2009年10月25日

映画『愛を読むひと』について


小説『朗読者』を映画化したスティーヴン・ダルドリー監督の映画『愛を読むひと』について少し書いておきます。この記事では、監督のスティーヴン・ダルドリーとハンナを演じた女優ケイト・ウィンスレットでは、この物語の解釈が異なっていることについてお話ししようと思います。

■ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットの物語の見方の相違
驚いたことに、この映画では、ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットでは、物語の解釈、特にハンナの人物像が違っています。二人の違いは、簡単に言ってしまえば、マイケルを中心に物語を見る見方とハンナを中心に物語を見る見方の違いだと思います。ダルドリー監督は前者であり、主題を愛と罪と恥と捉えていると思います。そのなかでも、特に恥の部分を大きなポイントに据えていると思います。一方、ウィンスレットは後者に近く、ハンナという特異な人物をとても深いところで理解したうえで、この物語を愛と罪のラヴストーリーだと捉えていると思います。
ウィンスレットはインタビューの中で次のように述べています。

最初のころに気付いたことは、ハンナを理解することが不可欠だということだった。
必ずしも彼女を好きになる必要も、共感する必要もないと思ったわ。(*1)
でも、彼女を理解しなくてはならなかった。それにとても強く感じたのは、
わたしが思う彼女を、ほかの誰とも共有したくないということだったの。
みんながハンナ・シュミッツに対する意見を持っている。
彼女は意見を呼び起こすキャラクターだわ。
小説の読者も、この映画のスタッフも、脚本家も、監督も、
全員がハンナに対して違う意見を持っている。
でもわたしの意見は、人と食い違うことが多かったの。
だから胸の内に収めておく必要があった。いつもとは違う体験だったわ。
普段は話し合って、みんなと共有し、協力し合う方が好きなの。
だから彼女を演じるのは、ある意味孤独な作業だった。
人と距離を置かなくてはならなかったから。

ポイントは後半の発言なのですが、ウィンスレットにしては極めて珍しいのですが、自分の演じるキャラクターの人物像を監督や他のスタッフたちと共有していません(*2)。こういうのは下手をすると映画が失敗作になりかねません。そんなことはベテラン女優であるウィンスレットは百も承知で十分すぎるほど分かっていたはずだと思います。ですが、それにも関わらず、彼女はそうはしなかった。なぜでしょうか?おそらく、ウィンスレットは自分の考えるハンナ像にゆるぎない確信があったのだと思います。

それでは、ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットの物語の見方をそれぞれ順番に見てゆきましょう。

■スティーヴン・ダルドリー監督の見方
ダルドリー監督は、この物語の三大要素を愛と罪と恥と捉え、特に、恥を主眼にこの物語を捉えていると思います。ダルドリー監督は、まず、ハンナという女性を、自分が文盲であることを恥ずかしさゆえに明かせず、結局、文盲によってモラルなどへの理解不足を招き、無知ゆえの罪を犯してしまい、ひいては彼女を不幸な人生に追いやったと考えていると思います。つまり、逆に言えば、恥を克服さえしていれば、文盲も克服できたであろうし、不幸な人生を送ることもなかったのではないかと考えていると思います。次の監督の発言はそれを裏付けていると思います。

興味深いのは、ハンナが、アウシュビッツで自分がした行為よりも
非識字者であることを恥じている点だと思う。
つまり、2つのレベルの非識字があるわけだ。
1つは文字通り字が読めないこと、もう1つはモラルへの理解だ。
この2つは、この映画の全編を通してのテーマとも言えるね。

ハンナは文字が読めないために、単に文字が読めないというだけでなく、モラルへの理解も欠けてしまった。そのため、本来ならハンナはアウシュビッツで犯した罪を一番に恥じるべきなのに、そうではなくて、文字が読めないことを一番に恥じるという間違いを犯しているというのです。

一方、マイケルも、ハンナとの男女関係を羞恥心から他人に明かすことができず、結局、ハンナの文盲を裁判で知らしめることができなかった。また、ナチに加担した罪びとを愛してしまったということも、恥じると同時に愛しているというアンビバレンツな精神状態に陥り、彼のトラウマになってしまったと考えているのかもしれません。次の監督の発言はそれを裏付けていると思います。

戦後育ちのドイツ人の世代は、ある時点までは何も知らされなかったのに、
成長してから、両親や先生、医師や牧師たちまでもが虐殺に関わっていた
という現実に直面する。
その時に、その人たちへの愛をどうするかということ。
それがこの映画のテーマなんだ。
・・・・・・
マイケルの場合も、一生がある程度まで台無しになってしまう。
自分が愛した相手が、何かの犯罪にかかわっていたと知ったとき、
その相手に対する愛の価値は損なわれるのか。
だからこれは、本質的にはハンナの物語ではなく、マイケルの物語なのです。

ゆえに、この映画では”恥の克服”が大きなテーマになっていると思います。映画のラストシーンにそれが一番よく表れていると思います。映画の一番最後でマイケルは、意を決して自分の娘にハンナとの男女関係を含めた過去を話しはじめます。自分の過去の女性関係を自分の娘に話すという極めて特異な行為で締めくくっているのです。ラストシーンで車から降りたときのレイフ・ファインズ演じるマイケルの緊張した真剣な表情から、恥を克服しようとする決死の覚悟が窺えます。つまり、原作にはない、この映画のラストシーンの監督の意図は、羞恥心の克服だと思います。

結局、ダルドリー監督はマイケルを主眼にして、この物語を見ています。マイケルはハンナとの関係を恥じてか、あるいは、ハンナが文盲を隠していることを尊重してかの理由で、裁判でハンナが文盲であることを言えなかった。そして、結果的にそれがハンナを終身刑にしてしまい、さらに、ナチの罪びとをを愛してしまった葛藤にもなり、彼はトラウマを負ってしまう。結局、ハンナは恥を克服できなかったけれども、マイケルはハンナと関係したという恥を克服して、彼は自分の娘にハンナとの関係を告白して、恥を克服して映画は終わるのだと思います。(告白を重視するのはキリスト教的かもしれません。)

しかし、それではあまりにもハンナという人物を軽視した見方ではないでしょうか?

■ウィンスレットの見方
一方、ウィンスレットは、インタビューで、ハンナという難しい役柄をどうのように演じたのかと聞かれて、次のように前置きしました。

ハンナを演じるのはとても複雑だった。
常に、ほかの人が彼女をどう思っているのか、考えていなくてはならなかったから。
それに彼らの意見と私の意見はしょっちゅう食い違う。
ハンナのような繊細なバランスを必要とする女性を演じるには、
直感に問いかけるというとても危険な賭けが必要になる。(*3)
自分が思う人物像から離れないことが大事なの。
だからスティーヴン・ダルドリー監督とさえ、意見が食い違うことがあったわ。
これは傑作ドイツ文学だから、誰もがハンナ・シュミッツについて違う意見をもっている。
しかも読者の意見はすでに確立しているの。
だから私は自分の耳を閉じておかなくてはいけなかったの。

そして、インタビュアーから「ウィンスレット演じるハンナが冷淡に見えた」と言われたのですが、そのことに答えて、ウィンスレットは次のように語っています。

まず、インタビュアーの意見に対して、

面白い見方ね。冷淡さは考えなかったわ。
あったとしても私の中での優先順位は最後ね。

と前置きして、そして、ハンナを演じるために、ウィンスレットが重視した点を次のように話します。

計り知れない空虚さを身に着けなくてはならない。
空虚と冷淡とは違うの。
空虚でも誰かを愛することはできる。

ウィンスレットのこの発言に私は、正直、驚きました。これはとても興味深い発言だと私は思いました。つまり、ウィンスレットにとって、ハンナは心に空虚さを抱えた女性なのです。空虚さといっても、虚しさや寂しさではないと思います。それは言葉にならない空(くう)の空間というべきでしょうか。私は以前の記事で書いた下図を思い出しました。


ここでいう空虚さとは、この図の非-言語領域にあたるのだと思います。言葉で形成される言語領域の人格ではなく、言葉では構成されていない、白い透明な空っぽの無の空間です。すなわち、非-言語的な空虚な空間です。

ウィンスレットが周囲からよく質問されることで「役選びはどのような観点で選んでいるのですか?」という質問があります。それに対して、ウィンスレットは、「直感で選ぶ」と答えるケースがとても多いです。もちろん、役を選んだ理由を色々と述べることもありますが、最終的には「直感で選んだ」と答えることが多いです。ウィンスレット自身、非常に直感的な女性だと思います。ですので、ウィンスレットのハンナの理解は、まさにウィンスレットの直感が直感して直感ならしめたのだと思います。ハンナの心の真空にウィンスレットの心の真空が共鳴したのだと思います。(*4)

ウィンスレットが実際にハンナをどのような人物だと捉えていたかを言葉で説明するのは難しいと思います。ウィンスレットはハンナについて次のようにコメントしています。

確かアメリカで、11月か12月頃だったと思うのだけど、
大きな丸テーブルを囲んでインタビューに答えていたら、
誰かが、とても重い質問をしてきたわ。
そのとき、インタビューの最中なのに、私は突然、感情的になってしまったの。
最悪だったわ。
でもそういうことが、続けて起こったの。
それは、ハンナが私の奥深くにまだ生きているからだと思った。
実際、彼女を自分の中に感じることもあるわ。
猛烈に彼女がかわいそうになるの。
彼女を許したり、いつも好きだったりするわけじゃない。
でも本当に、彼女がかわいそうになる。
でも、その理由を説明するのは難しいの。
私が彼女を身近に感じて演じてきた経験は、ほかの人たちとは共有できない。
とても個人的な経験なの。

ウィンスレットはこれまで他の映画でのインタビューでは自分が演じてきたキャラクターを割と客観的に語ってきていたと思います。もっと荒っぽくいえば、自分とはまったく違う赤の他人として、演じたキャラクターを突き放して語っていたと思います。自分との共通点や相違点を客観的に分析できていて話せていたと思います。演じた人物の良い点や悪い点を客観的に掴めていたと思います。(*5)ところが、ハンナに関しては少し事情が違うのではないかと思います。

確かに、多くの映画女優は、毎回、自分の出演した最新作は特別だと言って宣伝します。ですが、ウィンスレットは、その意味では、今まで比較的正直に答えています。毎回、「この役は最高に特別だった!この映画は私の最高傑作よ!」というような言い方はしていないと思います。確かに、この「愛を読むひと」はアカデミー賞作であるので、ウィンスレットにとって他の作品よりも特別な意味合いが強いのは確かです。ですが、それでも、ウィンスレットの場合は、アカデミー賞作だからという理由だけで、作品を特別扱いはしないだろうと思います。

前置きが長くなりましたが、そして、かなり穿った見方ではあるのですが、ウィンスレットの奥深くで、まだ、ハンナと同調する部分があるのではないかと思うのです。それこそまさに、非-言語領域の空間ではないかと思うのです。ウィンスレットとハンナは同じ階調・同じ周波数の非-言語領域の真空空間を共有しているんじゃないかと思うのです。ウィンスレットの中にハンナへの共鳴があると思うのです。しかし、それは言葉にはならない共鳴です。心に同じ類の空っぽの真空を抱えているといった感じだと思うのです。特にハンナの場合はかなり孤独な魂の持ち主です。ウィンスレットもハンナを演じるにあたっては、内面を同調させるために、かなり奥深くまでダイブしなければならなかったと思います。そして、だからこそ、ウィンスレットはハンナの行動の意味を言葉よりももっと深いところで理解して、ウィンスレットは心のとてもとても深いところでハンナに共感するのだと思います。

■私の見方
さて、私の見方ですが、前回までの記事「『朗読者』を読む」シリーズでおおよそ分かると思います。ですので、ダルドリー監督よりはウィンスレットの方に近いです。ただし、細かい点ではウィンスレットともずいぶん解釈が違ってくるとは思います。とはいえ、原作と映画は、それぞれ違った物語になるのはしかたがないことです。違った物語になっても、それはそれで豊かな内容の作品になれば良いだけのことです。

ただ、この映画で私が最も違和感を感じるのが、ハンナの自殺のシーンです。映画では、ハンナはマイケルの愛を失ったことに絶望して自殺したように描かれています。しかも、本を踏み台にしています。ハンナは決して本を軽んじる人ではないと思います。むしろ、文字が読めるようになったことを誇りにさえ思っているはずですから、本がまるで無駄だったかのように本を踏み台にするのはいくらなんでも違うのではないかと思います。まあ、監督なりの皮肉を描いているのかもしれませんが…。ともかく、私には、ハンナが失意のうちに死んだとは、どうしても思えないのです。ハンナはもっと毅然とした態度ですべてと決別したんだと思うのです…。

けれども、この映画のおかれた立場を考えると、ダルドリー監督があのようなラストシーンにせざるをえなかったのも理解できます。なぜなら、ハンナに達観して自殺されても困るからです。元ナチの看守に胸を張って死なれてはナチを肯定するように受け取られてしまいかねない、それはマズイと思うからです。ですから、元ナチのハンナにはみじめな気持ちで死んでもらわなければならなかったのだと思います。ですが、それは作品の趣旨に反すると私には思えるのです。それでは反ナチという別の全体主義が作品の解釈を歪めていると思うのです。とはいえ、ナチ問題を客観的に判断するには、社会はまだ時間が必要なんだと思います。そう、まだ、傷が癒えるには時間が必要なんだと思います。ただし、全体主義の危険性はいつの時代も人間につきまとうでしょうから、客観的に判断できる日がくるのかどうかは分かりませんが…。

最後に付け加えると、私はこの映画が原作の趣旨と違っていることを言ってきましたが、それは必ずしも、この映画がつまらない作品だと言っているわけではありません。ここまで述べてきたように、ハンナを演じたウィンスレットは実に深いレベルでハンナを見事に演じています。ウィンスレットのその演技を見るためだけでも、この映画を見る価値はあると思います。特に、原作にはない、この映画だけのオリジナルシーンは素晴らしい出来栄えだと思います。それは、ハンナとミヒャエルが自転車旅行のときに立ち寄る教会での場面です。ハンナが教会で讃美歌を聴いているとき、子供たちの清らかな歌声によってハンナの心は鎧を脱いで無防備な状態になります。そのとき、かつて燃え上がる教会に囚人たちを見殺しにしてしまったという罪の意識が無防備になった彼女の純粋な心に洪水のように押し寄せてきます。一方、マイケルはそんなこととは知らずに感極まっているハンナを見て最初は驚きますが、ハンナは単に清らかな讃美歌に感動しているのだと勘違いして、ハンナの聖母のような美しさに感激します。しかし、実際には、ハンナの心は逃げ場のない恐ろしいまでの罪悪感に苛まれて悲鳴を上げていたのでした。そのときのハンナの苦しみと怯えがウィンスレットの迫真の演技から痛切に伝わってきます。このときのウィンスレットの眼球や瞳孔が縮み上がったような目を見たとき、本当に心が押し潰されるギリギリの状態じゃないかという演技でした。こんなギリギリの心の位置にまで内面から迫れるウィンスレットの演技に本当に驚きました。芥川龍之介の小説「地獄変」で絵師良秀の渾身の屏風絵を見た横川の僧都が思わず膝を打って「出かしおった!」と感嘆の声を上げたように、私もウィンスレットの演技に圧倒されて、思わず声にならない声を漏らして、唸ってしまいました。ですので、是非、映画も観てみることをお奨めします。

というわけで、次回から「ケイト・ウィンスレット 人と作品」シリーズを掲載してゆこうと思います。

■ウィンスレットの出演作品を鑑賞するときの注意点
それから、ウィンスレットが出演している映画を鑑賞するときに次の2点を注意しなければならないと私は考えています。1つはウィンスレットの出演作品は一度見ただけでは理解するのが難しい作品が多いです。(←ただし、「タイタニック」や最近の出演作品は分かりやすいです。)もう1つは、衝撃的な演技や性的な表現も多いです。そのためか、一度見ただけでは作品の意味が分からないため評価が低かったり、衝撃的な性的表現に観客が嫌悪感を持ってしまい、それだけが強い印象となって頭に残るために作品を正しく吟味できずに評価が低くなったりすることが多いと思います。例えば、この『愛を読むひと』でもセックスシーンが多いので辟易してしまう観客が多かったのではないかと思います。(「言語」と対照的な愛情を確かめる非-言語的なコミュニケーションとして、「セックス」は重要な要素なのでセックスシーンは外せない場面だと私は思います。)

しかし、一度見ただけで分からないからといって諦めずに、作品が何を意味しているのかを何度か繰り返し見て考えてみることをお勧めします。そして、衝撃的な場面に目を背けない強靭なハートと、衝撃的な場面が出てきてもそれを受け止める事前の覚悟を持って映画を鑑賞して下さい。かなり大げさな言い方になってしまいました(笑)。念のためにお断りしておきますが、ホラー映画やサスペンスのような恐さではなくて、文芸映画的な衝撃ですので安心して下さい。

確かに映画の良さのひとつに分かりやすさがありますが、一度見ただけで分かってしまう映画は内容が浅薄になりがちです。内容の深い作品ほど一度見ただけでは分かりにくい映画になるのではないでしょうか。それは難解な本を時間をかけて読んだり、何年か後になって読み返したときにはじめて内容が理解できるようになったりするような読書の面白さに通じると思います。逆説的な言い方ですが、分からないものほど面白いのではないでしょうか。そんなわけでウィンスレットの映画は何回も観て楽しめると思います。

ウィンスレット映画に慣れるための入門編としては「日陰のふたり」が良いかもしれません。原作は英国の文豪ハーディの名作「日陰者ジュード」ですし、ウィンスレットが、丁度、うら若い乙女と大人の女性の両方の綺麗さを兼ね備えていた年齢の作品です。主人公はジュードという学者を志す石工の青年です。ウィンスレットが演じたのは彼の恋人のスー・ブライトヘッドという難しい性格の女性ですが、見事に演じています。というのもスーは両親の影響で結婚に対して複雑な感情を持っていて、恋愛に対して素直になれない、ちょっとねじれた性格の女性なのです。ですので、鑑賞後はスー(=ウィンスレット)に対して批判的なネガティブな感想を持つかもしれません。また、映画の中でキスシーンが何度か出てきますが、シチュエーションによってキスの意味が違うのですが、いずれの場面にもその情感が演技によく表れていて良い感じでした。物置の中での泣きながらのキスシーンはじーんと胸に沁みましたし、他のキスシーンでもかなり切なくなりました。また、出てくる子役の女の子が天使のようにとても可愛らしいです。私はこの子の笑顔を今でも覚えているくらいです。また、この映画の原題は「JUDE」で、俳優ジュード・ロウの名前の由来のひとつでもあります。ジュードのお母さんがこの小説に感銘を受けて、息子にジュードと名付けたそうです。なかなかお茶目なお母さんです。ちなみに、私自身、この作品のDVDを持っているので、時々、見返したりしています。音楽も耳に残る良い音楽ですし、映像の色合いも落ち着いた色合いで何回見てもドライアイになるようなことのない良い映画です。ただ、ウィンスレットの大胆なベッドシーンとかがあるので子供は見ない方が良いと思います。また、この作品はスーの性格さえつかんでいれば、他は特に難解さはなく、分かりやすいと思います。あ、それと当時の風潮で正式に結婚していない内縁のカップルは仕事がもらえないなど世間から冷たい目で見られるということも踏まえておけば大丈夫です。(それから、一応、物語の舞台は英国ですが、出てくる都市名は架空で、例えば、クライストミンスターはオックスフォードのことだと思います。)

一般に、ウィンスレットは「タイタニック」のイメージが強いですが、彼女の出演作を見比べてみると「タイタニック」が例外的な大作であって、それ以外の出演作はどちらかというとインディーズ的な映画、文芸作品が多いです。(最近は「ホリデイ」などポピュラーな軽い作品にも出演してますが…。「ホリデイ」は作品内容にハリウッドへのリスペクトがあったから出演したのではないかと私は思っています。)また、よく言われることですが、そういった個性的な映画が多いことから、彼女は出演作の選択が良いとよく言われます。うまく説明できませんが、普通は映画監督がバリエーション豊かな個性的な作品を作って一連の作品群になるのですが、ウィンスレットは女優でありながら、彼女の出演作のラインナップはとてもユニークなのものになっていると思います。もちろん、他の女優も自分のキャリアを考えて出演作を選択しているのですが、ウィンスレットの場合は映画の本来の面白さをよく分かっているんじゃないかという気がします。(←もちろん、出演作の全部が全部良い作品というわけではありませんが。)ともかく、女優としては、ちょっとユニークな存在だと思います。女優というよりは映画人といった方が良いかもしれません。ただ、映画監督の適正があるかどうかは微妙な気もしますが、やってやれなくはない人だとは思います。映画に対する情熱は女優の中でも飛び抜けていると思います。

■注釈
(*1)「ハンナに共感したり、好きになったりすることができない」というのは、ナチ時代にハンナが犯した罪があるからです。この点はこの映画を語るときに頻繁に出てくる問題です。つまり、ハンナに共感したり好感を持ってしまうことは、ハンナを許してしまうことになり、ひいてはナチの罪を軽くしてしまうことに繋がりかねないという懸念です。実際にハンナがどのような人物であったとしても、彼女の罪は許されるものではないでしょう。ここに、愛する人が許されない罪びとであったときの、どうすることもできない苦悶があります。これがミヒャエルが抱えた問題であり、観客がハンナを考えるときの難しさでもあります。ですので、この点はしつこいくらいに付きまとってくる問題ですが、かといってナチ問題に関わる大切な問題なので蔑ろにはできないという難しさがあります。そのため、この作品の関係者は発言を神経質なまでに慎重にしなければならないので大変です。

(*2)例えば、前作の「レボリューショナリー・ロード」では夫でもあるサム・メンデス監督とウィンスレット演じるエイプリルという人物像の設定で二人はちょっとしたもめごとをしています。監督と役者が集まって、それぞれ自分の演じる人物の人物像について固めてゆく話し合いの場で、ウィンスレットだけは自分の役の話し合いを飛ばされそうになったそうです。メンデス監督としては「ウィンスレットは妻だから特別に話さなくてもいいや」って思ったのでしょうね。そうしたら、ウィンスレットがそれに噛みついたそうで「自分にもちゃんとしてよ!」って声を荒げてプチ怒ったそうです(笑)。もっとも、撮影に入ってからは、撮影が終わって二人が自宅に帰ってからも、エイプリルの人物像についてずいぶん話し合われたそうです、ウルサイくらいに(笑)。本当はこの映画の仕事が始まる前に、二人は「家庭には仕事を持ち込まないようにしようね」と約束していたそうなのですが、ウィンスレットは夢中になって忘れないうちにと、自宅に帰るとすぐに「この場面の意味はどうなの?あの場面はこうすればどう?」と熱中して話し始めたらしいです。一方、メンデス監督は「まあまあ、落ち着いて。とりあえず、二人のお茶を淹れさせてくれ」って、仕事と家庭を完全に切り替えていたそうです。また、映画の中でサングラスをしたまま不機嫌なエイプリルを演じるシーンがあるのですが、「サングラスを取らせて!目で演じられるから!」ってウィンスレットが何度か頼んだらしいですが、メンデス監督からは「ダメ!絶対、ダ~メ!」ときつく断られたんだとか(笑)。まあ、映画は監督のものですからね。(そういう意味では私自身の映画選びは監督によって判断するのが普通だったのですが、唯一の例外として女優で映画を選ぶものとしてウィンスレットの出演作品があります。ウィンスレットを知るまでは女優を軽視していたのですが、大いに反省させられました。)

他にも映画初出演作「乙女の祈り」でも自分の演じる人物の残酷な行動がウィンスレットには理解できなくて、泣きながらピーター・ジャクソン監督に理由を聞いたんだとか、まあ、まだウィンスレットが10代の頃の可愛らしい話ですね。(とはいえ、この頃からすでにウィンスレットはプライベートで手巻きタバコをプカプカと吸ってたようです。この頃のウィンスレットは日本ではまだ未成年の年齢なのですが、当時の英国では16歳から吸って良かったらしい。)

ともかく、与えられた役をただ言われたままに演じるのではなく、役柄を自分で理解して、それを監督と共有した上で、ウィンスレットは演じています。彼女はインタビューの中で、

私も、大学を出ているわけではないし、古典文学もそんなに読んでいるわけではない。
だから、インテリ的な映画や芝居、文学には萎縮してしまいがちなの。
でもあえて、ちょっと待って。それってどういう意味?わからないわ、
って聞くことにしているの。
馬鹿に聞こえるんじゃないかってリスクを承知でね。
と答えて、

馬鹿に見えることも、裸になることも恥ずべきことではない。
俳優として恥ずかしいのは、役を演じきれないときだ。

と語っているそうでうす。

ところで、面白いのは、ウィンスレットは脚本に惚れ込むと監督に直接自分で電話して出演させて欲しいとオファーするそうです。「ライフ・オブ・デビット・ゲイル」でも何度も電話で自分の出演をオファーしたらしく、出演が決まるまで枕元に脚本をおいて「出たい、出たい」と思い続けたらしいです。もっとも、この映画自体はどちらかといえば不評だったのですが(笑)。ちなみに「タイタニック」も自分でジェームズ・キャメロン監督にオファーしたそうです。普通はエージェントがやることで女優が直接やることではありませんが、ウィンスレットは自分で出演依頼したいらしく、たとえ断られても、

What do you have to Lose?(ダメでもともとでしょ?)

と考えるんだとか。ただ、映画の製作が始まる前に脚本が女優に手元に来ること自体がまだまだ少ないらしいです。ウィンスレットの場合は「タイタニック」でネームバリューを得た女優だからこそ自分で役を選べるポジションにいられる面もあるので、彼女は特別なケースかもしれません。ともかく、映画女優にしては珍しく、彼女は本当の意味で脚本を重視する女優だと思います。

ちなみに、ウィンスレットの役選びについて話しているときに、夫のメンデス監督が面白いことを言っていて、監督いわく、「彼女は非常に複雑なキャラクターや映画を選びたがる傾向がある。実生活は何でもシンプルであることを好むのにね」と言っています。う~ん、それって家事などの日常生活が大ざっぱってことじゃあないのかしら(笑)。ただ、演じると決まった役については、ウィンスレットは徹底的なリサーチをするらしいです。

(*3)ウィンスレットもインタビューの中でたびたび直感という言葉を使います。彼女もまたハンナと同様に直感を重視する女性だと思います。ウィンスレットの直感については、次回以降の記事で触れるかもしれません。

(*4)ここで、かなり脱線して謎めいたことを言ってしまいますが、生命の進化の秘密も同様ではないかと思えるのです。生命が進化を意図することによって生命は実際に進化したのではないか。そして、意図はこの直感と深く関わっているように思えるのです。直感が直感ならしめるように、生命が進化を意図して進化ならしめるのです。とはいえ、そんなことを証明しようがありませんが…。

(*5)例えば、前作「レボリューショナリー・ロード」で演じたエイプリルなどはウィンスレットはけっこうクールに分析しています。インタビュアーが「エイプリルは女優になれたと思いますか?」という質問に対して、きっぱりと「無理ね。彼女には女優になる覚悟が欠けていた」とバッサリと断言しています。

(*6)余談ですが、ウィンスレットは「エキストラ!」という英国のコメディドラマに、自分自身の役で、つまり、女優ケイト・ウィンスレットという役でゲスト出演しているのですが、このドラマの中で「自分は4回もアカデミー賞にノミネートされてるのに、まだアカデミー賞を取れない!ナチ映画に出るのはアカデミー賞のためよ。障害者の映画に出るのもアカデミー賞を取るにはいい手ね!」というようなことを「シンドラーのリスト」や「マイ・レフト・フット」を引き合いに出して言っています(笑)。もちろん、本気でそう思っているわけではなくて、このドラマ自体が俳優のイメージを壊そうという趣旨なので、(ウィンスレットの場合は「タイタニック」のローズというイメージ)、イメージをぶち壊すような無茶苦茶な発言をさせられます。まあ、このドラマでは、それ以外の部分の、あまりに滑稽で卑猥な表現が驚きのメインになっています。(卑猥や下品がダメな方はこの作品は見ない方が良いと思います。)もう、バカ笑いするしかないというか、ウィンスレットによる、イメージの破壊があまりにも衝撃的過ぎて正直ビックリしました。「えっ!テレビでそんなことを言ってもいいの?」「ケイト、その手のしぐさは何?!」「ケイト、その顔だけはお願いだから止めて…」「夫メンデス監督のオスカー像をアレに喩えるなんて…」みたいな。ちなみに、ウィンスレットはこのドラマでエミー賞コメディ部門のゲスト女優賞にノミネートされました(笑)。しかし、それにしても、「普通、できないでしょう、あんなことは!」って感じです。もちろん、ここでは裸を露出するというわけではなくて、セリフや演技の面のことなんですけどね。でも、実のところ、このドラマを見て、私は「ケイトのファンを辞めようかな…」と少し悩んでしまいました(笑)。同じようなエロティックなコメディ映画「Romance&Cigarette」では、ベッドシーンなどのケイトのブロックバスターな演技に腹がよじれるほど笑い転げて、むしろ、ケイトの人間や役者としての奥行きの深さを感じたのですが、この「エキストラ!」のアホ面は、正直、私はショックでした(笑)。ウィンスレットの映画にはそれまでも何度も衝撃を受けて慣れていたつもりでしたが、なかなかどうして、やはり、彼女は侮れない女優、安心させてくれない女優で、彼女のファンであり続けるのは、なかなかタフであることを要求されます。

ところで、これとは違って、真面目なインタビューの中で、彼女は本当にアカデミー賞が欲しいということも言っているそうです。ノミネートされても受賞できなかったときには、ずいぶん、くやし涙を流したらしいです。先のコメディドラマなどこのような経緯があるので、この「愛を読むひと」でアカデミー賞にノミネートされたときには、特に評論家から厳しくナチ問題にも発言が求められたんじゃないかと思います。「もし、ナチ問題を軽視するようなことがあらば!」という厳しい目で。なので、この作品でのアカデミー賞ノミネートはけっこうプレッシャーがあったと思います。実際にアカデミー賞決定前のこの作品のお披露目のパーティでは、招待したユダヤ系作家が土壇場で欠席したそうです。ですので、アカデミー賞は少々波乱含みの要素もあったかもしれません。そんな状況でアカデミー賞主演女優賞を受賞できたのは本当に良かったです。