2007年3月4日

児玉知己展


児玉知己展 日常の筆跡 」(slogadh463 )を鑑賞しました。

ちょうど1年前に鑑賞した王国展に出品されていた児玉さんの個展でした。今回も生い茂る葉っぱが爆発的な増殖によって見るものを飲み込んでゆく、そんな魔力に満ちた作品でした。イマ・ココという空間を侵食して、草間弥生的な”あちら側”の異空間を彼独特の植物的生命力で切り開いていくように感じました。これらの作品は植物的魔力で開く異次元の扉といったものをイメージします。また、自然の生命力が、自然を破壊する人類に対して、反撃してその恐るべき巨大な生命力で人類を囲い込み、飲み込んでしまうイメージも喚起しました。

そんな文明による自然や野生の破壊を想像するとき、アイヌの少女知里幸恵 の次のような言葉を思い出します。

その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、
美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、
真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず
山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、
白いカモメの歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、
花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、
紅葉の秋は野分に穂揃うすすきわけて、宵まで鮭とる篝も消え、
谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。
嗚呼なんという楽しい生活でしょう。

平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、
山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、
野辺に山辺に嬉々として暮らしていた多くの民の行方も亦いずこ。
僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた
昔の人の美しい魂の輝きは失われて、
不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、
よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……
それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、
自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、
露ほども想像し得なかったのでありましょう。

時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。
激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、
いつかは二人三人でも強いものが出て来たら、
進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。
それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。

けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、
言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、
亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。

アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、
雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中
極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書き連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に詠んでいただく事が出来ますならば、
私は、私たちの同族先祖と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

(知里幸恵「アイヌ神謡集 」序文より抜粋)

なんてきれいな心、なんて純粋な魂なのでしょうか。彼女の言葉には本当に心が震わされます。この序文を読むとレヴィ=ストロース の「悲しき熱帯」を想起します。彼は未開社会を構造分析することで文明社会を相対化したことで知られています。けれども、何より彼は未開社会の本当に豊かな世界を知っていたのだと思います。文明社会では閉じられてしまった、真に世界に開かれた遥かに豊かな人間の可能性を見たのだと思います。滅びゆく未開と破壊する文明の間に立った最後の人類学者が未開との離別に愛惜を込めた、次のような言葉が思い出されます。

さらば、未開人たちよ! さらば、旅よ!
・・・・・・
その本質を把握しようとして、ミツバチのような労働を中断して堪えている、
その短い中休みの間にある機会なのだ。
あらゆる我々の成果より、美しい鉱物の瞑想の中に、
知らぬ間の理解がときには一匹の猫と交える互いの許しの、
そして忍耐の、静穏さの、重い瞳の瞬きの中に、
百合の花のくぼみに嗅ぐ香りの中にある機会である。

(レヴィ=ストロース「悲しき南回帰線」より)

一方で1986年に日本で行われた「レヴィ=ストロース講義」など読むと、当時の若い人類学者からは未開社会の破壊や未開人の浮浪者化などの問題について質問が浴びせかけられています。また、現在、アナーキスト人類学のデヴィッド・グレーバー など読むと文明社会内での貧困や移民の問題などが感じられます。何となく、それらが円環的にひとつの問題系として繋がっているように感じられます。

(余談ですが、未開社会での労働時間は1日の中で2~4時間と短く、その膨大な余暇を宗教や芸術活動に費やしていて、文明社会の方が労働など現実の領域に窮屈に縛られているというレヴィ=ストロースの話は面白かったです。

さらに余談ですが、彼らには宗教と芸術の間に区分が無いように感じます。例えば、現代美術などは日常的な物を別な配置=異化 をするだけで、何らかの意味生成過程 を経て、新しい意味を帯びた新鮮な輝きを放つモノに変えてしまいます。典型的な例としては、デュシャン の泉などです。一方、精霊などは例えば「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というように光の加減等で霊的なものが宿っているように見えたりします。

結果、受ける感じとしては、現代美術からは新鮮な輝きや生気を感じるのに対して、幽霊からは得体の知れないモノへの恐怖を感じるという違いはあります。でも、ともに物質としては存在しないモノ、生気や霊性として宿るモノという意味では同じ領域のように感じます。これは日常言語と詩的言語で言えば、ともに詩的言語の領域のように感じます。なので、彼らには区別が無いのではないかと思います。さらに区別が無い上に精霊の領域に踏み込んで行ったふしすらあります。また、元々、ピカソ など現代美術はアフリカ芸術から影響を受けているので当然と言えば当然かもしれません。)

さて、しかし、このような問題をどのように考えていけばいいのでしょうか。自然科学者がその答えを知っているのでしょうか。けれども科学は専門細分化してしまい、限られた専門分野から捉えた狭い視点になってしまいます。今はレヴィ=ストロースのような人間の全体性を持って人類社会について言及できる人たちが減ってしまいました。あるいは、新たに政治・経済・社会に長けた社会システムの専門家がその任を担うのかもしれません。

でも、そういった専門家にはレヴィ=ストロースと違って決定的に欠けているものがあると思うのです。それは、未開社会を本当に理解しているような、未開社会の精神を内側から理解し愛し慈しんでいるような、形式論理やシステム主義では見落とされ表現できない、自然や宇宙に開かれたスピリチュアルな豊かな精神を感じ取っている、人間にとって本当の幸福とは何かを知っている、「野生の思考」が欠けていると思うのです。

ただ、実際に経験して学びとれる野生はもう残ってはいないように思います。これからは先人たちが残してくれたヒントを元に、自分たちで「野生の思考」をもう一度切り開いて磨いていかなければならないと思います。

そんなことを考えながら作品を見ていると、作品の中の葉がざわめいて、その陰で何かが動いたように感じられました…。僕はドキドキしながらも、その扉の向こう側の何かに魅了されるのでした…。