2010年2月7日

萱草


  萱草(わすれぐさ)
倉臼ヒロ

茅鎌子 使いもせず 萱草
(ぼうけんす)    (わすれぐさ)

蹲踞した 蝦蟇が降魔する 我は修羅
(そんきょ)(がま)(がま)         

黒猫の 銀髪寒に いだかれる
(かん)

(「倉臼ヒロ句集 萱草」より抜粋。)



萱草  … [わすれぐさ] かんぞう。ユリ科ヘメロカリス属(ワスレグサ属)の多年草の総称。
               葉は刀身状。夏、黄や橙色のユリに似た大きい花を数個開き、1日でしぼむ。
               「萱」と「茅」、どちらも和語で〈かや〉ということで対応しています。
茅鎌子 … [ぼうけんす] 安い鎌を指す。
蹲踞  … [そんきょ] うずくまること。
蝦蟇  … [がま] ひきがえる。
降魔  … [ごうま] 悪魔を退治して降伏させること。[がま]と転化して発声されることもある。
               降魔の剣を持つ不動明王の怖い顔から、降魔(がま)を恐ろしい様の意味で使う表現もある。
               例:降魔(がま)の相。
修羅  … [しゅら] 阿修羅のこと。人類に危害を加え不幸を招来する魔神。悪鬼・魔族の総称。

2009年12月31日

ゆらめく夕陽のように


私的魔女論を書いていたら、欧州の森たちに出会いました。
ドイツなど欧州では、あちこちに森を残しているようです。
日本も昔は万葉集に詠われたような豊かな自然があったと思いますが、
今は開発されたり植林されたりして、潜在植生といわれる昔のままの森はほとんど無くなってしまいました。
ですので、昔の姿のままで残っている欧州の森を羨ましく思います。
ほとんどは荒地のようですが、英国の湖水地方にもわずかに美しい自然が残っているようです。
その湖水地方の著名人には、桂冠詩人ワーズワースやピーターラビットのピアトリクス・ポターがいます。
また、私的魔女論を書いていたら、「夏の名残りの薔薇」など自然とケルト音楽を聴くようになりました。
ケルト音楽はどこか懐かしく、また、物悲しくもあり、失われた過去を懐かしむノスタルジックな気持ちになります。
そんな不思議な郷愁を誘うケルトの歌を聴くと、私はワーズワースの次の詩を思い出してしまいます。

ごらん、あの麦畑にただ独り
麦を刈り、歌うたう かなたの
寂しいハイランドの 乙女を。
留まるか、 さもなくば 静かに通り過ぎよ

乙女はただ独り、麦を刈り束ね
悲しい歌を うたっている。
ああ聞け、 この深い谷間に
その歌声が こだましている。

アラビアの砂漠の 木陰に
休らう 疲れた旅人たちにも
これほど 快い調べで
小夜啼鳥も うたいはしなかった。

これほど 心に響く歌声は
あの遥かな ヘブリディーズの海の
静寂を破って啼く 春の
かっこう鳥からも 聞かれなかった。

乙女の歌が どんな歌か誰にわかろう。
たぶん その悲しい歌は、
昔の哀れな、遥か昔の唱か、
それとも 遠い昔のいくさの歌か。

あるいは もっと鄙びた民謡か、
今日この頃の 聞き慣れた歌か、
どこにでもある、 またあり得る
この世の悲しみ、別離、また苦しみか。
それがどんな歌にせよ、乙女はまるで、
終わりなき歌のようにうたっている。
わたしは その乙女が手を休めず
鎌に身をかがめて うたうのを眺め
動かずに じっと耳を傾けた。
それから 丘に登ると、
その歌は 聞こえなくなっても、
ずっとあとまで その歌声はわたしの心に残った。

(ウィリアム・ワーズワース「麦を刈る乙女」より)

さて、人間は死ぬと、ほんの少しの間だけ魂がこの世界にとどまると言います。
そのほんの少しの間、魂は自分の好きな場所、お気に入りの思い出の場所に瞬時に飛んで行けるそうです。
そして、その場所でゆらめく夕陽のように、魂は最後の景色を眺めながら、溶けるように消えてゆくそうです。
私も最期は故郷の山の木々が生い茂るあの場所で、この世界の最後の景色を眺めたいものだと思います。

2009年12月30日

アイリス・マードック その2


■アイリス・マードックの思想
かつてインタビューした盲目の歴史学者ヴェド・メータはマードックを次のように評したそうです。

分析的というより、はるかに直観的な人である。

彼が言うように、マードックは言葉に縛られた哲学者ではなく、直観から言葉を紡ぎ出してくる哲学者だったと思います。彼女のエッセイを読んでも、あからさまな二元論的展開が見られ、これは彼女自身が二元論に縛られているのではなく、むしろ、言語が二元論に縛られていることをマードックはクールに見抜いていたからだと思います。ですから、彼女にとって言語はあくまで”思考の道具”に過ぎなかったのだと思います。

さらに、マードックは夫のジョン・ベイリーとの会話の中で「アイデンティティの問題がよく分からない」とも言っています。これは根本的にマードック自身が自己の中にアイデンティティというものをまったく規定していないからだと思います。アイデンティティは自己を何らかの枠組みの中に位置づけるときに発生する言語機能的なカテゴライズですが、マードックはそもそもそういった言語の拘束力から自由だったのだと思います。

マードックは哲学や小説など言葉に巧みで非常に優れた言語能力を持っています。しかし、彼女自身は言語に縛られていません。言葉を生業にしているにも関わらず、彼女は言葉からは自由な人だったと思います。

■アイリス・マードックの仏教
そんなアイリス・マードックは仏教徒でした。ただし、特に決まった宗派に属するというわけではなく、仏教に共感して、自らも実践する一人の仏教の実践者だったのだと思います。禅に興味を持っていて、来日したときには禅寺で参禅したりしたそうですし、また、宗教家のジッドゥ・クリシュナムルティにもインタビューしたりしたようです。おそらく、仏教の教えに心の深いレベルで共感していたのだと思います。

■アイリス・マードックの自然思想
それから、彼女の思想の特徴づけるもうひとつのものとして、アニミズムがあります。彼女は自然の喜びをよく知っていたのだと思います。例えば、彼女は全裸で川で泳ぐのが大好きでした。視覚や聴覚だけでなく、全身で自然の喜びを感じ取っていたのではないでしょうか。また、彼女は落ちている石をよく持ち帰ったそうです。石もただ眺めるだけでなく、握ったり、その重みを感じたりして、その存在を身体で感じられるからだと思います。

さらに興味深いエピソードで、旅行中に往路で野原に目印に置いておいた2つの空き瓶が復路で見つからなくなったことがありました。そのとき、その空き瓶を擬人化して、「紛失された空き瓶同士が互いに相手を見つけ出して幸せに結ばれるように」と願ったりしたそうです。彼女を知る他人はマードックのこのようなアニミスティックな態度を愚かな憐憫と捉えたようです。確かにアニミズムは幼い子供によく見られる幼稚なアニミズムと捉えられやすいですが、彼女の場合はどこかアメリカ先住民の精霊信仰に近いものに感じられます。あるいは、折口信夫のいう相手の気持ちに同化=共感できる類化性能の感覚かもしれません。

ともかく、マードックは哲学と小説が同居するクールでプラグマティックなリアリズムを持っているにもかかわらず、さらに、スピリチュアルなアニミズムも持つという相反する2つを持ち合わせる非常に珍しい感覚と才能を持った人物でした。

■魔女の目的
前回の記事で示したように、マードックは「人間の人生に目的は無い」と喝破しました。マードックの哲学的な感性や論理が導き出した人間に対する一般的で普遍的見解だと思います。ですが、マードック自身は言語に縛られない自由な思考の人であり、さらに非-言語的な直感の人でもありました。マードックのそういった面はどこか魔女に似ています。では、普通の人とは違う特殊な人である魔女たちの人生の目的は何だったのでしょうか?

そもそも魔女の飛翔の目的は何だったのでしょうか?普通、脱魂は危険を伴う行為です。飛翔は決して快楽を誘うようなものではなく、むしろ、バッドトリップを誘発するかもしれない危険な行為です。なのに、そんな危険を冒してまで飛翔した理由は何だったのでしょうか?さらに言えば、そもそも魔女の人生の目的とは何だったのでしょうか?彼女たちは何も残していませんから、その問いは永遠に謎のままです。ですが、魔女の素養を持った直観の哲学者マードックが作品の中でそっと語るものと実は同じだったのではないかと私には思えます。マードックは彼女の哲学書の中で脇道にそれる余談のように次のように書いています。

どんなにみじめであってもなお我々の自覚的意識は無限の価値を持っている。
次のように語るのはべリアルであって悪魔ではない。
いくら苦痛に満ちているとはいえ、この知性豊かな存在を、
その思いが永遠をさまよう存在を、誰が棄て去ることを望むであろうか。

(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

マードックには哲学では語りえない、何らかの知見があったのではないでしょうか。
その片鱗をマードックの小説に見ます。

マードックは小説「海よ、海」の中でチャールズに次のように語らせています。

「ひとり残らず地獄(バルドー)へ行くのかい?」
「さあー、ねえ。死の瞬間にチャンスがあるっていう話だ」
「チャンス?」
「自由になるチャンスだ。
死の瞬間には、一切の実在にかかわる想念総体が与えられ、
閃光のごとく人に訪れるという。
たいていのものにとっては、
これは―なんていうか―原子爆弾みたいな、ただの強烈な閃光にすぎんのだ、
戦慄すべき、目もくらむ、不可解な事象にすぎんのだ。
しかし、それが会得できて、捉えられたとき、人は自由になる」
「すると、瀕死の瞬間を知っていることが重要だね。
君の言う自由になるっていうのはなにかとくに―?」
「いや、ただの自由だ―涅槃の境というか―運命の車輪からの解脱なのさ」
「霊魂再生の車輪じゃないの?」
「そうだな、執着、渇望、強欲などわれわれを仮想の世界にしばりつけている
運命の車輪さ」
「執着だって?というと―愛もか?」
「世間一般でいう愛はな」
「そのとき、われわれの存在はどこか別の世界へ移転するのかな?」
「そういうのはイメージの問題で、今まさに現世こそがニルヴァーナだという人もいる。
イメージを説明するためのイメージであり、図像を説明するための図像なんだ」
「真理はそのかなたにあるってわけか!」

(アイリス・マードック「海よ、海」より抜粋)

つまり、魔女の目的は無限の旅人になることだったのではないかと私は思います。

また、マードックの最後の小説「ジャクソンのジレンマ」にも次のように描かれています。

ところで、この小説の主人公ジャクソンはとても奇妙な人物です。マードックがアルツハイマー病に侵されて苦しみながら書いた最後の小説であるため、一部の読者からは曖昧な記述を病気の所為とネガティブに評価される向きもあると思います。しかし、私にはそうは思えません。私にはこの目立たないジャクソンなる隠された人物こそが、言わば”則天去私”を具現化した人物に感じられるのです。別の言い方にすれば、「善の至高性」で示された善に限りなく近づきつつある完成された人格に思えるのです。

さて、そんなジャクソンも、やはり、最後に死の可能性について言及します。

しかし私にはまだ力が残っている、いつだって自分を始末することができる。
死、すぐそこにある。
私はやはり、私を探し出そうとしている者を恐れているのだろうか?
いやその人びとのことは覚えていないし、探している人間もいない。
昔、刑務所にいたのだろうか?思い出せない。
これからなすべきことをしなければいけないのに、
もうどこへも身動きがとれないところへ来てしまった。
こんな思いを振り捨てて立ち上がろうとしたとき、何か不思議な感じがした。
蜘蛛が彼の手を見つけて、その上を歩いていたのだ。
優しく手を貸して、その生き物を巣のほうに戻してやった。
彼は川のほうに歩いてゆき、橋を渡った。
しだいにペンディーンが近づいてくると、彼は微笑みを浮かべた。

(アイリス・マードック「ジャクソンのジレンマ」より抜粋)

おそらく、その死の先には、永遠の一瞬、限りなく無に等しい無限、完全な自由があるのだと思います。

以上で「私的魔女論」を終わります。

■参考文献
アイリス・マードック「海よ、海」
アイリス・マードック「ジャクソンのジレンマ」
アイリス・マードック「善の至高性」
ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき アイリスとの別れ1」

2009年12月29日

アイリス・マードック その1


■はじめに
アイリス・マードックについて書いてみようと思います。
アイリス・マードックは英国の作家で哲学者です。生涯に26編の小説と5冊の哲学書を出しています。
プラトンやサルトルなどの西洋哲学やシェイクスピアやドストエフスキーなどの文学に詳しく、
さらに、仏教や日本文学など東洋思想にも造詣が深いです。また、彼女はバイセクシャルでした。(*1)

■アイリス・マードックの略歴
1919年にアイルランドの首都ダブリンで生まれ、翌年、ロンドンに移住します。
1938年にオックスフォード大学サマーヴィル・カレッジの古典文学科で古典文学・哲学・古代史を学びます。
1942年に首席で卒業して、戦時文官として大蔵省に勤務します。
1944年に国連救済復興機関に入り、戦後のベルギー、オーストリアで難民の救援活動に従事します。
ブリュッセル滞在中にサルトルの講演を聴き、哲学の道に進む決意をします。
1947年にケンブリッジ大学で哲学奨学生となり、哲学を本格的に学び始めます。
1948年にオックスフォード大学で哲学講師となります。以後、1963年まで務めます。
1954年に処女作「網のなか」を出版します。
1956年に文芸評論家のジョン・ベイリーと結婚します。
1970年に「善の至高性」を出版します。
1978年に「海よ、海」でブッカー賞を受賞します。
1995年に最後の著作「ジャクソンのジレンマ」を出版します。
1997年にアルツハイマー病と診断されます。
1999年にその生涯を閉じます。

■アイリス・マードックの小説
マードックは「小説は分析の芸術であるよりはイメージの芸術である」と言っています。これは「戦争と平和」の著者トルストイの歴史に対する考え方に近いと思います。トルストイの歴史観について歴史学者の山内昌之は次のように言っています。

空間と時間における具体的な事件の総和だけが真理を含んでいる。
現実の男や女の相互関係、三次元的あるいは経験的に知りうる環境との関係における
現実の経験の総和こそ、真理を内包している

(山内昌之「歴史学の名著30」より抜粋)

文字列を一本の線で繋ぐような単線的な論理ではなく、複雑に絡み合った複線的で混沌とした総和が、歴史=現実の本当の姿だと考えたのではないでしょうか。その混沌とした総体がマードックのいうイメージという漠然とした形象なのだと思います。また、マードックが「自分には意識の流れなどない」といったのは、単線的で連続な論理に支配されているのではなく、そういった人間が勝手に作り出す偏った幻想からは自由に現実を捉えていると言っていると思います。

また、映画「アイリス」の中のマードックのセリフですが、「人間の愚かさを描くのは作家の特権だ」と言っているように、小説には”人間の愚かさ”が描かれています。同じように、人間の愚かさを描く英国の作家にジェーン・オースティンやシェイクスピアがいます。同じ人間の愚かさを描くといっても、二人は対照的でジェーン・オースティンは非常にモラリスティックで「お金で結婚を選んではいけない。人柄で選ぶべきだ」という道徳が作品に盛り込まれています。一方、シェイクスピアは人間の営為のすべて、愛や友情までも含めたすべてを、人間の愚かさとして、冷淡に哂っています。マードックはこの他にも数多くの作家の影響を受けているらしいですが、人間の愚かさを描く点において、この二人の作風のいずれをも含んでいるのではないかと思います。ただし、自由な性のため誤解されやすいですが、マードック自身は「より善き存在になろう」という道徳を重んじた人だと思います。

■アイリス・マードックの哲学
簡単に振り返ると、ニーチェが「神は死んだ」と言ったときには、人々の心から神のリアリティが無くなったのだと思います。それは神学も哲学も道徳も依拠していた土台を失ったことを意味します。それに対してサルトルが実存主義で乗り越えようとしましたが、レヴィ=ストロースの構造主義であっさりと否定されてしまいました。当時、マードックはサルトルの実存主義に影響を受けて哲学を始めましたが、時代が進むにつれて実存主義は構造主義によって乗り越えられてゆきます。しかし、マードックは構造主義には乗らなかったようです。マードックはあくまで人間の存在意義や生き方(=道徳哲学)といった哲学の根本的な問題から逃げなかったのだと思います。そして、マードックは著書「善の至高性」でその問題に一定の哲学的な解答を提示したのだと思います。以下、「善の至高性」に基づいてマードックの哲学を考えてみます。

■人生の目的
アイリス・マードックは人間について、そして、人生について、次のように語っています。

人間は本性上利己的であるということ、
そして人間の生はいかなる外的な目的も持ってはいない、というものである。
・・・・・・
つまり、人生は自己充足的で無目的なものである。

(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

とてもシンプルに人間の性質と人間の目的について語っています。

すなわち、

人間の性質 = ”人間は利己的である”
人間の目的 = ”人生に目的は無い”

ということです。

■神は存在しない
さらに、先の「人間の生に目的は無い」ということから、神についても言及します。

我々は、まさに見かけどおり、必然と偶然に左右され、束の間だけを生きる存在である。
これはつまり、私の見解では、伝統的な意味における「神」というものが存在しないということであり、この伝統的な意味がおそらくただ一つの意味なのである。
……
同様に、神に代わるさまざまな形而上学的代替物-理性、科学、歴史-は偽りの神々である。我々の運命を吟味することは可能であるが、運命を正当化したり、完全に説明したりはできない。我々はただここに存在している。

(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

ここでも、とてもシンプルに「神は存在しない」と小気味良く言っています。さらに、理性や科学や歴史に対して、その優位性を認めていません。

しかし、それでもマードックは言います。

いかにして我々は自らをより善きものにすることができるのか

(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

確かに「より善きものになろうとする意思はどこから来るのか?」の説明はありませんが、「人間の愚かさを笑う」作家マードックにとっては自明だったのだと思います。(悪党ぶる若者には善に根拠が無いという理由で、本気で善きものになろうとする意思を持とうとしないものがいますが、では逆に、その悪への意思が強い意思となるかどうかは疑問です。すなわち、問題は意思の弱さにあるのではないでしょうか。)

■善とは何か?
では、より善きものになろうとするのは良いとして、善とは何でしょうか?
マードックは善について次のように言っています。

善の構造の一番上にあるのは、完全に空虚な状態である。
つまり、善は、上にいくほど中身のない構造になっているのだ。
人間は、しばしば善が拡大していく様を夢見てきた。
彼らがそこにあるものとして当たり前のように考えてきた、
慈しみを内包するような善を夢見てきた。
しかし、それはまさしく夢に過ぎず、その点でまったく空虚なものだ。
人間の本性が善を絶対的に排除しているというのは正しくない。
広い意味では、善そのものが一貫した概念でさえないし、
善とは人間には想像できないものなのだ、ちょうど、物理学のある概念のように。
ただし、物理学の概念と違っているのは、善にはどこにそれが存在するか、
その存在する場所を指し示す方法さえないということなのだ。
なぜなら、善とは、初めから存在していないものなのだから。

(アイリス・マードック「かなり名誉ある敗北」より抜粋)

一体、これはどういう意味でしょうか?少なくとも、マードックのいう善は一般的な善悪の善とは違うようです。ここでいう善は、プラトンの善のイデアに近いものだと思います。プラトンの太陽の比喩でいうところの太陽です。

■善に近づく方法
マードックは人間がより善きものになるための方法を次のように言っています。
まず、善に近いづきやすいという理由から美を取り上げ、その具体的な方法として、芸術の経験、自然の享受、知的な訓練(=テクネー)を挙げています。

例えば、芸術については、次のように述べています。

芸術の無目的性はゲームの無目的性とは異なる。
それは人生そのものが無目的だということであり、芸術における形式は、
まさに自己充足的で無目的な宇宙のシミュレーションなのである。
善き芸術は、我々がいつもあまりに利己的であり臆病であるために
認識することができないもの、
つまり、微細で絶対的に偶然的な世界の詳細を明らかにする。
しかも、統一性や形式をもってそれを示すのである。

(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

ここでいう芸術の無目的とは、目的がどこか1点に向かうベクトルであるのに対して、無目的はベクトルがどこか1点に向かうのではなく、太陽のように全方向に照射されるあまねく光と考えれば分かりやすいのではないでしょうか。それに対して、遊びとしてのゲームの無目的は本当に目的が無いこと、ベクトルが無いことを言っているのだと思います。人間の営みにおける不純な目的やゲームにおけるきまぐれな有って無きがごとき目的よりは、芸術のように純粋に無目的であることはそこに宇宙の秘密が開示されてくるのではないでしょうか。









■善に至る道
そして、マードックは完全な善に至る道として、プラトンの洞窟の比喩における太陽によって説明しています。以下、「善の至高性」から一部抜粋しますが、省略することはできませんので、本来はテキストをあまさず読むのが最適かと思います。 

第一に世界は巨大で無目的で偶然的だからであり、
第二に人間は利己心によって目を遮られているからである。

他の事物の場合とは異なり、太陽を注視するのは困難なことである。

もろもろの線は太陽に収斂しているのである。
そこには磁石のように引き寄せる中心があるが、
しかし、中心そのものを見つめるよりも、収斂する周縁部を見る方が容易である。
その中心がどのようなものであるか我々は知っておらず概念化もしていないし、
またおそらくそうすることは不可能であろう。

愛の存在は、我々が卓越性に魅了され、
善へと向かう霊的存在者であることの紛れもないしるしである。
それは、太陽のぬくもりと光の反映なのである。

謙虚な人は、自己を無と見なすが故に、
他の事物をあるがままに見ることができるのであり、
かれは、徳の無目的性とその独特の価値、
そしてその要求の限りない拡がりを見るのである。

シモーヌ・ヴェイユは我々にこう告げている。
魂を神にさらすことは、魂の利己的な部分の受難ではなくその死刑宣告である、と。
謙虚な人は受難と死との距離に気づく。

(アイリス・マードック「善の至高性」より抜粋)

ここでは、プラトンの太陽に近づいてゆき、窮極的には太陽と自己とが重なり合わさることを目標としています。そして、驚いたことに、実はそのプロセスは仏教の「大乗起信論」が説くところの浄法熏習と同じメカニズムを言っています。実際には「大乗起信論」の熏習の方がより精緻にそのメカニズムを解き明かしていますが、原理的には同じことを言っていると思います。むしろ、マードックのいう方が直感的に分かり易いかもしれません。なぜなら、熏習(=移り香)よりは、光のぬくもりや明るさの方が私たちには実感しやすいのではないでしょうか。ともかく、これによって、プラトンの太陽、すなわち、”善のイデア”と「大乗起信論」でいうところの”真如”、さらには、”アラヤ識”がここに至って同一のものとして繋がったわけです。さらに、真如であることから、インド哲学でいうところの梵我一如もある意味同じだと思います。また、イスラムの哲学者スフラワルディーが「光の形而上学」で説いたという”光の光”もこの太陽と同じものではなかったかと思います。



マードックによってプラトン哲学を起源とする近代哲学は、言語的・哲学的・倫理学的な意味において、あるいは、意識のソフトウェア的なレベルにおいて、倫理学的な悟り、自性清浄心が覚醒する修道に至ったのだと思います。

■注釈
(*1)道徳哲学が彼女の主要な哲学の基底になっています。また、仏教徒でもあります。源氏物語や三島由紀夫を読んでいます。俳句も読んだようです。

■参考文献
アイリス・マードック「善の至高性」
アイリス・マードック「アイリス・マードック随筆・対談集」
ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき -アイリスとの別れ(1)」
ジョン・ベイリー「愛がためされるとき -アイリスとの別れ(2)」
平井杏子「アイリス・マードック」(彩流社)
日本アイリス・マードック学会「アイリス・マードックを読む 全作品ガイド」
宇井伯寿・高崎直道「大乗起信論」
井筒俊彦「意識の形而上学 大乗起信論の哲学」 

2009年12月26日

ケイト・ウィンスレット その8


■総まとめ
ここからは、「ウィンスレット 人と作品」全体の”まとめ”に入ってゆきたいと思います。

ここまで、その1からその7までウィンスレットの人となりと作品について語ってきましたが、ここからのまとめにはそれらとは直接的な関係、論理的な関係はありません(笑)。ここからのまとめには、その1からその7までを俯瞰したときに見えてくるもの、透かしたときにその向こう側に見えてくるものについて語りたいと思います。

言い方を変えて、例え話ですが、その2からその7までを1のウィンスレット本人という円周上の任意の点だと考えて下さい。6個の点を白紙の上に書いたとき、そこに円が浮かび上がってきます。円周が浮かび上がってきたら、円の中心が浮かび上がってくると思います。例えば、半径rの円周は関数x^2+y^2=r^2という点の集合で表されます。しかし、円の中心はこの集合には含まれず、点として表出してきません。円周上のすべての点から等距離にある円の中心なのに、目に見える点としては表れてこないのです。喩えるなら、円周上の点の1個1個を各々の論理のまとまりだとすると、論理のまとまりを集めてレンガのように論理的に順番に積み上げていっても、円の中心が最終的な結論の場合は最後に積み上げたところに結論がくるわけではありません。結論は表出しないのです。ですが、私たちはたとえ実在の点として表れてこなくても、円の中心の存在を想像力で知覚することは可能です。私がここで試みたいのは、そのような見えざる中心点を指し示すことをしたいと思います。これらの論理は雪の結晶における水と核(=水ではないモノ。塵)の関係に似ていると思います。ただし、この喩え話はあくまで論理のイメージであって厳密には論理的ではありません。


長い前置きをしておいてなんですが(笑)、ここでウィンスレットと比較する、あるいは、浮かび上がらせる補助線として、別の女性たちについて手短に取り上げてみたいと思います。

■もうひとりのケイト
まず、ウィンスレットと並んで、演技派女優として名高いケイト・ブランシェットについて考えてみます。ブランシェットはウィンスレットとは対照的に繊細で細やかで器用な演技をします。いや、まあ、ウィンスレットも本当はそうなんですが、ウィンスレットの場合、圧倒的に力強さや破壊力が目立つので、繊細さという面は見落とされがちです。で、ブランシェットはキャラクターによってまったくの別人に扮しているように見えます。その変身ぶりはとても見事です。一方、ウィンスレットも演じるキャラクターによってまったくの別人に変身しています。しかし、この二人の変身を見比べたとき、どうも変身の仕方に根本的な相違があるように思えます。確かに、演じるキャラクターが違うので、一概に二人を比較するのは困難です。しかし、やはり、どうも二人は変身の原理が根本的に違うと思います。一体、何が違うのでしょうか?
まず、ウィンスレットですが、彼女の変身は、一見すると、何の変哲もない変身に見えます。黙って座っている場合などは、下手をすると、変身しているのかさえよく分からない、ごく自然体に見えるかもしれません。しかし、映画を見始めて、彼女の演じているのを映画の進行と共に見続けていると、彼女が別人であることに気がつきます。彼女の感情の動きを反映した反応から、彼女がどう感じどう考えどう反応しているかが分かります。そして、彼女の中身が変身によってまったく別人であることがはっきりと分かります。喩えるなら、同じ筐体なのに中のOSはまったく別のOSに変わっていたような感じです。もう少し具体的に言えば、人格が別の人格に書き換わっています。しかし、同時にその一方で、はじめにも書いたようにウィンスレットらしさのようなものは感じられます。同じ人なのだから、ウィンスレットらしく感じられるのは当然と思うかもしれません。あるいは、彼女の演じるキャラクターがどの作品も何がしか共通点があるのかもしれないと考えるかもしれません。確かに彼女の演じるキャラクターは気の強い女性が多いかもしれません。ともかく、ウィンスレットの変身はまったくの別人になっているという感覚と同じウィンスレットらしさがあるという感覚の2つの感覚があると思います。


一方、ブランシェットですが、彼女の変身は、一見して、すぐに変身していると分かります。彼女は演じているキャラクターの特徴をよく掴んで表現しているからです。形態模写や先鋭化、あるいは、ある種のデフォルメと言っていいかもしれません。彼女はキャラクターの持つ表象を実に見事に体現してしまいます。恐ろしいまでの器用さと言うべきでしょうか。彼女の力を最大限生かせば、例えば、演じるキャラクターが実在の人物だった場合、ブランシェットがその人物を演じれば、本人よりも本人らしくなるかもしれません(笑)。笑い話のようですが、実はそこにこそ、ブランシェットの変身の原理の秘密があると思います。

ウィンスレットとブランシェットの変身の原理の違いは何でしょうか?一挙に答えに行きます。その違いは内側からの変身と外側からの変身の違いです。ウィンスレットは内側からの変身であり、ブランシェットは外側からの変身です。ウィンスレットは内側(=核)からキャラクターに同化するため、その表象が内側から外側に表出してきます。一方、ブランシェットは外側(=表象)からキャラクターに同化するため、外側からキャラクターの内側(=心奥)に浸透してゆきます。そのためにブランシェットは表象が際立って本人よりも本人らしくなり、ウィンスレットは別人なのにバランスを保って自律的に運動可能な全体性を獲得しているのです。ウィンスレットの場合、喩えるならば、別のOSなのに生きて動くOSとして全体としてなんら損傷なく、ウィンスレットの中で機能し動いているのです。

■二人のバレリーナ
次に、女優とはまた違った別の世界の例として、二人のバレリーナについて手短に考えてみます。

一人はグルジア出身でボリショイバレエ団のプリマ・バレリーナだったニーナ・アナニアシヴィリです。もう一人はフランス出身のバレエ・ダンサー、”現代バレエの女王”と言われるシルヴィ・ギエムです。二人は共に天才的なバレリーナですが、そのバレエのスタイルはまったく対照的です。喩えるならば、アナニアシヴィリが太陽ならば、ギエムは月です。あるいは、アナニアシヴィリが炎なら、ギエムは氷です。彼女たちは時代を代表するダンサーでしたが、共にそのスタイルは正反対と言っていいくらい全く異なるものでした。次に二人のバレエについてそれぞれ考えてみます。

まず、アナニアシヴィリです。彼女の代表作は「ドン・キホーテ」です。アナニアシヴィリ演じるキトリは実に見事でした。バレエ史にもその名は永遠に刻まれることでしょう。いえ、おそらく、彼女のキトリを凌駕するバレリーナは、今後も現れないでしょう。一体、彼女の何がこれほどまでに見る者を魅了させるのでしょうか?専門家は言います。グラン・フェッテの連続回転が高速なのに全然ぶれない、安定している。しっかりした基礎の上にある華麗な跳躍や回転をほめたたえる。あるいは、その華麗さとは対照的な繊細な演技力を誉めたりもする。しかし、私に言わせるとそれはちょっと違うのです。そうじゃないのです。例えば、日本人のバレリーナは人一倍練習熱心で正確に踊るんじゃないでしょうか。しかし、アナニアシヴィリと彼女たちのバレエを比べてみれば、何かが大きく違う。確かに欧米と日本の体格の違いや物理的な動き・物理的運動の違いがあると言うかもしれません。科学的・技術的に捉えれば、そういった違いとなって表れてくるのかもしれません。しかし、そうじゃないんです。そういったことを追究しても、なぞっても感動するダンスにはならないと思うのです。私たちを魅了するのは何も機械的に正確な軌道やうわべだけの表現力ではありません。では、一体、何が私たちを魅了するのでしょうか?


例えば、まず、アナニアシヴィリの緩やかで正確な動きを見たとき、一見、何の変哲もないダンスに見えます。しかし、その何気ない簡単なはずである動き、にも関わらず、私の心には深い残像が残ります。ここでいう残像は視覚の残像ではありません。これは心の残像、記憶の残像というべきものです。喩えるならば、私の記憶媒体を樹脂状の長方体だとすれば、バレリーナが空間に描いた優美な曲線が、レコード針がレコードの溝を彫るように、その長方体に痕跡として彫り刻まれるような感じのです。そして、その痕跡の彫りの深さや繊細さや優美さが何ものにも勝っているのが、アナニアシヴィリのバレエなのです。喩えるならば、他のバレリーナの描く曲線が平面的ならば、アナニアシヴィリの描く曲線は立体的なのです。しかも、その彫られた曲線は硬く、かつ、しなやかで、滑らかで、かつ、強靭なのです。優美でありながら力強く、伸びやかでありながら、その彫りは深く重厚でしかも繊細なのです。そういった曲線が私の記憶の樹脂に彫り刻まれれば彫り刻まれるほど、私は心地良さ・気持ち良さを感じるのです。一体、何が他のダンサーたちとは違うのでしょうか?それはひと言でいえば、その彫られた痕跡は”生きた曲線”なのです。


では、”生きた曲線”とは何でしょうか?日本人にとって”生きた曲線”を理解することは、ある意味、簡単かもしれません。なぜなら、最良のテキストがあるからです。それは何かと言うと、空海の書です。私は空海の書に同じような”生きた曲線”を感じます。空海の書は機械のように正確というわけではありません。なのに私たちはそこに何か感じています。一体、何を感じているのでしょうか?私たちが感じているもの、それは生命です。書から空海の生命力を感じ取っているのです。空海の書からは、筆の先の先、毛先の一本一本、その一本一本の毛の先の先まで空海の神経が行き届いているのが感じられるのです。空海の充満してあふれ出さんばかりの生命力が筆の先まで行き届いて、墨にまで生命が乗り移って紙の上で文字となって踊っているのです。しかも、その生命力はただ元気の良い若者のような一本調子の元気さとはまさに次元が違うのです。例えば、万華鏡を思い浮かべてみて下さい。若者の元気さは確かに生命力に溢れています。しかし、それは万華鏡で喩えれば、1つの鏡像に過ぎません。ところが、空海の元気さは万華鏡のようにいくつもの鏡像となって花開くように多様多彩な多次元なのです。一本調子ではなく、生命が自由自在・自由闊達にあふれ出すように多彩に踊っているのです。すなわち、若者の元気さのような底の浅いものではなくて、空海の元気さには人間としての深みや豊かさがあるのです。私は空海の書を見るとき、私の中では、私のいるこっちの世界と空海のいるあっちの世界で向かい合わせになって、掌と掌を合わせるようにして空海の生命力の暖かさが伝わってきます。そして、腹の底からこみ上げてくる笑いのように喜々とした生命の喜びを感じます。そのとき、私の頭上では万華鏡が展開するように曼荼羅が華麗に花開くような喜びを感じるのです。話が大きく脱線してしまいました。私たちを感動させるもの、それは生命力なのです。(*1)


話をアナニアシヴィリに戻します。アナニアシヴィリのバレエには、何気ない簡単にしぐさにさえ、本当にシンプルな痕跡にさえ、私たちを感動させるものがあります。そして、その根源にあるのは彼女の生命力があるから感動するのです。心の樹脂に刻まれた簡単な彫りにも関わらず、その彫りには印象深い深みや重みを感じるのはそういった生命力があるからなのです。(*2)

さて、あとは簡単です。彼女の華麗な跳躍や回転に感動するのはなぜか?それもまったくそのままです。生命力の爆発、生命エネルギーの炎が燃え上がっているからなのです。私たちは彼女の激しい生命の火柱に酔いしれて喜びの歓声を上げるのです。また、彼女の存在そのものが太陽なのは偶然ではありません。彼女は無意識かもしれませんが、生命力を外部へ向かって爆発・発散・放射しているからこそ、彼女の存在が太陽のように感じられるのです。つまり、アナニアシヴィリは自分の中で燃えるこの生命の炎を自分でしっかりと掴み、それをバレエとして昇華=シンクロさせているからこそ、彼女のバレエは世界中の人々を最高に感動させるのです。


一方、対照的なのが、シルヴィ・ギエムです。アナニアシヴィリを太陽とするならば、ギエムは月といえます。ギエムの特徴はその可動域の広い柔軟な関節です。簡単にいえば、開脚で古典では大きく広げ過ぎては品がないという範囲を、その可動域の広い特性を生かして、はるかに超えて大きく広げることで、今までにない新しい境地をバレエに切り開きました。しかも、その動きはとても細やかで蜘蛛の足のように複雑な動きを変幻自在にこなします。古典バレエから現代バレエへの変革でした。その動きから詩的な宇宙的なイメージあるいは月のような冷たさを感じると思います。また、ギエムのしなやかだが筋肉質な肉体は、解剖されるのを待つ冷たい筋肉を感じさせます。現代人には古典バレエは退屈に感じられ、ギエムのバレエは詩的で知的に感じられると思います。アナニアシヴィリが自然の大地から立ち上がる生命の炎だとしたら、ギエムは無生物の凍った月面に降り立った銀色のボディと真白い肌をした女神といったところでしょうか。あるいは、アナニアシヴィリが燃焼・炎なら、ギエムは氷結・無機質といったところでしょうか。その名の通り、現代では現代バレエが主流となっているんじゃないでしょうか。(ギエムも激しい炎のようなバレエだと感じる見方もあると思います。実際、非常に激しく動いています。ただ、それは表面的には激しいのですが、赤い炎ではなく、青い炎に感じられます。あるいは、デフォルメされた記号的激しさであって、生命の炎そのものの激しさとは違うと思います。伝統を重んじる古いタイプの振付師たちがギエムを軽視した理由もそこにあると思います。)


ここでちょっと時代に逆行した話をします。なぜ、現代バレエがバレエの主流になるのか?古典が退屈に感じられるのか?それは舞踊のアウラが人々の心から失われつつあるからです。本来はバレエとて舞踊のひとつです。そもそも舞踊の何が楽しいのか?舞踊を踊るとき、私たちの魂は”魂振り”の喜びを感じるのです。舞踊によって魂をゆすぶって身体は奥底から喜びに笑うのです。他人が踊っているのを見て楽しいのは、自分の中の魂がくすぐられ、くすぶってくるから楽しいのです。そして、仕舞には自分も踊りたくなって踊りだしてしまうのが、本来の舞踊だったのです。舞踊のアウラの記憶とは、このような踊りだしたくなる魂の共振・連鎖反応です。ところが、現代人はそのアウラを忘れてしまいました。生れ落ちたときから知りません。自然の大地からも引き剥がされて、コンクリートの無機質な都会で暮らしています。大地を蹴って飛び上がり、汗を飛ばして身体を躍動させて、喜びに笑う楽しさを知りません。だから、土や汗の匂いのしない、そういった生命を排除する現代バレエが主流になってしまうのです。「ギエムのバレエを初めて見たとき、今までのバレエは何だったのか」という人がいますが、それは今までのバレエをちゃんと見ていなかったからです。そういう人は少女趣味でバレエを見ていたのでしょうか?バレエに表れる生命の曲線をちゃんと見ていなかったのではないでしょうか。ともあれ、現代バレエというアプローチを否定するものではないけれど、本来の舞踊の本質を失くしてしまってはいけません。実はこの現象はバレエだけでなく、サーカスでも同じです。土くさいロシアの伝統的なサーカスは廃れて、カナダのアート・サーカスが世界を席巻しています。これは古典バレエや伝統的なサーカスを現代人が感覚的に理解できなくなってしまったがために起こっているのだと思います。そして、その失われた感覚とは、実は地球上からどんどん失われている緑の自然と同じものなのです。古いもの、新しいものといった違いではなくて、そこには大切なものがあるのです。自然の森はアナニアシヴィリや空海の生命の海と実はとても深い深いところで繋がっているのです。今、その繋がりがどんどんと切れていっているのです。そんな大切なものを人間は失いつつあります。だから、なんとか繋ぎとめられたらと思います。(*3)

話をギエムに戻します。ギエムの世界は詩的で死的です。ギエムの世界が究極に辿り着くところ、それは身体という、本来は汗をかき、息をあえぎ、有機的で生々しい肉体であった身体を、どんどんとそういった要素を切り捨てていって、無機質で冷たい無生物な状態に近づけることによって、具体から抽象へと向かわせることに狙いがあります。その結果、そこに残ったもの、表れるものは、何でしょうか?それこそが、生命の純粋イデアなのです。例えば、花という具体的・物理的な存在から、その花の本質=イデアだけを取り出したとき、初めて、花そのものの真の美しさに到達できるのではないかという試みです。花が物理的存在として持つ、花びらや、雄しべや雌しべ、茎などのすべての具象をぬぐい去ったとき捨て去ったときに、はじめて立ち表れる”美”こそ、花本来が持つ純粋な美、花の純粋イデアそのものではないか!というのです。あるいは、身体から身体性をどんどんと剥ぎ取っていったとき、どうなるか?しかも、その剥ぎ取り方は研究所のラボで科学者が硬質でメタリックなメスによって身体から肉を切り取って解体するような剥ぎ取り方です。身体から肉も骨も無機質なメスで切り取られ、切り刻まれて分解され尽くしたあとに残ったのは、1本の試験管の中でホタルのように弱々しく光る、小さな小さな魂かもしれません。しかし、そんな自虐的・自己言及的・自己破壊的な行為に及んでも、生命の純粋イデアに触れたいという人間の切なる想いがある、といえるかもしれません。ですから、ギエムのバレエは、一見、生命の讃歌に逆行しているようですが、その実、限りない遠回りをしつつ、無限遠点にあるその最終目標は”生命の純粋イデアに辿り着く”というものであり、ギエムのバレエはその決死の試みなのだと思います。


まとめます。ギエムのバレエは生命のイデアの探求です。身体性を限りなく剥ぎ取ったその果てに、純粋な生命である生命のイデアに辿り着くための死的試みです。微分=差異化の科学的分析手法に似た一種のミニマリズムと言えるかもしれません。詩でいえば、マラルメです。マラルメは”意識の極北”の場で”完全に死んだ”とき、”冷たくきらめく純粋な星たちの国、万物が無生命性の中に凍てつき結晶した氷の世界、あらゆる生あるものが消滅した死の世界”に辿り着き、死と絶滅以外の何ものでもありえない戦慄のその世界で、”永遠のイデアである絶対美を見出した”のです。

一方、アナニアシヴィリのバレエは自らを燃え上がらせる生命エネルギーの燃焼です。その燦然と燃え上がる生命の炎は人々を魅了してやみません。ギエムもアナニアシヴィリも共に二人は生命への異なったアプローチなのです。ギエムは差異化によって生命を客体化=異化して自分を切り刻むようにして生命のイデアを見出そうとします。一方、アナニアシヴィリは生命エネルギーと同化(=シンクロ)して自分を燃え上がらせて生命エネルギーの燃焼に喜びを見出します。二人の違いは、極端に言えば、生命エネルギーの異化と同化の違いと言えるかもしれません。


■まとめ
最後なので、妄想をツインターボで全開させます(狂笑)。

これまで、このシリーズを通してウィンスレットの作品の意味を見てきました。そして、ウィンスレットがその意味を正確に理解した上で実に見事にその役柄を演じてきたことが分かると思います。そして、作品の意味を理解するのにも役柄を演じるのにもそれらを助けているのは、「その7」で述べたようにウィンスレットが性や意味についてエネルギーのレベルで作品や人物の意味をエネルギー的に把握しているからだと思います。また、この「その8」で述べたように、ケイト・ブランシェットと比較すると、ブランシェットが外側からの変身であるのに対して、ウィンスレットが内側からの変身であることが分かると思います。また、アナニアシヴィリとギエムを比較すると、ギエムが生命力を限りなく消滅することによって生命のイデアを浮き上がらせているのに対して、アナニアシヴィリは逆に生命の炎と一緒になって燃え上がっているのが分かると思います。つまり、彼女のエネルギーと彼女のバレエがシンクロしているのが分かると思います。そこで、これらを総合的かつ直感的に判断して、ウィンスレットの変身で起こっているエネルギーの流れについて、妄想を最大限に発揮して以下のように想像力を働かせてみたいと思います。

ケイト・ウィンスレットの演技には、ウィンスレット本人とは全く異なる別人に変身している部分と、そうではなくて、何某かのウィンスレットらしさを残している本人が残っている部分の2つがあるように思います。なぜ、そう感じるのでしょうか?その理由は、実はエネルギーは2つの流れから構成されているからだと思います。1つはエネルギーの渦巻きです。もう1つは周囲に向けて放射される光源です。(下図参照)


そして、全く異なる別人に感じる部分はこの渦巻き状のエネルギー流が変形しているからだと思います。一方、ウィンスレットらしさに感じる部分はこの光源の中心であるエネルギー源から独特のパターンと波長で放射されるエネルギー波を私たちが当人と認識するからだと思います。

すなわち、エネルギーは渦巻きと光点の2つのエネルギー流で構成されていると思います。そして、この2つのエネルギー流は実に奇妙な重なり合わせになっているように思います。というのは、2つは同じ場で重なっているからです。同じ場にありながら、この2つは全く別の次元に存在しており、表層より奥の深層では、2つは混じり合うことなく、それぞれが独自の流れを延々と続けているように感じられるからです。実に不思議で奇妙なエネルギー構造です。


さらに、ウィンスレットの変身で行われているのは、この渦巻き状のエネルギー流の変形だと思います。

ここでちょっと、補助線を引きます。稚拙な例かもしれませんが、寺沢武一の描いたSF漫画で「コブラ」という作品があります。この漫画の主人公コブラは左手がサイコガンというレーザー銃になっています。サイコガンとは、自分の精神エネルギーをビームのエネルギーに変換して撃つレーザー銃という設定になっています。このサイコガンの特徴は通常のレーザービームは直進しかできないのですが、サイコガンはエネルギー源が精神エネルギーであることから、コブラの意志に従って自分が曲げたいように自由自在にビームを曲げられることです。ですから、サイコガンには、たとえ敵が物陰に隠れていても、ビームを曲げることで敵にビームを命中させられるという利点があるわけです。

さて、話をウィンスレットの変身に戻します。ウィンスレットの変身も、実はこのサイコガンのように、この渦巻き状のエネルギー流を自分の意志で変形しているのだと思います。例えば、生命エネルギーのまっすぐな火柱を自分の意志でグニャリと曲げるような感じです。ただし、ウィンスレットが行っている変身はトータルな変形ですので、エネルギーを部分的に曲げるといったようなものではなくて、渦巻き全体の変形だと思います。例えば、渦巻きの輪が広くなったり狭くなったりやエネルギー流の回転が速くなったり遅くなったりです。さらに、もっと全体的に立体的に渦巻きが変形したりもします。渦巻きの形状が壺型になったり、円柱型になったり、あるいは、もっと極端な場合は、渦巻きが細い筋のような3つの渦巻きに分裂したり、緩やかな流れのガス状のカオスになったりです。まったくの別人に変身するとは、この渦巻きの全体の形状がまったく別のパターンに変形することです。(*4)


ウィンスレットの変身した人物が人格としてトータルな全体性をなぜ保ち得るのかの理由がここにあります。以下、理由を述べます。おそらく、ウィンスレットの変身はまず人物の主な特徴を捉えることから始まっていると思います。ウィンスレットは自分との共通点から変身するキャラクターの特徴を手探ることが多いと思います。それは建物で喩えれば建物を支える主な支柱を建てることから始めます。あるいは、人格をOSで喩えれば、基本となるコード群です。そして、その次がウィンスレットの独特の特徴なのですが、ウィンスレットはエネルギー流を感覚的に全体のバランスが取れるようにそれに合わせて変形しているのです。支柱を杭と見立てると、杭にまとわりつくエネルギー流といった感じです。普通の人においては、本当はエネルギー流が先か杭が先か、どちらが先に形成されたかは分かりません。生まれたときはエネルギー流が先にあって、杭が後から形成されますが、次第に人格が形成されると、新たな杭が古い杭を支点にして打ち込まれ、その杭に合わせてエネルギー流も流れを変えてしまうからです。エネルギー流は自律して運動していますから、新たな杭にまとわりついたエネルギー流は渦巻き全体として新たに独自の形状を形成してゆきます。したがって、その結果、ウィンスレットが変身した人物はそのキャラクター独特の個性を備えた”生きた人間”として生まれ出てくるのです。その人物の特徴を兼ね備えながら、エネルギー流は全体性を保ってトータルな人間として現れてくるわけです。うわべだけコピーされた人形ではなく、生身の”生きた人間”としてそのキャラクターが動き出すわけです。

ところで、杭が多ければ多いほど、人間は複雑なエネルギー流になります。例えば、杭をコンプレックスやこだわりと捉えると分かりやすいと思います。もちろん、杭はそういうものばかりではなく、モラルのような人間として大切なコードもあります。ともかく、余計なコードが多いと流れは複雑になってしまいます。余計なこだわりがあったら、変身が困難になります。ですから、変身のためには、余分な杭は不必要です。ウィンスレットの精神構造を考えると、比較的、シンプルな精神構造になっているのではないかと思います。彼女はよく整理して余計な杭を捨てたでしょうし、人物に変身することを積み重ねることで、どんどんそぎ落としていったように思います。ですから、ウィンスレットのエネルギー体はとてもシンプルで円柱のようにスッキリしており、さらに、その流れは余分な遮るものがないために力強い流れを作っていると思います。それが彼女の精神の強さになっているのだと思います。また、変身においてエネルギー流を曲げられる余分なエネルギーや意志の強さになっているのだと思います。


■補論 「エネルギー体仮説」
最後に、ここまでのどうしようもない妄想に「エネルギー体仮説」という名前を付けてまとめてみます。そういえば、数学者のカントールが「連続体仮説」という仮説を残していましたね。ただ、カントールは晩年には精神を病んでそのまま療養所で亡くなったそうです。私もヤバイかもしれません(冷汗)。

エネルギー体仮説。アラヤ識モデルにおける非-言語領域の奥には、エネルギー体が存在するのではないか。そして、そのエネルギー体は渦巻きと光源の2つの潮流があり、重なっているのに重なっていないという不思議なエネルギー構造をしているのではないか。また、2つが重なったときはエネルギー体は太陽の構造に感じられる。また、エネルギー体は意味や人格の生成に深く関わっているのではないか。さらに、エネルギー体はアラヤ識だけでなく、魂といわれるような生命のエネルギー体としても存在するのではないか。


ただし、エネルギー体の形状から、意味や人格を直接導き出すことは間違いだと思います。エネルギー体がどのように意識に反映されるかはこちら側からは分からないと思います。言語的知性で考えても自己言及ループに陥るのではないかと思います。それに、エネルギー体を知るためにはもっと直接的な知覚が必要なのではないかと思います。ですから、ここまでの話はまったく意味のない無意味な話かもしれません(爆)。あるいは、また改めて、この話の続き、意味のある話をするかもしれません。ですが、ただ、とりあえず、今はエネルギーの存在を感じられたらと思います。

さて、ここまで「私的魔女論」では、第1の女性ハンナ・シュミッツで”直感”を取り上げ、第2の女性ケイト・ウィンスレットでは”エネルギー”を取り上げました。次回はいよいよ最終回です。第3の女性アイリス・マードックについて取り上げます。マードックについては書き出してみたら短くなりましたので、2つの記事で終わる予定です。取り上げるテーマは”目的”です。

■注釈
(*1)デリダのいうエクリチュール性もまたこの生命力を言いたかったのではないでしょうか。

(*2)ウィンスレットの演技にも同様のことが言えます。ウィンスレットの演技やスピーキングがその感情に実にピッタリとした感触を与えるのは、この生命力の痕跡からくるものだと思います。その精確さや彫りの深さはウィンスレットの生命力がその端々にまで行き届いているからだと思います。

(*3)気がつけばバレエを見なくなって久しく、私の現状認識は古くて間違っているかもしれません。私がバレエを見ていた頃は、まだ、アナニアシヴィリもギエムもまだまだ若くて華やかなりし頃でした。私自身も(笑)。

(*4)ただし、深い悲しみや怯えなど感情表現として心の位置をグンと遠く離れた位置にまで押し出したりするような演技の場合には、シンプルなエネルギーの曲げは行われていると思います。そして、ウィンスレットは強い意志力を持っているだけに計り知れない深さ、恐るべき位置にまで到達していると思います。