「イサム・ノグチ 世界とつながる彫刻展」 (高松市立美術館)を鑑賞しました。
「顔」、「神話・民族」、「コミュニティーのために」、「太陽」という4つのキーワードによって分類された展示会でした。
イサム・ノグチ は、岡本太郎 と比較すると、岡本が縄文で、ノグチは弥生のように感じました。ただ、稲作的暖かさはそこに無く、静かで冷たい感じがします。抽象的なのですが、複雑さや知の集積でなく、数学的ではありません。何というか宇宙的で詩的空間のようです。詩人である父・野口米次郎の遺伝でしょうか・・・。
「プレイグラウンド」などは、幾何学模様などどこか古代文明的ですが、文明の持つドロドロした濃さは感じません。どちらかというと濃い寺院よりは希薄な神社に近いようです。あるいは、アニミズムのような、でも、人格神や動物神ではなく、超自然的な感覚でインディアンのいうグレートスピリットのような感じがしました。
作品「太陽」では、中心を空虚にして、無に無限を見るように思います。中谷宇吉郎 博士が示した雪の結晶を連想しました。雪の結晶の中心は埃や塵であったりします。それを中心に雪は結晶化されてゆくそうです。中心は何でもないモノ、塵や埃などだったりするのです。そのように考えると、究極的に中心は無(空隙)なのかもしれません。
舞台美術を担当したマーサ・グラハムのダンスには、無機的・抽象的な祭儀を感じます。ダンスなので動いているのですが、静を感じました。作品「死すべき運命」や「サイレンスウォーク」は、動が終わり、永遠の静へ向かう感じがしました。
また一方で、ジョージア・オキーフ を思い出します。大地と骨、死のイメージが浮かび上がってきます。スペインからの亡命詩人トマス・セゴビアの次のような詩が想起されます。
夜以上の何かが降っている
取り戻せない杯の底へ
時間が音もなく降っている
・・・・・・
今日わたしにはよく分る
悲しみの悲しい
愛がわたしを高める日
美しく崩壊する生命の断片をわたしは
ベールに包んでためらいなく賞賛する
・・・・・・
時間よ わたしに触れてくれ
おまえの指のために未だわたしは裸でいるのだから(「現代メキシコ詩集」からトマス・セゴビア「時間の連鎖」より抜粋)
さて、また、「広島の原爆死没者慰霊碑」はとても巨大な重量感のある、ズシリとした重さを感じます。