2009年12月5日

ケイト・ウィンスレット その5


■「ホーリー・スモーク」(原題「Holy Smoke」) ジェーン・カンピオン監督(1999)
この映画は、インドで宗教団体に入信した女性ルースと、カルト教団脱退の専門家PJ.ウォータス(通称PJ)の悪戦苦闘の物語です。

■あらすじ
オーストラリア女性ルースは、旅行で訪れたインドで、あるヒンドゥー教の宗教団体に魅せられて入信してしまいます。仕舞には教祖と結婚するとまで言い出します。そのことを知った家族は彼女の洗脳を解こうと米国からカルト教団脱退の専門家PJを呼びます。そして、家族はルースを騙してオーストラリアに連れ戻します。騙されて連れ戻されたルースは激しく怒りながらも、渋々、三日間だけという約束で、PJと二人だけで脱退プログラムを受けることになります。

一日目、PJは豊富な知識や紳士的な振る舞いからルースの洗脳を少しずつ解いてゆきます。そして、二日目、カルト教団の実態を見せるビデオを見せて彼女の洗脳を解きます。しかし、ルースは洗脳を解かれたことで心の支えを失います。ルースはカルト教団の欺瞞を見抜きましたが、同時に帰るべき家族にも欺瞞があることを見抜きます。ルースは心の支えを失い、帰るべき場所も失って混乱してしまいます。混乱したルースはPJを誘惑して関係を持ってしまいます。

翌日、PJから「君のために関係を持った」と聞かされて、プライドを傷つけられたルースはより激しく無軌道に荒れてしまいます。ルースはさらにPJを振り回して再び関係します。(最初のセックスが男性本位のセックスなら、次のセックスは女性本位のセックスを表していると思います。)

次の日の朝、PJの助手で恋人のキャロルが様子を見にやってきます。キャロルは二人の関係を知って怒って帰ります。ルースもPJに恋人がいることを知って怒ります。PJはルースに謝り、満足するまで自分を責めろと言います。ルースはPJをなじりますが効果があまりないため、そこで思案したルースはPJを辱めるために、PJに女装させます。女装したPJを笑い者にした後、今度はルースがPJから攻められる番が回ってきます。そのとき、ルースはPJから「思いやりを持て」と言われてしまいます。「思いやり」、実はルースにとってそれは最大の弱点でした!実は、ルースは自分は「思いやり」のない冷たい人間でみんなから嫌われていると思っていました。「思いやりのない人間ということで、みんなから嫌われてしまう」というのがルースが心の奥深くに秘めていた最も恐れている”おそれ”だったのです。ルースは自分の弱点を突かれてドン底まで落ち込んでしまいます。

次の日、これまでの自分も嫌になり、そして、PJを誘惑してからかったことも心から後悔して途方にくれ、自分を完全に見失ったルースは小屋から逃げ出します。しかし、逆にルースに夢中になったPJはルースを引きとめようとして誤ってルースを殴ってしまい、ルースはその場に気絶してしまいます。家族に見つかるのを恐れたPJはルースを隠しますが、結局、家族にも見つかり、ルースにも逃げ出されてしまいます。逃げ出したルースを裸足で追いかけたPJは荒野で意識が朦朧として倒れてしまいます。意識が朦朧とした中でPJは踊るシヴァ神の幻影を見ます。PJの失態を知ったルースの家族は怒り、意識が朦朧としたPJを捕らえてトラックの荷台で運びますが、そんなPJを見たルースはPJに「思いやり」のような”憐れみ”の感情をはじめて抱きます。

一年後、ルースはインドに戻りますが、教団には入らずに独自に正道の探求に勤しみます。また、新たな恋人もできます。一方、PJはキャロルと結婚して双子を設けます。ルースとPJは恋人同士ではありませんが、ルースとPJの間には恋愛ではないけれども、深い愛情が芽生えていたのでした。

■映画を理解するための注意点
「タイタニック」を見てウィンスレットのファンになった人もいるかもしれませんが、ものの見事にその幻想を打ち砕く作品になっています。見ているこっちの方が「そこまでやっていいのだろうか?」と心配になってしまいました。せっかくファンになった人も「こう過激では恐れをなして逃げてしまうんじゃないか?」と思いました(笑)。タイトルの「ホーリー・スモーク」の意味は、「聖なる煙」という意味ではなくて、「こいつはたまげた!」的な意味らしいですが、確かに、この映画を見ると何度もぶったまげるような場面を目にすることになると思います。その驚きがこの映画の理解を難しくしている原因のひとつになっています。

また、3日間という脱退プログラムの中でテンポよくステップを踏むように物語を進行させるという都合のために、物語展開に不自然さや強引さを感じるかもしれません。ただ、逆に言えば、ステップごとに明確な意味があるので、全体を通して見た後に、各ステップ毎にどのような意味があるのかを考えれば良いので、物語の意味が掴みやすいかもしれません。

■ルースの属する2つの共同体
ルースの所属する共同体は、元々はオーストラリアの家族でした。それがインド旅行でババに出会って教団の一員になってしまいます。結論から言うと、どちらも欺瞞に満ちた世界でした。家族も、父親は秘書と不倫していますし、兄弟も本当にルースのことを想っているのか怪しいものでした。義理の姉に至ってはPJといちゃついていました。母親は誠実なのですが、ルースを教団から脱退させようという母親が占星術や水晶パワーを信じた話をするのは笑えました。最後にルースが逃げ出したことを聞いたときに、脱退請負人であるキャロルも含めて聖歌を歌い出したのには笑いました。一方、インドの教団も教団内では彼らなりのモラルはあるようなのですが、外部の人間を教団に引き入れるために手段を選ばず騙したりするなど欺瞞に満ちていました。また、インドでは、女性蔑視が強く、ルースはその矛盾に気づいていました。結局、いずれの共同体にもルースが満足できる居場所はありませんでした。

■ルースの恋愛観
また、ルースの恋愛は浅薄なものでした。ルースのこれまでの男の恋人たちはなんとも軽薄そうな感じでした。ルースの女友達の恋愛観も、恋人の外見に囚われて、その人の中身を見ようとするものではありませんでした。インドから帰った直後のルースが女友達に「外見ではなくて中身が大切だ」と言ったときには、ルースは今までの恋愛になにかしら物足りなさを感じていたのではないかと思います。

ところで、ルースとPJの関係は恋愛かどうかはハッキリしません。そもそも二人が肉体関係を持ったきっかけはルースが拠り所を失ったことによる混乱からでした。それまでは、別にルースもPJも互いを恋慕しているわけではありませんでした。ただ、パブで酔っ払いから救出されたときは、多少、ルースはPJの愛情を感じたかもしれません。しかし、その日の夜も二人は関係を持ちますが、その日の関係はPJへのからかいがきっかけでしたし、何よりも前日のPJ主体のセックスではなく、ルース主体のセックスをするという、恋愛よりはむしろ性愛に重きが置かれていました。さらに、翌日、PJの助手で恋人のキャロルの存在を知ったとき、ルースは嫉妬して怒りますし、その後のセックスもボロボロになったルースが混乱した中でのセックスでした。つまり、短時間の中で二人の心の変遷がめまぐるしく展開します。ですから、この間の二人は恋愛とも性愛ともハッキリとしません。しかし、たぶん、それで良いのだと思います。というのも、恋愛なんて勢いだったり、未熟さだったり、若さだったりが恋愛の条件だからです(笑)。

■ルースの人格の問題
元々、教団に魅かれるのは、本人が何らかの問題を抱えている場合が多いのではないでしょうか。この映画のルースは家族の問題や人格の問題を抱えています。確かに、教団の儀式で集団催眠の中でルースはエクスタシー体験を教祖の愛として受け取ってしまい、教団に心酔してしまいます。しかし、それよりも前にルースの抱える諸問題がルースを教団に走らせたのだと思います。

ところで、ルースの入った教団はカルト教団なのかどうなのかは実は明確な表現はなかったんじゃないかと思います。教団もカルト教団も実は共同体の構造自体は同じだと思います。では、何が教団とカルト教団では違うのでしょうか。一般的には、反社会的か否かが違いの目安とされるかもしれません。しかし、よく考えてみると、そもそも教団は社会の価値観と教団の価値観は違うというところから出発していると思います。社会の価値観をそのまま受け入れるのなら、何も教団という枠組みを作らなくて良いはずです。つまり、本来は教団の価値観と社会の価値観は相容れない関係にあります。ですから、程度の差はあれ、教団もカルト教団も反社会的となりやすいと思います。つまり、教団とカルト教団の違いを明確にすることは難しいと思います。ただ、いずれにしろ、教団を形成すれば、共同体の問題が浮上してくると思います。悩みのまったく無い、人々が完全に幸福な状態の理想郷のような共同体など存在しないと思います。ですから、教団に入ったからといって問題が解決するわけではないと思います。しかし、理想郷ではなく、一時的な修練の場としての共同体はあると思います。そこは理想郷というよりは、むしろ、理想郷とは正反対の戦場に近いかもしれません(笑)。そういった場では鍛えられるかもしれませんが、人間らしく生きる共同体としては好ましい所ではないでしょう。

話を元に戻します。ルースの人格の問題は映画の最後に明らかになったように、「思いやりがない」でした。ルースも強く自覚しており、PJの指摘がきっかけで「思いやりが大切だ」というダライ・ラマの言葉を思い出して、その大切さを思い出します。

■グレート・ラヴ
ルースとPJの関係は何でしょうか?恋愛の愛ではなく、もっと大きな愛にルースは辿り着いたのだと思います。まあ、この大きな愛というのは、博愛といえば博愛なのですが、ちょっとニュアンスが違うかもしれません。喩えて言えば、アメリカ先住民がスピリットの中でもその最大の最も大いなるスピリットのことをグレート・スピリットと言いますが、それと同じような感じで、恋愛など数ある愛の中でも最も大いなる愛としてのグレート・ラヴといった感じではないでしょうか。ルースはPJに対して、かつては恋愛感情を抱いていたかもしれませんが、今は恋愛や性愛を抱いていません。今のルースには恋人がいますから。PJに対してあるのは、恋愛や性愛の要素のない、純粋な愛だけです。人は別に恋人や親子でなくても、愛を抱けると思います。ルースにとってPJは恋人でも先生でもありません。単なる一対一の人間同士です。ただそれだけの関係の中での愛なのだと思います。でも、この愛さえつかんでいることができるのであれば、このとても大きな大きな愛に触れているという実感さえあれば、ルースはこれからも正しい道を歩むことができるのだと思います。

グレート・ラヴには、例えば、アルセーニエフ描くところの猟師デルスウ・ウザーラの愛があります。彼は、人間だけでなく密林にいる動物や虫など生きとし生ける者すべてに対して愛を注ぎます。探検隊と野営しているときに、残った食べ物を火にくべようとした兵士にデルスウは怒ります。食べ物が焼けて炭になってしまったら、誰も食べられなくなるではないか、と。兵士は誰も食べる者はいないと言いますが、それに対してデルスウは自分たちが立ち去ったあと、イノシシが来て食べるかもしれないし、イノシシが来なくても虫が来て食べるかもしれない。だから、火にくべずに林の中に捨てるのだと言うのです。デルスウは密林に住む生き物すべてのことをいつも心配しているのでした。確かにデルスウは猟師ですから、生きるために動物たちを殺します。しかし、決して無益な殺生はしませんでした。デルスウの愛は死が身近にある恐ろしくも美しいこの自然の世界の中にあって、すべての存在に注がれているのです。限られたごく親しい人たちだけに向けられる愛ではなく、密林に生きるすべての生き物に向けられる広大無辺の愛、グレート・ラヴがそこにはあったのだと思います。デルスウはこの愛と共にあったからこそ、密林の中で生き物たちと調和の取れた正しい暮らしを営んでいけたのだと思います。

■俳優の試練
この作品ほど俳優に試練を課した作品はないのではないかと思えます。例えば、PJを演じたハーヴェイ・カイテルは女装させられます。口ひげをはやして男くさい役柄なのに、口紅を塗られ、赤いワンピースを着せられます。あげく荒野で「結婚してくれ~」とかっこ悪くウィンスレットの足にしがみつかされます(笑)。一方、ウィンスレットはアンダーヘアも丸見えの全裸シーンがありますし、さらに立ったままオシッコまでします(*1)。他にもセックスシーンが多いのですが、セックスのクライマックスで「まだ、いかないでぇ」(Don't come!Don't come!)と言わされたり、PJにウィンスレットのパンツを降ろさせて舐めさせるシーンもあります。そして、そこで感じる演技をしたりします。この他にも酔っ払いにパンツをずり下ろされるシーンはあるし、鼻血を出すシーンはあるしで大変です(笑)。また、ジェーン・カンピオン監督がウィンスレットにアドリブ的に仕掛けたのではないかという体型に関する微妙な質問をするシーンもあります。なので、この映画はハーヴェイ・カイテルにもウィンスレットにも、ものすごい重圧、俳優としての試練がかかった映画ではないかと思いました。特にウィンスレットは時期的には「タイタニック」の大ヒットの後に受けた仕事だろうだけに、よくこの仕事を受けたと思います。ちなみに、この映画の海外での公開が1999年なのに対して、日本の公開が2003年になってしまったのも、この過激な内容からなんとなく理解できます(笑)。ウィンスレットは「タイタニック」の影響で変わるどころか、「タイタニック」の自身の成功に対して、より挑戦的・好戦的にこの作品を選んだのではないかとさえ思えてきます。ウィンスレットは決して独りよがりな人間ではないと思いますが、それでも「タイタニック」の成功をものともせずに我が道を行くのは、並々ならぬ彼女の精神力の強さを感じます。

■まとめ
インドの教団に入信したルースですが、ルースが元々属していた故郷の共同体(=家族や友人や恋人)にも問題がありました。また、教団やインド社会にも問題がありました。結局、どちらの共同体にも問題があるのでした。また、ルース自身にも問題がありました。ルースの人格の問題です。ルースは自分には思いやりが欠け、周囲からそんな自分は嫌われていると思っていました。(←まあ、程度の差はあれ、誰しも抱えている問題だとは思いますが。)PJの脱退プログラムによってルースの教団への幻想は打ち砕かれますが、同時にルースには帰る場所=拠り所が無くなってしまいます。その混乱からPJとルースの恋愛・性愛が始まりますが、結果、ルースの思いやりに欠けるという人格問題に逢着します。一方、PJはルースを本気で愛してしまいます。滑稽で深刻な状況に二人は追い込まれますが、ルースに慈悲の心が芽生えます。一年後、ルースは教団に属さずに自分ひとりで正道を探求します。と同時に、二人で試練を乗り越えたルースとPJの間には、恋愛ではない大いなる愛が生まれます。

■注釈
(*1)この映画でウィンスレットは大胆な全裸のヌードを披露していますが、いろんな意味で勇気のあるヌードだと思います。ウィンスレットのスタイルは一般的なモデルのスタイルと比べると正直なところあまり良くありません。彼女はウェストが太いと言われるかもしれませんが、実際には胴が短いと言った方が正確だと思います。胴が短いのでウェストがクビレようがないのではないかと思います。そのかわり足が長く、腿からお尻にかけて肉がついているので、そこにボリュームあって、対比的にドレスの上からだとウェストがクビレているいるように見えるのではないかと思います。

私は彼女の闇に浮かぶ全裸を見たとき、思わず「古代ケルト人だ!」と思ってしまいました。古代ケルト人がどのような体型なのかは正確に資料が残っているわけではありませんし、当然、私も古代ケルト人がどういった体型なのか知るはずもありません。ですが、なぜか、ウィンスレットを見て古代ケルト人という言葉が頭に浮かんできました。それにしても、ウィンスレットは大胆です。このあとの展開でも、ウィンスレットはPJを誘惑して彼に胸を触らせたり、キスしようとしたりします。さらに、最後にはその場でオシッコまでしてしまいます。このオシッコの意味はいろんな解釈が可能だと思いますが、ともかく、PJもこの常軌を逸したウィンスレットの誘惑行為に、ついに気持ちが揺らいでウィンスレットと肉体関係を持ってしまいます。それにしても、この演技をやらせたカンピオン監督も凄いですが、それを見事に演じきったウィンスレットにも圧巻です。