2006年10月15日

浦上玉堂 回顧展


「浦上玉堂 最高最大の回顧展」 (岡山県立美術館)を鑑賞しました。

浦上玉堂 は岡山出身で江戸時代後期に詩・書画・音楽など多彩な分野で活躍した人物です。50歳の時に脱藩して諸国を放浪して60代半ばからは京都を拠点に詩書画琴に親しむ自適の生活を送ったそうです。

彼の水墨画は一見、スケッチや漫画のように感じます。水墨一般は精緻さや幽玄さを醸し出すことが多いですが、彼の水墨画は滲みが多く、繊細さよりはラフなタッチで描かれてように見えます。普通の水墨画の美を求めると期待外れに感じるかもしれません。彼の作品は、水墨画の印象派 といった感じがします。彼の水墨画は静ではなく、ある種の動を表現しようとしています。草や木々の生い茂る葉を横線として描いたり、風の流れを描いたりと、動を描こうとしていたと思います。(自動車などの運動体を描いた未来派 の速度に似ています。)

玉堂は、さらに、うねって盛り上がる岩や山を描いたり、生命力豊かに伸び上がる樹木を描いたりして、画面全体がまるで渦巻く竜巻のような臨場感を持ちます。そして、私たちの目前に存在感を持ってせり上がってきます。そこでは、山や木々全体が収縮運動をして、まるで呼吸をしているように感じます。また、玉堂は円窓形や扇形のフレームの中に描くことをよく試みています。彼は目に映るヴィジョンを全体として捉えることを意識していました。空間が中央から一挙に展開したり、逆に折り畳まれたりするように感じます。そこでは、ヴィジョンが震え、目が眩みます。孔子 が語ろうとしなかった怪力乱神の源泉を彼は描こうとしているかのようです。

そんな彼の水墨画を見ていると、中国宋代の儒学者・朱子 のことを想起したりします。朱子によると、儒者たちは静坐 と格物窮理 の実践から、心が終極の未発へ到達して、さらに未発が已発となる「無極而太極 」に転換するといわれています。儒者たちは格物窮理の積習から、突如、脱然貫通 して窮極の理の境位である「無極而太極」に達するそうです。浦上玉堂のこのリアルが震えるような水墨画からは、そういった今にも脱然貫通しそうなリアルの転換する瞬間を感じます。

では、その瞬間、何が見えるのでしょうか。

詩人マラルメ が、友人カザリスに宛てた次のような手紙を想起したりしてしまいます。

仏教を知ることなしに私は虚無に到達した。
虚無を見出した後で、私は美を見出した。
私が今どんな清澄の高みに踏み込んだか、君には想像もできまい。

マラルメの見出した世界は、絶対美の、しかし、限りなく冷たい、あらゆる生あるものが消滅する死の世界だったようです。

冷たくきらめく純粋な星たちの国
この上もなく純粋な氷河地帯
幸いにも私は完全に死んだ

(カザリス宛)

鬼気迫る緊迫の中で、マラルメは彼の詩的形而上学でいうところの「偶然」を超脱して自身を昇華したようです。「私が完全に死ぬ」ことによって達した「無極而太極」の境位だったのかもしれません・・・。そして、彼はそのとき絶対言語を手に入れたようです。

私が花!と言う。
すると、私の声が、いかなる輪郭をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方に、
我々が日頃馴れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、
どの花束にも不在の、馥郁たる花の本質そのものが、音楽的に立ち現れてくる。

(マラルメ「詩の危機」より抜粋)

しかし、このような高みの中、詩人としてのマラルメは終焉してゆきます。

さて、また、玉堂の描く山には、まるで刀剣で切り取られたような不自然な円形の断面を多く見つけることができます。それは、そこにあった巨大な岩がまるで空間ごと切り取られたかのようで、あまりにも非現実的な突飛な切断です。水墨画に不似合いな、この不思議なヴィジョンはどうも易経 の影響らしいです。

八卦 や六十四卦 を生み出した易経はとても理知的なシステムです。しかし、その根本には、とても不思議な意識の働きがあるようです。「周易 繁辞上伝」で、易の記号体系の「 」の成立について次のように説いています。

聖人、以て天下の賾を見る有り、而して諸をその形容に擬え、その物宜に象る。この故にこれを象と謂う

短文ですが、深いものがあるようです。ただ単に、外から客観的に科学的態度で観察しただけで、そこに事物の普遍的な永遠不変の本質を見出したのではないようです。それは、何というか内から事物の本質に辿り着くような意識の働きだったようです。

次のような芭蕉 の言葉が想起されます。

物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし。
その境に入って、物のさめざるうちに取りて姿を究むるべし。

(服部土芳「赤冊子」より)

あるいは

松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ。

(服部土芳「三冊子」より)

さて、切断された山々で玉堂が何を表現したかったのかは分りません。ただ、現代感覚でさえ突飛な切断をなしえた彼に、ただただ驚くしかありません。彼は、自分はあくまで素人であって、専門家ではないと言い続けていたようです。また、音楽においても「一曲にて足る」とも言っていたそうです。彼のこの世人を超脱したかのような感覚が、私たちには見えない何かを捉えていたのかもしれません。