2009年10月4日

『朗読者』を読む その5


■第3部読解
■第3部第1章(p191-p196)
この章では、ハンナに終身刑の判決が下された後の、ミヒャエルの心境の変化が描かれています。裁判が終わった後のミヒャエルはハンナを忘れるために勉強に専念しますが、偶然、スキーに行ったときに、寒さの感覚が麻痺したままスキーを続けてしまい、その結果、高熱で倒れてしまいます。そして、回復したときには、ミヒャエルは変わってしまっていました。その後、大学を卒業して司法修習生になっていたときには、アンビバレンツな苦悩の中にいることにミヒャエルは心地良ささえ見出していたのではないでしょうか。

ぼくはほんとうならハンナを指ささなければいけないのだった。
しかし、ハンナを告発すれば、それは自分に戻ってきた。
ぼくは彼女を愛したのだ。愛しただけでなく、選んだのだ。

(p195)

ハンナを愛することによる苦しみが、ある程度ぼくの世代の運命でもあり、
ドイツの運命を象徴し、そしてぼくの場合はそこから抜け出たり乗り越えたりするのが
他人よりもむずかしいのだ、と言われても、それが何の慰めになったろう。
それにもかかわらず、自分がこの世代に属しているという感覚は、
当時のぼくには心地よいものだったのだ。

(p196)

ここでのポイントは、第2部の冒頭でミヒャエルはハンナを失ったことがトラウマとなって親しい人間関係が築けなくなっていたのが、この第3部の冒頭では、さらに悪化して、罪びとであるハンナを愛することの苦しみによって、どこか感覚の麻痺した複雑な人間になってしまったことです。

■第3部第2章(p196-p199)
この章では、ミヒャエルの結婚と離婚と娘ユリアのことが描かれています。それから、離婚後の女性関係についても描かれています。ここでのポイントは、ミヒャエルが女性に求めたものはハンナであり、ミヒャエルはハンナを決して忘れられない点です。

ゲルトルートと抱き合っているときも、何かが違う、彼女ではない、
彼女のさわり方、感じ方、匂い、味、すべてが間違っていると思わずにいられなかった。
ぼくはハンナから解放されたかった。
しかし、何かが違うという思いは、けっして消えることがなかった。

(p196)

ちなみに、関係した女性たちにミヒャエルがハンナのことを話しても、彼女たちは聞きたがらなかったり、トンチンカンな分析をしたり、すぐに忘れたりします。言葉に対する思い入れが男女で違うのかもしれません…。さらに、ミヒャエルは言葉よりも行動の真実性についても少し触れています。

話の真実の中身は、ぼくの行動の中に含まれているのだから、
話はやめてしまってもいいのだった。

(p199)

言葉と本質、言葉とその言葉の意味するところ、つまり、シニフィアンとシニフィエ、ここではシニフィエは話の真実の中身ですが、ミヒャエルは、それは行動の中にあるというわけです。

■第3部第3章(p199-p204)
この章では、ミヒャエルのゼミの教授の葬儀に参列した様子が描かれています。まるで運命の糸に引かれるようにハンナの裁判という過去に遭遇します。ここでのポイントは2つあります。1つは亡くなった教授の人となりです。

教授の人生と業績についての弔辞からは、教授自身が社会の圧力から身を引き、社会との接点を失っていって、孤高の道を歩むと同時にいささか偏屈になっていった、ということがうかがえた。(p201)
やや思い切った推測になってしまいますが、この教授は現実と法の摩擦から厭世的になってしまったのではないでしょうか?ここでいう法とは、現実を仕切ってゆく言葉のことです。現実の前に(真摯な)言葉のひとの無残な末路のようにも捉えられないでしょうか?おそらく、教授は現実を真摯な言葉=法学で切ってゆこうとしたのではないでしょうか?ナチ時代の裁判に興味を持ったのも、裁判のあり方に疑問を持ったのが理由であるはずです。しかし、それは虚しく現実の前に敗れ去ったのではないでしょうか?そこまで推量で言ってはいけないのかもしれませんが…。(逆に言えば、他の法関係者は現実と言葉に適当なところで折り合いを付けていると言えるかもしれません。)
さて、もう1つのポイントはハンナとの関係を詮索した同窓生の話です。ミヒャエルは、結局、この同窓生の話を無視して電車に駆け込んで去ってしまいます。これは1つはミヒャエルがハンナのことをまだ人に話せるようには整理できていないことを表していると思います。もう1つは過去との出会いを表していると思います。

■第3部第4章(p204-p207)
この章では、ミヒャエルの仕事の選択について描かれています。

ミヒャエルは弁護士や検察官や裁判官など、実際に現実を裁く仕事には就きたくありませんでした。理由は裁くという行為が”グロテスクな単純化”に思えたからでした。結局、ミヒャエルは法史学の道に進むことを選びました。でも、それは逃避でした。その反面、歴史を学ぶことは、過去に閉じこもるわけではなく、現在に対してアクチュアリティのあるものでもありました。

歴史を学ぶことの意義の難しさがここにはあります。例えば、歴史は繰り返すというけれども、現実という複雑な複合体はまったく同じ条件などなかなかありません。仮に条件が異なってしまえば、まったく違った結果になることはよくあることです。ですから、歴史から単純化された規則性を見出すのは極めて困難でもあり、たとえ規則性を見つけても、現実は実験室ではありませんから、条件は一定ではなく、どんどん変わってしまい、結局、得られた法則は実用性に乏しい無駄なものになってしまうことが多いでしょう。ならば、歴史を学んでもあまり意味はないということになります。ですが、私たちはそれでも歴史を学ぶことに何らかの意義があるのではないかとあてのない期待を胸に歴史から学ぼうとします。

ぼくは当時『オデュッセイア』を再読していた。初めて読んだのはギムナジウムの生徒のときだったが、帰郷の物語としてずっと記憶にとどめていた。しかし、それは帰郷の話などではなかった。同じ流れに二度身を任せることができないと知っていたギリシャ人にとって、帰郷など信じられないことだった。オデュッセウスはとどまるためではなく、またあらためて出発するために戻ってくる。『オデュッセイア』はある運動の物語にほかならない。その運動には目的があると同時に無目的であり、成功すると同時に無駄でもある。法律の歴史だってそれと大差ないのだ!(p207)

今までのミヒャエルの人生の中では、哲学や法学による言葉のアプローチは現実の前に虚しさを曝け出してきました。そして、今度は、歴史という言葉で過去の現実を切り出してゆく道、歴史という新たな言葉のアプローチをミヒャエルは選んだのでした。ミヒャエルは哲学や法学では得られなかった知見や教訓を歴史からは学ぶことができるでしょうか?

■第3部第5章(p207-p211)
この章では、朗読の再開が描かれています。

ミヒャエルは離婚して不眠症になります。ミヒャエルは自分の人生を整理するために眠れない時間を読書にあてます。そして、ミヒャエルの人生で中心的な存在はハンナであることに気づきます。ミヒャエルは熟睡するために睡眠にメリハリをつけるために声を出して朗読を始めますが、その朗読の仕方はハンナのための朗読でした。そこでミヒャエルは朗読をカセットに吹き込んでハンナに送ることにします。ここでのポイントは、ミヒャエルはハンナのことを一番に思って朗読を始めたわけではないことです。カセットを送ることは確かにハンナのためでした。しかし、それは自分のためでもあったのです。

カセットには個人的なコメントは入れなかった。ハンナに問いかけることも、ぼく自身について報告することもしなかった。作品のタイトルを言い、著者の名前を言うだけで、あとはテクストの朗読をした。(p211)

■第3部第6章(p211-p215)
この章では、ハンナから手紙がやってくる話が描かれています。

ここでのポイントは、ハンナから手紙を受け取っていながら、ミヒャエルからはハンナに手紙を送らなかったことです。これはミヒャエルがいかに心を触れ合わせる対話をしなかったのかが表れています。そして、このことがハンナを大いに失望させたと後になって判明します。

この章では他にも、ハンナの人となりが分かるようなエピソードが出てきます。たとえば、ハンナは草花や小鳥や天気のことに注意深かったことが窺われます。また、文学に対しても鋭い感性を持っていることが分かります。また、筆跡からハンナの努力や進歩が分かり、さらに筆跡からハンナの精神性が読み取れたりします。

流れるような筆跡になることはなかった。しかし、生涯にそれほど多くの字を書かなかった年配者たちの筆跡にふさわしい、ある種の厳しい美しさがその筆跡にはあった。(p215)
ハンナの精神は決して硬直したり偏ったりしたような曲がった心の持ち主ではないと思います。むしろ、普通の人よりも、まっすぐな心の持ち主なのではないでしょうか。

また、ここでは文盲のひとの苦労についても書かれています。

それまでの何年にもわたって、ぼくは文盲についての記事を探しては、目を通してきた。文盲の人々が日常生活を送る際の寄る辺のなさや、道や住所を見つける際の困難、レストランで料理を選ぶときの大変さ。与えられた模範や確立されたルーティンに従う際の不安や、読み書きができないことを隠すために、本来の生活とは関係のないところで費やされるエネルギー。(p212)

■第3部第7章(p215-p219)
この章では、ハンナの出所が近い知らせが刑務所の女所長から知らされる話が描かれています。
ここでのポイントは、ミヒャエルがハンナに会いに行かなかったことです。ここでもミヒャエルの気持ちは複雑なものでした。出所後のハンナの生活環境を準備しているにも関わらず、ハンナには会おうとはしません。ミヒャエルが心の底からハンナを愛しているというわけではないのが見て取れると思います。ミヒャエルという人物の複雑さがあります。

ハンナとはまさに自由な関係で、お互い近くて遠い存在だったからこそ、ぼくは彼女を訪問したくなかった。実際に距離をおいた状態でのみ、彼女と通じていられるのだという気がしていた。……ぼくたちのあいだにあったことを蒸し返さないまま、顔を合わせることがどうやってできるのだろうか。(p218)

もしかしたら、ミヒャエルが愛したハンナとは、現在のハンナではなく、過去の幻のことなのでしょうか?
(その6へつづく)