「岡山市立オリエント美術館 」を鑑賞しました。
今回は常設展のほかに岡崎重樹氏のエジプトのコレクションも展示されていました。今回も人類史・文明史を堪能しました。ペルシアやギリシャやガンダーラ等々数多くの世界文明の中心の文物を垣間見れて、来るたびに本当にインスパイアされます。それに何度も通っているのですが、それでも初めて見る展示品もあったりします。この美術館の収蔵品の多さにはびっくりします。東大との共同研究も始まるようですし、もしかしたら日本のオリエント研究の中心になっているのかもしれませんね。
今回も手で触れられる展示物が用意されてました。
今回は常設展のほかに岡崎重樹氏のエジプトのコレクションも展示されていました。今回も人類史・文明史を堪能しました。ペルシアやギリシャやガンダーラ等々数多くの世界文明の中心の文物を垣間見れて、来るたびに本当にインスパイアされます。それに何度も通っているのですが、それでも初めて見る展示品もあったりします。この美術館の収蔵品の多さにはびっくりします。東大との共同研究も始まるようですし、もしかしたら日本のオリエント研究の中心になっているのかもしれませんね。
今回も手で触れられる展示物が用意されてました。
1000年前くらいの陶器類でした。陶器の破片に直に触れることで、1000年前の人が感じたであろう感触が蘇って、自分の中に当時の暮らしや街のヴィジョンが流れ込んでくるようなイメージが膨らんでゆきます。ただ、今回は古いわりには漫画のような可愛らしい陶器の絵柄から、日常的・台所的な、陶器の破片ということもあって、皿が飛んだり、皿が割れたりするような、痴話喧嘩のような、身につまされたりするような、実存的な、あまりに実存的な妄想、いつもの突飛な支離滅裂な妄想が湧き出してきました……。
たとえ話。
たとえ話。
怒った彼女がコップを投げつけた。命中して僕の額がパックリと割れた。
「本来、コップの本質とは、お茶を注がれる食器なのだが、この場合、コップは彼女の怒りを乗せた怒りのツブテとして実存したのだ。つまり、現在の行動によって本質はあっさりと実存に乗り越えられるものなのだ」と。
そう!サルトルの実存主義は哲学ではありません。それは行動です、生き方です!それも生命を激しく燃焼させる生き方です!武士道にも似た行動する主体としての気概です(投企など)。サルトルが言った人間主義とは、自らに責任を背負って立ち、自分自身の生命を賭して、生きる生き様を言っています。
おそらく、構造主義 から見れば、実存主義 は天動説のような独りよがりな傲慢な人間中心の思想に見えたり、構造主義のような相対的な視点ではなく、絶対空間的視点しか持たない自分勝手な自己中心主義的な思想に見えたりしたのだと思います。逆に実存主義から見れば、構造主義は行動の伴わない、現実や行動の不確定性を知らない、外からの傍観者的な頭デッカチな思想に見えたのだと思います。
サルトルは行動する人でした。他者も行動に巻き込もうとアンガージュマン(=社会参加)を説きました。行動のドライブ感を肌で感じていたのだと思います。何となく彼の複雑な政治活動から窺えます。そんな、行動科学では捉えられないような、すばしっこい野生動物のような、自由奔放で予測不可能な行動こそが実存主義の本領なのだと思います。(ある意味ある面では、イタリアの洗練された実存主義はマキャヴェリズム と言えるかもしれません。)
構造主義と実存主義の両立を考えると、どことなく次のようなハイスピードで走る自動車漫画「湾岸ミッドナイト 」を連想したりもします。
自分の未熟さで事故を起こしてしまった友也はアキオの言葉を思い出しながらいいます。
また、俯瞰や鳥瞰を言うのと同時に現前のドライビングについても
感覚を研ぎ澄ませて本能的に先行し、事後的に経験を通して理解してゆくようです。
(なお、一方でサルトルは、「嘔吐」のような存在の本質に迫る内宇宙を観想するかのような一面もあります。また、もう一方では、数々の女性遍歴も重ねているようです。とても不思議な謎に満ちた人です。)
さて、ずいぶん前に実存主義は構造主義に乗り越えられたと言われていますが、このように実存主義は行動で、構造主義は分析なので、2つは異なる次元のようにも感じます。
そう!サルトルの実存主義は哲学ではありません。それは行動です、生き方です!それも生命を激しく燃焼させる生き方です!武士道にも似た行動する主体としての気概です(投企など)。サルトルが言った人間主義とは、自らに責任を背負って立ち、自分自身の生命を賭して、生きる生き様を言っています。
おそらく、構造主義 から見れば、実存主義 は天動説のような独りよがりな傲慢な人間中心の思想に見えたり、構造主義のような相対的な視点ではなく、絶対空間的視点しか持たない自分勝手な自己中心主義的な思想に見えたりしたのだと思います。逆に実存主義から見れば、構造主義は行動の伴わない、現実や行動の不確定性を知らない、外からの傍観者的な頭デッカチな思想に見えたのだと思います。
サルトルは行動する人でした。他者も行動に巻き込もうとアンガージュマン(=社会参加)を説きました。行動のドライブ感を肌で感じていたのだと思います。何となく彼の複雑な政治活動から窺えます。そんな、行動科学では捉えられないような、すばしっこい野生動物のような、自由奔放で予測不可能な行動こそが実存主義の本領なのだと思います。(ある意味ある面では、イタリアの洗練された実存主義はマキャヴェリズム と言えるかもしれません。)
構造主義と実存主義の両立を考えると、どことなく次のようなハイスピードで走る自動車漫画「湾岸ミッドナイト 」を連想したりもします。
自分の未熟さで事故を起こしてしまった友也はアキオの言葉を思い出しながらいいます。
クルマとの距離をツメてコントロール下におく、
それは一体感じゃナイ・・・と。
走ってる自分をドコかで見ている自分がいる。
そーゆー感覚が大事なんだ・・・。
また、俯瞰や鳥瞰を言うのと同時に現前のドライビングについても
同時には成立しない関係だろ。
互いに矛盾するモノが主張する限り、それは当然のコト。
その成立しないアンバランスの中の
バランス感をひたすら探す。
感覚を研ぎ澄ませて本能的に先行し、事後的に経験を通して理解してゆくようです。
体で知り、心で感じて、そして、頭で理解する。(楠木みちはる「湾岸ミッドナイト 」より)
(なお、一方でサルトルは、「嘔吐」のような存在の本質に迫る内宇宙を観想するかのような一面もあります。また、もう一方では、数々の女性遍歴も重ねているようです。とても不思議な謎に満ちた人です。)
さて、ずいぶん前に実存主義は構造主義に乗り越えられたと言われていますが、このように実存主義は行動で、構造主義は分析なので、2つは異なる次元のようにも感じます。
そう!だから、実存主義は終わってはいません!これからも終わることはないと思います。人が自らの自由意志で行動する限り終わることはありません。実存主義者の生命が燃え尽きるまで終わらないのです!
そんな実存主義者の闘争を想像するとき、アラン・ムーア 原作の映画「V for Vendetta 」の一場面を想起します。
Vはイヴィーの前に屈み込み、肩に手を添えて言った。
彼らは君の両親を奪い、君の弟を奪った。
君を施設に押し込め、命以外の全てを奪った。
君はそれが全てだと信じていたね?
君に残されたものは命だけだと。
でも、そうではなかったね?
君はそれ以外のものを発見した。
あの独房で、君は命よりも大切なものを見つけた。
なぜなら、求めるものを渡さないのなら命を奪う、殺すと脅された時、
君はむしろ死んだほうがマシだと言ったのだ。
君は死と対決したんだ、イヴィー!
そして、イヴィーに啓示が訪れます・・・。(ウォシャウスキー兄弟 脚本「V for Vendetta 」より)
実存主義者の精神、それは、絶望の中で死に直面してもなお立ち向かってゆく自由意志そのものなのです。
さてさて、いつもながら支離滅裂な無茶苦茶なことを書いてしまいました。でも、この書くという行為によって、この記事は「実存は本質に先立つ」ことになったかもしれません(^^ゞ。