とてもクールな作品でした。車窓から見た雨のアスファルトのようなヴィジョンでした。高速でもスローでもない日常的なスピードから見た景色のように感じられました。雨や風の線がどこか現代社会の生を象徴しているように感じられました。ただ、出口の無い深刻ぶった暗さでもなく、かと言ってあっけらかんとした明るさでもない、しっかりとした大人びた力強い視線を感じました。現代社会を浮き足立った高速で駆け抜けるのでもなく、殺伐とした現実に弱く停止してしまうのでもない、大人のしっかりした足取りを感じました。例えば、同じモノクロでも水墨画と比べると、エッジの立った線、静謐さよりは悲愴さ、流麗さよりは透徹さを感じました。どこか知的なユダヤ的なモノクロを連想します。
そんな想像に浸るとき、ひとりのユダヤ人哲学者のことを思い出します。ジャック・デリダ です・・・。
彼もハイデガー に引き続いて神が死んだ後の哲学を模索しました。しかし、彼もまた言語による完全な形而上学の構築は不可能だと考えていたようです。
哲学は昨日死んだのだ。
ヘーゲルとかマルクス、あるいはニーチェとかハイデッガー以来息絶えているのだ。
そして現になおも、哲学はその死滅にむかってさ迷っているにちがいあるまい。
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哲学はある日、歴史のなかで絶命したのだ。(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)
このような認識から彼は、死を隠蔽してきたロゴス中心主義を批判して、解体 (=再構築・誤読)という戦略を実践します。解体は創造と破壊が表裏一体となった戦略でした。テキストを解体(=再構築)することで新しい可能性を創造すると同時に硬直した読解を揺さぶり、解体しました。結果、言葉の微分マシンのようなデリダは、形而上学を悉く砂粒まで解体することになりました。時々は砂粒が種子となって瓦礫となった哲学の土くれから新しい芽が芽吹く可能性(散種 )もあったかもしれません・・・。彼はまるで現代哲学のモーゼ でした。ロゴス中心主義からエクソダス(出エジプト)して、エルサレム(=完全形而上学)を目指して砂漠に人々を導いて行くような行為でした。ただ、ちょっと違うのは、約束の地エルサレムは見えることなく、ひたすら不毛な砂漠を突き進む解体ばかりでした。そんな、世界が砂に埋もれてもなおエジプトを捨て砂漠を突き進む悲愴なエクソダスを想像するとき、まるでデリダ自身の述懐であるかのような、次のような詩の一節を思い出します。
何に 向かって 彼は突進しないのか?
世界は消えうせている、私はおまえを担わなければならない。(デリダ「雄羊」から パウル・ツェラン 「大きな、赤熱した穹窿」より抜粋)
一方、もう一人のユダヤ人哲学者レヴィナス を想起します。彼は根底に無限を持ち込もうとしたようです。主著「全体性と無限」や「存在の彼方へ」を著しますが、難しいことはよく分かりませんが、同心円を描いて中心や外周に無限や無を据えたエーン・ソーフをモデルにしているように感じてしまいます。彼は、まるで幾重にも円周を重ねて無限のスパイラルを描くように、ひたすら思想や倫理を持続して説いてゆきます。レヴィナスは完全な形而上学を構築するというよりは、「砂嵐のような文体」でユダヤ教的思想を無限の回廊を歩むように実践・展開・持続することに意味を見出したように思います。次のような言葉を思い出します。
思考の円環を完成できると確信していたヘーゲルのごとき総合の天才なら、
このような楽観論に身を委ねることもできよう。
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つまり哲学的言説が閉鎖しうる可能性についても考えてみなければならないのではなかろうか。
中断、それが哲学的言説にとって可能な唯一の終末ではなかろうか。
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ヘーゲルの企てさえ、"現実"を囲い込むことができると思い上がっている無思慮を免れてはいない。(レヴィナス「存在の彼方へ」便概より抜粋)
そんなレヴィナスに対して、デリダは最終的な問いを投げかけます。
「われわれは、ギリシャ人か?ユダヤ人か?」(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)
しかし、神も哲学も失くしてしまい、ニーチェ の提示した問題が残ってしまいました。現代に至っては、ニヒリズムやルサンチマン などが、私たちの精神を奥深くまで侵食しているかもしれません・・・。でも、西洋哲学の死を見つめ続けてきたデリダは言います。
この、哲学の死とか死の運命の彼方で、
あるいはたぶんまさにその死とか死の運命のおかげで、
思考には未来があるのだ。(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)
もしかしたら、これらの作品で描かれている道の先のように、未来があるのかもしれない。
そんな想像をしながら、この作品を見つめていました・・・。