■アイリス・マードックの思想
かつてインタビューした盲目の歴史学者ヴェド・メータはマードックを次のように評したそうです。
分析的というより、はるかに直観的な人である。
彼が言うように、マードックは言葉に縛られた哲学者ではなく、直観から言葉を紡ぎ出してくる哲学者だったと思います。彼女のエッセイを読んでも、あからさまな二元論的展開が見られ、これは彼女自身が二元論に縛られているのではなく、むしろ、言語が二元論に縛られていることをマードックはクールに見抜いていたからだと思います。ですから、彼女にとって言語はあくまで”思考の道具”に過ぎなかったのだと思います。
さらに、マードックは夫のジョン・ベイリーとの会話の中で「アイデンティティの問題がよく分からない」とも言っています。これは根本的にマードック自身が自己の中にアイデンティティというものをまったく規定していないからだと思います。アイデンティティは自己を何らかの枠組みの中に位置づけるときに発生する言語機能的なカテゴライズですが、マードックはそもそもそういった言語の拘束力から自由だったのだと思います。
マードックは哲学や小説など言葉に巧みで非常に優れた言語能力を持っています。しかし、彼女自身は言語に縛られていません。言葉を生業にしているにも関わらず、彼女は言葉からは自由な人だったと思います。
■アイリス・マードックの仏教
そんなアイリス・マードックは仏教徒でした。ただし、特に決まった宗派に属するというわけではなく、仏教に共感して、自らも実践する一人の仏教の実践者だったのだと思います。禅に興味を持っていて、来日したときには禅寺で参禅したりしたそうですし、また、宗教家のジッドゥ・クリシュナムルティにもインタビューしたりしたようです。おそらく、仏教の教えに心の深いレベルで共感していたのだと思います。
■アイリス・マードックの自然思想
それから、彼女の思想の特徴づけるもうひとつのものとして、アニミズムがあります。彼女は自然の喜びをよく知っていたのだと思います。例えば、彼女は全裸で川で泳ぐのが大好きでした。視覚や聴覚だけでなく、全身で自然の喜びを感じ取っていたのではないでしょうか。また、彼女は落ちている石をよく持ち帰ったそうです。石もただ眺めるだけでなく、握ったり、その重みを感じたりして、その存在を身体で感じられるからだと思います。
さらに興味深いエピソードで、旅行中に往路で野原に目印に置いておいた2つの空き瓶が復路で見つからなくなったことがありました。そのとき、その空き瓶を擬人化して、「紛失された空き瓶同士が互いに相手を見つけ出して幸せに結ばれるように」と願ったりしたそうです。彼女を知る他人はマードックのこのようなアニミスティックな態度を愚かな憐憫と捉えたようです。確かにアニミズムは幼い子供によく見られる幼稚なアニミズムと捉えられやすいですが、彼女の場合はどこかアメリカ先住民の精霊信仰に近いものに感じられます。あるいは、折口信夫のいう相手の気持ちに同化=共感できる類化性能の感覚かもしれません。
ともかく、マードックは哲学と小説が同居するクールでプラグマティックなリアリズムを持っているにもかかわらず、さらに、スピリチュアルなアニミズムも持つという相反する2つを持ち合わせる非常に珍しい感覚と才能を持った人物でした。
■魔女の目的
前回の記事で示したように、マードックは「人間の人生に目的は無い」と喝破しました。マードックの哲学的な感性や論理が導き出した人間に対する一般的で普遍的見解だと思います。ですが、マードック自身は言語に縛られない自由な思考の人であり、さらに非-言語的な直感の人でもありました。マードックのそういった面はどこか魔女に似ています。では、普通の人とは違う特殊な人である魔女たちの人生の目的は何だったのでしょうか?
そもそも魔女の飛翔の目的は何だったのでしょうか?普通、脱魂は危険を伴う行為です。飛翔は決して快楽を誘うようなものではなく、むしろ、バッドトリップを誘発するかもしれない危険な行為です。なのに、そんな危険を冒してまで飛翔した理由は何だったのでしょうか?さらに言えば、そもそも魔女の人生の目的とは何だったのでしょうか?彼女たちは何も残していませんから、その問いは永遠に謎のままです。ですが、魔女の素養を持った直観の哲学者マードックが作品の中でそっと語るものと実は同じだったのではないかと私には思えます。マードックは彼女の哲学書の中で脇道にそれる余談のように次のように書いています。
どんなにみじめであってもなお我々の自覚的意識は無限の価値を持っている。
次のように語るのはべリアルであって悪魔ではない。
いくら苦痛に満ちているとはいえ、この知性豊かな存在を、
その思いが永遠をさまよう存在を、誰が棄て去ることを望むであろうか。(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)
マードックには哲学では語りえない、何らかの知見があったのではないでしょうか。
その片鱗をマードックの小説に見ます。
マードックは小説「海よ、海」の中でチャールズに次のように語らせています。
「ひとり残らず地獄(バルドー)へ行くのかい?」
「さあー、ねえ。死の瞬間にチャンスがあるっていう話だ」
「チャンス?」
「自由になるチャンスだ。
死の瞬間には、一切の実在にかかわる想念総体が与えられ、
閃光のごとく人に訪れるという。
たいていのものにとっては、
これは―なんていうか―原子爆弾みたいな、ただの強烈な閃光にすぎんのだ、
戦慄すべき、目もくらむ、不可解な事象にすぎんのだ。
しかし、それが会得できて、捉えられたとき、人は自由になる」
「すると、瀕死の瞬間を知っていることが重要だね。
君の言う自由になるっていうのはなにかとくに―?」
「いや、ただの自由だ―涅槃の境というか―運命の車輪からの解脱なのさ」
「霊魂再生の車輪じゃないの?」
「そうだな、執着、渇望、強欲などわれわれを仮想の世界にしばりつけている
運命の車輪さ」
「執着だって?というと―愛もか?」
「世間一般でいう愛はな」
「そのとき、われわれの存在はどこか別の世界へ移転するのかな?」
「そういうのはイメージの問題で、今まさに現世こそがニルヴァーナだという人もいる。
イメージを説明するためのイメージであり、図像を説明するための図像なんだ」
「真理はそのかなたにあるってわけか!」(アイリス・マードック「海よ、海」より抜粋)
つまり、魔女の目的は無限の旅人になることだったのではないかと私は思います。
また、マードックの最後の小説「ジャクソンのジレンマ」にも次のように描かれています。
ところで、この小説の主人公ジャクソンはとても奇妙な人物です。マードックがアルツハイマー病に侵されて苦しみながら書いた最後の小説であるため、一部の読者からは曖昧な記述を病気の所為とネガティブに評価される向きもあると思います。しかし、私にはそうは思えません。私にはこの目立たないジャクソンなる隠された人物こそが、言わば”則天去私”を具現化した人物に感じられるのです。別の言い方にすれば、「善の至高性」で示された善に限りなく近づきつつある完成された人格に思えるのです。
さて、そんなジャクソンも、やはり、最後に死の可能性について言及します。
しかし私にはまだ力が残っている、いつだって自分を始末することができる。
死、すぐそこにある。
私はやはり、私を探し出そうとしている者を恐れているのだろうか?
いやその人びとのことは覚えていないし、探している人間もいない。
昔、刑務所にいたのだろうか?思い出せない。
これからなすべきことをしなければいけないのに、
もうどこへも身動きがとれないところへ来てしまった。
こんな思いを振り捨てて立ち上がろうとしたとき、何か不思議な感じがした。
蜘蛛が彼の手を見つけて、その上を歩いていたのだ。
優しく手を貸して、その生き物を巣のほうに戻してやった。
彼は川のほうに歩いてゆき、橋を渡った。
しだいにペンディーンが近づいてくると、彼は微笑みを浮かべた。(アイリス・マードック「ジャクソンのジレンマ」より抜粋)
おそらく、その死の先には、永遠の一瞬、限りなく無に等しい無限、完全な自由があるのだと思います。
以上で「私的魔女論」を終わります。
■参考文献
アイリス・マードック「海よ、海」
アイリス・マードック「ジャクソンのジレンマ」
アイリス・マードック「善の至高性」
ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき アイリスとの別れ1」