2007年3月18日

アルトメロウ展


アルトメロウ 」(white canvas )を鑑賞しました。

「“2番目の美”をテーマに掲げ独自のアート活動を模索する、materi、秋山しゅん、の二人展。まだまだ“1番”には遠い二人ですが、高みを目指すという意を込め、“2番”という数字を掲げました。」といった展覧会でした。

良い意味で未分化な作品に思いました。それは、美と静寂の2つの要素が未分化状態で表現されているように思いました。風景や素材の瞬間々々を捉えた作品に感じられ、それが美のみを捉えるのでなく、静寂・静止をも捉えた、美と静寂の両方が未分化な状態で提示された作品のように感じられました。そして、その静寂の方の奥には、詩的なモノ、未知な何かを感じます。

そもそも美とは何だろうと考えたりもしました。案外、自分の場合、欧米文化と日本文化の融合した文明社会の中で培われ身に付いた感覚かもしれないと考えたりもしました。一方、静寂が表わそうとしているのは、もっと深いプリミティブなもののように感じました。これらの作品が美一辺倒に突き進まずに、静寂というもう一つの感覚を含めたのは、どこか通常の美では捉え切れないものを世界に感じているからではないかと想像したりしました。

それにしても、その静寂の奥には何があるのか、そんな想像を巡らすとき、オクタビオ・パス の次のような言葉を想起します。

詩は人間を、その人間の外に置くが、同時に彼の根源的存在に回帰させる。
彼を彼自身に戻すのである。
人間は自らのイメージである彼自身でもあり、かつ他者でもある。
リズムであり、イメージでもある語句を通して、
人間-存在への永続的願望-は存在するのである。
詩は存在へ入ることである。

(オクタビオ・パス 詩論「弓と竪琴」より抜粋)

静寂の奥には、なにか根源的存在=始原を感じてしまいます。どこかネイティブ・アメリカンやアボリジニなどの先住民たちのプリミティブなアートを思い出しますし、始原はアボリジニ がいうところのドリームタイムやネイティブ・アメリカン のグレート・スピリットのようにも感じられます。

一方、そんな未開社会に思いを馳せるとき、グレーバー が指摘している政治人類学者クラストルの未開社会観を想起します。

アマゾンの人々が国家権力の初期段階的形態に
まったく気づいていないわけではなかったら?
彼らは、ある一定の男たちが、暴力の脅威に裏付けられて、
他の皆に対して有無を言わせず命令するようになったら
どうか気づいていないわけでなく、
そのためにこそ、そのようなことが起こらないように心掛けていたのではないか?

(デヴィッド・グレーバー「アナーキスト人類学のための断章 」より抜粋)

クラストルによると、国家の陥りやすい陥穽を避けるために、あえて国家形態を取らずにアナーキーな共同体としての部族を選択したと言っているようです。
(余談ですが、グレーバーの言葉は過激で辛辣です。

誰かがわれわれを売ったり貸したりする代わりに、
われわれが自分たちを貸し出しているのだ。
近代的資本主義は単に古い奴隷制の新しい姿である。

アメリカにおいて費やされる労働時間のほとんどが、
実質的にはアメリカ人の働き過ぎによって起こされている。
夜間のピザ配達人、犬の洗濯師、
夜間仕事で忙しいビジネスウーマンの子供たちの子守をする女性たちの
子供たちのために夜間保育所を運営する女性たち。

上から下に向けてなされる組織化に不可避的に随伴する、
終わりなき侮辱とサドマゾ的なゲーム。

(同上)
ちょっと極端過ぎ・偏見な気もしますが、面白くはあります。)

未開人たちは、一見、全く財産を持たない最も貧しい労働者階級のように見えますが、実は大きく違って、自給自足できる独立した気高い精神性を持つ人たちのように考えられます(クラストル「暴力の考古学 」)。(ただし、文明社会で文明人として生きる未開人の貧困問題はあるようです。)むしろ、レヴィ=ストロース がインド文明に見たような、文明が堕してしまう階級差別には陥らない、みんなが尊厳を持った気高い生き方とも捉えられるような気がします。ただし、文明がもたらした多くの成果も否定はできないとも思います。

そんな文明と野生の共存に想いを馳せるとき、現在も命懸けで闘っているサパティスタ民族解放軍 の次のような言葉に見られる試みに可能性を見出したりもします。

多様な世界が入る世界、そのための幾何学

あるいは

これが抵抗に関するひとつのモデルである。
しかし、このモデルについてあまり気に止めることはない。
抵抗のモデルはいくらでもあり、世界としてのモデルも世界にはいくらでもある。
だから、あなたの一番お気にいりのモデルを描けばよい。
モデルにおいては、抵抗におけると同様に、多様性こそが豊かさである。

(反乱副司令官マルコス「世界のジグソーパズルの七つのピース 」より抜粋)

さらに、メキシコの先住民社会には、サパティスタ以外にもサパティスタとは異なる方法で理想を目指す先住民社会もあるようです。確かに、世界はインターネットによって多様なシステムが可能な世界になってきているようにも感じます。(ただ、グローバリゼーションも刻々と変化して改善しているような気もします。ただ、先住民はもっと根本的に異なる理想を持っているようです。)

一方、世界の他地域を考えると、イランなどは全体主義の陥穽に落ち込む可能性はあるだろうし(「テヘランでロリータを読む 」)、ベネズエラのチャベス政権 にも同様の可能性が感じられます。それこそ未開人が拒否した国家の陥穽に感じられます。

また、一方、グローバリゼーションで世界は、映画「CODE46 」のような都市国家ネットワークになるのかもしれません。そして、都市機能は大脳化してリアリティが見えなくなり、人間が動物化・家畜化することを、東浩紀 などは指摘しているようにも思います。それは野生とは程遠いように感じられます。

ただ、サパティスタが反対する新自由主義 とは何なのか。何が失われようとしているのか。それが何なのか、自分には正確に理解できていないかもしれません。そんなとき、次のような言葉を思い出します。

それは失ってはいけない。
また、奪われてもいけない。

(「V for Vendetta 」より 女囚ヴァレリーの言葉)

憶測ですが、経済的なことだけでなく、奥深くには、そういった大切なモノがあるように思います。知らず知らずのうちに大切なモノを捨ててしまっているかもしれない中、彼らにはそれが何かがはっきり見えているのかもしれません。このメキシコ先住民の闘争がどこに逢着するのか、とても興味深いです。

それにしても、彼らが選択した生き方の深い深い根源にあるものは何なんでしょうか。
そんなことを考えるとき、次のようなアボリジニの言葉が思い出されます。

白人社会で育ったアボリジニのブライアンは、自分がアボリジニであることを恥じていて、
それを察した彼の祖母は次のように言います。

白人たちが、アボリジニのことをあしざまに言うのは、
アボリジニが農民でも、建築屋でも、商人でも、兵士でもないからなのさ。
アボリジニってのは、それとは別者なんだ。
踊り手で、狩人で、放浪者で、神秘家なのさ。
だから白人は、わたしらのことを無知だとか怠け者だとか言うんだよ。
ブライアンや、おまえにもそのうちきっと、
わしらアボリジニの美しさと力が分かるじゃろうよ。

(ロバート・ローラー「アボリジニの世界 」より抜粋)

短い言葉の中にも多くのことが語られているように思います。アボリジニが文明社会に触れてもなおアボリジニの生き方に誇りを持つのは、文明人の価値感が全く転倒してしまう程の、文明以上の想像を遥かに越えた素晴らしい、力強い何かがあるのだと思います。
(ただし、現代のアボリジニ社会が抱える問題(麻薬・アルコール・ギャングなど)はおそろしく深刻なようです…。)

さてさて、そんな妄想から目覚めたとき、目の前のこの未分化な作品たちが、小さな萌芽のように感じられました。