2009年11月7日

ケイト・ウィンスレット その2

■「アイリス」(原題「Iris」) リチャード・エアー監督(2001)
この映画は、英国の著名な作家で哲学者のアイリス・マードックの半生を描いた物語です。映画は若き日のアイリスをケイト・ウィンスレットが演じ、年老いてアルツハイマー病に冒されてゆくアイリスをジュディ・デンチが演じています。原作は、文芸評論家で夫のジョン・ベイリーの回想録が元になっています。

■あらすじ
この映画は2つのパートに分かれています。1つは恋愛に自由奔放な若き日のアイリスを描いています。もう1つは年老いてアルツハイマー病を患って自分がどんどん失われてゆく晩年のアイリスが交互に描かれています。アイリスの夫ジョン・ベイリーは、若いときはアイリスの自由奔放さに振り回され、年老いてからはアルツハイマー病によって振り回されます。ジョンは翻弄されているように見えますが、それでもジョンはアイリスを強く愛し続けるという話です。

若い頃のアイリスは数多くの恋愛遍歴を持ち、ベイリーと付き合いはじめても、他に恋人がいるくらいでした。そんな恋人のひとりにモーリスがいました。モーリスもアイリスの恋人の多さに辟易しており、ベイリーを交えた食事会の席でも、そのことでアイリスを責めたりしました。モーリスによれば、アイリスがたくさんの恋人を作るのは小説を書くために経験豊富な男達を知るためだというものでした。そこで、アイリスとモーリスの間でちょっとした口論になるのですが、ベイリーはアイリスをかばいます。アイリスはベイリーの優しさに心を動かされて深い関係になります。しかし、それでもアイリスには多くの男友達がいて、ベイリーは友人のジャネットからも忠告を受けたりします。けれども、ベイリーはそれでもなおアイリスを愛し続けます。しかし、あまりの男友達の多さに嫉妬したベイリーはアイリスの世界に自分を入れてくれないことを寂しくアイリスに訴えます。アイリスはベイリーと世界を共有するために自身の男性遍歴についてベイリーに告白します。ここは驚くと共にちょっと面白かったのですが、次から次へとアイリスの男性遍歴が明かされてゆきます。「えっ!そんなにたくさんいたの?!」というくらい(笑)。すべての男性遍歴を聞き終わって、アイリスとベイリーは抱き合って深い愛を誓うのでした。

一方、年老いたアイリスはアルツハイマー病に冒されて痴呆に悩まされますが、なんとか最後の小説「ジャクソンのジレンマ」を書き終えます。しかし、その後はどんどん病気が進行して、言葉だけでなく、アイリスの人格さえも失われてゆきます。いつの間にか街を徘徊したりしてベイリーを心配させたりします。友人のジャネットの葬儀の帰り道では興奮して、走っている状態の自動車から飛び降りさえしてしまいます。ベイリーはそんなアイリスに手を焼きながらも自宅で面倒を見続けますが、ついにアイリスの症状も酷くなり、ベイリーも限界に達したとき、アイリスを介護施設に入れることにします。そして、それからまもなくしてアイリスは静に息を引き取ったのでした。

■アイリスの両性愛
ここでは、普通とはちょっと違ったこの映画の見方を提示します。普通はこの映画は若い時はアイリスの自由奔放な恋愛遍歴に、年老いてからはアイリスのアルツハイマー病に振り回されながらも、夫ジョン・ベイリーがアイリスとの苦労しながらも愛し合った二人の愛を描いた物語として受け取られると思います。しかし、ここではそれとはちょっと違う見方を提示しようと思います。

映画の中のアイリスはよく「真実は私の胸の内にだけある」と言っています。アイリスは自分の心のうちを人に知られるのを好みません。小説も最初は誰にも読ませんでした。アイリスには、ちょっと秘密主義なところがあります。ですので、本当は秘密でもないのに秘密っぽくして「さあ、どうかしら?」(ニヤリ)といった感じでジョンをからかうようなところがあると思っていました。例えば、それは映画の中でカフェでアイリスとジョンが落ち合う場面で、先にカフェで待っていたアイリスが女友達と別れのキスをしていました。ジョンはそれを色々と勘ぐって「君はレズなの?」と言って尋ねます。アイリスはニンマリと微笑んでその質問に答えませんでした。私はてっきり「真実は私の胸の内にある」という信条でジョンをからかっているのかと思っていました。

ところが、アイリスの経歴を見てみると、実はアイリスにはなんと女性の恋人がいました!相手は彼女が勤めていた大学の同僚だったようです。1963年、44歳のときにアイリスは大学を辞めていますが、どうやらアイリスとその女性との同性愛がばれたのが原因でジョンとの間に夫婦の危機があり、その女性の恋人への執着を断つためにアイリスは大学を辞めたようなのです。この点を踏まえると、ジョンに「レズなの?」と訊かれた時にアイリスが答えなかったのは、ジョンをからかっていたわけではなかったと思います。さらに、アイリスの男性遍歴を全部告白していた場面をそれを踏まえて考えると、たしかにアイリスが男関係を洗いざらい喋ったことに嘘はないのですが、それは男関係だけであって、まさかアイリスが女性とも関係しているとはジョンは夢にも思っていなかったのではないでしょうか(笑)。なかなかお茶目なアイリスです(笑)。

ともかく、アイリスは女性も男性も両方いけるバイセクシャルだったようです。ジョンから見れば、なんだか裏切られたような気もしないではないですが、私が思うに、アイリスにとっては男性の恋人と女性の恋人では次元が違ったのではないかと思います。アイリスにとっては、どちらも同じように愛していたのではないでしょうか。特にアイリスには子供がいませんでしたから、恋愛に対しては、比較的、自由な感覚があったのかもしれません。ただし、一方のジョンも、実はアイリスと死別してから、わりと早くに再婚しています。まあ、でも、それでいいんだと思います。本人の自由意志だと思います。他人がとやかく言うことではないのでしょう。いやはや、とにもかくにも人間というのは、なかなか複雑な生き物のようです。

ところで、面白いのですが、アイリスは1993年に過去の自分の日記(1945年~1954年頃)を見返してみたところ、自分があまりにも多くの人に恋してきたことを知って、自分で自分に驚いています。「何を今さら!」とちょっと笑ってしまいます(笑)。しかも、1985年にアイリスは批評の中で複数の人間と関係している作家を厳しく非難さえしています。いやはや、なんともお茶目なアイリスです(笑)。

アイリスの性は、まあ、ノーマルに考えれば自分勝手と映ると思いますが、半面、とても自由です。アイリスは異性にとどまらず、同性までも性愛の対象になっています。どちらか一方ではなくて両方というところがアイリスらしいと思います。このアイリスの自由な姿勢が彼女の哲学や思想にも反映されていると思います。彼女は常識や既成概念に囚われることなく、物事の本質に迫っていきます。そういった彼女の自由な精神が哲学よりもさらに深い、彼女の小説に表現されているような精神の深みへ彼女を到達させたのだと思います。

■演技について
この映画でのウィンスレットの演技は、一見何の変哲もないように見えます。しかし、実はよく見ると、ウィンスレットの様子が他の出演作とはどこか違っています。何か変です。普段の彼女とは違った違和感を感じます。よくよく見てみると、目が何だか変です。そこで若い頃のアイリス・マードック本人の写真や映像を見てみました。そうしたら、この映画でウィンスレットがやろうとした演技の意味がよく分かりました。

実はアイリス本人の目は、普通の人とは違う、ちょっとした特徴がありました。一番の特徴は、左目がわずかに外斜視になっていることです。次に、右目が利き目になっており、右目の眼光がひと際輝いていることです。また、目の動きにも特徴があって、普通の人とは違って、目がとてもよく動きます。インタビューで話しているときの映像を見ると、時々、目が少し飛び出て、カッと力強く見開いたような目になったりしますし、逆にうっすらと見開いて集中したりすることもあります。そして、テキパキと本当によく動く目で、しかも眼球の可動範囲が広く、動き方も上下左右だけでない多様な角度で動きます。まるで眼窩にはめ込まれた球体がコロコロ、コロコロと動くような感じです。そして、何よりも、グッと集中したときの目、カッと見開いたときの目の眼光が極めて力強いです。変な言い方ですが、眼にグリップ力があって、グリッと紙に折り目を付けるように目で押さえられる感じです。おそらく、アイリスは自分の心の深いところへも、意志の力が強いので、比較的簡単にダイブできているように感じられます。例えば、普通の人は思い出すときに眉間に皺を寄せて「えーと」と暗闇を手探りするように頭の中に自分の意志を届かせようとするものです。しかし、アイリスの場合はほんのちょっとだけ意志を集中させるだけで、自分の心の深いところまで比較的簡単に手が届いているように感じられます。もちろん、普通の人と同じように「えーと」と思い出す行為もやってはいます。ただ、普通の人と比べれば、容易に深いところへ入っていっていると思います。ともかく、アイリスは目に特徴のある人物です。

さて、そんな目に特徴のあるアイリスですが、それを演じるウィンスレットも特徴のある目つきになっています。まず、アイリス本人のように外斜視に見えるように、ウィンスレットは目の見開き方を左右で若干異なるようにしています。具体的には、右目を大きく見開き、左目はそれよりは小さく見開いています。そして、カメラと顔の角度を正対させずに若干角度をつけることで、左目の白目の部分をひきたたせて、左目が外斜視であるように見せています。同時に右目は大きく見開かれ、右目が利き目となって視線のリードとして力強い目になっています。さらに、眼球も通常の位置よりは少し前に飛び出しています。そして、目が飛び出しているため、眼光も通常よりは強くなっています。しかも、ウィンスレットはこれらの状態を、静止状態ではなく、自然な動きの中で行っています。ウィンスレットの顔のアップがある場面にそれがよく表れています。驚いたことにウィンスレットは、静止した瞬間的にこれらの特徴を現出させるのではなく、連続した動きの中で動きに合わせて自然に連動させて行っています。歌いながらや昂ぶった感情が連続する中で自然に連動させて演技しています。(参考動画参照)。

参考写真:上段左端がアイリス・マードック本人。上段右端が演じていないときのウィンスレット本人。それ以外はアイリスを演じているウィンスレット。
なお、これらの特徴は、この映画「アイリス」でのウィンスレットの目と他の出演作でのウィンスレットの目を見比べてみるとはっきりすると思います。例えば、他の出演作で言えば「ネバーランド」と見比べてみるとはっきりすると思います。「ネバーランド」でのウィンスレットの目は、元々、目がまっすぐなのですが、コルセットの衣装を着て姿勢がとても良いためか、とてもまっすぐな目になっています。それに比べて、アイリスを演じているウィンスレットの目は左右が非対称です。ともかく、このアイリスを演じているときのウィンスレットは他の出演作とは様子が少し違っています。

しかし、ウィンスレットがどのような技術でそれらを実現しているのかは分かりません。俳優自身の技量によるものなのか、メイキャップによる演出によるものなのか、あるいは、撮影時のカメラワークや撮影後の画像処理によるものなのかは分かりません。例えば、「タイタニック」の船尾から飛び降りようとした場面の撮影では、何度も撮り直して涙が乾いてしまうので、ウィンスレットは目の中に氷の粒を入れて撮影したそうです。もしかしたら、アイリスの撮影では眼球の裏側に綿でも詰めて、眼球を飛び出させでもしたのでしょうか?でも、それはちょっと痛いんじゃないでしょうか?そうじゃなくて、やはり、気合いで目に力を入れて演じたのでしょうか?もしそうだとすると、目にかかる負担が大きくて、後々大変だと思います。ともかく、実際はどうやって演じたのかは分かりませんが、ちょっと不思議です。ともかく、映画史上、斜視を演じた俳優は他にいないのではないでしょうか。

■その他の演技
その他の演技についても、驚かされました。最も驚かされたのは、川の中を全裸で泳ぐ場面です。確かにウィンスレットの演技はいつも大胆なのですが、この全裸での水泳はいつになく大胆でした。ただし、これは夫ジョン・ベイリーの原作「アイリスとの別れ1 作家が過去を失うとき」に忠実で原作に書かれているエピソードそのままです。驚いたことに、アイリス本人は実際に全裸で戸外の川で泳ぐのが大好きで、近所の川で全裸でよく泳いでいたそうです。他にも、例えば、イタリア旅行で行った川でもアイリスたちは全裸で泳いで、人だかりができる騒ぎになって警官が駆けつけたそうです。ですから、映画でセンセーショナルになるように勝手に脚色して大胆に描いたというよりは、原作を忠実に再現したら、結果的に大胆になってしまったというのが本当のところだと思います。それにしても、ウィンスレットは魚のような動きでキレイでした。川の緑と女性の裸体はラファエル前派の絵を彷彿とさせて、自然の緑と女性の白い滑らかな裸体のコントラストが美しかったです。それから、ジョンとのベッドシーン(?)も大胆でした。戸惑うジョンに対して、彼のズボンのポケットにアイリスが手を突っ込んでひねり上げる場面には驚きました。ここでは、実物が映っているわけではありませんが、そのしぐさ(=演技)に少々衝撃を受けるのではないかと思います。

■アイリスを演じたウィンスレットの演技に関する注意点
さて、ここまでアイリスを演じたウィンスレットの演技について幾つか語ってきましたが、ここで注意しておきたいことがあります。私はウィンスレットがアイリスの目の特徴、つまり、「左目が斜視、右目が利き目」をうまく演じたことを言いました。しかし、勘違いしやすいのですが、私はウィンスレットがアイリスの斜視を真似した理由は、形態模写のように、ただアイリスの外見だけを真似することを目的としたわけではないと考えています。どういうことかと言うと、外見をアイリスらしく見せるために斜視を真似したのではなく、アイリスの本質を表現するのに、この場合には、アイリスの斜視を真似したんだと考えています。「目は口ほどにものを言う」という諺がありますが、アイリスの人格の特徴は目に際立って顕れていたと思います。アイリスの心の有り様がアイリスの目によく表れていると思います。なので、ウィンスレットはアイリスの目を真似したんだと思います。単に形態模写を目的としたわけではないと思います。実際のアイリス本人の斜視とウィンスレットの真似した斜視では、まったく同じというわけではなくて、違いがあります。しかし、アイリスの心の有り様やアイリスの本質はウィンスレットの真似した目によって上手く演じられていると思います。

これは、このアイリスの演技に限らずに、他の出演作にも言えることだと思います。ウィンスレットの演技は演じるキャラクターの本質を捉えて演じることに特徴があると思います。もちろん、キャラクターの本質とは言っても、それはウィンスレットが捉えた、ウィンスレットが個人的に考えているキャラクターの本質に過ぎません。ですから、ウィンスレットが捉えた本質が正しいのかどうかという問題は常にあります。ただ、それは認識の問題で、どの俳優のどの演技にも生じる問題ではあります。そんなことよりも問題なのは、例えば、アイリスの本質がウィンスレットに移植されて、アイリスを演じたウィンスレットとなって顕現したとき、それはアイリス本人とは、また違った人物であるように人々には映る可能性があります。しかし、それでもなお、アイリスの本質を捉えた演技になっていると感じられるのです。それが、演じるキャラクターがアイリスのような実在の人物ではなく、架空の人物であった場合でも、そのキャラクターの本質がウィンスレットという生身の人間の中で”生きた本質”となって顕現していると思います。(*1)

さて、なんだかよく分からない話になってしまいました。今、言ったような話は、演技においてよくある話のようであり、あるいは、ちょっと変わった話のようでもあります。とりあえず、ここでは、ウィンスレットの演技は、外見や形態模写などの表象からではなく、内面や本質から、演じるキャラクターに迫っているのではないかということだけを頭の片隅に置いておいて下さい。「アイリス」では斜視という外見を似せるという演技をやっていると思われるかもしれませんが、実はウィンスレットは内面から迫るという演技をやっているのだということを頭の片隅に置いておいて下さい。

■まとめ
この映画で描かれているアイリス・マードックは夫ジョン・ベイリーから見たアイリスであって、アイリスのほんの一面に過ぎません。アイリスの哲学や小説に触れるとそこにはまた別のアイリスを発見することになると思います。しかし、アイリスの何ものにもとらわれない自由な思想や哲学は、この映画で表れている彼女の自由奔放さに繋がっていると思います。アイリスという人間全体を理解しようとするときに、この映画はアイリスの貴重な一面を私たちに教えてくれると思います。また、アイリスほどの知性の持ち主が最後にはアルツハイマー病に斃れたことは、私たちに人生の悲痛さと儚さを教えてくれていると思います。人生は本当に短いのだと思います。

なお、アイリス・マードックの哲学や思想については、この私的魔女論シリーズの最後に考える予定です。

■注釈
(*1)この成功例が「愛を読むひと」だと思います。「愛を読むひと」では監督のスティーヴン・ダルドリーは原作で描かれているハンナ・シュミッツの本質を見誤っていると思います。それに対して、ウィンスレットは見事にハンナの本質を捉えていると思います。ダルドリー監督は「朗読者」の主人公を誤ってミヒャエルに据えてしまって「愛を読むひと」を構築してしまいました。しかし、ウィンスレットがハンナを正しく演じたことで、この映画は救われていると思います。監督が最重要の主人公をマイケルに、二番目に重要な登場人物をハンナにしたことで、ウィンスレットが捉えたハンナ像でウィンスレットが演じられる余地が運良く生じたのだと思います。ダルドリー監督のハンナ像では、ハンナは強制収容所の元看守という過去を持つ文盲の女性で、無知ゆえに罪を犯し、恥を克服できなかったために刑務所で生涯を閉じた頑固な女性という貧しい女性像で終わってしまったと思います。ところが、ウィンスレットが正しくハンナを捉えたおかげで、ハンナが深みのある女性像に仕上がったと思います。結果的には、それが功を奏して、この映画にダルドリー監督の構想にはなかった深みを与えることができたのではないかと思います。女優が映画監督を超えて映画に生命を吹き込むことに成功した極めて珍しい事例だと私は思っています。

■参考文献
ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき -アイリスとの別れ(1)」
ジョン・ベイリー「愛がためされるとき -アイリスとの別れ(2)」