2006年8月13日

アルベルト・ジャコメッティ展


僕は失恋すると、少し離れた美術館に遠出する。

何故だろうか・・・。

人生の中で、川の流れが一瞬止まるときがある、青天に稲妻が一瞬走るときがある、という・・・。
そんな瞬間を求めて僕は美術館に向かうのかもしれない・・・。

そんなわけで気がつけば、兵庫県立美術館 に着いていた。
安藤忠雄 が設計した、そびえ立つコンクリートの高い壁が僕を迎え入れた。


美術館ではアルベルト・ジャコメッティ の展覧会が開催されていた。


ジャコメッティの作品はとてもシンプルだ。
針のように細長く引きのばされた彫刻、執拗に塗り込められた人物の肖像。
しかし、彼の創作は作品の完成ではなく、求道の過程を表している。


写真の発明以来、写実的であることに絵画は敗北した。写実を超えて描かれる対象物の本質を描くことに力が注がれることになる。それはセザンヌ以降の絵画の実験の始まりだった。

そんな実験の中でジャコメッティは「見えるがまま」に描くことを模索した。まるで愚直な修行僧のように・・・。
ジャコメッティの友人であり、モデルであり、良き理解者である矢内原伊作は次のようにいっている。

彼の仕事は見えるがままにぼくの顔を描くということだ。
見えるがままに描く、
この一見簡単なことを
しかし、いったい誰が本当に試みたであろうか。

ジャコメッティにとって、「見えるがまま」とはどういうことだったのだろうか?
それは、サルトル の実存主義がいうところの本質かもしれない。
あるいは、仏教でいうところの直観もしくは正見 かもしれない・・・。


きっとそれは、対象物を全く客観的に描くということ、つまり絶対的客観なんだろう。
しかし、相対論 的* にも論理学 的にも絶対的客観なんてありえはしない。

でも、ほんの一瞬だけ、暗雲の中から一筋の光の晴れ間が一瞬覗くようにして、
絶対的客観が現出するような気がしてならない・・・。

そんな瞬間を、主客合一する瞬間を秋山基夫 氏のオカルト詩の中に僕は見出したりするのだ。

それにしても、ジャコメッティは遂に見えるがままに描くことに成功しなかった。
でも、彼はそんなことを意に介さなかった。
彼はいう。

そんなものはみな大したことではない。
絵画も彫刻もデッサンも文章も文学も
そんなものは意味があってもそれ以上のものではない。
試みること、それが一切だ。
おお、何たる不思議のわざか。

彼はいつしか意味そのものを超越していたのかもしれない。