2007年3月19日

国立民族学博物館


国立民族学博物館 を鑑賞しました。

大阪モノレールの万博記念公園駅を出ると、左手に鬱蒼とした森の中からニョッキリと突き出した太陽の塔 が見えました。そして、お腹の怒った顔がこちらを睨みつけていました。まるで、科学技術で勝ち誇った傲慢な文明社会に対する大地の怒りのように感じられました…。

さて、国立民族博物館では、世界の諸民族の様々な標本資料を鑑賞することができました。常設展では、オセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、そして、日本というように世界一周旅行のようにして各地域の資料を鑑賞することができました。また、特別展の「聖地巡礼-自分探しの旅へ-」も鑑賞できました。スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラ の巡礼を追ったドキュメンタリーでした。日本には四国遍路 があるので、聖地巡礼はとても親しみやすいものでした。その他にも、恐山 のイタコ やジプシー の黒マリア の映像もあって、とても興味深かったです。全体的に、本当にたくさん見るところがあって、1日ではとても時間が足りないくらいでした。

今回、ネイティブ・アメリカンに興味があって見に行ってみました。ネイティブ・アメリカン関連の資料としては、ホピ族 のものがありました。他にも、マヤ文明 やアボリジニ やアイヌ の資料を間近に見ることができました。また、オセアニアの仮面やアフリカの彫刻もとても興味深いものでした。来場していた若者たちが細かなスケッチをしたり、写真を取ったりと、とても勉強熱心に鑑賞していました。

ネイティブに興味があるのですが、ネイティブといってもただ単に先住していたという意味では考えていなくて、また、世界には多種多様なタイプがあるので一概に捉えることもできないとも思います。ただ、文明の嵐にさらされ続けてきたネイティブの中には、これからの人類にとって、とても大切なものを持っているものがあるように思えるのです。

たとえば、ネイティブ・アメリカン の生き方から、多くの大切なことを学ぶことができます。ネイティブの思想は、様々な局面で円環の思想を形成しています。人生や人間関係や自然との関係など多くの面で円環思想を形成しています。単純化すると、”自分の行為は自分に返ってくる”という円環的な因果律といえるかもしれません。そして、その中心には、グレート・スピリットが深く関わっています。エリアーデ などのシャーマニズム 研究を見ると、ネイティブ・アメリカンに限らず、世界中のネイティブの中に同じような精霊を見つけることができます。精霊は理知では捉えられないもののようですが、神秘的な感覚では捉えられる、とてもリアルな存在のようです。

また、ネイティブの世界観では、あえて分別すると世界は可知と不可知で捉えられ、さらに可知は既知と未知に分けられるようです。人間の知性は精霊を含む全ての世界を完全には捉えられないという世界観を持っているようです。そして、そんな世界の中にネイティブは生きていて歓びを見出します。(*1)

私は大いなる海を浮き漂うもの。
大いなる川の藻草のように流れになびく。
大地と大いなる雨風に揺さぶられ、運び去られ、
なおも私の心は歓びにうち震える。

(ユーバブヌック(イグルーリック族)1920年頃 「俺の心は大地とひとつだ 」より抜粋)

そして、この不可知や未知を持つ世界観からネイティブ・アメリカンは、狩人精神に基づく謹厳な行動規範で生きるようです。世界は知性では計り知れないからこそ、世界に対して優しく丁寧に、大胆かつ繊細に触れて、自らは謹厳に生きるのだと思います。特徴的なのが、愚かさを笑うユーモアです。人間はしばしば物事をすべて知性で捉えられると傲慢に考えてしまいがちです。そんな愚かさをユーモアのある語り口で戒める物語が数多く伝えられているようです。人間は自らの愚かさを忘れて愚かさに陥りやすいので、それを思い出すためにその種の物語が多いようです。(*2)

二人は湖の岸辺の大きな岩の上に腰をおろしている。
そこへ雨が降りはじめた。
「なあ、兄弟、濡れないうちに早く家に帰ろう」
亀のヘヨカは兄弟に声をかけた。
「ああ、それがいい、そうしよう。おいらも雨はたまらん」
蛙のヘヨカが応える。
それから仲良く一緒に湖に飛び込んだ。
ボチャンと。

北山耕平 「ネイティブ・マインド 」から「史上最短の物語」より抜粋)

また、狩猟採集社会によく見られる、贈与経済という物に執着しない経済を実践していたようです。未開社会では、必要なものは社会内の交換に頼らずに、自分たちで自然から調達します。同じ部族内では物をみんなで分与・共有したようです。また、物を貯めこんで蓄財することもできなかったようです。他にもクラ交易 やポトラッチのようなタイプの贈与経済があったのではないでしょうか。ラコタ族 では他者の持ち物を褒めると、褒めた人にその持ち物を(たとえ、それがどんなに必要なものであっても)贈り与える習慣のようです。このように、狩猟採集社会では、経済は交換ではなく贈与がほとんどだったのではないでしょうか。交換経済が原則の現代の文明社会からは想像できない社会に生きていたように感じられます。彼らは物に執着せずに物質よりも精神の豊かさを重要と考え、実践していたとも言えると思います。文明人よりも豊かな精神を持っていたのではないかと思います。(*3)

人生で大切なのは、実は、なんでもないようなことなのだ。
僕らは幸せを求めすぎて、かえって人生を複雑なものにしてしまっている。
一生懸命に求めすぎてしまうのだ。だがそれは、実はすぐ傍にあって、
ときには子どもが元気よく出入りするティーピーだったり、
シチューができるのを待っている犬だったり、
温泉につかることだったり、家族の触れ合いだったりする。
そう、幸せとは、そんななんでもないことの中にあるものなのだ。

(ビクター・ガブリエル「英語がわからない犬たち」「風のささやきを聴け 」より抜粋)

さらに、ネイティブ・アメリカンでは、ヴィジョン・クエスト(=幻視探求)という成年儀礼を経ることで、一人前の大人になるようです。それは、自らの死を射程に入れた人生の全体性を獲得するための試練のようです。ヴィジョン・クエストはネイティブたちにとっても困難な試練らしく、ヴィジョン(=霊夢)をなかなか得られない者もいるようです。それは魂に精霊の刻印を刻むような決定的で強烈なヴィジョンのようです。

そうして得られたヴィジョンに生涯支えられるようにして、家族を形成して子孫を残し、死を迎えるようです。彼らは最後の日まで、祈りや瞑想などですっかり自分を整理し内的沈黙を蓄えて、人生の最後・完成を迎えるようです。ネイティブ・アメリカンの老人たちの写真を見ると、沈黙が蓄積された彼らの心の中には、青空や宇宙が無限に広がっているように感じられます。そして、文明人が漠然と向かえる死ではなく、物理的なまでの、人生の完成としての死を彼らは獲得しているようにさえ思えます。(*4)

クラウフットの死の間際に、看病してきた娘は「人生って、何なんでしょうね?」と尋ねた。
すると、クラウフットはしばらく考えていたが、やがて老いた目を思い出に輝かせ、
かすかに微笑みながら、娘のほうを向いて言った。

人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
冬の寒さに浮かぶバッファローの白い息
草原を横切り、夕日の中に消えていく小さな影。

(ブラックフット族クラウフット「人生とは?」 「風のささやきを聴け 」より抜粋)

さて、数万年前、ネイティブたちはベーリング海峡を通ってアメリカに渡ったり、南下してオーストラリアに渡ったりしました。それは、狩猟民族たちが国家を形成する文明社会を拒絶して離れるためだったようにイメージしたりします。文明社会は階級を形成したり、自然を見えなくしたりして、人間の精神を貶めてはいないでしょうか。狩猟民族たちは直感的にそれを感じて嫌ったのではないか、そして、狩人の生き方こそが高い精神性を持った生き方だと考えたのではないか、そんなように思ったりもします。そして、日本はそういう環太平洋のネイティブ・モンゴロイドの一部ではないかと考えたりもします。今、グローバリズムによってますますエコノミックアニマル化・文明化する日本人の精神風土ですが、真剣にネイティブな生き方に学ぶべきときではないか、そんなように考えたりします。そんなことを考えるとき、国立民族学博物館の標本たちが精霊を宿して生命を持ったように、生き生きと輝き始めるのを感じます。(*5)

*1 ネイティブの世界観を次図のようにイメージしたりします。 
あるいは、次図のような島宇宙の世界観もイメージしたりします。
”自分の行為は自分に返ってくる”という円環思想を次図のようにイメージしたりします。


また、自然と人間の関係は、人間が自然から貰うばかりの贈与関係をイメージします。
(逆に、ここから贈与概念が生まれてくるような気がします。)


*2 狩人精神は東西南北の四方位になぞらえられるような構造を持っています。

*3 交換と贈与は次図のようなイメージです。


贈与経済で得られる豊かさは無形のために、交換経済のように物に限定されていないので、
多様性に富んでいるともいえるかもしれません。

*4 彼らの人格からは、金剛曼荼羅のような、中心のない非線形的思考を感じます。一方、
文明人は、自我を中心として発出するような胎蔵曼荼羅のような線形的思考に感じられます。


あるいは、不純な夾雑物のないクリアーな心の輪(=メディスン・ホイール)を感じます。
祈りや瞑想でメモリ空間が清掃されて、深層意識に沈黙が蓄積される様を次図のようにイメージします。


大乗起信論 では、アラヤ識 と意識の連続体を次図のように捉えるようにイメージしたりします。


*5 ネイティブ・ロードは次図のようにイメージします。


*6 レヴィ=ストロース の次のような言葉から、彼もネイティブから思想的に多大な影響を受けたように感じら
れます。

私というものは、何かが起こる場所のように私自身には思えますが、
『私が』どうするとか『私を』こうするとかいうことはありません。
私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。

(レヴィ=ストロース「神話と意味」より抜粋)

私がここで示したいと思うのは、人間が神話のなかでいかに思考するかではなく、
神話が人間の中で、人間に知られることなく、いかに思考するかである。

(レヴィ=ストロース「神話論理」より抜粋)

*7 ネイティブ・アメリカンのシャーマニズムは極めて高度な精神体系を持っているように思います。
そして、その中には東洋哲学をも凌駕する叡智を持っている呪術さえあるように思います…。