彼の描く絵画の光を見ていると、インド哲学者シャンカラがいう不二一元論のブラフマン(梵) を想起します。全存在の本質、世界の魂、、宇宙の創造的エネルギー、そんな全てであるようなブラフマン。シャンカラは、ブラフマン(梵)とアートマン(個我)が本来は一つであるといい、マーヤー(夢幻)を超えて梵我一如 に至れるといいます。そして、それは覚醒位・夢眠位・熟睡位とは別の第四位において体験されるそうです。そのとき、シャンカラは「ウパデーシャ・サーハスリー」の中で「非ず、非ず」と表現しています。次のようなウパニシャッド の一節が想起されます。
それは動く。しかし、それは動かない。
それは遠くにある。しかし、手元にある。
それはこの全世界の内にある。
しかし、この全世界の外にある。(「イーシャー・ウパニシャッド第五詩節」より抜粋)
また、岡野玲子 さんの「陰陽師」 を思い出します。この作品の「白虎」(第11巻)の中で、安倍清明 は闇の底の底で、結晶のように冷たくソリッドに力強く光り輝きます。そこでは、物質の王・大物主 が清明を闇の王として静かに見つめています。この光は恐ろしい闇の底でこそ、生命力を漲らせて輝きます。この絵画の光も類似の次元で光り輝くように感じられます。
また、「code」や「towairaito」や「warm water」など彼の作品は2つの絵が並べて置かれてあったりします。この構成に両界曼荼羅 のような性質を感じます。胎蔵だけでなく金剛も描いているように感じられます。小さく喩えるなら、生だけでなく、生と死を描いているように感じられます。生命を讃歌する歓喜の光、そんな一元論的太陽だけを受け入れるのではなく、闇に刈り取られる死をも描いているように感じられます。ここに、この作家のリアルに対する透徹な精神を感じます。
彼の創作はよく夜に行なわれるそうです。身一つになって夜の闇にたたずむとき、光の無い闇の中でこそ、宇宙の中でのたった一つの光、自分自身の魂の輝きを感じ取れるようです。そんな彼の作品を目を閉じて心に思い浮かべるとき、彼の描いた光がありありと揺らめき、煌々と輝いて生命力の光輝を放っているのが強烈に感じられます。