2009年12月31日

ゆらめく夕陽のように


私的魔女論を書いていたら、欧州の森たちに出会いました。
ドイツなど欧州では、あちこちに森を残しているようです。
日本も昔は万葉集に詠われたような豊かな自然があったと思いますが、
今は開発されたり植林されたりして、潜在植生といわれる昔のままの森はほとんど無くなってしまいました。
ですので、昔の姿のままで残っている欧州の森を羨ましく思います。
ほとんどは荒地のようですが、英国の湖水地方にもわずかに美しい自然が残っているようです。
その湖水地方の著名人には、桂冠詩人ワーズワースやピーターラビットのピアトリクス・ポターがいます。
また、私的魔女論を書いていたら、「夏の名残りの薔薇」など自然とケルト音楽を聴くようになりました。
ケルト音楽はどこか懐かしく、また、物悲しくもあり、失われた過去を懐かしむノスタルジックな気持ちになります。
そんな不思議な郷愁を誘うケルトの歌を聴くと、私はワーズワースの次の詩を思い出してしまいます。

ごらん、あの麦畑にただ独り
麦を刈り、歌うたう かなたの
寂しいハイランドの 乙女を。
留まるか、 さもなくば 静かに通り過ぎよ

乙女はただ独り、麦を刈り束ね
悲しい歌を うたっている。
ああ聞け、 この深い谷間に
その歌声が こだましている。

アラビアの砂漠の 木陰に
休らう 疲れた旅人たちにも
これほど 快い調べで
小夜啼鳥も うたいはしなかった。

これほど 心に響く歌声は
あの遥かな ヘブリディーズの海の
静寂を破って啼く 春の
かっこう鳥からも 聞かれなかった。

乙女の歌が どんな歌か誰にわかろう。
たぶん その悲しい歌は、
昔の哀れな、遥か昔の唱か、
それとも 遠い昔のいくさの歌か。

あるいは もっと鄙びた民謡か、
今日この頃の 聞き慣れた歌か、
どこにでもある、 またあり得る
この世の悲しみ、別離、また苦しみか。
それがどんな歌にせよ、乙女はまるで、
終わりなき歌のようにうたっている。
わたしは その乙女が手を休めず
鎌に身をかがめて うたうのを眺め
動かずに じっと耳を傾けた。
それから 丘に登ると、
その歌は 聞こえなくなっても、
ずっとあとまで その歌声はわたしの心に残った。

(ウィリアム・ワーズワース「麦を刈る乙女」より)

さて、人間は死ぬと、ほんの少しの間だけ魂がこの世界にとどまると言います。
そのほんの少しの間、魂は自分の好きな場所、お気に入りの思い出の場所に瞬時に飛んで行けるそうです。
そして、その場所でゆらめく夕陽のように、魂は最後の景色を眺めながら、溶けるように消えてゆくそうです。
私も最期は故郷の山の木々が生い茂るあの場所で、この世界の最後の景色を眺めたいものだと思います。