「水辺首夏」や「木立」など木陰の中を進んでゆく小道を描いた奥行きが、とても清らかで心静まる作品群でした。対照的な作品として、アンリ・ルソー の描くジャングルを比較として想起してしまいます。ルソーのジャングルは生気に溢れていて、子を孕み、生み落とす大地母神的な豊饒な生命力を感じます。それは、精神を物質に宿らせて、この世界に生み出してゆく、子宮や女陰のような闇のような魔力すら感じます。それに対して、梅原藤坡の絵はむしろ還ってゆく場所のような清々しさを感じるのです。喩えると、肉体を持った人間が死んで、魂となって帰ってゆく場所、そして、元々はそこからやってきた本来居た場所に帰ってゆく、そんなイメージを想像してしまいます。そのため、奥に行くほど、希薄に霞んで融け消えゆくような感じがします。木々などの自然に対して感じる超自然なモノへの感覚というのでしょうか。神社に対して感じる感覚と同様のものではないかと思ったりします。
ところが、それに対して、女性の描き方は自然に対する美的な感覚とは違います。作品「三味線ひく少女」のように、女性に対して、どこかネガティブな感覚を感じます。美ではなく、生々しさなのかもしれません。女性のエロスには、植物的な自然の美しさとは違い、生々しい肉感的でエロティックな息づく女性の肢体のようなものを想像します。そんな力が潜在化されて、このような絵になって表現されたのかもしれません。これは、いわゆる甲斐庄楠音らの「穢い絵」や荒木経惟 の写真に繋がる力なのかもしれません。二次元的な浮世絵ではなく、三次元の西洋の裸体画を日本人が見たとき、女性の持つ生々しいエロスが立ち現れてきたのかもしれません。確かに浮世絵もエロティックですが、それは性行為を描いたり、性器を極端に大きく描いたりと、どちらかというと、女性の肉感的エロスとは別のエロスだったように思います。もしかすると、近代以前と以後では日本人のエロスに対する視覚的感覚が変化したのかもしれません・・・。そして、近代以降の日本人の女性観の変化や葛藤が見られるかもしれません。文学の場合、例えば、夏目漱石 の女性の描き方にそういった片鱗が窺える気がしたりします。(谷崎潤一郎では決定的となります。)
野々宮さんは目録へ記号(しるし)をつけるために、
隠袋(かくし)へ手を入れて鉛筆を捜した。
鉛筆がなくって、一枚の活版刷りのはがきが出てきた。
見ると、美禰子の結婚披露(ひろう)の招待状であった。
披露はとうに済んだ。野々宮さんは広田先生といっしょにフロックコートで出席した。
三四郎は帰京の当日この招待状を下宿の机の上に見た。時期はすでに過ぎていた。
野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた。
やがて先生とともにほかの絵の評に取りかかる。
与次郎だけが三四郎のそばへ来た。
「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすればよいんだ」
三四郎はなんとも答えなかった。
ただ口の中で迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)と繰り返した。
(夏目漱石「三四郎 」より抜粋)
それにしても、日本人にとって美とは何なのでしょうか。フロイト的な解釈では収まらないものかもしれません。そして、西洋人の美に対する感覚とは異なる特徴を持っているような気もします。そんな日本的な美意識の原点に触れられるかもしれない、梅原藤坡展なのでした。