2006年12月11日

地中美術館 in 直島


「地中美術館」 in 直島 を鑑賞しました。また、家プロジェクトやベネッセハウスも鑑賞しました。

地中美術館は、地下核シェルター型神殿のような美術館でした。内容は、クロード・モネ 、ウォルター・デ・マリア、そして、ジェームズ・タレル の作品たちでした。また、美術館そのものは、安藤忠雄 の設計でした。また、家プロジェクトでは、宮島達男 (角屋)、杉本博司(護王神社)、ジェームズ・タレル(南寺)、さらに、STANDARD2では、大竹伸朗 (はいしゃ)、千住博 (石橋)、須田悦弘(碁会所)を鑑賞しました。ただ、残念ながら、内藤礼 (きんざ)は要予約のため、鑑賞できませんでした。最後に草間彌生 の灯台に展示されている黄色いカボチャ「南瓜 1994-2005」を鑑賞しました。

いずれも傑作ぞろいのアートたちでした。特にジェームズ・タレルの不思議な光の体験「南寺」「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」、ウォルター・デ・マリアの現代の神殿「タイム/タイムレス/ノー・タイム」は圧巻でした。モネの「睡蓮の池」も素晴らしい体験でした。千住博の滝も息を飲む素晴らしさでした。杉本博司の護王神社では、子供の頃、よく遊んだ神社の感覚が思い出されました。奥の院を恐る恐るのぞき見るような、秘められたものを見るような感じでした。宮島達男の角屋では、夜空の星のように、水の中での数字の瞬きでした。

そんな数を想像するとき、数学者カントール の無限への挑戦を想起してしまいます。カントールは無限にも種類があることを発見したようです。自然数の無限と実数の無限では、ともに個数は無限にあるけれど、濃度 が異なるようです。例えば、1から10までの中で自然数は10個ありますが、実数は10個以上のもっと多くの実数が存在します。このように無限にも種類があるようです。

そして、カントールは無限を捉えようとして、連続体仮説 に辿り着きます。


しかし、マトリックスのようなべき集合 で構成されたこの仮説の真偽はわかりませんでした。カントールの挑戦は前進を許されず、次第に疲弊して精神を蝕んでいったようです・・・。そんな苦闘に喘いでいながらも、カントールはいいます。

数学の本質は、その自由性にある。

禁忌とされた無限に果敢に挑んだカントール。彼は無限の彼方にどのような数学を見ていたのでしょうか・・・。

そして、カントールの対角線論法を用いて、ゲーデル が不完全性定理 という、数学や知性を根底から覆した、恐ろしく革命的な結論を導き出します・・・。

数学が無矛盾である限り、数学は自己の無矛盾性を自分では証明できない。

(不完全性定理より)

「”クレタ人は嘘つきだ”とクレタ人が言った」というような自己言及型パラドックス が容易に導かれます。そして、晩年、ゲーデルは、神の存在証明を完成させながら、餓死してゆきます…。

それにしても、いったい、有限な数直線0から1の間に実数はどのように無限個存在するのでしょうか。そんな想像をするとき、存在論としてのキリスト教の三位一体論 を想像してしまいます。三位一体は父と子と聖霊で構成されていますが、数の存在も同様なモデルな気がします。それは、0と1と間の3つで構成されているような気がします。数の存在には、0と1だけでなく、間(はざま)を必要とすると感じられます。間とは、存在を意識して初めて浮上してくるような中間的・霊的な存在です。しかし、間は顕在化した途端、例えば、0と1の中間値0.5として存在した瞬間消え去ってしまい、今度は0と0.5の間(あるいは0.5と1の間)になってしまうように思います。間は表立って顕れてくることのない、まるで聖霊や天使として表現されるような、隠されたモノ、秘められたモノ、秘数として存在しているようなモノ、そんな感じがします。(龍樹 の中観哲学 にも同様な構造を感じます。)

また、これは認識に関わる言語活動だけでなく、生命活動にも関わっているように感じます。生命体は自己と外部を分け隔てています。生命体は食物を取り込み、自身の一部として構成したり、エネルギーとして消費したり、不要な外部として排出したりするなど、まるで内と外を区別する二元論的・言語的知性のような働きを動物も植物も細胞も営んでいるように思います。言語活動も生命活動も本質的には同じ活動に感じられます。このように、言語にとどまらず、私たち生命の存在そのものにも、このモデルは深く関わっているように思えます・・・。そして、間を介して無限を自らに内包し、無限に触れているようにも思うのです・・・。

さて、無限は今のところ数学的知性ではダイレクトには捉えられないのかもしれません。あるいは、喩えていえば、ソラリスのような、人間には遠く及ばない超知性でなければ捉えることができないのかもしれません。しかし、詩的言語によって直感的に捉えることが可能なのかもしれない、そんな可能性をこの展覧会から、かいま見たような気がしました。

(未来では、人間ではなく、コンピュータ=人工知能が無限の鍵を握っているかもしれませんが・・・。)