2007年8月7日

クロスロード -共鳴する美術-


 
岡山ゆかりの40代の作家である森山和己と山本麻友香の作品群と、同じく岡山ゆかりの20代・30代の作家である島村敏明、藤井弘、森美樹、国光裕之、佐藤朋子、灰原愛、永岡かずみ、真重涼香、松本弘+越宗泰昭の作品が展示された展覧会でした。
 
森山氏の作品は、日本画とは気付かないような、日本画には珍しい作品でした。ボカシやにじみで自然の風景が描かれていて、まるで洋画のようでした。油絵のようなベタ付き感もなく、日本画のような不自然なくっきり感もない、ある意味、自然を自然のままに捉えたような作品でした。「水の記憶」などはそういった技法がよく生かされた作品でした。
 
山本氏の作品は、聖なる少年を描いた作品に思いました。性に目覚める前の少年は、野山を駆け回り、友達とじゃれ合ったりするだけの、ただ夢中に遊ぶだけの存在であるように思います。女の子もそうなのかもしれませんが、よく分かりません。逆に女の子はそんな遊びに夢中な少年に聖性を見出すような気もします。(もっとも、当の男の子は、一日中遊び呆けるただの阿呆だったように思います。大人になった今も阿呆さ加減は本質的に変わらないような気もしますが…。)とにかく、聖画でよく描かれる子供の天使のような聖性がこの作品には宿っているように感じます。
 
藤井氏の作品は汚染された自然を取り上げていました。ウラン残土があったようですが、正直なところ、あまり近づきたくありませんでした。うじゃうじゃっとした苔(or珊瑚?)の写真が縄文的で良かったです。苔の生命が作り出したそのフォルムに、生命力のうねりを感じました。
 
島村氏の作品は「雨 rain」でした。雨によって浮かび上がる無限遠点のような風景の雰囲気がよく出ていました。以前、奈義町現代美術館でのまとまった展覧会を知っているので、もう少したくさん展示して欲しかったです。森氏の作品は苔のような、あるいは、他の惑星の岩石のような、グリーンの作品でした。重量感と不思議な煌きを持った作品でした。
 
国光氏の作品は月を素材にしたビデオアートでした。私は、月というよりは卵子や受精卵を想像しました。卵子とその波動でゆらめく磁性体のゆらぎのように感じました。先程の藤井氏の苔と同じような、生命力のバイブレーションを感じました。
 
灰原氏の彫刻は、アニメがそのまま彫刻になったような作品でした。見ていて、とても清々しい気持ちになりました。永岡氏の彫刻は、舟越桂の作品に似ているような気もしますが、それとは違う要素が含まれているように思います。SF的というか、宇宙的というか…。まっすぐ前を見る静かな眼差し、凛とした姿が未来的で美しかったです。
 
松本氏+越宗氏の作品は、ひとつは天国のオルゴールのような綺麗な回路をイメージしました。あるいは、特撮ヒーロー「人造人間キカイダー」の良心回路をアートで表現するとこのようなものかもしれないと思いました。もうひとつはテルミンを使ったサウンドアートとのことでしたが、残念ながら調整中のようで聞けませんでした。最初、スタッフの女性が彫刻の周りで手をかざし続けているので、作者による手直しかと思ったのですが、作品には触れずに手をかざし続けているので、気を送るパフォーマンスアートか!?と思ってしまいました。横のスタッフの方の説明を聞いて調整中ということが分かりました。そのスタッフの方が、本当でしたらテルミン特有の「ピヨヨヨヨヨ~ン」という音が出るんですよと茶目っ気たっぷりに口真似してくれたときは、とても気持ち良く笑えました。
 
全体的に、とても充実した展覧会でした。そして、岡山の若手作家がこんなにも充実していたのは正直なところ意外で、本当に驚きました。次回が大いに楽しみになりました。

2007年8月6日

ピカソ展


「ピカソ展」(岡山県立美術館) を鑑賞しました。

ルートヴィッヒ美術館所蔵のピカソ作品約100点とロベルト・オテロにおる写真約30点を展示した展覧会でした。ミノタウロスのスケッチが多くあったり、版画や陶芸など普段あまり知られていないピカソ作品も見られたりしてとても充実した展覧会でした。また、ピカソのキュビズムな絵画技法が生まれ出てくるプロセスを感じ取れる展覧会でもありました。

それにしても、やはりピカソは女の秘密を覗き込もうとした画家だと思いました。ミノタウロスはまさにそういった女の秘密を覗き込もうとする男の性的欲動を表わした象徴だと感じます。そして、ミノタウロスが欲動して凝視する先にあるのは、深遠でエロティックな女の性があります。そこには、女性のふくよかな丸い肉体、胸部や腹部や臀部の脂肪や水分をたっぷり持った肉塊、世界の裂け目のような押し広げられたヴァギナなど、女の肉体の持つ性的に強大な自然力・生命力が描かれていました。また、写真の中のピカソの瞳は、年老いることを知らない真実を覗き込もうと輝いているように感じました。
 
一方、60歳を過ぎて始めた陶芸もユニークな作品が多くて感心しました。もう少し力強さを持つと岡本太郎と似てくるようにも思いました。プリミティブに行ききらず、その一歩手前で止めるように感じました。

それにしても、ピカソはフロイトの精神分析学によって解析されるべきなのかもしれないと思いました。心の中で生き生きと欲動する性の力が、当時のピカソやフロイトには、うねるマグマや生々しく蠢く蛇のように感じられたのかもしれません。(インドで、性力(=シャクティ)を蛇として描くのが分かるような気がします。)そして、性が自然な発現としてあった野生や古代と比べて、近代は新たなエロティシズムが始まったのかもしれないと思いました。意外と現代のエロティシズムは歴史が浅いものかもしれず、自分で考えているほど自然なものではないのかもしれません。ただ、人間に自然な性など存在するのかどうかも分かりませんが…。あるいは、もしかすると、極端な話、古代精神が持っていた「魂振り」の感覚を失ったかわりに、近代精神は「近代的な性的興奮」を手に入れたのかもしれないとも思ったりします。(もちろん、ネガティブな意味ですが…。)

とにもかくにも、ピカソの作品を覗き込むとその奥底には、性的欲動の化身である、群がる蛇たちの蠢く蛇腹が見えてくるような、そんな気がします。

2007年8月5日

ナンセンス=マシーンズ展

「明和電機 ナンセンス=マシーンズ展2007」 (岡山市デジタルミュージアム )を鑑賞しました。

展示は3つのシリーズで構成されていました。

1番目は「魚器(NAKI)」シリーズです。「魚器」と書いて「ナキ」と読むようです。このシリーズは、「自分とは何か」を問いかけて、自分と世界を魚と魚の住む海に見立てて、アルファベット26文字に対応して表現したものだそうです。魚の骨が主なイメージになっています。これらの作品を見ていたら、昔の日本の食卓風景を思い出します。漫画「ど根性ガエル」の主人公ヒロシ君がよく言っていたセリフ「母ちゃん、また、メザシかよ!」というのが思い出されました。ちょっと前まで日本の食卓には肉よりは魚が主に出ていたのではないかと思ったりしました。畳の上のちゃぶ台でご飯と魚で家族が食卓を囲むというのが一般的だったように思ったりしました。何にでも醤油をかけて食べたりしてたように思います。そして、魚の骨とマシーンを結びつけるところは日本的だなと思いました。魚を食べ進むと、次第に身がなくなって流線型の魚の骨のフォルムが浮かび上がってきます。尾頭付きだと死んだ魚の頭と身体の骨のコントラストによって、死のイメージとして浮かび上がってくるように思います。その姿はちょっとトホホな感じもありますが…。食べ終わったら、手を合わせてごちそうさまでしたと、何となく魚の死体に拝むような心持ちがします。また、ロボットは昆虫的なデザインがマッチするように感じていましたが、魚の骨で表現するのは世界でも明和電機くらいではないかなと思いました。ロボットなのに、どこか石器時代をイメージしてしまいます。それから、笑いだけでなく、ちょっと残酷な発想の作品もありました。偶然で魚が死んでしまうといったような仕掛けです。ですので、なんとなく死との結びつきを感じる、不思議なアートです。

2番目は「ツクバ(TSUKUBA)」シリーズです。機械仕掛けの楽器です。発想としては、スチームパンクのようなもう一つの別の科学の表現に思いました。大仰な仕掛けのわりには、他愛の無い、可愛らしい音を出すような楽器になっていたりします。また、ライブ映像も見られます。ライブは、ロボットダンスではないのですが、全体的な雰囲気としてロボットダンスな作りになっているように感じます。理系的といいますか、工学系といいますか…。音をパソコンの中だけで完結して作ってしまうことに対抗して、機械が唯物論的に作り出す音を目指した、物いじりの好きな工作屋、物いじりによって物を実感する工作屋が作り出したアートです。

3番目は「エーデルワイス(EDELWIEISS)」プログラムです。これは若い男女の性をテーマにしていて、明和電機としては異色な作品だと思います。理系的な内向的な男の子と強い欲望を持つ女の子との破滅的な世界をSFファンタジーに描いています。恋愛に不器用なために生じる悲劇か、あるいは、もっと根本的に男女の相違によって生じる悲劇かもしれません。また、作風が腐女子系な感じです。中年になってしまった自分からは、作品の中には、ちょっと距離を感じるところもありましたが、若者には共感するところも多い作品なのかもしれません。

全体的には、明和電機 は中小企業の電機メーカーという戦後の高度経済成長を支えた日本の象徴的な存在の表現だと思います。大企業の下請けで苦労したり、資金のやりくりで社長さんが走り回ったりといった中小企業のひとつのイメージだったと思います。(実際、明和電機は先代で一度倒産しているようです。)そういった日本的イメージのアート表現として、明和電機は意義のある表現だと思います。そして、そういった中小企業の活力ある楽しさ、モノづくりの楽しさを遊び心満点で伝える楽しい表現だと思います。