2007年2月18日

東島毅展

東島毅展 」(岡山県立美術館)を鑑賞しました。

深い紺青の宇宙空間に光が走ります。この光は生命の光、粘りのある光のように感じられます。この光には意志の力を感じます。これはインド哲学でいうところのプラーナ なのかもしれません。ジェームズ・タレル や島村敏明などの光の探求者を思い出します。

この光からは、この宇宙に生み落とされた光が外へ外へと伸びゆこうとしているように感じられます。まるで生命の光にも似ているように感じられます。個体の遺伝情報を背負った生殖細胞は、性行為によって受胎して爆発的な細胞分裂を展開して、新たな個体へと成長してゆきます。そこでは物質に閉じ込められた光が物質を所狭しと外へ外へと伸び開こうとしているように感じられます。そのとき、光は物質を巻き込みながら組織化して個体として成長してゆく、そんな風に感じたりします。そんな想像をするとき、ここに描かれた光には物質性を離れた生命本来の純粋清浄な光のように感じます。

あるいは、夢の中で見る心や存在の本質の光のようにも感じます。それは、どこかで外宇宙へと繋がっているかもしれない内宇宙の闇の中に浮かぶ光陰のようにも感じます。

さらに、紺青の闇の中から光の文字が浮かび上がってくるヴィジョンからは、次のような空海 の真言哲学 の言葉を思い出します。

五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり

(空海「声字実相義」より抜粋)

存在の無底の底から顕現する法身説法や「存在はコトバである」という果分可説な真言の深秘を想像してしまいます…。

また一方で、存在の根底の場であるような紺青の宇宙空間からカバラ の存在停止の闇を想起したりもします。


神は闇をもて己れの隠処となし給う。
まわりを取り巻くは、深き水の暗さと大空の密雲のみ。

(「旧約聖書 詩篇18篇11節」より)

カバラでは、この存在停止の闇は”光り輝く暗黒”という内的光に充ちているといいます。そして、この目眩む闇である内的光エーン・ソーフの中から一滴の光の雫、原初の一点を滴らせてセフィーロート が展開してゆくといいます…。どこか次のようなボルヘス の言葉を思い出したりします。


あるペルシア人は神性を表すために、
ある意味で全ての鳥である一羽の鳥について語っている。
リールのアランは、中心がいたるところにあって円周がどこにもない球体について語り、
エゼキエルは、同時に東西南北を向いている四つの顔を持つ天使について語っている。
・・・・・・
その途方もなく大きな瞬間において、私は心楽しい、
あるいはぞっとするほどの恐ろしい何百万という行為を目にした。
しかし、何よりも驚いたのは、すべてが重なり合うことも、透明になることもなく
ひとつの点に収まっているということであった。私はすべてを同時に見た。
言語は継起的なものなので、私がここに書き写すものもそうならざるをえないが、
それでも多少はとらえることができるだろう。
・・・・・・
エル・アレフの直径は2、3センチメートルだったと思うが、
その中に宇宙空間がそのままの大きさですっぽり収まっていた。
一つ一つの事物が(いわば鏡面のように)無限になっていた。
というのも、私は宇宙のあらゆる視点からそれをはっきり見ていたからだった。
私は大勢の人でごった返している海を見た、夜明けと黄昏を見た、
アメリカの群集を見た、黒いピラミッドの中心にある銀色のクモの巣を見た、
壊れた迷宮を見た、鏡を覗き込むように私の様子を窺っている無数の目を間近に見た、
地球上のすべての鏡を見たが、そのどれにも私は映っていなかった、
・・・・・・
あらゆる角度からエル・アレフを見た、エル・アレフの中の地球を、
ふたたび地球の中のエル・アレフを、エル・アレフの中に地球を見た、
自分の顔と内臓を見た、君の顔を見た、私はめまいを覚え、泣いた、
というのも私の目は人間によってその名を不当にも奪われはしたが、
誰一人実際に見た人のいない秘められた推測上の物体、
すなわち想像もつかない宇宙を見たのだ。
私は限りない崇拝の念、限りない哀れみを感じた。


(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「エル・アレフ」より抜粋)


また、これらの紺青は、岡野玲子の「陰陽師 第11巻白虎」やイブ・クラインらの青にも通じるような気がします。

さてさて、このように「東島毅展」からは、言葉を覚える以前の遠い昔に忘れてしまった存在の根源の場に出会える、そんな貴重な体験を感じさせてくれる展覧会でした。