「奈義町現代美術館」 を鑑賞しました。
「うつろひ」(宮脇愛子)(展示室「大地」)
銀色の曲線が空間を宇宙空間に変貌させています。鏡のような水面に映った曲線がシンメトリックな歪んだ円形となって、空間で生き生きと躍っているように感じられます。あるいはまた、大きく伸びた銀色の金属が新種の植物でもあるかのように大地から生えて、力一杯生命力豊かに伸びているようにも感じられます。日常空間の中に、とても見事に宇宙的な空間を現出させています。
「HISASHI -補遺するもの」(岡崎和郎)(展示室「月」)
三日月形の滑らかな曲線空間、木の幹から蜜が流れるかのようなオブジェ。まるで、三日月形に切り取られた空間から、空間の蜜や金属質・鉱物質のエッセンスたる蜜が流れるかのようです。そして何より、音が何層にもコダマします。まるで空間に何層ものグラデーションが存在するように感じられます。そんなコダマを聞くとき、小さな魂が少し顔を覗かせるように感じられます。空間がグラデーションを持つように、ここには多次元に空間が交錯していて、曲線的に切り取るとき蜜が溢れるようにして、小さな魂がちょっぴり流れ出す、そんな感じがします。
「遍在の場・奈義の龍安寺・建築的身体」(荒川修作+マドリン・ギンズ )(展示室「太陽」)
外からの外観は、巨大な太鼓です。パーカッションは鼓やモノを打つことで、そこの日常空間を打ち破り、異次元を現出させるように感じられます。そんな巨大な太鼓の中は、まるで上下のない無重力空間です。龍安寺の石庭が曲面に配置されています。異次元空間に迷い込んだようです。空間が異次元なだけではありません。ぐるりと意識を反転させるように過去の記憶を想起させます。そこには鉄棒やシーソーなど幼年期の記憶を呼び覚まします。ここは空間や時間を超えた不思議な異次元空間です。死の瞬間、走馬灯がよぎるように過去を想起するといいます。この空間はそういった生から死へと横断するときの中間で体験される異次元を表現しているように感じられます。
そんな中有に想いを馳せるとき、次のような詩が想起されます。
思い出すことのないボードレールの一行がある、
ぼくの歩行が禁じられている近くの通りがある、
最後にぼくをみつめた鏡がある。
この世の果てまでぼくを閉めだした一つの扉がある。
ぼくの図書館の本の間に(今、眺めているところだが)
決して開くことのない何かがある。
この夏 ぼくは五十歳になる、
死はぼくを摩滅する、絶えまなく。(「ラテンアメリカ詩集」から ホルヘ・ルイス・ボルヘス 「制限」より抜粋)
人生に残された時間はとても少ない・・・。
それから、奈義町立図書館も素敵な知的立方体です。四方位を本棚で囲まれて、小さな小窓から芝生や山々が臨めます。この立方体は、小奇麗に整理されたとても知的な空間です。大き過ぎて知の迷路に迷い込んでしまうのでなく、とても小気味良く知を整理した知的空間に感じられます。自分の書斎にしたいくらいです(笑)。