2006年10月1日

木許太三郎展


「木許太三郎展」 (slogadh463)を鑑賞しました。

空塊というテーマで制作されたダイナミックな抽象画の作品群でした。

どこかマレーヴィッチ の正方形が想起されました。ただ、マレーヴィッチの正方形は数学的で宇宙的です。

一方、木許氏の作品は空塊というテーマのように空という空間を表すキュービック体で構成されているようです。それも激しいタッチで塗り込められており、書のような筆使いまで感じられるものもあります。マレーヴィッチと比べると、これは座標軸を持ったデカルト的な思考空間ではなく、喜怒哀楽など情動を伴ってカオティックに蠢く、よりリアルな意識空間なのかもしれません。そうした中に現れた空塊は、東洋的無なのかもしれません。

(ラリオーノフの光線主義 にある自然の荒々しさに近いような気もします。ただ、彼らも彼らを育んだ自然の大地があって、完全には抽象や宇宙に突き抜け切れなかったような気がします。)

多くの日本の前衛芸術家は、科学や数学ではなく、プリミティブな感性で自然素材の中に無(ゼロ)を感じ取っているように思います。何か自然の大地が人間に与える霊感の所為のような気がします。そのためかロシアの国民的詩人プーシキン の詩を思い出したりします。

しずかな土地よ おまえにあいさつを送る。
やすらい はたらき 霊感のかくれ家よ!
ここで わたしの日々の見えぬ流れが
幸福と忘却のなかにすぎゆく。
わたしはおまえの友 ―罪深き
まどわしの館 はなやかなうたげのつどい
たわむれや迷いをすてて しずけき野山
のどやかな槲(かしわ)のざわめき 思索の友なる
気ままな自由をたずね求めてここへ来た。

わたしはおまえの友 ―わたしはこの地を愛でる。
さわやかな風がそよ吹き 花々の
咲き匂う このみどりの園を
かぐわしい乾草の山がちらばり
やぶかげにここかしこ清らかな
小川のさざめく ここの草地を。

(金子幸彦訳「プーシキン詩集」 「村」より抜粋)

この詩からは大地自然への愛が伝わってきます。ラスコーリニコフ やアリョーシャ が大地に接吻する気持ちが分るような気がします。また、日本では、山川草木悉皆成仏につながっているような気もします。

さて、現代の若い作家は、これらをミニマリズム なデザインとして、より洗練された、より繊細な形象で表現しようとしているように思います。しかし、空塊には、そういった洗練をむしろ拒むような力強い素材の、隠れたマテリアリズムを感じました。

(また、この夜は能勢伊勢雄さんの岡山遊会 第312回に参加しました。楽しい充実した一夜でした。)