2006年7月2日

【生き様、死に様に格差はあるか!?】


 また今年も夏がやってきた。それはすなわち、原爆の日や終戦記念日などの「反戦シーズン」の到来でもある。

 つい最近も筆者はあるメディアの読者投稿でこのような反戦の意見を目にした。

 「この時期になると、私は特攻隊を始めとする戦死者達の事を思い、無駄死にしていった彼らが哀れでなりません。このような愚かな戦争は間違っても繰り返されるべきではなく・・・(以下略)」

 無駄死に?

 哀れ?

 筆者はこのような論調を目にするたびにひどく不快な気分に襲われるのである。それはこういった論調の根底に、「反戦」とは程遠い「傲慢な優越感の吐露」を読みとってしまうからである。

 無論、戦場で散っていった多くの兵達にとって、その死は言うまでもなく本意ではなかったであろう。それは疑いようもない。が、だからと言って誰がそれを「無駄死に」と断じ、「哀れむ」事ができるのだろうか。「無駄死に」「哀れむ」と言った言葉使いは「優越者の言葉」である。安全圏である高い場所から見下ろすように投げかけられた言葉である。それはとりもなおさず、本気で「国」(なんなら「家族」「故郷」といった言葉に置き換えてもいい)を守るために生命の限りに戦い、散っていった者達の、その「生き様」にケチをつけているようなものであろう。侮辱だとさえ言っていい。

 考えてもみて欲しい。例えば、家族を守るためにがむしゃらに働いて過労に倒れるサラリーマンの話などは現在でもよく聞く話である。だが、そこで彼らに対して「無駄死にだ」「哀れだ」などという言葉をなげかける事が果たしてできるだろうか?

 ついでなので述べたいと思うのだが、「自らの意思ではなく、国の都合でいやいや戦わされて死んでいくから哀れな無駄死になのだ」という認識もナンセンスであろう、と筆者は思う。

 過労死していくサラリーマンだって、「家族や会社の都合でやむをえず無理な労働をさせられて死んでいく」事にはなんの変わりは無いのではあるまいか?人の世とは、そういったある種の、時としてはやりきれないような自己犠牲という名の「優しさ」の上に成り立っているのではないのだろうか?

 我が子をかばって事故死する親、危険な場所で命を賭けて取材を続け散っていくジャーナリスト、市民の平和のために殉職していく警察官や消防士、溺れている子供を助けようとして自らも濁流に飲まれる善意の青年……。これら挙げていけばきりがない、現代社会でもありふれた、優しく、せつなく、悲しく、それでいてなお人間の尊厳を高らかに主張してやまない幾多の死に様、生き様と、かつての戦争における戦死者達の死に様、生き様との間において、そこに何の格差もありえようはずはない、と筆者は思うのである。

 「反戦」の主張は真に結構。それについては筆者にも異論を差し挟む余地は無い。だが、それは「現在の戦争、あるいはその原因を取り除こうとする主張」であるべきであろう。間違っても、「過去の戦争に関わる全てを貶める主張」であってはならないし、そんな主張は主張者の自己満足以外になんの結果も生み出しはしないだろう。

 夏。戦死者だけでなく、なにかを守るために命を賭けたすべての人々に、筆者は思いをはせようと思う。

*本文は奈良県のNPO法人戦争体験保存会 の発行する冊子「戦中話」にホムラ が本名で連載しているコラムを転載したものです(05年夏号掲載分)。