2009年10月18日

『朗読者』を読む その8


■補足
この記事では、小説『朗読者』および映画『愛を読むひと』について、気が付いたことを忘れないうちに幾つか補足として書き足してゆきます。ある程度にまとまったら、本文に加筆修正するかもしれませんし、あるいは、「やはり、そうではない」と思い直して削除するかもしれません。とにかく、これまでの読解では小説を最初から最後まで物語の流れに沿って順番に読み解いて行きましたが、ここでは全体を通して総合的に振り返ってみたときに浮かび上がってくる疑問や気付いたことや感想について書いておこうと思います。

■小説編
(1)疑問1「ハンナは看守だった素性を隠そうとしていたのでしょうか?」
ウィンスレットはインタビューの中でハンナを演じるにあたって、「無意識に素性を隠そうとしているから、街中を歩いているときでも自然とうつむき加減になる」と言っています。ウィンスレットはハンナが素性を隠していたと解釈したようです。しかし、果たして本当にそうでしょうか?私もこの小説を読み始めた当初は「ハンナは素性を隠しているのではないか?」と疑ったのですが、読み進むうちに「どうもそうじゃないんじゃないか?」と考えが変わってきました。以下、この疑問について考えてみます。

名前を聞かれたとき驚いたり、非番の日のハンナの行動をミヒャエルに話したがらなかったのは、看守の過去を知られたくないために素性を隠そうとしたハンナの行動の顕れでしょうか?

名前を聞かれて驚いたのは、素性を隠そうとしたからではないと思います。繰り返しになりますが、114ページの弁護士の証言通り、警察に引越の度に届出を出しているので素性を隠そうとしたわけではないと思います。では、なぜ名前を聞かれて驚いたのかというと、「その1」で述べたように真名の習慣のためだと思います。

また、非番の日に何をしていたかは分からない点が多いですが、ひとつは一人で映画を見に行っていた可能性があります。そのことをミヒャエルに話したがらないのが素性を隠していた理由になるでしょうか?ちょっと微妙ではないでしょうか。そもそも素性を隠したいのなら、不用意に人目の多い場所に外出はしないのではないでしょうか?それに考えてみれば、車掌という仕事は不特定多数の人々に見られるので、素性を隠すのには無理があるように思えます。(ただ、映画ではウィンスレット演じるハンナは、なるほど、伏せ目がちに目立たぬように車掌を務めてはいます。しかし、小説での市電事件のとき、運転手と快活に会話していたハンナを考えると、通常業務時にハンナが目立たぬように控えめな雰囲気で車掌を務めていたと考えるのは少し違和感を感じます。やはり、テキパキ、ハキハキと仕事をこなしていたんじゃないでしょうか。その方がハンナのはっきりした性格にも合致すると思いますし、だからこそ、ハンナの仕事に対する上司の評価も高くなって昇進の話もでてきたのではないでしょうか。また、看守時代もおそらく仕事に対しては几帳面に忠実にこなしていたのではないでしょうか。ただ、囚人たちを強制収容所に送るという内容に問題がありますが…。)

それから、ミヒャエルの話し振りからすると自転車旅行も、おそらくハンナは最初は行きたがらなかったようです。これも素性を隠すためでしょうか?(p63)これは、おそらく、ハンナが自転車旅行に行く前に落ち着きがなくなったのは、半分は旅行で文盲がばれるのを恐れたためだと思います。もう半分は旅行を楽しみにしたからだと思います。ですので、これも素性を隠すためではなく、文盲を隠すためではないでしょうか。

別の観点から考えると、そもそも裁判で告訴されるまでハンナに看守時代の罪について罪悪感はあったでしょうか?私が思うに、ハンナに罪悪感がまったく無かったわけではないが、裁判までは、罪悪感が芽生えてもはねのけていたと思います(p224)。元々、ハンナの性格は間違ったことは嫌いで何事も堂々としていたと思います。ただし、ハンナにとっては文盲だけがネックであり弱点であり、それだけは隠していたと思います。ともかく、ナチの看守だったことは社会生活を送る上でハンナは特に隠そうと努めなかったと思います。また逆に、看守だったことを努めて明かそうともしなかったと思います。ハンナが過去をミヒャエルに話したとき、軍隊にいたことをさらりと打ち明けています。もし隠そうとするなら軍隊にいたこと自体を隠すのではないでしょうか。また進んで明かそうとするなら、そのとき看守だったことも話すでしょう。確かにハンナにとっては看守の仕事は不本意だったとは思いますから、進んで話したい過去ではなかったでしょうし、実際、戦争犯罪で取り締まられるナチスの人間もいたでしょうけれど、逆に隠さなければならないほどハンナにとっては重要でもなく、また、自分に非があるとも当時のハンナは考えていなかったのではないでしょうか?

以上のように考えると、結論としては、ハンナが素性を隠そうとしたとは考えにくいのではないでしょうか。

ところで、ちょっと脱線ですが、ちなみに、当時の人々がナチスドイツに加担したことについて「当時はみんながそうだったから、当時は悪いことではなく、自分はみんなに従っただけで悪くはないんだ。まったく罪悪感がゼロということはないけれど、一人で責任を負わなければならないほど重い罪ではない」と考えることに対して、私たちはどう考えたら良いでしょうか。①酷いと考えるでしょうか?それとも、②当時の、戦時中の社会にあっては、それは仕方のなかったことだと考えるでしょうか?私の考えでは、まず①についてですが、単純に酷いと考えるのは欺瞞に思えます。それは現在の観点からのみの考えだと思います。極端に言えば、現在の社会がヒューマニズムに傾いているから、まるで全体主義のように個人も社会全体に迎合して考えた結果、ハンナを断罪する、という一種の全体主義的な思考による非難に思えます。当時の社会状況を無視して、現在の社会全体を覆っている価値観に合わせるだけなのであれば、当時の社会においてユダヤ人虐殺に全体主義的に加担したのと同じではないでしょうか。では、次に②についてですが、①とは逆に仕方なかったで済ませて良いのでしょうか?それもまた人間は全体に従うものだという考え、全体主義を受け入れる考えと同じだと私は思います。それでは全体主義はいつまで経っても容認されることになって同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。

ここが難しいのですが、当時は仕方なかったことかもしれませんが、それを看過するわけにはいかず、そういった過去を断罪しなければならないという複雑な思考過程を必要とすると私は思います。もし、今は裁く立場にある私たちも、今度、ハンナと同じ立場に立たされたならば、そして、同じように全体に加担するようなことになれば、私たちもまた同様に断罪される立場に立たされることを記憶にしっかりと刻まねばなりません。そういう覚悟を持った上で私たちはハンナを裁かなければならないと思います。そして、ハンナを裁くことは、ナチスのような全体主義に対して、たとえ一人であっても闘う覚悟を持つという決意になるのだと思います。

■映画編
(1)疑問1「市電事件で喧嘩したとき、浴槽の中でのハンナの表情は何を意味しているのでしょうか?」
マイケルが「ぼくを愛してる?」とハンナに訊いたとき、浴槽の中のハンナの表情は何を意味しているでしょうか?極めて微妙なのですが、おそらく、このハンナの表情は「ハンナが何かに気づいたこと」と「気づいたことの内容に対して戸惑いのような感情」を表しているのだと思います。では、ハンナは何に気づいたのでしょうか?このハンナの”気づき”から”戸惑い”へ至る思考のプロセスについて、次の2つが考えられると思います。

①元々、この段階でのハンナは、ミヒャエルへの愛が不確かなものだったからかもしれません。つまり、ハンナにとって、ミヒャエルとのセックスは性愛であって恋愛ではなかったからかもしれません。ところが、それに対してミヒャエルはハンナに本気の強い愛を抱いているとこの喧嘩でハンナは気づいたのかもしれません。あるいは、ハンナは愛という概念があまりよく理解できていなかったのかもしれませんが、その可能性も否定はできませんが、無視されたことで怒ることから考え合わせると、ハンナにとってミヒャエルの存在は大きかったはずで、愛についても理解があったと思います。ただ、この頃のセックスを見てみると、互いに相手を利用するセックスだったので性愛の割合が確かに高かったかもしれません。しかし、無視したことに腹を立てる点からすると、性愛と恋愛の割合があるとすると、ハンナにとって恋愛の比重も大きかったのではないでしょうか。ともかく、このハンナの表情の意味は、ハンナはそうでもなかったけれど、ミヒャエルは本気で自分を愛してくれていることに気づいた瞬間の表情(=驚きと戸惑いの表情、そして、それをミヒャエルに悟られまいとする平静を装った表情)と捉えることができると思います。

②もう1つのハンナの思考過程としては、ちょっと長い説明になりますが、まず、マイケルが「ぼくを愛してる?」と問うのは、マイケルがハンナの愛を疑っているからであり、その原因はハンナが電車でのマイケルの意図に気づかなかったことにあります。そして、ハンナはマイケルの意図に気づかなかった原因を自分が文盲であることに思い至り、文盲が暗黙の内に相手の意図を汲み取る”心の通じ”が弱いことを悟った瞬間だったのではないでしょうか。

もう少し詳しくハンナの思考プロセスを追ってみます。まず、マイケルから「ぼくを愛してる?」と訊かれます。ハンナの思考は「自分はマイケルを愛しているのに、なぜ、そんなことをマイケルは訊くのだろうか?」→「おそらく、マイケルはハンナのマイケルへの愛情を疑っているから訊くのだろう」→「では、なぜ、疑うのか?」→「市電の中でマイケルの意図をハンナが気づけなかったから」→「なぜ、それが愛を疑う理由になるのだろう?」→「もし、愛しているのなら、相手の意図を汲み取ることができるはずだとマイケルは考えているに違いない」→「でも、自分(=ハンナ)はマイケルの意図に気づけなかった」→「なぜ、気づけなかったのだろう?」→「それは自分が文盲だから」→「どうやら文盲は相手の意図を汲み取る力が弱いのではないか?つまり、”心の通じ”が悪いのではないか?」→「それは愛する能力の欠如ではないのか?」→「なぜ?」→「なぜなら、マイケルが、今、こうやってハンナに「ぼくを愛してる?」と訊くように、ハンナの愛を疑っているではないか!」
つまり、このハンナの表情は、「自分は文盲であるがゆえに心の通じが悪いこと、ひいては愛情の欠如に受け取られてしまうこと」に気づいた瞬間ではないでしょうか。「マイケルはそんな風に考えるのか…」と気づいたのだと思います。「そんな風」とは「心の通じが悪い→すなわち、愛情の欠如」という論理です。そして、ここからは、後にハンナがこの気づきから考えたであろう、さらに一歩押し進めた思考なのですが、「マイケルはそんな風に考えるのか…」→「でも、困ったな。自分の文盲は直せない」→「もし、文盲だとマイケルにバレてしまえばどうなるだろうか?」→「文盲イコールハンナの愛する能力の欠如、すなわち、ハンナの愛は本物ではないと解釈されてしまわないだろうか?」→「もし、そう解釈されたら、マイケルとの恋愛も終わってしまう」→「終わらせないためには、どうすれば良いのだろう?」→「文盲を隠すしかない!」という結論に至ったのではないでしょうか。そして、これが裁判でハンナが文盲を隠す理由に繋がっていったのだと思います。(←この解釈の仕方は、「その7」での「裁判でハンナが文盲を隠した理由」という私の解釈と同じになっています。)

そう考えると、ホテルでのメモ紛失事件で、激しくハンナが怒った理由が深みを帯びてきます。単に文盲を隠すための懸命な演技だけではなく、この市電事件での経験があるのではないでしょうか?つまり、このときすでにハンナは文盲が愛する能力の欠如だと捉えられるのを恐れていたのではないでしょうか。だから、愛を守るために文盲を必死で隠さざるをえず、その悔しさや惨めさがハンナの心を苛んだのではないでしょうか?このときのハンナの心の痛みを思うと胸が痛みます。

以上、このハンナの表情には上記のような2つの解釈が成り立つと思います。そして、私としては②が正しい解釈だと思っています。ところで、この浴槽での場面は小説では淡々と描写されているだけなので、このようにハンナの表情からハンナの考えを深く読み取ることはできません。ですので、この場面はこの映画の優れて良い点だと思います。

ただ、現段階では、まだ、この映画のDVDが発売されておらず、映画を見た記憶と予告編の1カットだけを頼りに考えているので、この解釈は間違っているかもしれません。DVDが発売されて、もう一度、一連の流れを通して映画を見直したら、解釈が変わるかもしれませんことをお断りしておきます。

さて、ここからは余談ですが、ウィンスレット自身はこの場面をどう解釈して演じたのかは微妙なのです。というのも、その手前の市電事件でハンナが怒った理由をウィンスレットはどうも「無視されたから」ではなく「働く姿を勝手に見ていたから」と考えているみたいなのです。そうなると上記の私の解釈もあまり意味を為さなくなってしまいます(笑)。

(いえ、本当は俳優がどう思って演じようと関係なく、観客がどう受け止めるか、どう解釈するかが真実であって、観客の出した解釈が正しいと言って良いと思います。もちろん、監督がこういう意図でこういう演技をやらせたんだという監督の意図が本当は解釈の本筋なんですが、それも観客が監督の思ったように解釈する場合に限るのであって、監督の意図がうまく観客に伝わらず、別の解釈を生み出したのなら、その別の解釈こそが正しい解釈だと言えると思います。まあ、いずれにしろ、これは製作者たちの意図と観客の解釈にズレが生じるという演出を失敗した場合の話ですが。)

ただ、一般的にいって、これには文学と異なる映画の解釈の難しさがあります。文学は言葉から、是か非か、あるいは、判断不能まで含めて、おおよそ分析可能です。ところが、映画の場合は監督の意図の他にこの映画のように俳優の意図も加わったりします。というのも、映画は、小説のように一人で全部作るのではなくて、大勢の総合力で作り上げるものですから、どうしてもバラバラになりやすく、しかも、映像という現実から判断しなければならないので、言葉を腑分けするような論理的で明晰な分析ができにくくなります。文芸批評に比べて映画批評がアカデミックになりにくいのは、そういった不分明さがあるからだと思います。では、確証がないからといって私のような解釈を書かない方が良いのかというと私はそうは思いません。私のような解釈も条件付きや範囲が限定されたりはありますが、可能だと思います。そういった解釈を施すことで『朗読者』の世界が豊かになる、『朗読者』から得られるものが多くなると思います。喩えるなら、種から芽が1個しか芽吹かないのではなくて、ジャガイモのようにたくさんの芽がいろいろな箇所から芽吹く方が映画の解釈には良いと思います。解釈の可能性が多様なほど良いのではないでしょうか。どれか一つが正しいと捉えたがる人もいますが、言葉なら分析で限定してゆくこともある程度可能ですが、映像の場合は現実の解釈により近いので、ある程度、多様性も大切だと思います。(とはいえ、自分の解釈が正しいと私は主張しているわけですから、言っていることとやっていることが矛盾しています(笑)。)

■言い訳
思いついたままに書き足し書き足ししているので、どうにもゴチャゴチャと分かりにくい文章になってしまいました。それに同じ言説の繰り返しも多いし…。いつになるか分かりませんが、いつかは文章を整理したいと思っています。…まあ、でも、現実も多層的だと思いますので、単線的・短絡的にたった1つの論理で「こういう理由だからこういう結論になる」というのもいかがなものかと思いますので、ある程度、ゴチャゴチャするのも良いかなと思います。(←もちろん、1つの論理で表せるものもあります、というか、一般的にはその方が多いです。)でも、本当ならそれを腑分けして分解・分析・分類・整理するのが良い文章だとは思います。単に私の頭の中でまだまだ整理できていないのが原因だと思います。いえ、そうではなくて、元から私の文章はゴチャゴチャしているのかもしれません。(←ああ、また、ゴチャゴチャ書き足してしまった!)