2006年11月26日

前田寛治展


「前田寛治展」(新見美術館 )を鑑賞しました。

1920年代頃に活躍し、33歳という若さで夭折した鳥取県出身の洋画家・前田寛治の展覧会でした。
洋画らしい洋画でした。「J.C嬢の像」では、大柄な女性の存在が背景から浮き出るようにして表現されており、2次元の絵でありながら、物体としてのありありとした存在感が感じられました。マネのような技法かもしれません。また、「C嬢」では女性の白い肌の輝くような美しさが、背景の黒色とコントラストになって見事に表現されていました。日本人でありながら、洋画の良さをそのままに素直に表現されているように感じられました。裸婦のモデルが淡谷のり子 だったのには驚きました。顔がタコっぽく描かれていて微笑ましかったです。裸婦の重厚な肉感、巨躯から伝わる自然力の強さが感じられました。「C嬢」のような女性美を描くことよりも、「J.C嬢の像」や「ブルターニュの女」や裸婦のような立体的なまでの存在感を描くことの方に重きを置いていたのかもしれないと考えたりしました。平面的な日本画から奥行きのある洋画を知り、その可能性を追求していたからかもしれないと考えたりもしました。その他、点描など印象派の手法も試みているようで、とても器用で進取の気勢のある画家かなと思ったりもしました。

洋画の技法を素直に見事に修得していることに感心しました。作者が前田寛治と言われなければ、西洋人画家が描いたものだと思うくらい洋画らしい洋画でした。(ただし、彼は鳥取の風景も数多く描いているので日本を描くことにも意欲を示していると思います。)

近代日本が懸命に西洋文化を取り入れた生真面目な努力を思い出します。極端に言うと、戦前は西洋文化を取り入れ、戦後はアメリカ文化を取り入れ、最近はグローバリズムを取り入れたように考えたりもします。そんな変遷を想像するとき、経済学者の野口悠紀雄 氏の次のような言葉を思い出します。

つまり、これは、製造業を中心とする産業大国の凋落なのである。
ドイツと日本は、本当に似ている。最近の経済情勢だけではない。
もっと深いところでも似ている。
・・・・・・
しかし、・・・・・・と私は思う。
ドイツと日本は、どこかが違う。
どこが違うのだろう?暫く考えて、その答えに思い至った。
・・・・・・
道路の両側に続く森は、少しも変わっていない。
その森は、ゲーテの頃と、いやファウストの物語の頃と変わらない森なのだ。
そして、これが日本との決定的な違いだ。
ドイツは、今後、世界経済の中で主導的な役割を果たすことはないだろう。
その点では、日本も同じだ。
しかし、ドイツには豊かな森が残っている。
日本は、経済成長の中で自然景観を破壊し尽くした。
それは、もはや復元できない。
21世紀の社会で、これは本質的な違いだろう。

(野口悠紀雄「「超」整理日記 」より)

野口悠紀雄氏の言葉は数学のように厳密かつ的確で、常に原則的な合理的思考で貫かれています。そんな野口氏のこの言葉はとても決定的なものを突きつけられたように感じられます・・・。

考えてみれば、世界は、法律は過去の判例に基づくローマ法 、経済は取引を貸方・借方の2つで仕訳する複式簿記 といったもので標準化されているように思います。極論ですが、いずれ法律家や会計士の資格も完全標準化されて、世界中どこでも通用するようになるかもしれません。そして、社会システムやライフスタイルは世界中どこに行っても同じ規格になろうとしているように感じられます。民俗学者がフィールド調査するような未開社会はとっくの昔にどこにも残されていませんし、愛国心と言っても自国と外国を区別する差異はほとんど無くなるかもしれません。(極端な話、言語しか違いがなくなるかもしれません。)個性やオリジナリティと言ったところで、ライフスタイルも同一で大きな差異はなく、外部というものが宇宙人くらいしか残されていないように多くの人に感じられているのかもしれません。

民話や昔話などの物語では、弱者や異端者やヒッピーなど社会の中で生きられなくなった者が、絶望の中で死を求めたり、逃げるようにして迷い込んでゆく場所として、森や山がよく描かれたりしています。(物語の中では、その後、森の中で魔法のアイテムなどを入手して戻って活躍したりしますが・・・。)本来、私たちの精神は自由な運動をするものです。社会にフィットせずに、はみ出してしまうのが、実は本来の姿なのかもしれません。社会に閉塞を感じる、そんなとき、自然への回路を残しておくことは、最後の外部への扉、自由への通路なのかもしれません。