2006年11月20日

華鴒大塚美術館


華鴒大塚美術館 」を鑑賞しました。
橋本関雪の「看月図」は東洋の哲理を思い出させてくれるようで気持ち良かったです。水墨画の白黒ではない、爽やかな色彩が東洋哲学の現代性を象徴しているかのようで良かったです。東洋文化の再発見がもっとあっていいのになあと考えたりしました。

また、入江波光の「葡萄と栗鼠」では、植物の蔓(ツル)のほつれ具合が何とも絶妙でした。植物への観察眼に感服します。何というか、写真ではない写実があり得るように思いました。人間の鋭い観察眼が写真では捉えられない対象物の真実や本質を、デフォルメすることなく、写実の中に描き出すように感じられました。そのとき、画家はただ眼や絵筆となって存在していて、対象物と同化して、一切の自分が入り込む余地がない、そんな風に思ったりしました。

また、菊や柿や柘榴など注目される対象を浮き立たせるように描いているような作品が多いような気がしました。そんなマテリアルへの飽くなき探究心が独自の日本哲学を生み出すのだろうなあと感じさせられました。そんな対象物への探究心から本居宣長 を想起したりします。

物の哀れを知るより外に物語なく、歌道なし。
ゆえにこの物語の外に歌道はなきなり。
学者よくよく思ひはかりて、物の哀れを知ることを要せよ。
これすなわちこの物語を知るなり。
これすなわち歌道を悟るなり。

(本居宣長「紫文要領 下巻」より抜粋)

宣長は儒仏の教えから物語や詩歌を解釈してはならないと懇々と戒めます。そして、「物の哀れを知る」ことこそが、その物語や詩歌を本当に理解することができるのだといいます。ある種の日本のマテリアリズム(唯物論)かもしれません。

さて、全体的に、日本画の伝統芸の美しさや精巧さを改めて感じさせられました。

また、庭園がとても絵のような景色で美しかったです。景色を見ていると、知らず知らずのうちに清々しい気持ちになりました。

日常の中では、伝統芸に触れることがなくて、日本の伝統芸術など忘れてしまいがちです。そんな普段の生活の中では、切れてしまいそうな日本の伝統の糸を思い出させてくれる、貴重な美術館でした。