雨に濡れたアスファルト、弾む水飛沫、静止した運動。一見、ごくありふれた日常の風景の断片を切り取ったように見えます。しかし、写真展を先へと進んでゆくと、日常世界の先の先に、日常とは異なる世界が次第々々に見えてきます。そこは、水たちがまるで無重力のように躍る世界、水銀がふるふると表面を震わせて踊るマーキュリック・ダンスのような世界。そこには私たちとは異なる知性の働きが存在するかのように感じられます。
例えば、言語的知性は世界の中から記号Aを生成した瞬間、同時にA以外のその他を非Aとして排除・殺害してしまいます。言語的知性はどうしてもこの二元論的殺害からは逃れられないように思います。でも、この写真から感じられる知性はそういった二元論的殺害を伴わない、非暴力的な、静かな水のせせらぎのような、リキッドな知性を感じます。それは、とても純粋度の高い、清水のような、そんな水が交流し合う異次元な知性、深い充足と悠久の平和の時間を与える知性、まるでスタニスワフ・レム のソラリス の海のような人知をはるかに超えた知性を感じます。
そんな空想に想いを馳せるとき、次のような李白の詩が想起されたりします。
清渓 我が心を清くす
水色 諸水に異なれり
借問す 新安江
底を見る 何ぞ此の如くならん
人は行く明鏡の中
鳥は渡る屏風の裏
晩に向かって猩猩啼き
空しく遠遊の子を悲しましむ(李白 「清渓の行」より)
ほんの少しだけ、詩的言語によってのみソラリスのような超越的な知性に触れられる、そんな気がしたりします。