2009年10月11日

『朗読者』を読む その7


■総評
■解釈について
この物語には、私がここで示した解釈以外に、他の解釈も成り立つと思います。もっと具体的に言えば、ハンナの直感などは存在せず、ハンナは「恥ずかしい」という理由で文盲を隠したという解釈です。例えば、この小説を映画化した映画監督のスティーヴン・ダルドリーがそうでしょう。しかし、そういった解釈では、ハンナという女性が「取るに足りないつまらない事を恥じる」というとても陳腐な人物になってしまうと思うのです。それは、ひいては、この素晴らしい物語さえも陳腐な物語にしてしまうと思うのです。読者は「物語から如何に豊かなものを引き出せるか」が物語の解釈には大切なことだと思います。もちろん、根拠や妥当性のない解釈ではいけませんが、この物語のように、テキストにこれといった確かな根拠が示されず、そして、何よりも直感という極めて不思議な力が働いている場合には、解釈の正否は読者の感性に委ねるしかないと思います。

ともかく、私はこのハンナという女性のある種の気高さを陳腐なものに貶めたくありませんでした。確かに彼女はナチに加担した罪びとです。しかし、だからといって、彼女の気高さまで踏みにじりたくはなかったのです。ネット上にある幾つかの感想を読んで、ハンナを悪くいう感想に私は耐えられなかったのです。ですから、この感想を書かずにはいられなかったです。私がこの記事を書いた動機はハンナを貶める誤解から救いたいというハンナに対する鎮魂の願いからでした。ちなみに、私はハンナには実在のモデルがいると、根拠はありませんが、確信しています。作者のベルンハルト・シュリンクも自分の体験を元にした半自伝的小説と言っているように、実在のモデルがいるのではないでしょうか。もっとも、たとえ実在のモデルがいたとしても、そのままというわけではなく、いくらかは脚色されていると思いますから、そのモデルと作中のハンナでは、それはそれで違った人物だろうと思います。ともかく、この私の解釈は架空の人物に対する想いというよりは、実在したであろう人物へのレクイエムなのです。

■ハンナ・シュミッツについて
(1)ハンナの生涯
振り返ってみれば、ハンナの人生はなんと孤独だったのだろうと思います。ハンナは自分の生い立ちを次のように語っています。

彼女は約束によって生きていたのではなく、現実の状況に基づき、
自分自身だけを頼りに生きていた。
彼女の生い立ちを尋ねたことがある。
それはまるで、ほこりをかぶった長持ちから答えを探し出してくるような具合だった。
彼女はジーベンビュルゲン (現在はルーマニアになっている地方)で育ち、
17歳のときベルリンに出てきて、ジーメンスという会社の労働者になり、
21歳で軍隊に勤めたという。
戦争が終わってからは、さまざまな仕事をして生計を立ててきた。
……
家族はいない。年は36。
そんなことを、彼女はそれがあたかも自分の人生ではなく、
あまりよく知らない、自分と関係のない人の人生であるかのように話して聞かせた。(p48)

また、裁判では、次のように答えています。

わたしは1922年10月21日、ヘルマンシュタット で生まれました。
いまは43歳です。はい、ベルリンのジーメンスで働きました。
そして、1943年の秋に親衛隊に入りました。(p112)


ハンナは17歳でベルリンで働きはじめ、文盲ゆえに21歳でナチスの看守になり、23歳の頃、囚人を見殺しにするという罪を背負い、戦後は職を転々としながら36歳でミヒャエルとの年の離れた恋愛関係になり、それも束の間で終わりを告げ、あげく43歳で裁判で自由を奪われ、ミヒャエルへの愛だけが世界との残された繋がりだったのに、最後には61歳でミヒャエルのその愛も尽きていたことを知ることになる…。なんと孤独な人生だったのでしょうか。ハンナが孤独になった原因は文盲であり、文盲を隠すことでより一層ハンナを孤独にしたと思います。ただ、文盲ばかりがハンナの孤独の原因ではないようにも思います。というのも、裁判でのハンナの嘘偽りのない答弁はハンナの実直な性格を物語っており、ハンナには普通の人にはない、ある種の気高さがあったのではないかと思います。その気高さが人を寄せ付けなかったのではないかと思います。もちろん、ミヒャエルが言うように「ちょっぴり自分を偽っていた」というようにハンナもまったく嘘偽りがないわけではありませんが、その多くは文盲に関わる事柄が多かったのではないかと思います。いずれにせよ、この世界でひとり孤独だったハンナはそれでも恨み言をいうわけでもなく、後悔や後ろ髪を引かれるでもなく、最期には、決然とこの世界との関係を断ったのだと思います。

それにしても、ハンナは一体何者だったのでしょうか?ハンナの特徴は「文盲を隠していること」や「ナチの看守だった過去」が挙げられます。しかし、それだけでハンナの特徴を捉えられるかというとそれでは不十分だと思います。なぜなら、直感という大きな要素があるからです。確かに、文盲であることが、彼女の直感力に大きく影響していると思います。しかし、文盲の人たち全員が直感に優れているわけではありません。ハンナの直感は文盲の中でも特別な能力で、ハンナには文盲だけではない何かがあると思えます。ハンナのこの特殊な能力はどこから来るのでしょうか?

(2)ハンナの正体
テキストからハンナについてプロファイリングしてみます。まず、ハンナの性格ですが、ミヒャエルとの出会いでの乱暴な介抱から、ハンナはぶっきらぼうで短気ですが親切な所もあると思います。 また、市電事件ではミヒャエルが無視したと判断した瞬間にハンナはミヒャエルを無視した挙句、運転手と仲の良いところを見せつけたりするなど咄嗟の機転で反撃する頭の良さもあります。また、ミヒャエルの再訪でいきなり裸で抱きついたり、メモ紛失事件でベルトでミヒャエルを殴るなど、何かと直接的なところがあります。さらに、ミヒャエルが朗読した本に対するハンナの反応から、ハンナには小狡いところはなく、正々堂々とした実直な性格がうかがえます。ただし、文盲を隠す点だけは例外で、嘘をついたり、狡さを発揮したりします。逆に言えば、嘘が嫌いで実直な性格のハンナからすれば、文盲を隠すために嘘をつかなければならなかったことはストレスだっただろうと推測できます。また、失踪する前のミヒャエルとの口論からは、ハンナは自分のことは打ち明けず、ミヒャエルがいくら追究しても決して口を割らない強情さや愛想の無さがあったと思います。けれども、仕事に関しては昇進の話が出るほど上司からの評価は高く、きっちりと仕事をこなしていたと思われます。また、異常なまでに清潔好きでミヒャエルの身体を平気で洗ったりします。セックスに関しても、いわゆるバタイユの言う「禁止と侵犯」のようなエロティシズムではなく、肌の接触でもたらされる快感を感じる身体感覚を基本としたセックスだったのではないかと思います。以上のようなことから、おおよそのハンナの人物像が浮かび上がってくると思います。

ところで、第1部終盤のミヒャエルのすき間の話(第1部第16章p91-p93)で、ハンナが仕事がない日の過ごし方について、ハンナは自分には話してくれないとミヒャエルは不満げに語っています。しかし、ハンナにはミヒャエル以上の親しい知り合いはいなかったと思いますので、ハンナは仕事のない日はおそらく独りで過ごしていたと思います。非番の日は掃除や料理など家事をしたり、映画を見に行ったりしていたのでしょうか?それとも何か他の事をしていたのでしょうか?家事や映画なら別にミヒャエルに話しても良さそうに思います。しかし、ミヒャエルに話さないところをみると、それ以外のことをしていたのでしょうか?それとも単に自分のことを話したがらないだけでしょうか?ハンナが何もないのに思わせぶりに隠し事をするのも不自然な気もします。あるいは、ミヒャエルに嫉妬させるためかもしれませんが、それにしてはずっと話すのを拒み続けています。あるいは、ハンナが文盲ゆえの頭の中の整理の無さからくる、漠然とした過去の回想ゆえなのかもしれません。しかし、もしかしたら、ハンナにはまだ何か私たちの知らない秘密があったのかもしれません。ですが、テキストからはこれ以上は判断しようがありません。ただ、他にも些細なことで確証はありませんが、裁判所でミヒャエルが初めてハンナを見つけたとき、「結び目ができるように頭の周りにぐるぐる巻きつけた珍しい髪型」(p112)とあるように、ハンナには他のドイツ人とは違ったどこか独特の民俗的な習俗があったのではないだろうかと思います。しかし、いずれにしても、ハンナは17歳でベルリンで働き始めているので、ハンナが何らかの異教の伝統、つまり、魔女の伝統を継承しているとは時間的に考えにくいと思います。

以上のように、ハンナには「文盲であること」や「ナチの看守だったこと」以外にも私たちの知らない秘密が何かあった可能性があります。しかし、それはミヒャエル(=作者シュリンク)にも分かっていないことなので、テキストからは推測しようがありません。けれども、その秘密がハンナの直感力と何らかの関連があるのではないかと思わずにはいられません。そして、ハンナのプロファイリングから、ハンナはある特定の人たちに気質が似ているのではないかと私は思っています。それは中世の魔女裁判に残された数少ない本物の魔女たちの証言記録から窺える魔女たちの気質です。すなわち、魔女の気質とハンナの気質が非常に似通っていると私は思っています。とはいえ、気質が似ているからといって、ハンナを魔女と断定することはできませんから、あくまで、推測の域を出ません。しかし、ハンナの直感力を考えるとき、単にハンナの個人的な特殊能力であるだけでなく、さらにその奥には魔女の伝統に基づいた根深い伝承があるように私には思えて仕方ありません。

■ハンナの心理について
さて、最後にハンナの心理について整理しておきます。「なぜ、ハンナは文盲を隠したのか?」や「なぜ、ハンナは自殺したのか?」といった疑問について整理しておきます。ただし、ここで述べる理由はあくまで私個人の推測であって、この理由が正しいと断定できる根拠はテキストからは得られていないことを断っておきます。それから、最後に私のハンナについての感想も書いておきます。

(1)ハンナが文盲を隠した理由
まず、ハンナがこれまでの人生で文盲を隠した理由は、ハンナと周囲の間にある文字を読めないことからくる隔絶が露呈してしまうのを恐れたからだと思います。周囲は文字が読めるのにハンナは文字を読めないということから、周囲はハンナと分かり合っていたと思っていたのに実はそうではなかったと気付かれてしまうことを恐れたのだと思います。周囲がハンナとの隔絶に気付いてしまうことで、ハンナは孤独になってしまうことを恐れたのだと思います。

また、裁判でハンナが文盲を隠した理由は、ミヒャエルの愛を失うのを恐れたからです。ハンナは裁判の最初からミヒャエルが法廷にいることに気づいていました。ハンナはミヒャエルに自分が文盲であることを知られたくなかったのです。ハンナは文盲であることは文字が読める人よりも相手の心と通じ合える能力が劣ると考えたのだと思います。ひいては、心が通じ合えないのだから、文盲は人を愛する能力も劣ると考えたのだと思います。つまり、文盲であるハンナの愛は本当の愛ではないと捉えられてしまうと恐れたのだと思います。もし、ミヒャエルにハンナが文盲であるとバレてしまったら、ミヒャエルにハンナの愛がニセモノだと思われてしまうと恐れたのだと思います。ハンナには自分の愛が本当だとミヒャエルに訴える術はなく、文盲を隠すしか方法がなかったのだと思います。

(2)ハンナが自殺した理由
ハンナが自殺した理由は2つあります。1つは、ハンナにとってただ一つの心残りであったミヒャエルの愛が、刑務所で再会したときにすでに失われていたと分かったからだと思います。ハンナにとってミヒャエルとの愛だけがこの世界での唯一の心残りでしたが、それが失われた以上、この世界には、最早、何の未練も無かったのだと思います。もう1つの理由は看守時代の罪を償うためだと思います。看守時代に犯した罪悪に対する罪の意識から、ハンナはいずれ自分の死をもって罪を償うことを覚悟していたと思います。自分の犯した罪は「刑務所で過ごしたから、刑期を終えたから」といって償えるものではなく、自分の死によって清算するしかないとハンナは考えたのだと思います。ただし、文字を覚えたハンナは強制収容所関連の書物を読んだことで、強制収容所の犠牲者たちの魂に触れることが可能になったと思います。そして、毎晩、死者との対話を繰り返した結果、ハンナの魂は途轍もない精神の高みへと高められ、単に罪を償うために死ぬだけではなく、ハンナの魂の全体性を持って死の世界へと旅立っていったのだと思います。

(3)ハンナへの私の想い
こうやってハンナの人生を見渡してみると、ハンナはこの世界の中でずっと孤独であり、ナチの看守となって罪を背負い、裁判で罪を問われて生活の自由を失って、挙句の果てにミヒャエルの愛を喪失してしまうという、とても悲しみに満ちた人生に思えます。ハンナの罪にしても、あの時代に生きていれば多くの人がハンナと同じように罪を犯したであろうと思います。それにハンナが文盲でなければ罪を犯す立場に立たされることも無かったと思います。元々、ハンナは根は決して悪い人間ではありませんから。むしろ、善い人間です。しかし、純粋で善い人間ほど重い罪を背負わされてしまうという悲劇が裁判では起こりました。裁判に限らず人の世とはそういった傾向があるのかもしれません。せめて、ミヒャエルの愛だけでも届けばと思っていましたが、それさえも最後には残酷にも失われてしまいます。ですから、そんなハンナのことを考えると、とても可哀想に思ってしまいます。ですが、半面、ハンナは文字を覚え、死者の魂に触れることでハンナ自身の魂もこれ以上になく高めることができたので、苦難に満ちた人生だったけれど、苦しんだ分報われたようにも思います。ですから、私は、ハンナの最期は苦しみや悲しみなど人間の営みの向こう側(=彼岸)に達して超然とした気持ちで死の世界に入っていったのだと思います。ですので、ハンナについて想うとき、彼女の人生に哀しみを覚えると同時に、その死に深い静寂を私は感じます。

■ミヒャエル・ベルクについて
ミヒャエルはハンナによって人生を大きく変えられてしまいました。ミヒャエルはハンナと付き合ったことで女性のあしらい方が上手になった反面、人格形成において自分の人生に無関心・無感動な醒めた冷たい人間になってしまいました。また、ハンナが忘れられず、他の女性と付き合っても長続きしませんでした。もっとも、長続きしなかった原因はミヒャエルの人間的な冷たさもあったと思います。それに、裁判の欺瞞を見抜くような、言葉の作り出す幻想に縛られない冷徹な視点をミヒャエルは得ることができたとも思います。しかし、他人と比べて比較的客観的な視点を持っているであろうミヒャエルでさえも、最後までハンナの真意を理解することはできませんでした。なぜなら、文盲を隠した理由を恥と捉えたり、ハンナの遺産の寄付を罪の軽減をハンナが望んだと考えたりしたからです。結局、言葉のひとミヒャエルは最後まで直感のひとハンナを正しく理解することはできませんでした。

さらに、ミヒャエルの失敗から得られる教訓は行動だと思います。裁判のとき、ミヒャエルが裁判長にハンナの文盲を話していれば、もっと違った結果になっていたかもしれません。たしかに、文盲をバラすことは、ミヒャエルの父の言うようにハンナを傷つけてしまうかもしれません。また、実際に行動しても、うまく行ったかどうかも分かりません。ですが、私の個人的な人生経験からの見解ですが、やはり、行動すべきだったと強く思います。

■直感と言語
この物語は具象的なレベルではハンナとミヒャエルの愛を描いた物語ですが、抽象的なレベルでは、この物語は言語と非-言語の相克の物語でした。簡単にいえば、言葉と直感の相克です。言葉の側からは、言葉の人として、言葉を職業とする人たちが3人登場します。哲学者であるミヒャエルの父と法律家であるミヒャエルの先生と法制史を専門とする歴史学者であるミヒャエル自身です。一方、直感の側からは、直感の人としては、ハンナが登場します。しかし、この3人の言葉の人はいずれも現実や直感の人ハンナを正しく捉えることはできませんでした。

まず、哲学者であるミヒャエルの父はミヒャエルに理路整然とした理(ことわり)を教えて正しい道を説きますが、ミヒャエルに実際に行動を起こさせることができずにミヒャエルの失敗をみすみす見過ごしてしまいます。また、法律家のミヒャエルの先生はその葬儀でも見られたように、社会との軋轢から孤高の人生を歩み、偏屈な人格に陥ってしまったようです。この先生は強制収容所の裁判を通して、法に疑義を抱き、法を現実に即したものに正そうとした態度だったのですが、結局、現実と法の狭間で擦り切れてしまったのだと思います。そして、ミヒャエルは裁判を”グロテスクな単純化”と嫌悪して、現実を言葉で捉える最後の道である歴史学に進んだのですが、そんなミヒャエルでさえも、ハンナが文盲を隠す理由にも、手紙の返信を待つハンナの愛にも気づかず、死後のハンナの気持ちさえも誤解するといった有様で、結局、ハンナを正しく理解できていませんでした。つまり、極端に言えば、現実に対して3人が異なった言葉のアプローチをしたのですが、言葉は現実の前にあえなく敗北したのです。

一方、ハンナはどうだったでしょうか?ハンナの直感は的確にミヒャエルの真意や本質を見抜いていました。もちろん、ハンナの直感も完璧ではありません。例えば、市電の事件では、ハンナはミヒャエルの意図を見抜けませんでした。おそらく、「2両目で人目を忍んでイチャイチャしたい」というミヒャエルの浮ついた気持ちや下心が、ある意味、よこしまな心・邪心としてハンナの直感に映り、ハンナは「ミヒャエルがハンナを無視した」というネガティブな意味に受け取ってしまったのかもしれません。いずれにしろ、ハンナの直感も百パーセント完璧なものではありませんでした。しかし、より本質的なこと大切なことに対しては、ハンナの直感は比較的正確に反応したのではないでしょうか。つまり、極端に言えば、すべての局面でというわけではありませんが、多くの局面において、直感が現実を把握する能力は言葉よりも優れていると思います。いえ、そこまで極端に考えなくても、少なくとも、言葉による現実の把握を補うだけの力を直感は有していると思います。(脱線ですが、もっと言えば、言葉だけでなく、直感によっても現実の把握を補うことができれば、この世界をバランス良く捉えることが可能になり、ひいては世界そのものの全体性を回復することができるのかもしれません。)

言い換えれば、現実を断面的に捉える言語よりも、現実を全体的に捉える非-言語(=直感)の優位性です。さらに、言葉は現実ばかりか、ハンナという直感の人を理解できませんでした。つまり、ミヒャエルがハンナを理解できなかったように、言葉は精神の全体性を捉えることはできないのではないでしょうか。その結果、言葉は現実や精神をある断面的な捉え方に押し込めて誤解してしまい、ひいてはこの物語のような悲劇が起こってしまったのではないでしょうか。

■死の可能性
最後に、私はこの作品に1つだけ不満があります。それはハンナの死についてです。私は「ハンナは清々しい気持ちで決然として死んだ」と考えていますが、作品ではハンナの死がどのようなものであったかがまったく描かれていません。ですから、ハンナの死が実際はどうだったかは正確には分かりません。ハンナの死をどのように考えるかは、読者の想像に大きく任されています。

では、ハンナの死をどのように捉えればよいのでしょうか?例えば、ハンナはミヒャエルの愛が失われたという失望のあまり死を選んだのでしょうか?ミヒャエルの愛が失われたからといって、死ぬことはないのではないでしょうか?この世界と決別するために決然とした気持ちで死んだとしても、やはり、普通に考えれば、死ぬこと自体に、死ぬことの先に希望などないのではないでしょうか?それとも本当に絶望して死んだというのでしょうか?ハンナの性格から絶望のあまり、悲しみのあまり死を選ぶというのは考えにくいと私は思います。もう生きる必要がないと思ったのだとしても、逆に死ぬ必要もないのではないでしょうか?では、ハンナはどのような気持ちや考えで死んでいったのでしょうか?私たちと違って、ハンナには死になんらかのポジティブな意味があるとでもいうのでしょうか?ハンナの死に大きな謎があるように思います。

しかし、ここでは、これ以上、ハンナの死の謎について答えることはできません。けれども、私には、この謎の答えは魔女の死生観の中にあるように思えてなりません。いえ、正確には魔女も死生観について具体的なことは何も残していないと思います。ですが、魔女に似た女性で、哲学者であり作家でもあるアイリス・マードックがそれに近い死生観を有しているのではないかと私は思っています。この「死の可能性」については、この私的魔女論で最後に取り上げる第3の女性アイリス・マードックで詳しく書いてみようと思っています。

ですが、その前に女神モリガンに表れたような強力な女性性、すなわち、女性の持つ強力なエネルギーについて、先に詳しく見てみたいと思います。というのも、「私的魔女論」の第一論考である、この”『朗読者』を読む”では、ハンナ・シュミッツを通して”直感”の話をしました。私的魔女論では、魔女を”女のシャーマン”として捉え、特にその”女”という部分に焦点を当てて魔女の本質を掘り下げてゆこうと思っています。そして、”直感”の次に外せない魔女の本質として、”エネルギー”があると私は考えています。ですので、次回からは、”エネルギー”に注目して、第2の女性、女優ケイト・ウィンスレットについて考えてみようと思っています。