■はじめに
アイリス・マードックについて書いてみようと思います。
アイリス・マードックは英国の作家で哲学者です。生涯に26編の小説と5冊の哲学書を出しています。
プラトンやサルトルなどの西洋哲学やシェイクスピアやドストエフスキーなどの文学に詳しく、
さらに、仏教や日本文学など東洋思想にも造詣が深いです。また、彼女はバイセクシャルでした。(*1)
■アイリス・マードックの略歴
1919年にアイルランドの首都ダブリンで生まれ、翌年、ロンドンに移住します。
1938年にオックスフォード大学サマーヴィル・カレッジの古典文学科で古典文学・哲学・古代史を学びます。
1942年に首席で卒業して、戦時文官として大蔵省に勤務します。
1944年に国連救済復興機関に入り、戦後のベルギー、オーストリアで難民の救援活動に従事します。
ブリュッセル滞在中にサルトルの講演を聴き、哲学の道に進む決意をします。
1947年にケンブリッジ大学で哲学奨学生となり、哲学を本格的に学び始めます。
1948年にオックスフォード大学で哲学講師となります。以後、1963年まで務めます。
1954年に処女作「網のなか」を出版します。
1956年に文芸評論家のジョン・ベイリーと結婚します。
1970年に「善の至高性」を出版します。
1978年に「海よ、海」でブッカー賞を受賞します。
1995年に最後の著作「ジャクソンのジレンマ」を出版します。
1997年にアルツハイマー病と診断されます。
1999年にその生涯を閉じます。
■アイリス・マードックの小説
マードックは「小説は分析の芸術であるよりはイメージの芸術である」と言っています。これは「戦争と平和」の著者トルストイの歴史に対する考え方に近いと思います。トルストイの歴史観について歴史学者の山内昌之は次のように言っています。
空間と時間における具体的な事件の総和だけが真理を含んでいる。
現実の男や女の相互関係、三次元的あるいは経験的に知りうる環境との関係における
現実の経験の総和こそ、真理を内包している(山内昌之「歴史学の名著30」より抜粋)
文字列を一本の線で繋ぐような単線的な論理ではなく、複雑に絡み合った複線的で混沌とした総和が、歴史=現実の本当の姿だと考えたのではないでしょうか。その混沌とした総体がマードックのいうイメージという漠然とした形象なのだと思います。また、マードックが「自分には意識の流れなどない」といったのは、単線的で連続な論理に支配されているのではなく、そういった人間が勝手に作り出す偏った幻想からは自由に現実を捉えていると言っていると思います。
また、映画「アイリス」の中のマードックのセリフですが、「人間の愚かさを描くのは作家の特権だ」と言っているように、小説には”人間の愚かさ”が描かれています。同じように、人間の愚かさを描く英国の作家にジェーン・オースティンやシェイクスピアがいます。同じ人間の愚かさを描くといっても、二人は対照的でジェーン・オースティンは非常にモラリスティックで「お金で結婚を選んではいけない。人柄で選ぶべきだ」という道徳が作品に盛り込まれています。一方、シェイクスピアは人間の営為のすべて、愛や友情までも含めたすべてを、人間の愚かさとして、冷淡に哂っています。マードックはこの他にも数多くの作家の影響を受けているらしいですが、人間の愚かさを描く点において、この二人の作風のいずれをも含んでいるのではないかと思います。ただし、自由な性のため誤解されやすいですが、マードック自身は「より善き存在になろう」という道徳を重んじた人だと思います。
■アイリス・マードックの哲学
簡単に振り返ると、ニーチェが「神は死んだ」と言ったときには、人々の心から神のリアリティが無くなったのだと思います。それは神学も哲学も道徳も依拠していた土台を失ったことを意味します。それに対してサルトルが実存主義で乗り越えようとしましたが、レヴィ=ストロースの構造主義であっさりと否定されてしまいました。当時、マードックはサルトルの実存主義に影響を受けて哲学を始めましたが、時代が進むにつれて実存主義は構造主義によって乗り越えられてゆきます。しかし、マードックは構造主義には乗らなかったようです。マードックはあくまで人間の存在意義や生き方(=道徳哲学)といった哲学の根本的な問題から逃げなかったのだと思います。そして、マードックは著書「善の至高性」でその問題に一定の哲学的な解答を提示したのだと思います。以下、「善の至高性」に基づいてマードックの哲学を考えてみます。
■人生の目的
アイリス・マードックは人間について、そして、人生について、次のように語っています。
人間は本性上利己的であるということ、
そして人間の生はいかなる外的な目的も持ってはいない、というものである。
・・・・・・
つまり、人生は自己充足的で無目的なものである。(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)
とてもシンプルに人間の性質と人間の目的について語っています。
すなわち、
人間の性質 = ”人間は利己的である”
人間の目的 = ”人生に目的は無い”
ということです。
■神は存在しない
さらに、先の「人間の生に目的は無い」ということから、神についても言及します。
我々は、まさに見かけどおり、必然と偶然に左右され、束の間だけを生きる存在である。
これはつまり、私の見解では、伝統的な意味における「神」というものが存在しないということであり、この伝統的な意味がおそらくただ一つの意味なのである。
……
同様に、神に代わるさまざまな形而上学的代替物-理性、科学、歴史-は偽りの神々である。我々の運命を吟味することは可能であるが、運命を正当化したり、完全に説明したりはできない。我々はただここに存在している。(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)
ここでも、とてもシンプルに「神は存在しない」と小気味良く言っています。さらに、理性や科学や歴史に対して、その優位性を認めていません。
しかし、それでもマードックは言います。
いかにして我々は自らをより善きものにすることができるのか(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)
確かに「より善きものになろうとする意思はどこから来るのか?」の説明はありませんが、「人間の愚かさを笑う」作家マードックにとっては自明だったのだと思います。(悪党ぶる若者には善に根拠が無いという理由で、本気で善きものになろうとする意思を持とうとしないものがいますが、では逆に、その悪への意思が強い意思となるかどうかは疑問です。すなわち、問題は意思の弱さにあるのではないでしょうか。)
■善とは何か?
では、より善きものになろうとするのは良いとして、善とは何でしょうか?
マードックは善について次のように言っています。
善の構造の一番上にあるのは、完全に空虚な状態である。
つまり、善は、上にいくほど中身のない構造になっているのだ。
人間は、しばしば善が拡大していく様を夢見てきた。
彼らがそこにあるものとして当たり前のように考えてきた、
慈しみを内包するような善を夢見てきた。
しかし、それはまさしく夢に過ぎず、その点でまったく空虚なものだ。
人間の本性が善を絶対的に排除しているというのは正しくない。
広い意味では、善そのものが一貫した概念でさえないし、
善とは人間には想像できないものなのだ、ちょうど、物理学のある概念のように。
ただし、物理学の概念と違っているのは、善にはどこにそれが存在するか、
その存在する場所を指し示す方法さえないということなのだ。
なぜなら、善とは、初めから存在していないものなのだから。(アイリス・マードック「かなり名誉ある敗北」より抜粋)
一体、これはどういう意味でしょうか?少なくとも、マードックのいう善は一般的な善悪の善とは違うようです。ここでいう善は、プラトンの善のイデアに近いものだと思います。プラトンの太陽の比喩でいうところの太陽です。
■善に近づく方法
マードックは人間がより善きものになるための方法を次のように言っています。
まず、善に近いづきやすいという理由から美を取り上げ、その具体的な方法として、芸術の経験、自然の享受、知的な訓練(=テクネー)を挙げています。
例えば、芸術については、次のように述べています。
芸術の無目的性はゲームの無目的性とは異なる。
それは人生そのものが無目的だということであり、芸術における形式は、
まさに自己充足的で無目的な宇宙のシミュレーションなのである。
善き芸術は、我々がいつもあまりに利己的であり臆病であるために
認識することができないもの、
つまり、微細で絶対的に偶然的な世界の詳細を明らかにする。
しかも、統一性や形式をもってそれを示すのである。(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)
ここでいう芸術の無目的とは、目的がどこか1点に向かうベクトルであるのに対して、無目的はベクトルがどこか1点に向かうのではなく、太陽のように全方向に照射されるあまねく光と考えれば分かりやすいのではないでしょうか。それに対して、遊びとしてのゲームの無目的は本当に目的が無いこと、ベクトルが無いことを言っているのだと思います。人間の営みにおける不純な目的やゲームにおけるきまぐれな有って無きがごとき目的よりは、芸術のように純粋に無目的であることはそこに宇宙の秘密が開示されてくるのではないでしょうか。
■善に至る道
そして、マードックは完全な善に至る道として、プラトンの洞窟の比喩における太陽によって説明しています。以下、「善の至高性」から一部抜粋しますが、省略することはできませんので、本来はテキストをあまさず読むのが最適かと思います。
第一に世界は巨大で無目的で偶然的だからであり、
第二に人間は利己心によって目を遮られているからである。
他の事物の場合とは異なり、太陽を注視するのは困難なことである。
もろもろの線は太陽に収斂しているのである。
そこには磁石のように引き寄せる中心があるが、
しかし、中心そのものを見つめるよりも、収斂する周縁部を見る方が容易である。
その中心がどのようなものであるか我々は知っておらず概念化もしていないし、
またおそらくそうすることは不可能であろう。
愛の存在は、我々が卓越性に魅了され、
善へと向かう霊的存在者であることの紛れもないしるしである。
それは、太陽のぬくもりと光の反映なのである。
謙虚な人は、自己を無と見なすが故に、
他の事物をあるがままに見ることができるのであり、
かれは、徳の無目的性とその独特の価値、
そしてその要求の限りない拡がりを見るのである。
シモーヌ・ヴェイユは我々にこう告げている。
魂を神にさらすことは、魂の利己的な部分の受難ではなくその死刑宣告である、と。
謙虚な人は受難と死との距離に気づく。(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)
ここでは、プラトンの太陽に近づいてゆき、窮極的には太陽と自己とが重なり合わさることを目標としています。そして、驚いたことに、実はそのプロセスは仏教の「大乗起信論」が説くところの浄法熏習と同じメカニズムを言っています。実際には「大乗起信論」の熏習の方がより精緻にそのメカニズムを解き明かしていますが、原理的には同じことを言っていると思います。むしろ、マードックのいう方が直感的に分かり易いかもしれません。なぜなら、熏習(=移り香)よりは、光のぬくもりや明るさの方が私たちには実感しやすいのではないでしょうか。ともかく、これによって、プラトンの太陽、すなわち、”善のイデア”と「大乗起信論」でいうところの”真如”、さらには、”アラヤ識”がここに至って同一のものとして繋がったわけです。さらに、真如であることから、インド哲学でいうところの梵我一如もある意味同じだと思います。また、イスラムの哲学者スフラワルディーが「光の形而上学」で説いたという”光の光”もこの太陽と同じものではなかったかと思います。
マードックによってプラトン哲学を起源とする近代哲学は、言語的・哲学的・倫理学的な意味において、あるいは、意識のソフトウェア的なレベルにおいて、倫理学的な悟り、自性清浄心が覚醒する修道に至ったのだと思います。
■注釈
(*1)道徳哲学が彼女の主要な哲学の基底になっています。また、仏教徒でもあります。源氏物語や三島由紀夫を読んでいます。俳句も読んだようです。
■参考文献
アイリス・マードック「善の至高性」
アイリス・マードック「アイリス・マードック随筆・対談集」
ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき -アイリスとの別れ(1)」
ジョン・ベイリー「愛がためされるとき -アイリスとの別れ(2)」
平井杏子「アイリス・マードック」(彩流社)
日本アイリス・マードック学会「アイリス・マードックを読む 全作品ガイド」
宇井伯寿・高崎直道「大乗起信論」
井筒俊彦「意識の形而上学 大乗起信論の哲学」