2006年10月8日

オランダの光


ピーター=リム・デ・クローン監督「オランダの光」 (in PEPPERLAND)を鑑賞しました。

能勢伊勢雄さんが月1回催されている上映会”VIDEO HACKING”の第176回でした。今回は光シリーズの第一弾とのことでした。

オランダの光には独特の自然光があり、レンブラント やフェルメール など多くの画家に影響を与えてきたそうです。ヨゼフ・ボイス はエイセル湖の反射光にその原因を見つけます。この映画では絵画や風景を交えながら、アーティストや学者がオランダの光について語ってゆきます・・・。

この作品が指摘するように、オランダの低い地平線と湖面と雲が独特の自然光を生み出す原因だというのが実験や繰り返し映し出される風景映像でよく分りました。

それにしても、17世紀オランダ絵画が新鮮でリアルな輝きを放っていると私たちが感じるのは何故でしょうか。それはレンズの焦点を合わせるように、眼も瞳孔を調整してフォーカスしているところに起因しているように思います。フォーカスするとき、希に光をダイナミックに散瞳的に捉えるため、あのように透明でリアルな光の絵画が生まれてきたのではないでしょうか。

瞬間、意識の連続性が途絶えて判断停止(エポケー)となり、次の瞬間、散瞳的に生起してくるリアルな光を捉える。そんなプロセスがこれらの絵には無意識にあるような気がします。連続性が途絶えるとき、音は消えて完全な沈黙が訪れるように思います。そのため、これらの絵には音楽や物語が無いといわれたりするのだと思います。そして、特別開かれた目が光をよりリアルに捉えるのではないでしょうか。モンドリアン の絵などもまさに止観後に生起してくる瞬間の光を捉えたのではないでしょうか。

また、ジェームス・タレル の「肉眼のための天文台」もおもしろかったです。まるで自然の天空そのものをイスラムのドームに見立てたように感じました。岩のドームでのムハンマド の「夜の旅」 が想起されました。本当に青天が霹靂したり、至聖溢出したりするように感じられます。

そして、タレルがセスナに乗って、「光を追いかけて光と一体になるんだ」といった光の探求から、光の形而上学の師スフラワルディーを想起しました。彼によると、自我を完全に消滅したとき、ぼんやりした真っ白な茫然自失状態ではなく、はっきりした全く別の意識が心の中に煌々と輝いてくるそうです。それはこれ以上にないリアルな存在で、光の中の光として体験するそうです。その瞬間、”我は彼”となるようです。修道僧バスターミーの次のような言葉が思い出されます。

蛇がその皮を脱ぎ捨てるように、私は自分自身の殻を脱ぎ捨てた。
そして、私は自分自身を眺めて見た。
どうだろう、驚いたことに、私はまさに彼だった。

(サッラージ「閃光」より)

さて、また、ヤン・アンドリーッセの淡い水色は空を連想しました。船上のアトリエからあるがままに光を捉えようとする彼の姿勢はジャコメッティ を思い出させます。また、もっと強烈な青であるイブ・クライン の青を思い出したりもしました。

また、鑑賞後の能勢氏の解説がとても興味深かったです。眼球が胎生的に脳が突出して出来るというお話。エイセル湖が地球の眼であり鏡なんだというお話、トルマリンのお話などなど。能勢氏のお話からはとても大切な何かを伝えようとする愛が感じられました。