2009年7月20日

『朗読者』を読む その2


■私的解釈
ネット上でこの小説に関するいくつかの感想文を読んだのですが、この小説をホロコースト をテーマとした物語として捉える解釈が数多くありました。確かに、この小説においてホロコーストは重要なポイントですが、一番重要なポイントではないと私は思います。また、文盲を隠したハンナの頑ななプライドを一番のポイントに考える解釈もありましたが、それも違うのではないかと思います。では、何が一番重要なポイントなのでしょうか?私には、この小説は直感と言葉の物語に思えるのです。直感の女ハンナと言葉の男ミヒャエルの物語に思えるのです。つまり、この小説を読み解く最大のポイントは、ハンナの直感にあるのだと思うのです。

そこで、ハンナの直感を主眼に据えて、この小説を読み解いてみようと思います。このポイントから解釈することによって、次の2つの疑問について答えることができると思うのです。その疑問とは、ハンナはなぜ裁判で文盲を隠したのか?そして、ハンナはなぜ自殺したのか?という疑問です。

■鍵概念
ここでは、実際の読解に入る前に、解釈のための2つの鍵概念について書いておきます。
それは①直感と②現実と言語の関係です。

■直感とは何か
謎の女性ハンナ。私にはこのハンナという女性が、とてもとても強い直感力を持った女性に思えてしかたありません。なぜかというと、ミヒャエルとの最初のなれそめの時、引越の前日にプールサイドで会った時、ミヒャエルと刑務所で最後に会った時など、すべてハンナの直感が働いているように感じられるからです。そして、もっと言えば、まるで魔女のような女性に思えてなりません。

そこでまず、直感とは何でしょうか。
直感とは対照的な能力である言語能力と比較して考えてみるとイメージしやすいかもしれません。言語能力とは何かというと、「AはBである」という置き換えが言語能力です。例えば、「君はぼくの太陽だ」というとき、君を太陽に置き換えているわけです。では、直感はというと、「AはAである」ことをそのまま直接知るというのが直感です。「君は何ものにも例え難い君である」ことを知ることです。君の本質や実存などすべてを掴むことです。君の全体性を知るとでもいうのでしょうか…。しかも、どちらかというと瞬時に、です。説明が難しいですが…。(あとで再度説明します。)

また、直感は非-論理的かというと必ずしも非-論理的ではないと思います。むしろ、超-論理的というべきでしょうか。通常、論理的とは、原因と結果の因果関係を明確に言葉で表現できることを言いますが、原因と結果の間に何らかの因果関係や複雑に絡み合った因果関係が働いているのだけれど、それを明瞭な言葉で表現できはしないけれども、確かに原因と結果の間には何らかの因果関係があると確信できるのが直感ではないでしょうか。ですから、直感は非-論理的なのではなく、むしろ、超-論理的なんだと思います。

■直感知と言語知
直感について、少し切り口を変えて、男女差を加えて考えてみます。
まず、生物としての人間の基本型は女性だと思います。なぜなら子を産む機能があるからです。比べて男性は女性から変形的に派生した派生型に思えます。よって、「本来的・先天的・中心的な能力」と「派生的・後天的・周縁的な能力」を比べた場合、前者は女性が優れ、後者は男性が優れているように思えます。

具体的に言えば、生まれてからの学習を必要としない直感力は、先天的・中心的な能力であって、女性が優れていると思います。逆に、生まれてから後の学習を必要とする言語力は、男性が得意な場合が多いと思います。そもそも人間は言語を覚えて生まれてくるわけではなく、生まれた後に言語を習得します。つまり、言語という”道具”の使い方を学ぶわけです。(男性自体もどこか道具のようなもので、種の母体である女性を保存するために使い捨てられる運命にあるように感じます(笑))
ともかく、知には直感知と言語知があると極端に考えると、図1-1のようになります。補足ですが、唯識的に考えれば、通常は図1-2のように「非言語領域→言語領域」(=言語アラヤ識)から「言語知」が立ち上がってくると思いますが、直感知は、図1-1のように、直接、非言語領域からもたらされる知だと思います。


■触覚と視覚
ところで、直感と言語以外にも男女差があるものに、触覚と視覚があります。
触覚と視覚を比較した場合、生物にとって視覚はカンブリア紀 以降に備わった知覚であって、それまでは触覚が生物が世界を感じ取る基本的な知覚でした。生物は、長い間、視覚を持たないで、暗い闇の世界としてこの世界を知覚しており、「直接触れることで知る」という触覚を通して外部=世界を知覚していました。つまり、生物にとって基本的な知覚は、まず触覚であって、その後に付随して備わったものが視覚だと考えられます。そして、この2つを比較した場合、基本的知覚である触覚は女性が優れており、派生的知覚である視覚は男性が優れていると思います。

その違いが端的に表われているのがセックスの違いではないかと思います。
一般的に言って、接触という側面では、セックスをよく知っていて上手なのは女性の方ではないかと思います。セックスにおいて男女が触れ合うとき、女性の方が、触覚からより多くの情報を得て情報処理して、より多くの快感を導き出せるのではないでしょうか。女性の方が繊細かつ微細に接触して、相手に快感をもたらしたり、自ら快感を感じたりできるのではないでしょうか。少なくとも触覚による感受力・情報処理能力は女性の方が高いのではないでしょうか。

ただし、視覚については、色彩の知覚は女性が優れているから一概に男性が視覚優位とは言えないのですが、空間認識は男性が優れていると思います。

ですので、この小説でミヒャエルとハンナが深くコミュニケーションを取る方法が、セックスと朗読なのは偶然ではないと思います。直感の女性ハンナと言葉の男性ミヒャエルによる象徴的なコミュニケーション方法だと思います。男女差を極端にまとめると図1-3のようなイメージになります。


■シャーマンとは何か
それから余談ですが、魔女とは何かというと、女性のシャーマンのことです。では、シャーマンとは何かというと、ある特殊な能力を持つ人たちです。シャーマンの特殊能力は、おおまかにいうと脱魂と憑依の2つがあります。脱魂とは文字通り魂が身体から脱け出して飛び回ることです。また、憑依とは特殊な知覚が起こっている状態のことです。通常の知覚よりも、もっと直接的な知覚が起こっているらしいです。おそらく、憑依は直感に近いものがあるのではないかと思いますが、ただ、ここでいう直感よりももっと深いもの(=直観)のようです。なお、多くのシャーマンは召命(=巫病)によって選ばれてシャーマンになるそうです。(*1)

ちなみに、これらはそれぞれ種類の違うサイケデリックなドラッグによって体験可能なようです。ホウキに乗って空を飛ぶ魔女のイメージも特殊な軟膏をヘラで身体に塗るところから来たそうです。(*2)
さらに、特に欧州では、男性ではなく女性のシャーマン、すなわち魔女がシャーマニズムの基盤になっていたのではないかと思います。ただし、欧州に限らず世界的に見ても、女性は誰もがシャーマンの素養があり、女性はみんな魔女になれる可能性があるようです。

■ハンナの特徴
さて、ここまでずいぶん怪しげな仮定をものしてきましたが(笑)、これらの仮定をハンナに当てはめてみます。なお、ハンナは文盲であるため、通常の言語知よりも狭い言語知にならざるをえないのだと思います。しかし、その反面、不十分な言語知を補うために普通の人以上に直感知を働かせる必要に迫られ、通常よりも直感力が発達したと思えます。これを図にすると、図1-4のようなイメージになります。よって、ハンナの特徴としては、通常よりも直感知が広範である点と言語知が狭量である点が出発点になっているのではないかと思います。


■現実と言語の関係
次に、もうひとつの鍵概念について考えます。それは現実と言語の関係です。
端的に言えば、図1-5のようになります。


現実という球体を表現するために、言語という切断面(=平面)で表現しても、それは現実を一面的にしか捉えたことになりません。CTスキャンのように多くの切断面を積み重ねて捉えれば現実を捉え切れるかというと、やはり切断面と切断面の隙間からこぼれ落ちる現実があると思います。それに、一定方向からのスライスではなくて、あらゆる角度からのスライスが必要となると思います。さらに、この図では現実を3次元体で表現しましたが、実際の現実は物理的な意味(=次元)だけでなく、人間的な意味(=次元)も持つので3次元以上の多次元体だと思いますから、切断面をいくら積み重ねても現実を完全には捉え切れないと思います。現実と言葉の関係上、無限に言葉を積み重ねて現実を埋め尽くそうとしても、結局、言語で現実を完全に表現し尽すということはないのだと思います。現実を言語で記述しても必ず隙間があって、その隙間から現実がこぼれ落ちてしまうのではないでしょうか。

もちろん、だからといって言語を否定しているわけではありません。
私たちはたとえ不完全でも言語に頼らざるを得ないからです。ただ、不完全であることを自覚しておく必要はあると思います。そして、この小説では、ホロコーストという過去の現実を実際に裁くことの困難さが、現実と言語のこの関係から浮かび上がってきます。

さらに、現実を変えるためには言葉より行動が大切だということもこの小説を通して知ることができると思います。この小説には「現実を言葉で仕切ってゆく」職業が3つ登場します。それは、哲学者(=父)と法律家(=裁判官)と歴史家(=法史学者としてのミヒャエル)です。彼らが裁判という現実を通して、どうなって行くのかも、この小説の見所です。そして、何よりもハンナの秘密を知るミヒャエルに深く関わっています。

■全体主義の問題
これまで、再三、この物語の最重要ポイントはホロコーストではないと言ってきました。しかし、やはり、ホロコーストの問題、すなわちナチの問題=全体主義の問題は重要なテーマであることには変わりはありませんので、この問題についても解釈の中で折に触れて考えてみようと思います。ここでは、ひと言だけいっておくと、ナチの問題、すなわち、全体主義の問題はドイツ人だけの問題ではなく、全人類の問題だということです。人間誰もの中に内在する問題であり、誰もが陥るかもしれない危険な問題だということです。

■物語の問題構成
この物語は、図1-6のように、ハンナの心理、ミヒャエルの心理、ナチ問題、ミヒャエルを取り巻く周囲の人々で問題が構成されています。


ハンナ以外の人物は比較的簡単に理解することができると思います。なぜなら、言葉で記述されている通りを理詰めで読み解けばいいからです。また、ナチ問題は全体主義の抱える問題として、ある程度一般化して考えることが可能だと思います。しかし、ハンナだけは、彼女を理解するために彼女の行動やわずかな言動から推量しなければなりません。すなわち、ハンナを理解することがこの小説の最大のポイントであり、読解を最も困難にさせている点でもあります。そして、その鍵がハンナの直感だと思います。

■読解するときの注意点
最後にこの作品を読解するときの注意点を書いておきます。この物語はミヒャエルの独白で語られています。つまり、ミヒャエルの視点で書かれています。したがって、ミヒャエルがそう思って書いただけで、それが真実かどうかは分からないものがあります。例えば、ミヒャエルは裁判でハンナが文盲を隠した理由を「恥ずかしいから」と決めつけていますが、果たして本当にそうだったのでしょうか?つまり、ミヒャエルの断定を読者がそのまま肯定してしまうことは誤読になる可能性があります。実際、結末まで読むとミヒャエルがハンナを理解していなかったがために、ハンナを誤解していたばかりに、最後のような結末になったともいえます。ですから、読者は読解の際にはミヒャエルの考えをそのまま受け入れずに、いったん突き放して客観的に考えなければなりません。

それでは、おおよその下準備もできましたので、実際に作品の解釈に入ってゆこうと思います。

(*1)佐々木宏幹「シャーマニズムの世界」参照
(*2)西村佑子「魔女の薬草箱」参照