2009年10月5日

『朗読者』を読む その6


■第3部第8章(p219-p225)
この章では、出所前のミヒャエルとハンナの再会が描かれています。 
この章はこの小説の最大の山場です。ここでのポイントは2つあります。
1つは下記のようなハンナの反応です。

ぼくは彼女の顔に浮かんだ期待と、
ぼくを認めたときにその期待が喜びに変わって輝くのを見た。
近づいていくと彼女はぼくの顔を撫でるように見つめた。
彼女の目は、求め、尋ね、落ちつかないまま傷ついたようにこちらを見、
顔からは生気が消えていった。
ぼくがそばに立つと、彼女は親しげな、どこか疲れたようなほほえみを浮かべた。
・・・・・・
ぼくはもっと彼女のそばに寄った。
さっき近づいてくるときに彼女をがっかりさせてしまったらしいと気づいていたので、
今度はもっとうまく、埋め合わせをしようと思った。
(p220-p222)

最初、ハンナはミヒャエルと再会して喜んだものの、すぐに直感でミヒャエルがハンナをもう愛していないことに気づいて落胆したのではないでしょうか?さらに今後の朗読に話が及びます。

「本はたくさん読むの?」
「まあまあね。朗読してもらう方がいいわ」
彼女はぼくを見つめた。
「それももう終わりになっちゃうのね?」
「どうして終わりにする必要がある?」
そう言ったものの、ぼくは彼女にこれからもカセットを送るとか、
会って朗読するとかいう相談はしなかった。

(p222)

ハンナはミヒャエルの愛が終わっていることの最終確認のために朗読の終わりを尋ねます。そして、ミヒャエルは朗読を続けるような素振りを見せますが、今後の朗読の計画を立てませんでした。”計画家”のミヒャエルなのに、です。おそらく、ハンナはミヒャエルがもう朗読しないだろうことを見抜いたと思います。(次章の電話でより鮮明になります。)ともかく、ここでも、ハンナの直感が働いたと思います。

2つめのポイントは、ナチ時代のハンナの罪の問題です。ミヒャエルが次のように問います。

「裁判で話題になったようなことを、裁判前に考えたことはなかったの? 」

(p223)

それに対して、彼女は次のように言います。

わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、
私が何者で、どうしてこうなってしまったかということも、
誰も知らないんだという気がしていたの。

(p223) 

ハンナは何を言いたいのでしょうか?

確かに、ハンナは文盲ゆえに自分の人生の履歴を客観的に整理できていないのかもしれません。しかし一方で、おそらく彼女はこの世界で、ある意味、生まれてからずっとたった独りだったのではないでしょうか?家族も身内もなく、心を開ける親しい者など誰ひとりいない、圧倒的なまでに孤独なひとだったのではないでしょうか?そして、さらに文盲であることがより一層彼女を孤独にしたのではないでしょうか。文盲であることは、言葉からの隔絶と他者からの隔絶の2つの孤独があると思います。彼女の魂は、まるで真闇の宇宙の中でポツンとひとつだけ輝く小さな星のような孤独な存在だったのではないでしょうか。

先のミヒャエルの質問に彼女は続けて言います。

誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。
裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。
ただ、死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。
その場に居合わす必要はないけれど、
もしそこにいたのだったら、とりわけよく理解してくれる。
刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。
わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。

(p224)

これは一体どういう意味でしょうか?

まず「本を読む」ことについてもう一度考えてみます。「本を読む」とはどういうことかというと、それは読み手と書き手との対話です。しかもただの対話ではありません。日常会話のようなうわべだけの言葉のやり取りではありません。読み手と書き手が真正面から向き合って、互いに対等の立場で真剣に話し合う心の対話、真の対話を意味します。特に、ハンナの場合はミヒャエルと本について話し合うことができたので、より豊かな対話になったと思います。しかし、それさえも、言葉であることに変わりはありません。現実と言語の関係にあるように、言葉は現実の一面に過ぎないのです。では、現実を一面ではなく全体で捉えることは可能でしょうか?言い換えれば、現実の全体性を得ることは可能でしょうか?

ここでいう全体性とは何でしょうか?ひと言で言えば、それはイデアのようなものです。では、イデアとは何か。例えば、”花”という物理的存在を”花たらしめている本質”を花の純粋イデアと言います。幾種類もある種類の異なる花たちや同じ種類でも一面に咲く花々のように現実に存在する数多くの花たちの、それらに共通する”花であること”の本質を花のイデアと言います。では、全体性とは何か?イデアは花のイデアのように物が対象だったりしますが、全体性は、物だけでなく全て、すなわち、現実を対象としています。現実には、物や人だけでなく、事も関係もすべてが含まれています。それらすべてをひっくるめた総体が現実であり、言うなればその現実のイデアが現実の全体性というものだと思います。ただし、花の場合は、野に咲く花があったとして、その花の具体的な名前は知らなくても、花のイデアが知覚されて花であるという認識が働き、それを単に”花”と名指しできます。しかし、現実は極めて複雑な複合体であり、花のように特定の名前で名指しすることはできません。しかし、名指しできなくても全体性は存在すると思います。

たしかに、全体性はイデアのように輪郭の明確なものではなく、輪郭である境界線は曖昧なぼやけたものである場合もあるでしょう。いえ、もっと言えば、どこからどこまでが全体なのかその全体像がまったく掴めない場合だってあるでしょう。しかし、それでも現実の全体性が存在すると考えられる理由は、この世界の物事には必ず因果関係が存在するからです。ただ、人間にはすべての因果関係を把握することはできません。けれども、全知全能の神を想定すれば、言い換えれば、全知全能の神だけが現実の全体性を把握することが可能だといえると思います。では、全体性は人間には手の届かないものでしょうか?いいえ、そうではないと思います。たとえ、神のような完全な全体性を把握することはできなくても、不完全ではあっても人間にも把握できる全体性もあると思います。なぜなら、すべての事象が人間の把握できない因果関係を含んでいるとは限らないからです。言い換えれば、人間に把握できる因果関係だけで動く事象もあると思います。ですから、人間にも把握できる全体性があると思います。

さて、ここで話をハンナの言葉に戻します。ここでのハンナの話は全体性の次元の話です。イデア界の次元の話です(下図参照)。ここでの現実とはナチ時代の囚人の選別や見殺しの事件を指していますが、全体性の次元に当てはめると、事件の全体性とは事件の真実や真相です。さらに、死者にも当てはめると、死者とは死んでいった人間たちの全体性、すなわち、俗世によって見る目が曇らされた生前の状態ではなく、死ぬことによって目の覆いが取り去れた客観的な視点を持った魂のことです。全体性の次元では、死者は言葉を介さずに事件の真実を理解してくれるのだと思います。また、ハンナは、強制収容所の本を読んだことから、その言葉を通してその言葉の背後に存在した犠牲者たち、その本に書かれていた犠牲者たちの魂にまで到達した、あるいは、彼らの魂を招き寄せたのだと思います。それが、すなわち、「死者たちが毎晩やってきた」ということだと思います。ここでのハンナと死者との対話は、先に説明した言葉を介した対話ではなく、言葉を介さない、直接的で真に真実の、魂と魂が触れ合う対話なのだと思います。ここでは言葉という不純物や夾雑物のない深いレベルの直接の理解があるのだと思います。そして、「毎晩やってきた」というのはハンナの罪の意識が死者の魂を招きよせる原動力にもなっていると思います。さらに、あるいは本当に死者の魂とハンナは触れ合ったのかもしれません。ともかく、ここでは、言葉の世界よりもさらに上昇した抽象的な次元、イデア界的な次元、霊的な次元での、真に真実の対話、超直接的な理解が描かれているのだと思います。そして、ハンナの直感もこの次元の世界からやってくると言えるのではないでしょうか。



そして、当然、そこでは欺瞞やウソは通用しません。いいえ、そこにはウソなど存在しようがないでしょうし、仮にウソをつこうものなら、それは自分自身の苦悩や責苦となって返ってくるでしょう。そういった死者たちとの真の対話によって、次第にハンナの魂は精錬されて、絶対的な孤独の宇宙の中でも慄然とした輝きを放つようになったのだと思います。後に判明する刑務所内でのハンナの変化(p235参照)はこの死者との対話による精錬から生じたのだと思います。しかし、そんなハンナにも、たったひとつだけ、この世界との絆があったと思います。それはミヒャエルとの愛の絆です。しかし、それもミヒャエルに会うまででしたが…。

それにしても、ナチスを選んだ世代のドイツ人がハンナを裁けるのでしょうか?いいえ、そうではないと思います。ハンナの言う通り、唯一、死者だけがハンナを裁けるのだと思います。しかし、既にこの世にいない死者は手を下すことはできません。死んでしまって、もうこの世にはいないのですから。だから、死者に代わって、生き残った者が裁かねばならない。でも、それはあくまで代理であって、その人自身には裁く資格はないのではないでしょうか。(*1)

この章で一箇所だけ分からない点があります。それは次のハンナの言葉です。

裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに

(p224)

裁判以降は、ハンナの罪が白日の下にさらされたので逃れようがなくなったのかもしれませんが、では、裁判の前まではどうやって彼らを追い払っていたのでしょうか?ハンナはとても実直な性格だと思いますから、何某かの意味があると思うのですが、それがどういった意味なのか、いまひとつ自分を納得させられる考えが見つからないでいます。なんとなく思うのは、ハンナが文字を覚える前はモヤモヤした混沌で曖昧な心象であり、記憶さえも未整理だったために、自分の罪に率直に繋がらずに強い気持ちで死者たちを追い払っていたのかもしれません。また、ホロコースト関係の書物も読んでいなかったので、死者たちの境遇も知らなかったので追い払いやすかったのかもしれません。しかし、文字を覚えた後では、すべてが鮮明になってハンナは死者たちから逃れられなくなったのではないでしょうか。

■第3部第9章(p225-p228)
この章では、出所前日のミヒャエルとハンナとの電話での会話が描かれています。ここでのポイントは、ミヒャエルの計画好きとハンナの電話の声です。

ミヒャエルは出所日のハンナの予定を計画したがります。これは本来ならハンナへの朗読にも当てはまるはずです。しかし、ミヒャエルはハンナに朗読する計画を立てませんでした。すなわち、ミヒャエルはもうハンナに朗読する気がないことの表れだったのです。そして、そのことにハンナも気付いたということなのでしょう。

さらにミヒャエルはハンナの電話の声が昔のままだったことに気づきます。

刑務所で再会したハンナは、ベンチの上の老人になっていた。
彼女は老人のような外見で、老人のような匂いがした。
あのときのぼくは、ぜんぜん彼女の声に注意していなかった。
彼女の声は、まったく若いときのままだったのだ。

(p228)

すなわち、外見は変わってもハンナの気性は昔も今も変わらないことを表していると思います。

■第3部第10章(p228-p237)
この章では、ハンナの死とそれを悲しむミヒャエルが描かれています。ここでのポイントはハンナの気持ちです。

おそらく、ハンナはもう生きる必要はないと考えたのだと思います。ミヒャエルとの愛情も終わったと直感したのだと思います。愛のないミヒャエルとの今後の生活など無意味で虚しいものでしかありません。ハンナのミヒャエルへの愛は変わっていませんでした。それはハンナがミヒャエルのギムナジウム卒業の姿が写っている新聞の切り抜きを持っていたことやミヒャエルからの手紙を待っていたことからも分かります。しかし、ミヒャエルのハンナへの愛は失われてしまった。ミヒャエルが愛したのは過去のハンナという幻想になってしまった。ハンナからすれば、出所したら、ハンナは愛しているにもかかわらず、今はもう愛してくれなくなったミヒャエルの世話にならなければならない。それはどんなにか辛いことだったでしょう。孤独だったハンナが唯一この世界と繋がりのあるミヒャエルだったのに、今はその繋がりが断たれてしまった。しかも、その断たれたミヒャエルに世話にならなければならない。ただでさえ孤独だったのに、さらに孤独感がいや増すのではないでしょうか。だから、愛のない生活で過去の愛を汚すよりも死を選ぶ方が愛を完成させられると考えたのかもしれません。この世界との最後の繋がりである愛が無くなってしまったのだから、もうこの世界にとどまる必要はないと感じたのでしょう。残された遺書にミヒャエルへの用件以外の言葉が書かれていなかったのも、愛のなくなったミヒャエルに対しては何を言っても意味を為さないから書かなかったのだと思います。むしろ、何も残さぬ方がミヒャエルの迷いにならずに済む、ミヒャエルのため、とまで考えたのかもしれません。彼女はきっぱりと旅立っていったのです。

ただし、ここで注意しておきたい点が1つあります。それは何かというと、ハンナは孤独を嫌がったり恐れたりして自殺したのでしょうか?私はそうではないと思います。刑務所長の話では、ハンナの刑務所内での暮らしは途中で変化して、刑務所内でもさらに孤独を求める姿勢に変わったと言っています。ですから、孤独を恐れたようには思えません。しかし、私の以前の解釈では、文盲を隠した理由のひとつは「世界や人々と隔絶していることを隠すため、文盲が万一バレれば恐ろしい孤独感が襲うと恐れたため」だったと第2部読解で書きました。確かに以前のハンナは隔絶や孤独を恐れたのかもしれません。市電事件でミヒャエルに無視されたと勘違いして激しく怒ったのも、孤独への恐れの裏返しもあったといえるかもしれません。ですが、ハンナは刑務所内で途中で変わってしまった。その原因は第8章で書いた死者との対話です。毎晩やってくる死者との対話を通して、ハンナの心は精錬されていったのだと思います。その結果、どうなってしまったのか?おそらく、まず、リアリティの違いに至ったのだと思います。死者の魂と生者の魂のリアリティの違いです。考えてもみてください。死者の魂との対話には迂遠な言葉を必要としません。ダイレクトな心と心の対話であり、そこには欺瞞や嘘は存在しません。極めてリアリティの高い真実の対話です。それに対して、生者との対話はどうでしょうか?裁判での看守たちや裁判長は人を裏切ったり、欺いたりと欺瞞に満ちていました。ミヒャエルにしてもハンナの愛を分かっていません。生者の魂は身体こそ生身の人間として生きていますが、心は恐怖(≒保身)や幻想に囚われて、世界の真実の姿を見ようとしないではありませんか。極端に言えば、心が死んでしまっている。心が死んでいる人間は機械と一緒、いや機械よりタチが悪いかもしれません。いずれにしろ、心が死んだ魂と触れ合っても、そこにリアリティはありません。ですから、ハンナにとって死者との対話はリアリティのあるものでしたが、生者との対話はすでに触っても手応えや手触りのない幽霊のようなリアリティのないものとの接触に過ぎなくなってしまったのではないでしょうか。そして、さらに変わったのは、以前は孤独を恐れていたのが、死者との対話でハンナ自身が精錬されてからは、孤独を”良し”としたのではないでしょうか。なんて言えばいいか、ハンナは魂の完全性や独立性を得たのではないでしょうか。自己の魂の全体性を獲得したのではないでしょうか。喩えて言えば、深遠な宇宙の中でたったひとり孤独に輝く星となることに”足るを知る”如く充足したのではないでしょうか。うまく説明できませんが、その結果、ハンナは孤独を恐れなくなったどころか、孤独を好むようにすらなったのだと思います。ですから、生者の世界はハンナにとってはほとんど意味のない世界になってしまったのだと思います。そして、ミヒャエルまでも心のない生者の部類に入ってしまっている。だから、ハンナは生者の中で喜びを分かち合える者がいなくなってしまったという孤独はあるでしょうが、それはハンナの置かれた状態であって、ハンナはそれを恐れてはいないと思います。

ですから、ハンナは悲しみの内に自殺したのではなく、清々しい気持ちでこの世界に別れを告げたのだと思います。もちろん、この世界を否定するものではありません。彼女は自然の詩や絵を残しているように自然を愛でていたのだから、この世界の美しさも十分に分かっていたと思います。ただ、時(≒タイミング)が来たのだと思います。生物の老いは残酷で徐々に身も心も蝕んでゆきます。彼女は老いさらばえて醜く朽ちるのを自然にまかせるよりも、自らの意思で潔くきっぱりと別れを告げたのだと思います。

それから、次の点をどう解釈すべきかで迷っています。それはハンナがミヒャエルから送られてきたカセットを元に読み書きを覚える話を刑務所の所長が話しているところです。

彼女はあなたと一緒に字を学んだんですよ。
あなたがカセットに吹き込んで下さった本を図書室から借りてきて、
一語一語、一文一文、自分の聞いたところをたどっていったんです。
あまり何度もカセットを停めたり回したり、早送りしたり巻き戻したりしたので、
レコーダーがそれに耐えられなくて、何度も壊れてしまい、修理が必要になったんです。
修理には許可が必要なので、わたしもとうとう、
彼女のやっていることを聞きつけたというわけです。
彼女は最初、自分のしていることを言いたがらなかったのですが、
字を書き始めて、自分で本の題名を書いてわたしに頼むようになってからは、
もうあまり隠そうとはしませんでした。
彼女は読み書きができるようになったことをほんとうに誇りに思っていて、
その喜びを誰かに伝えたかったんでしょうね

(p232-p233)

主旨としては「あなたと一緒に字を学んだ」という点に重点があって、ハンナがミヒャエルに感謝の念を持っているだろうこと、愛を感じた、愛を持ったであろうことを言っているのだと思います。ですが、それとは別の話なのですが、これをハンナが文盲を隠した理由である”恥じている証拠”と考えるべきか否かで私は迷っています。いえ、正確に言うと、私は「ハンナが文盲を隠した理由は恥ではない」と今までずっと訴えてきましたので、私はこれを否定したいのです。しかし、とはいえ、「自分のしていることを言いたがらなかった」となっているので、やはり、自分のやっていることがバレて、さらに自分が文盲であることがバレるのが恥ずかしかったのは恥ずかしかったのだろうと思います。では、やはり、ハンナが裁判で文盲を隠したのも、恥ずかしかったからでしょうか?実はそれがちょっと釈然としないのです。なぜなら、裁判という重要な場面で恥ずかしいからという理由で罪が重くなろうとも文盲を隠すというような頑なな性格と、たとえ所長に文盲がバレてもレコーダーを修理してもらって読み書きを学ぶという勉強熱心な姿勢が結びつかないのです。絶対にバレたくない人なら、レコーダーを修理せずに読み書きの勉強を投げ出してでも文盲を隠したのではないでしょうか?いや、しかし、読み書きを学べる絶好のチャンスゆえに、あれほど隠した文盲がバレることも厭わなかったのかもしれません。また、裁判という重要な場面で文盲を隠すという極めて強い動機として”恥”があるのだとしたら、その証拠として、この所長の話は動機としては少し弱いのではないかと思います。実際、所長には文盲がバレているわけですし…。しかし、それもハンナが文盲ゆえの無知のために裁判の重大性が分からずに、裁判でも意地を通した、とも考えられなくもないです。しかし、恥が理由だとした場合、「なぜ、そこまで恥じるようになったのか?」という、その強力な根拠が示されれば良いのですが、テキストには見当たりません。いえ、しかし、それも恥などというものは、自分が勝手に重大に思っているだけで、そもそも強力な根拠などありはしないものなのかもしれません。あるいは、恥と考えているかどうかはともかく、「文盲を隠している」のだから、恥に関係なく、「言いたがらない」のも当然と言えば当然かもしれません。ともかく、これを恥の証拠というには、いまひとつ、納得いかない思いが私にはあります。いずれにしろ、読み書きができるようになったハンナは第8章でミヒャエルから「読み書きができるようになって嬉しい」といわれても、特に動じる様子も描かれていませんから、恥という感覚は読み書きができるようになって以降はなかったのだと思いますし、読み書きができるようになって文字に対する畏怖の念や神秘性を克服して、今までハンナに欠けていた部分が埋められた結果、第8章の「死者との対話」という言語を超越するような高みへと達しているので恥などというちっぽけなものに囚われる小さな精神性ではなくなっていると思います。逆にさかのぼって考えれば、そういう人が恥に囚われていたのかというとそれは違うんじゃないだろうかと疑問に思えるのです。しかし、私の主張も明確な根拠はテキストでは示せません。ですので、この件、「文盲を隠す理由は恥なのか?」という疑問に関しては、はっきりとこうだとは断定できない、あくまで推測の域をでない、釈然としない感じなのです。(もっと言えば、ここは読者がどう考えるかの選択の問題と言えるかもしれません。読者を試すかのような…。ですが、私などはハンナへの思い入れが強くなったために客観性を欠いているだろうし、すでに恥かどうかなんてそういうレベルの問題でもないと感じていたりもします。)

■第3部第11章(p237-p244)
この章では、ハンナの遺言で生き残ったユダヤ人にハンナの遺産を渡しに行く話が描かれています。

ここでのポイントは2つあります。1つはミヒャエルが見たハンナです。ミヒャエルはハンナの刑務所での強制収容所の勉強を下記のように罪の償いと許しと捉えました。

「それでシュミッツさんを許してやれとおっしゃるの?」
ぼくは最初、そんなことはないと言おうとした。
しかし、ハンナは実際、多くのことを求めていたのだ。
服役した歳月は、他者から課された償いの日々というだけではなかった。
ハンナ自身がそれらの日々に意味を与え、
意味を与えることで他者からも認められることを望んでいたのだ。

(p240)

このミヒャエルの解釈は大きな間違いだと私は思います。ハンナは確かに本を読んで勉強しましたが、それは死者との対話そのものではなく、死者との対話のきっかけに過ぎないと思います。そして、死者だけはハンナに弁明を求めることができるとハンナは言っています。ハンナの罪を追及することが死者にはできるのです。翻って言えば、ハンナの犯した罪は決して許されることではないのです。それをハンナも認めているのです。さらに、ハンナは死者はハンナのことを理解してくれると言っています。偏った恣意的な裁判ではなく、真実に基づいて、そして、ハンナという人間丸ごとを捉えた全体性をもってハンナを理解してくれると考えていると思います。(p223-p224参照)ともかく、ミヒャエルは最後までハンナを理解することができなかったのだと思います。

もう1つのポイントは、ユダヤらしさとこの問題の困難さです。生き残ったユダヤ人女性は下記のように言って、ハンナを許しません。

このお金をホロコーストの犠牲者のために使ったりすれば、
ほんとに彼女に許しを与えることになってしまいそうだけど、
わたしはそんなことはできないし、したくないの

(p243)

このことには2つのことがいえると思います。1つはこのホロコースト問題が決して許される類の罪ではないということです。これは裁判で罪を償ったからといって許してしまえるような罪ではないと思います。この点が、罪深さであり、この問題の困難さのひとつです。もう1つは決して許さない妥協しないというユダヤ性です。ここからは推測ですが、ユダヤ人以外であれば、ハンナのケースを個人的には許す者がいるかもしれません。しかし、ユダヤ人の場合はこれを決して妥協せずに許さない民族性があると思います。そういったユダヤ性が透けて見えるように思います。それがユダヤ人が反感を買う理由のひとつかもしれません。ですが、先に書いたように、この問題の困難さが示すように、正しさはユダヤ人の側にあると思います。その情の無さがよりユダヤ人を私たちから引き離す原因になっていると思います。これはあくまでまったく根拠のない推測であり、私自身、ユダヤ人を差別するつもりはまったくないのですが…。

■第3部第12章(p245-p247)
この章では、この物語へのミヒャエル自身の評価と墓参りが描かれています。

ここでのポイントは2つです。ひとつは言葉の一面性です。作者はこの小説は物語のひとつのバージョンに過ぎないと言っています。たくさんのバージョンの物語を書いたけれど、この物語が最も本当らしいと言っています。しかし、裏を返せば、この物語もやはり物語のひとつであって、真実の一面に過ぎないとも言えるのです。

いつも少しずつ違う物語が、新しいイメージや、ストーリーで、思考を伴って書かれた。
ぼくが書いたこのバージョンの他にも、たくさんのバージョンがある。
ここに書いたバージョンが正しいという保証はぼくがそれを書き、
他のストーリーは書かなかったということで与えられる。
書かれたバージョンは書かれることを欲しており、
他の多くのバージョンは書かれることを望まなかったのだ。

(p245-p246)

そして、最後のポイントは、ミヒャエルが一度しかハンナの墓参りをしなかったことです。

その手紙をポケットに入れて、ぼくはハンナの墓へ行った。
それが初めての、そしてただ一度の墓参りになった。

(p247)

もし、ミヒャエルがハンナへの愛情がもっと深いものなら一度だけの墓参りで済むでしょうか?いいえ、そんなはずはありません。ハンナを忘れられずに何度も墓参りに行ったのではないでしょうか?しかし、実際には、たった一度の墓参りで終わっています。結局、ミヒャエルのハンナへの愛はもう随分前に終わっていたのではないでしょうか。つまり、ハンナの直感は正しかったのです。ミヒャエルのハンナへの愛はすでに尽きていたです。ハンナが最後にミヒャエルに会ったときに、ハンナの直感は見事にそれを見抜いたのだと思います。この最後の一文がハンナの直感の正しさを証明していると思います。

刑務所でミヒャエルからの手紙を待ち続けたハンナでしたが、実際に会ってみれば、ミヒャエルの愛は終わっていたのです。ハンナはそのことを再会して瞬時に見抜き、そして、この世界との最後の絆も失われたと感じたのだと思います。最後の絆が失われた以上、ハンナはもうこれ以上この世界に未練はなく、とどまる必要性が無くなったのでしょう。それに出所後に愛のないミヒャエルに面倒を見てもらうことはハンナにとってはこれ以上にない苦痛に満ちた経験になるかもしれません。それよりはきっぱりとすべてと決別することを選んだのだと思います。この最後の一文は、そういったハンナの直感の正しさの証明になっており、さらに、この物語を貫くハンナの直感すべての証明にもなっていると思います。この最後の一文は、推理作家らしいQ.E.D.(証明終わり)であり、この物語の謎、すなわちハンナの直感の有無や正否を解く最後のピースになっていると思います。(*2)

■第3部まとめ
第3部はおおまかに2つのパートに分けられます。朗読を再開した前半(第1章~第6章)とハンナの死を描いた後半(第7章~第12章)の2つです。前半はミヒャエルの裁判以後の様子からハンナに朗読テープを送りはじめて、ハンナが読み書きができるようになるまでの様子が描かれています。後半は出所のためのハンナとの再会からハンナの死後の事後処理までが描かれています。

第3部の問題点は2つあります。1つは「なぜ、ハンナは死を選んだのか?」です。これはミヒャエルの愛が失われたのが原因だと思います。ハンナにとって、この世界への執着・未練はミヒャエルの愛しかなかったのだと思います。そして、そのミヒャエルの愛が失われたいま、ハンナはこの世界にこれ以上とどまる必要性を見出せなかったのだと思います。それに愛のないミヒャエルに面倒を見てもらうことはハンナにとって反って辛いことだったとも思います。ですから、もう、ハンナはこの世界に未練は一切なく、きっぱりと決然とした気持ちでこの世界に別れを告げたのだと思います。

そして、もう1つの問題点は、ハンナの直感の真偽の問題です。これについては、再会でのハンナの失意とその後の自殺、そして、一番最後の一文がすべてを物語っていると思います。もし、愛しているなら、たった一度の墓参りで済むはずがありません。しかし、「ただ一度の墓参り」とあるようにミヒャエルのハンナへの愛は終わっていたのです。再会でハンナの直感が捉えたように!この最後の一文でこれまでのハンナの直感がすべて本物であることが証明されたと思います。

さて、それにしても、ハンナは一体何者なのでしょうか?恐るべき直感力の持ち主であることは間違いありませんが、しかし、それ以上にハンナはどのような人間なのか、今までどのように生きてきて、どのような考えを持って最後に死を選んだのでしょうか?次回の総評では、物語全体の主題やハンナの人物像に迫ってみたいと思います。

■注釈
(*1)ここで全体主義の問題を考えてみます。

①ナチの問題
ネット上の感想文の中には、ハンナの行いを非人間的で酷い行為だと非難する感想がけっこうありました。でも、国家が全体主義化してしまった社会ではほとんどの国民は国家権力に逆らえずにハンナと同じような行動を取るのではないでしょうか。そうでなければ、そもそもホロコーストなど起こりようがありません。善良な市民であっても、次の日には処刑執行人になってしまう。それが全体主義の恐ろしさだと思います。私たち人間は自分の死を顧みずに正義を貫けるほど強い人たちばかりではないでしょう。また、強くとも多勢に無勢で駆逐されてしまうかもしれません。ほとんどの人間は当時のナチスドイツのような状況下におかれれば、やはり同じような行動を取ったのではないでしょうか。(もちろん、中にはユダヤ人を救った偉大な人たちもいます。ですが、それは限られたごく少数の人たちです。)そして、ここが難しいのですが、だからと言って、ハンナたちの犯した罪が許されるわけではありません。誰かがハンナたちを裁かねばならないのです。誰かがハンナたちの犯した罪を問わねばならないのです。しかし、ナチスドイツの国民だった戦後のドイツ市民に裁く資格があるでしょうか。そもそもナチスドイツを国家権力の中枢に据えたのは選挙でナチスを選んだ一人ひとりのドイツ国民だからです。そういう意味では、ドイツ国民もハンナと同罪だと思います。

では、誰がハンナを裁くことができるでしょうか?生き残ったユダヤ人なら裁くことが可能なのでしょうか?これには、半分は肯き、半分は首を横に振ります。彼らは生命の危険にさらされましたが、なんとか生き残ることができた人たちです。被害者ではあるけれど、一番の被害者ではないと思えるのです。(そして、厄介なのがユダヤ人らしさの問題がありますが、ここでは省略します…。)では、誰が一番の被害者なのでしょうか。それは殺された死者たちだと思います。そう、ハンナを裁くことができるのは、唯一、殺された死者たちだけだと思うのです。しかし、死者たちはもうこの世にいませんから、直接、死者たちが裁きの剣を振り下ろすことはできません。誰かが代わりに裁くしかないのです。しかし、それはあくまで死者の代理であって死者本人ではないのです。代理人はそのことをしっかりと意識しなければなりません。代理人たるドイツ人たちもやはり同じ罪びとなのだと思うのです。

この小説や映画をホロコーストを軽視するものだという批判があります。そういった批判する意見が幾つか出てくることは健全だと思います。しかし、その批判が増大して、全体の総意となって、作品そのものを抹殺するものとなってはいけないと思います。それではホロコーストと同じで全体主義が社会を抑圧することになってしまいます。ナチスという全体主義を抑えるために反ナチスという別の全体主義で社会を抑圧しては元も子もないと思います。真実の声を抹殺してはいけないと思います。全体主義を別の全体主義で裁いてならないと思います。地道な作業ですが、全体主義に流されないためには、全体の制度で防ぐのではなく、一人ひとりの個人が全体主義に抗う精神を培わなければならないのだと思います。

②全体主義の問題
ナチの問題はドイツの問題だけでなく、人類全体が抱えている問題だと思います。SF作家のフィリップ・K・ディックは次のように言っています。

二十世紀最大の脅威は全体主義だ。

(「フィリップ・K・ディック・リポート」のインタビューより抜粋)

私も同じように思います。そして、全体主義の問題は二十世紀に限らずに人類社会に常につきまとう問題だと思います。私たち人間は自分の中に悪を抱えて生きていると思います。その悪によって人間は誰しもナチのようなものを生み出す可能性を持っていると思います。ナチ的な要素を自分とはまったく無縁のものとして排除してしまうことは不可能だと思います。むしろ、そう思ってしまうことこそが、自分の悪に無自覚になり、いつしかその悪に自分自身が呑み込まれてしまう危険があると思うのです。人間は自分の中に悪が眠っていることを忘れてはならないと思います。ナチのような全体主義は私たちの心に内在しているものだと思います。そして、それを意識して行動することで、人間は悪を退けることができるのだと思うのです。

ナチ問題から学んだ教訓で全体主義に陥らないために、いくつか気をつけなければならないことがあります。

1つは有名なマルティン・ニーメラー牧師の次のような詩があります。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、
私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。

ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。
私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。

ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。

ナチ党はついに教会を攻撃した。
私は牧師だったから行動した。しかし、それは遅すぎた。

(マルティン・ニーメラー牧師「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」より)

他人事だと見てみぬふりをして見過ごしていれば、いつか自分たちに危険が迫ってきても、すでに手遅れとなっているかもしれません。

もう1つは、ナチは正当な手続きに則って選挙で民主的に選らばれた政党だということです。
ナチは政権を取るまでは比較的まともな政策を主張していたそうですし、実際に政権を取った後も経済政策では優れた実績を残しています。アウトバーンの建設など公共事業による需要を喚起するケインズ的な政策や直接税である所得税を導入して貧しい労働者に優しい政策を打ち出しました。ドイツの失業問題は大きく改善し、ドイツは第1大戦後の大きな賠償による行き詰まりから奇跡的な復興を遂げたそうです。また、そもそもナチが政権を取るまでの間、国内のナチの対抗勢力を暴力で黙らせたのが、ナチス党とは別組織の突撃隊(=SA)であり、その突撃隊もヒトラーの独裁体制が確立されると”狡兎死して良狗煮らる”の如く「長いナイフの夜」と呼ばれるヒトラーらの粛清によって一斉に逮捕・処刑されました。SAの最高幹部レームは「わが総統よ…」と言って自害したそうです。一方、ドイツ国民は評判の悪いSAが粛清されたことに喜んだそうです。しかし、ナチス・ドイツはそれからどんどんと危険になって行ったそうです。何が言いたいかというと、ナチスが最初から悪の権化なら見分けもついたでしょうが、実際にはそうではなくて、最初は比較的まともな政党だったということです。ナチスを悪の権化として悪魔的な政党という幻想を作って排除することで安心しているだけでは、第二第三のナチが台頭してしまう危険性があると思います。ですから、全体主義に対しては、よくよく”意識”して気をつけなければならないと思うのです。しかも、全体主義を封じるのに別の全体主義で封じたのでは元も子もないので、個人的に気をつけなければならないだろうと思うのです。

③南京事件
ここまで、ナチスドイツや全体主義の一般論を書いてきましたが、日本も、明治以降、戦争を続けてきたわけで、特に南京大虐殺などの戦争犯罪を犯しているのでドイツ人と立場は似ていると思います。ところが、「南京大虐殺は無かった」という意見がマスコミを賑わしたことがあったと思います。アカデミズムはそれを批判せずに無視したのですが、その結果、意外にも多くの若者が南京大虐殺は無かったと考えるようになったのではないかと思います。それはあまりにも目に余り、まったく無視してこのまま看過することは危険と考えて、私は、一時、ささやかながら、南京大虐殺についてネット右翼と議論したことがありました。ですが、最近はさすがに疲れたので、たまたま見つけた南京事件FAQ を引用するようにしています。このサイトの主張を支持して済ませるようにしています。いずれにしても、ドイツは他人事ではなく、ドイツにナチ問題があるように、日本も南京事件などの戦争の問題を抱えているのです。

ところで、脱線ですが、ネット右翼と言葉を交わすうちに、彼ら若者たちの気質の変化に気づきました。ネットで探したら、「なるほど!」と思えるまとめを書いてあるサイトがありました。iwatamさんの「ネット世代の心の闇を探る 」です。どうやらネット世代といわれる若者たちの現実認識が変化しているようなのです。実際に私も彼らと話したとき「変だな?」と実感しました。少し記憶に止めておきたいと思います。

④戦争の悲惨さを知るドイツと日本
第二次世界大戦の敗戦によって日本はドイツと似たような経験をしました。戦争に対してこれだけの反省をした国は世界でもドイツと日本をおいて他にはないと思います。私たちが積み重ねてきた戦争そのものに対する反省は決して間違ったものではないし、世界の中で先行した考え方でさえあると私は思います。他国も実際に同じような敗戦経験をしなければ、なかなか受け入れられない考え方なのかもしれません。ですが、戦争の悲劇が起こってからでは遅いのです。再び多くの血が流されてしまいます。だから、戦争の悲惨さを知っている私たちは容易に理解は得られなくとも、挫けずに戦争の悲惨さを人々に伝えていかなければならないのだと思います。

(*2)私が初めてこの物語を読み終えたときの読後感は、漠然とした印象でした。そのときは、まだハンナの直感に思い至っていませんでした。ただ、いろいろな問題が含まれており、モヤモヤとした感じでした。ただし、この最後の一文だけは、妙に心に引っ掛かって仕方ありませんでした。「なぜ、ミヒャエルはたった一度しか墓参りをしなかったのだろう?なぜ、何度も墓参りしなかったんだろう?」とぼんやりと不思議に感じていました。しかし、物語を頭の中でよく整理してみて、どうやらハンナの直感なるものがあることに気づき、この最後の一文と結び合わさったとき、すべての謎が解けました!すなわち、「ミヒャエルの愛は終わっていたのだ、最後にハンナが直感した通りに!」ということに気付いたのです。まるで、ドミノ倒しのように、物語のすべての謎が一挙に解けるおもいでした!それまでは「なぜ、ハンナは文盲を隠したのだろう?」や「なぜ、ハンナは自殺したんだろう?」という疑問はありましたが、この最後の一文に対する引っ掛かりがこの物語の鍵であるハンナの直感を確信させ、この読解を生み出すきっかけとなったのです。もちろん、「一度だけの墓参り」の意味が「愛が終わっていた」ことを意味しないと解釈することも可能だと思います。ですが、「一度だけの墓参り→愛が終わっていた」と解釈すれば、ハンナの直感という縦糸で物語に一本の筋が通り、物語全体が非常に首尾一貫したものになると思います。そして、ハンナの、謎めいた死者との対話もこの直感の延長線上にあるので見事に繋がると思いました。本当にこの最後の一文は、世界文学史上でも他に類を見ない見事な”鍵”になっていると思います。

余談ですが、もし、この小説が作者のベルンハルト・シュリンクにとって実話に近いものであった場合、もし、シュリンクが本当は何度も墓参りに行っていたとしたら、この小説は彼の贖罪を意味しているのかもしれないとも思いました。でも、そうだとしたら、ハンナの死の意味も少し違ってくるかもしれませんし、遅すぎたのかもしれませんが、シュリンクの本当の気持ちがどうであったかも、考えれば胸が痛むようで、深く考えさせられてしまいます。人の気持ちというのは本当のところは誰にも分からないものなのかもしれません。