思った。
でもなぜ?
私の頭は混乱した。呪いだ。これはあのおじいさんの呪いなのだ。今のこの異様な状況を説明しようとして、思いつくことと言えばそれだけだ。
おじいさんがあの世から、復讐しに来たのだ。ばかばかしい考えだったが、この状況下では妙に説得力があった。
はっと我に返った時、目の前にはバルドン星人のハサミの手が迫っていた。
殺される―
私は咄嗟にそう思い、固く目を閉ざし、覚悟を決めた。しかし、暫くそうしていたものの、危害が加えられる気配は一向にない。恐る恐る目を開けてみると、彼はハサミの先で私を優しくつつき、起きるように促していた。私はそっと彼のハサミの手をつかんだ。
すると彼は、意外にも私をそのまま、引っ張り起こしてくれた。そしてフォツフォッと笑った。
今のうちだ。
私はそう思い、慌てて店の外へ飛び出した。そしてそのまま、無我夢中で逃走した。


S町にある、H医大附属病院に無事到着したのは、それから一時間ほど後のことだった。
もう辺りはすっかり暗くなっていた。私は悪夢と現実の区別がつかず錯乱状態に陥り、とにかくここが現実の世界であることを実感するために、病院まで無我夢中で走り続けた。
そして汗まみれになってここにたどり着いて、玄関前でへたり込んだ時、その疲労感を全身で受け止めることで、ようやくここが現実であるということに納得し、安堵感に包まれたのだ。
暫しの間休憩した後、私はゆっくりと立ち上がり、病院の受付でみっちゃんの病室の場所を尋ねた。
そして案内された通り、エレベーターで病棟の五階まで上がった。
暫く廊下をうろうろしながら、ようやくみっちゃんの病室を見つけると、私はノックして、そっと中に入った。
見ると、みっちゃんは点滴を受け、ベッドに横たわっていた。口には呼吸器がはめられていて、表情は分かりづらかったが、癌患者にしては、意外にふっくらとした顔をしていて、やつれた感じがしなかった。そんな彼女の安らかに眠る様子を見て、私は落ち着きを取り戻した。その側には、みっちゃんの親族二人と、瑞穂が付き添い、みっちゃんの様子を神妙な面持ちで見守っていた。
「遅いよ」
瑞穂がちらりと私の顔を見ると、小声で叱責した。
「ごめん、いろいろあって」
私はそう言って謝ると、親族の二人に挨拶した。
「ああ、あなたが道明さんですか。美津子はずっとあなたに会いたがっていましたよ。どうか、言葉をかけてやって下さい」
みっちゃんの叔母さんだという人が、私にそう促した。私は大きく頷くと、みっちゃんの枕元に顔を近づけ、話しかけた。みっちゃんはもう、意識がないようだった。
「みっちゃん、僕だよ。道明だ。分かるかい?」
するとみっちゃんは、微かに瞼を揺り動かした。聞こえている。私はそう確信した。
そして私は深呼吸すると、勇気を振り絞って告白した。
「みっちゃん、すまない。僕は君に、どうしても話しておかなければならないことがあるんだ。だけど勇気が出なくて、ずっとずっと話せないでいた。でも今こそ言うよ。思い切って告白するよ。だから聞いて欲しい。僕はね、小学校三年生の頃、君のおじいさんのお店によく通っていたんだ。ある日、店に行った時、おじいさんが僕の目の前で、発作を起こして倒れたんだ。でも僕は恐くなって何もできなかった。それどころか、どさくさに紛れて、ウルトラファイターのフィギュアを盗んで、そのまま逃げてしまったんだよ。あの時、僕が救急車を呼んでいれば、おじいさんは助かったかも知れない。なのに、なのに僕は……僕はとんでもない悪人だ。今さらずうずうしいお願いだけど、どうか、どうかそんな僕を許して欲しい。隠していてごめんね。ごめんね、みっちゃん」
私はそう告げると、深くうな垂れた。その時だった。みっちゃんが、私の手をそっと握り返してきたのだ。何を伝えたがっているのかは分からない。でもみっちゃんに、私の意思が通じたのは確かだった。
私は思わず、そんなみっちゃんの手を、強く握り返した。そして「みっちゃん、みっちゃん」と何度も呼びかけながら、その手を揺り動かした。しかしすぐにみっちゃんの手から力は抜け、そのままだらりと垂れ下がってしまった。それを見て、看護婦が慌てた様子で部屋の外へ飛び出し、主治医を呼びに走った。 
私には分かった。みっちゃんは安らかに逝ったのだと。
その時だった。突然窓の外に白い閃光が走った。何事かと、窓の方を見ると、外の風景は白一色に染まり、昼間のように明るかった。
ふと周囲を見回すと、驚いたことに、みっちゃんの親族も瑞穂も、まるで時が止まったようにぴたりと静止していた。すると突然、みっちゃんが目を開き、ゆっくりと上半身を起こした。
私は夢を見ているのだと思い、その状況を素直に受け止められなかった。
みっちゃんは呼吸器をそっと外すと、優しく微笑みかけ、私に告げた。
「道明君、あなただったんだね。あの道標を奪ったのは」
「えっ、道標?」
私は何のことだかさっぱり理解できず、ただ目をぱちくりさせるだけだった。
「そうよ。まったく、随分探したのよ。あの祖父の店があった場所はね、数十年前、他の星から来た観光客を乗せた宇宙船が、墜落事故を起こした場所だったの」
「観光客? 墜落事故?」 
「そう。この地球にはね、今も宇宙の彼方から、大勢の異星人たちが、観光旅行に訪れているの。人間に姿を変えてね」
「そ、それじゃあ、あのコンビニにいた怪獣は?」
「みんな、観光客よ。といっても、あの異星人達は、墜落事故で犠牲になった人達のご遺族なの。毎年八月の今日、追悼のために、遺族の方々があの場所に訪れるの。私の家はね、代々墜落事故で犠牲になった異星人達の、慰霊碑を守り続けてきたの。亡くなったおじいちゃんも、そして、私の母も」
「じゃあ、あのフィギュアは?」
「あれは彼らが崇めているトリポラス神の偶像なの。あそこに慰霊碑がありますよっていう、異星人達の道標として、毎年八月になると、祖父がお店に置いていた物なのよ。そしてあの道標を持つ者こそが、慰霊碑を守る者の証。だから道明君、今度はあなたが慰霊碑を守る番よ。引き受けてくれるわね? この役目を」
「えっ?」
私は躊躇した。なにしろ、今目の前にしている、この不思議な出来事自体が、夢なのか現実なのかも区別がつかなかったから。
「引き受けてくれれば許すわ。あなたのこと」
「分かった。引き受けるよ」
私は半信半疑ながらも、そう力強く答えていた。するとその時、ふとおじいさんの顔が脳裏に浮かんだ。
それはやさしく微笑みかける、あの頃の懐かしいおじいさんの顔だった。
しかしよくよく考えてみると、あの「ウルトラファイター」というのは、あのおじいさんが周囲の目をごまかすために考えた、偽ヒーローだったということになる。おじいさんは、あのフィギュアを景品として他人に譲る気など、さらさらなかった。
つまりは、もともとくじに一等の当たりなどなかったというわけだ。
それに実在した異星人達の写真は、怪獣カードという形で、うまく商売のネタに使われていた。
なんともしたたかなおじいさんではないか。
そんなギャグに、見事に躍らされた自分が、なんとも憐れで滑稽で、私はばかばかしくなって、つい「はははっ」と、声を上げて笑っていた。
「そろそろ時間だわ。お別れね、道明君。元気で」
みっちゃんはそう言うと起き上がり、ベッドから降りた。そして窓辺まで歩いていくと、一瞬こちらを振り返り、右手を小さく振った。
次の瞬間、周囲は再びまばゆい光に包まれた。そしてやがて光は、全てを飲み込むように、ゆっくりと消えていった―
気がついた時、私はベッドに横たわるみっちゃんの右手を握ったまま、彼女の死に顔をじっと見つめていた。看護婦がそっと、みっちゃんの顔に白布を被せた。側にいたみっちゃんの親族も、瑞穂も、皆すすり泣いていた。でも私は悲しくはなかった。
「みっちゃん、ご苦労さま」
私はみっちゃんにそう呟くと、そっと立ち上がり、病室を出た。そして私は、なぜかふらふらと、屋上を目指して階段を上っていた。扉を開けて屋上に出ると、周囲は闇に閉ざされしんと静まり返っていた。しかし見上げると、夜空は星がきらめき賑やかだった。私は星を見つめながら思った。みっちゃんはどこへ消えたのだろうか? あれは夢だったのだろうか?
「教えてくれ、みっちゃん」
私はぽつりと呟いた。するとそれに応えるように、夜空に散りばめられた星々のうちの一つが、突然ひときわ大きく輝いた。まるでシグナルを送るように― 
あれだ。あれはみっちゃんの惑星だ。私はそう確信した。
彼女は、帰るべき場所に帰り、そしてきっとこれからも生き続けるのだ。
「みっちゃん、コンビニは引き受けたよ」
私は星に向かってそう囁くと、小さく手を振った。その時ふと腰に違和感を覚え、私はズボンのポケットに手をやった。するとコンビニから逃げ出した時、あの変身メガネをポケットにしまい込んでいたのに気がついた。
「何やってんの?」
突然、後方で女の声がした。私は思わず振り返った。
目を凝らして扉の近くを見つめると、看護婦が一人、笑いながら立っていた。
私は胸騒ぎを覚えると、ポケットに手を突っ込み、そっとメガネを取り出して恐る恐る掛けてみた。
すると目の前にいたのは看護婦ではなかった。
あのバルドン星人が、月明かりに照らされ、ハサミの手を振りかざしながら、フォッフォッと私に笑いかけている。
私は思わずのけぞり、また尻餅をつきそうになった。

―了―