「岡山市デジタルミュージアム 」を鑑賞しました。
岡山市の地図型情報マトリックスや文化財・自然物などをリアルとヴァーチャルに展示したミュージアムでした。また、香りを発生する装置や情報を編集できるメディアラボなど、コンピュータの優れた設備が用意されてありました。
あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮るものは何一つない。
あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。
ひとつ一つのものが、どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており、
同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。
だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、
ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。
ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。
太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。
ものは各々自分の特異によって判然と他から区別されておりながら、
しかもすべてが互いに他のなかに映現している。(プロティノス「エンネアデス」より抜粋)
このように1(あるいは、自然数)には、2つの表現があるように感じられます。また、①式から②式が導かれ、零もまた2つの表現があるように感じられます。それは、無や空と2つに表現されたように、働きのある無と働きのない無のような2つをイメージしたりします。(また、”色即是空、空即是色”などもこれに近いような気もします。)
また、老子 の次のような言葉を想起します。
常無欲、以て其の妙を観、
常有欲、以てその徼を見る(「老子」より抜粋)
何というか、複眼の士・老子が見るような、一切皆空・廓然無聖の後に性起する真空妙有のようです…。
また、こんなデジタルな数の想像をするとき、超意味言語ザーウミを提唱した詩人フレーブニコフ の次のような言葉が思い出されたりします。
すると不意にわかった、時間はない、と。
鷲の如く翼の上に持ち上げられ、僕はたちまちにして見た。
かつて何があり、やがて何が起こるか、を。
世界の鉄の剥製のなかに2と3のバネを見たのだ。
数たちのはずむ会話を。(フレーブニコフ「運命の板」より)
さてさて、そんなデジタルミュージアムは、古代の直感とデジタルな感性が結びつく、未来的かつ古代的な素敵な空間です。