■総まとめ
ここからは、「ウィンスレット 人と作品」全体の”まとめ”に入ってゆきたいと思います。
ここまで、その1からその7までウィンスレットの人となりと作品について語ってきましたが、ここからのまとめにはそれらとは直接的な関係、論理的な関係はありません(笑)。ここからのまとめには、その1からその7までを俯瞰したときに見えてくるもの、透かしたときにその向こう側に見えてくるものについて語りたいと思います。
言い方を変えて、例え話ですが、その2からその7までを1のウィンスレット本人という円周上の任意の点だと考えて下さい。6個の点を白紙の上に書いたとき、そこに円が浮かび上がってきます。円周が浮かび上がってきたら、円の中心が浮かび上がってくると思います。例えば、半径rの円周は関数x^2+y^2=r^2という点の集合で表されます。しかし、円の中心はこの集合には含まれず、点として表出してきません。円周上のすべての点から等距離にある円の中心なのに、目に見える点としては表れてこないのです。喩えるなら、円周上の点の1個1個を各々の論理のまとまりだとすると、論理のまとまりを集めてレンガのように論理的に順番に積み上げていっても、円の中心が最終的な結論の場合は最後に積み上げたところに結論がくるわけではありません。結論は表出しないのです。ですが、私たちはたとえ実在の点として表れてこなくても、円の中心の存在を想像力で知覚することは可能です。私がここで試みたいのは、そのような見えざる中心点を指し示すことをしたいと思います。これらの論理は雪の結晶における水と核(=水ではないモノ。塵)の関係に似ていると思います。ただし、この喩え話はあくまで論理のイメージであって厳密には論理的ではありません。
長い前置きをしておいてなんですが(笑)、ここでウィンスレットと比較する、あるいは、浮かび上がらせる補助線として、別の女性たちについて手短に取り上げてみたいと思います。
■もうひとりのケイト
まず、ウィンスレットと並んで、演技派女優として名高いケイト・ブランシェットについて考えてみます。ブランシェットはウィンスレットとは対照的に繊細で細やかで器用な演技をします。いや、まあ、ウィンスレットも本当はそうなんですが、ウィンスレットの場合、圧倒的に力強さや破壊力が目立つので、繊細さという面は見落とされがちです。で、ブランシェットはキャラクターによってまったくの別人に扮しているように見えます。その変身ぶりはとても見事です。一方、ウィンスレットも演じるキャラクターによってまったくの別人に変身しています。しかし、この二人の変身を見比べたとき、どうも変身の仕方に根本的な相違があるように思えます。確かに、演じるキャラクターが違うので、一概に二人を比較するのは困難です。しかし、やはり、どうも二人は変身の原理が根本的に違うと思います。一体、何が違うのでしょうか?
まず、ウィンスレットですが、彼女の変身は、一見すると、何の変哲もない変身に見えます。黙って座っている場合などは、下手をすると、変身しているのかさえよく分からない、ごく自然体に見えるかもしれません。しかし、映画を見始めて、彼女の演じているのを映画の進行と共に見続けていると、彼女が別人であることに気がつきます。彼女の感情の動きを反映した反応から、彼女がどう感じどう考えどう反応しているかが分かります。そして、彼女の中身が変身によってまったく別人であることがはっきりと分かります。喩えるなら、同じ筐体なのに中のOSはまったく別のOSに変わっていたような感じです。もう少し具体的に言えば、人格が別の人格に書き換わっています。しかし、同時にその一方で、はじめにも書いたようにウィンスレットらしさのようなものは感じられます。同じ人なのだから、ウィンスレットらしく感じられるのは当然と思うかもしれません。あるいは、彼女の演じるキャラクターがどの作品も何がしか共通点があるのかもしれないと考えるかもしれません。確かに彼女の演じるキャラクターは気の強い女性が多いかもしれません。ともかく、ウィンスレットの変身はまったくの別人になっているという感覚と同じウィンスレットらしさがあるという感覚の2つの感覚があると思います。
一方、ブランシェットですが、彼女の変身は、一見して、すぐに変身していると分かります。彼女は演じているキャラクターの特徴をよく掴んで表現しているからです。形態模写や先鋭化、あるいは、ある種のデフォルメと言っていいかもしれません。彼女はキャラクターの持つ表象を実に見事に体現してしまいます。恐ろしいまでの器用さと言うべきでしょうか。彼女の力を最大限生かせば、例えば、演じるキャラクターが実在の人物だった場合、ブランシェットがその人物を演じれば、本人よりも本人らしくなるかもしれません(笑)。笑い話のようですが、実はそこにこそ、ブランシェットの変身の原理の秘密があると思います。
ウィンスレットとブランシェットの変身の原理の違いは何でしょうか?一挙に答えに行きます。その違いは内側からの変身と外側からの変身の違いです。ウィンスレットは内側からの変身であり、ブランシェットは外側からの変身です。ウィンスレットは内側(=核)からキャラクターに同化するため、その表象が内側から外側に表出してきます。一方、ブランシェットは外側(=表象)からキャラクターに同化するため、外側からキャラクターの内側(=心奥)に浸透してゆきます。そのためにブランシェットは表象が際立って本人よりも本人らしくなり、ウィンスレットは別人なのにバランスを保って自律的に運動可能な全体性を獲得しているのです。ウィンスレットの場合、喩えるならば、別のOSなのに生きて動くOSとして全体としてなんら損傷なく、ウィンスレットの中で機能し動いているのです。
■二人のバレリーナ
次に、女優とはまた違った別の世界の例として、二人のバレリーナについて手短に考えてみます。
一人はグルジア出身でボリショイバレエ団のプリマ・バレリーナだったニーナ・アナニアシヴィリです。もう一人はフランス出身のバレエ・ダンサー、”現代バレエの女王”と言われるシルヴィ・ギエムです。二人は共に天才的なバレリーナですが、そのバレエのスタイルはまったく対照的です。喩えるならば、アナニアシヴィリが太陽ならば、ギエムは月です。あるいは、アナニアシヴィリが炎なら、ギエムは氷です。彼女たちは時代を代表するダンサーでしたが、共にそのスタイルは正反対と言っていいくらい全く異なるものでした。次に二人のバレエについてそれぞれ考えてみます。
まず、アナニアシヴィリです。彼女の代表作は「ドン・キホーテ」です。アナニアシヴィリ演じるキトリは実に見事でした。バレエ史にもその名は永遠に刻まれることでしょう。いえ、おそらく、彼女のキトリを凌駕するバレリーナは、今後も現れないでしょう。一体、彼女の何がこれほどまでに見る者を魅了させるのでしょうか?専門家は言います。グラン・フェッテの連続回転が高速なのに全然ぶれない、安定している。しっかりした基礎の上にある華麗な跳躍や回転をほめたたえる。あるいは、その華麗さとは対照的な繊細な演技力を誉めたりもする。しかし、私に言わせるとそれはちょっと違うのです。そうじゃないのです。例えば、日本人のバレリーナは人一倍練習熱心で正確に踊るんじゃないでしょうか。しかし、アナニアシヴィリと彼女たちのバレエを比べてみれば、何かが大きく違う。確かに欧米と日本の体格の違いや物理的な動き・物理的運動の違いがあると言うかもしれません。科学的・技術的に捉えれば、そういった違いとなって表れてくるのかもしれません。しかし、そうじゃないんです。そういったことを追究しても、なぞっても感動するダンスにはならないと思うのです。私たちを魅了するのは何も機械的に正確な軌道やうわべだけの表現力ではありません。では、一体、何が私たちを魅了するのでしょうか?
例えば、まず、アナニアシヴィリの緩やかで正確な動きを見たとき、一見、何の変哲もないダンスに見えます。しかし、その何気ない簡単なはずである動き、にも関わらず、私の心には深い残像が残ります。ここでいう残像は視覚の残像ではありません。これは心の残像、記憶の残像というべきものです。喩えるならば、私の記憶媒体を樹脂状の長方体だとすれば、バレリーナが空間に描いた優美な曲線が、レコード針がレコードの溝を彫るように、その長方体に痕跡として彫り刻まれるような感じのです。そして、その痕跡の彫りの深さや繊細さや優美さが何ものにも勝っているのが、アナニアシヴィリのバレエなのです。喩えるならば、他のバレリーナの描く曲線が平面的ならば、アナニアシヴィリの描く曲線は立体的なのです。しかも、その彫られた曲線は硬く、かつ、しなやかで、滑らかで、かつ、強靭なのです。優美でありながら力強く、伸びやかでありながら、その彫りは深く重厚でしかも繊細なのです。そういった曲線が私の記憶の樹脂に彫り刻まれれば彫り刻まれるほど、私は心地良さ・気持ち良さを感じるのです。一体、何が他のダンサーたちとは違うのでしょうか?それはひと言でいえば、その彫られた痕跡は”生きた曲線”なのです。
では、”生きた曲線”とは何でしょうか?日本人にとって”生きた曲線”を理解することは、ある意味、簡単かもしれません。なぜなら、最良のテキストがあるからです。それは何かと言うと、空海の書です。私は空海の書に同じような”生きた曲線”を感じます。空海の書は機械のように正確というわけではありません。なのに私たちはそこに何か感じています。一体、何を感じているのでしょうか?私たちが感じているもの、それは生命です。書から空海の生命力を感じ取っているのです。空海の書からは、筆の先の先、毛先の一本一本、その一本一本の毛の先の先まで空海の神経が行き届いているのが感じられるのです。空海の充満してあふれ出さんばかりの生命力が筆の先まで行き届いて、墨にまで生命が乗り移って紙の上で文字となって踊っているのです。しかも、その生命力はただ元気の良い若者のような一本調子の元気さとはまさに次元が違うのです。例えば、万華鏡を思い浮かべてみて下さい。若者の元気さは確かに生命力に溢れています。しかし、それは万華鏡で喩えれば、1つの鏡像に過ぎません。ところが、空海の元気さは万華鏡のようにいくつもの鏡像となって花開くように多様多彩な多次元なのです。一本調子ではなく、生命が自由自在・自由闊達にあふれ出すように多彩に踊っているのです。すなわち、若者の元気さのような底の浅いものではなくて、空海の元気さには人間としての深みや豊かさがあるのです。私は空海の書を見るとき、私の中では、私のいるこっちの世界と空海のいるあっちの世界で向かい合わせになって、掌と掌を合わせるようにして空海の生命力の暖かさが伝わってきます。そして、腹の底からこみ上げてくる笑いのように喜々とした生命の喜びを感じます。そのとき、私の頭上では万華鏡が展開するように曼荼羅が華麗に花開くような喜びを感じるのです。話が大きく脱線してしまいました。私たちを感動させるもの、それは生命力なのです。(*1)
話をアナニアシヴィリに戻します。アナニアシヴィリのバレエには、何気ない簡単にしぐさにさえ、本当にシンプルな痕跡にさえ、私たちを感動させるものがあります。そして、その根源にあるのは彼女の生命力があるから感動するのです。心の樹脂に刻まれた簡単な彫りにも関わらず、その彫りには印象深い深みや重みを感じるのはそういった生命力があるからなのです。(*2)
さて、あとは簡単です。彼女の華麗な跳躍や回転に感動するのはなぜか?それもまったくそのままです。生命力の爆発、生命エネルギーの炎が燃え上がっているからなのです。私たちは彼女の激しい生命の火柱に酔いしれて喜びの歓声を上げるのです。また、彼女の存在そのものが太陽なのは偶然ではありません。彼女は無意識かもしれませんが、生命力を外部へ向かって爆発・発散・放射しているからこそ、彼女の存在が太陽のように感じられるのです。つまり、アナニアシヴィリは自分の中で燃えるこの生命の炎を自分でしっかりと掴み、それをバレエとして昇華=シンクロさせているからこそ、彼女のバレエは世界中の人々を最高に感動させるのです。
一方、対照的なのが、シルヴィ・ギエムです。アナニアシヴィリを太陽とするならば、ギエムは月といえます。ギエムの特徴はその可動域の広い柔軟な関節です。簡単にいえば、開脚で古典では大きく広げ過ぎては品がないという範囲を、その可動域の広い特性を生かして、はるかに超えて大きく広げることで、今までにない新しい境地をバレエに切り開きました。しかも、その動きはとても細やかで蜘蛛の足のように複雑な動きを変幻自在にこなします。古典バレエから現代バレエへの変革でした。その動きから詩的な宇宙的なイメージあるいは月のような冷たさを感じると思います。また、ギエムのしなやかだが筋肉質な肉体は、解剖されるのを待つ冷たい筋肉を感じさせます。現代人には古典バレエは退屈に感じられ、ギエムのバレエは詩的で知的に感じられると思います。アナニアシヴィリが自然の大地から立ち上がる生命の炎だとしたら、ギエムは無生物の凍った月面に降り立った銀色のボディと真白い肌をした女神といったところでしょうか。あるいは、アナニアシヴィリが燃焼・炎なら、ギエムは氷結・無機質といったところでしょうか。その名の通り、現代では現代バレエが主流となっているんじゃないでしょうか。(ギエムも激しい炎のようなバレエだと感じる見方もあると思います。実際、非常に激しく動いています。ただ、それは表面的には激しいのですが、赤い炎ではなく、青い炎に感じられます。あるいは、デフォルメされた記号的激しさであって、生命の炎そのものの激しさとは違うと思います。伝統を重んじる古いタイプの振付師たちがギエムを軽視した理由もそこにあると思います。)
ここでちょっと時代に逆行した話をします。なぜ、現代バレエがバレエの主流になるのか?古典が退屈に感じられるのか?それは舞踊のアウラが人々の心から失われつつあるからです。本来はバレエとて舞踊のひとつです。そもそも舞踊の何が楽しいのか?舞踊を踊るとき、私たちの魂は”魂振り”の喜びを感じるのです。舞踊によって魂をゆすぶって身体は奥底から喜びに笑うのです。他人が踊っているのを見て楽しいのは、自分の中の魂がくすぐられ、くすぶってくるから楽しいのです。そして、仕舞には自分も踊りたくなって踊りだしてしまうのが、本来の舞踊だったのです。舞踊のアウラの記憶とは、このような踊りだしたくなる魂の共振・連鎖反応です。ところが、現代人はそのアウラを忘れてしまいました。生れ落ちたときから知りません。自然の大地からも引き剥がされて、コンクリートの無機質な都会で暮らしています。大地を蹴って飛び上がり、汗を飛ばして身体を躍動させて、喜びに笑う楽しさを知りません。だから、土や汗の匂いのしない、そういった生命を排除する現代バレエが主流になってしまうのです。「ギエムのバレエを初めて見たとき、今までのバレエは何だったのか」という人がいますが、それは今までのバレエをちゃんと見ていなかったからです。そういう人は少女趣味でバレエを見ていたのでしょうか?バレエに表れる生命の曲線をちゃんと見ていなかったのではないでしょうか。ともあれ、現代バレエというアプローチを否定するものではないけれど、本来の舞踊の本質を失くしてしまってはいけません。実はこの現象はバレエだけでなく、サーカスでも同じです。土くさいロシアの伝統的なサーカスは廃れて、カナダのアート・サーカスが世界を席巻しています。これは古典バレエや伝統的なサーカスを現代人が感覚的に理解できなくなってしまったがために起こっているのだと思います。そして、その失われた感覚とは、実は地球上からどんどん失われている緑の自然と同じものなのです。古いもの、新しいものといった違いではなくて、そこには大切なものがあるのです。自然の森はアナニアシヴィリや空海の生命の海と実はとても深い深いところで繋がっているのです。今、その繋がりがどんどんと切れていっているのです。そんな大切なものを人間は失いつつあります。だから、なんとか繋ぎとめられたらと思います。(*3)
話をギエムに戻します。ギエムの世界は詩的で死的です。ギエムの世界が究極に辿り着くところ、それは身体という、本来は汗をかき、息をあえぎ、有機的で生々しい肉体であった身体を、どんどんとそういった要素を切り捨てていって、無機質で冷たい無生物な状態に近づけることによって、具体から抽象へと向かわせることに狙いがあります。その結果、そこに残ったもの、表れるものは、何でしょうか?それこそが、生命の純粋イデアなのです。例えば、花という具体的・物理的な存在から、その花の本質=イデアだけを取り出したとき、初めて、花そのものの真の美しさに到達できるのではないかという試みです。花が物理的存在として持つ、花びらや、雄しべや雌しべ、茎などのすべての具象をぬぐい去ったとき捨て去ったときに、はじめて立ち表れる”美”こそ、花本来が持つ純粋な美、花の純粋イデアそのものではないか!というのです。あるいは、身体から身体性をどんどんと剥ぎ取っていったとき、どうなるか?しかも、その剥ぎ取り方は研究所のラボで科学者が硬質でメタリックなメスによって身体から肉を切り取って解体するような剥ぎ取り方です。身体から肉も骨も無機質なメスで切り取られ、切り刻まれて分解され尽くしたあとに残ったのは、1本の試験管の中でホタルのように弱々しく光る、小さな小さな魂かもしれません。しかし、そんな自虐的・自己言及的・自己破壊的な行為に及んでも、生命の純粋イデアに触れたいという人間の切なる想いがある、といえるかもしれません。ですから、ギエムのバレエは、一見、生命の讃歌に逆行しているようですが、その実、限りない遠回りをしつつ、無限遠点にあるその最終目標は”生命の純粋イデアに辿り着く”というものであり、ギエムのバレエはその決死の試みなのだと思います。
まとめます。ギエムのバレエは生命のイデアの探求です。身体性を限りなく剥ぎ取ったその果てに、純粋な生命である生命のイデアに辿り着くための死的試みです。微分=差異化の科学的分析手法に似た一種のミニマリズムと言えるかもしれません。詩でいえば、マラルメです。マラルメは”意識の極北”の場で”完全に死んだ”とき、”冷たくきらめく純粋な星たちの国、万物が無生命性の中に凍てつき結晶した氷の世界、あらゆる生あるものが消滅した死の世界”に辿り着き、死と絶滅以外の何ものでもありえない戦慄のその世界で、”永遠のイデアである絶対美を見出した”のです。
一方、アナニアシヴィリのバレエは自らを燃え上がらせる生命エネルギーの燃焼です。その燦然と燃え上がる生命の炎は人々を魅了してやみません。ギエムもアナニアシヴィリも共に二人は生命への異なったアプローチなのです。ギエムは差異化によって生命を客体化=異化して自分を切り刻むようにして生命のイデアを見出そうとします。一方、アナニアシヴィリは生命エネルギーと同化(=シンクロ)して自分を燃え上がらせて生命エネルギーの燃焼に喜びを見出します。二人の違いは、極端に言えば、生命エネルギーの異化と同化の違いと言えるかもしれません。
■まとめ
最後なので、妄想をツインターボで全開させます(狂笑)。
これまで、このシリーズを通してウィンスレットの作品の意味を見てきました。そして、ウィンスレットがその意味を正確に理解した上で実に見事にその役柄を演じてきたことが分かると思います。そして、作品の意味を理解するのにも役柄を演じるのにもそれらを助けているのは、「その7」で述べたようにウィンスレットが性や意味についてエネルギーのレベルで作品や人物の意味をエネルギー的に把握しているからだと思います。また、この「その8」で述べたように、ケイト・ブランシェットと比較すると、ブランシェットが外側からの変身であるのに対して、ウィンスレットが内側からの変身であることが分かると思います。また、アナニアシヴィリとギエムを比較すると、ギエムが生命力を限りなく消滅することによって生命のイデアを浮き上がらせているのに対して、アナニアシヴィリは逆に生命の炎と一緒になって燃え上がっているのが分かると思います。つまり、彼女のエネルギーと彼女のバレエがシンクロしているのが分かると思います。そこで、これらを総合的かつ直感的に判断して、ウィンスレットの変身で起こっているエネルギーの流れについて、妄想を最大限に発揮して以下のように想像力を働かせてみたいと思います。
ケイト・ウィンスレットの演技には、ウィンスレット本人とは全く異なる別人に変身している部分と、そうではなくて、何某かのウィンスレットらしさを残している本人が残っている部分の2つがあるように思います。なぜ、そう感じるのでしょうか?その理由は、実はエネルギーは2つの流れから構成されているからだと思います。1つはエネルギーの渦巻きです。もう1つは周囲に向けて放射される光源です。(下図参照)
そして、全く異なる別人に感じる部分はこの渦巻き状のエネルギー流が変形しているからだと思います。一方、ウィンスレットらしさに感じる部分はこの光源の中心であるエネルギー源から独特のパターンと波長で放射されるエネルギー波を私たちが当人と認識するからだと思います。
すなわち、エネルギーは渦巻きと光点の2つのエネルギー流で構成されていると思います。そして、この2つのエネルギー流は実に奇妙な重なり合わせになっているように思います。というのは、2つは同じ場で重なっているからです。同じ場にありながら、この2つは全く別の次元に存在しており、表層より奥の深層では、2つは混じり合うことなく、それぞれが独自の流れを延々と続けているように感じられるからです。実に不思議で奇妙なエネルギー構造です。
さらに、ウィンスレットの変身で行われているのは、この渦巻き状のエネルギー流の変形だと思います。
ここでちょっと、補助線を引きます。稚拙な例かもしれませんが、寺沢武一の描いたSF漫画で「コブラ」という作品があります。この漫画の主人公コブラは左手がサイコガンというレーザー銃になっています。サイコガンとは、自分の精神エネルギーをビームのエネルギーに変換して撃つレーザー銃という設定になっています。このサイコガンの特徴は通常のレーザービームは直進しかできないのですが、サイコガンはエネルギー源が精神エネルギーであることから、コブラの意志に従って自分が曲げたいように自由自在にビームを曲げられることです。ですから、サイコガンには、たとえ敵が物陰に隠れていても、ビームを曲げることで敵にビームを命中させられるという利点があるわけです。
ところで、杭が多ければ多いほど、人間は複雑なエネルギー流になります。例えば、杭をコンプレックスやこだわりと捉えると分かりやすいと思います。もちろん、杭はそういうものばかりではなく、モラルのような人間として大切なコードもあります。ともかく、余計なコードが多いと流れは複雑になってしまいます。余計なこだわりがあったら、変身が困難になります。ですから、変身のためには、余分な杭は不必要です。ウィンスレットの精神構造を考えると、比較的、シンプルな精神構造になっているのではないかと思います。彼女はよく整理して余計な杭を捨てたでしょうし、人物に変身することを積み重ねることで、どんどんそぎ落としていったように思います。ですから、ウィンスレットのエネルギー体はとてもシンプルで円柱のようにスッキリしており、さらに、その流れは余分な遮るものがないために力強い流れを作っていると思います。それが彼女の精神の強さになっているのだと思います。また、変身においてエネルギー流を曲げられる余分なエネルギーや意志の強さになっているのだと思います。
■補論 「エネルギー体仮説」
最後に、ここまでのどうしようもない妄想に「エネルギー体仮説」という名前を付けてまとめてみます。そういえば、数学者のカントールが「連続体仮説」という仮説を残していましたね。ただ、カントールは晩年には精神を病んでそのまま療養所で亡くなったそうです。私もヤバイかもしれません(冷汗)。
エネルギー体仮説。アラヤ識モデルにおける非-言語領域の奥には、エネルギー体が存在するのではないか。そして、そのエネルギー体は渦巻きと光源の2つの潮流があり、重なっているのに重なっていないという不思議なエネルギー構造をしているのではないか。また、2つが重なったときはエネルギー体は太陽の構造に感じられる。また、エネルギー体は意味や人格の生成に深く関わっているのではないか。さらに、エネルギー体はアラヤ識だけでなく、魂といわれるような生命のエネルギー体としても存在するのではないか。
ただし、エネルギー体の形状から、意味や人格を直接導き出すことは間違いだと思います。エネルギー体がどのように意識に反映されるかはこちら側からは分からないと思います。言語的知性で考えても自己言及ループに陥るのではないかと思います。それに、エネルギー体を知るためにはもっと直接的な知覚が必要なのではないかと思います。ですから、ここまでの話はまったく意味のない無意味な話かもしれません(爆)。あるいは、また改めて、この話の続き、意味のある話をするかもしれません。ですが、ただ、とりあえず、今はエネルギーの存在を感じられたらと思います。
さて、ここまで「私的魔女論」では、第1の女性ハンナ・シュミッツで”直感”を取り上げ、第2の女性ケイト・ウィンスレットでは”エネルギー”を取り上げました。次回はいよいよ最終回です。第3の女性アイリス・マードックについて取り上げます。マードックについては書き出してみたら短くなりましたので、2つの記事で終わる予定です。取り上げるテーマは”目的”です。
■注釈
(*1)デリダのいうエクリチュール性もまたこの生命力を言いたかったのではないでしょうか。
(*2)ウィンスレットの演技にも同様のことが言えます。ウィンスレットの演技やスピーキングがその感情に実にピッタリとした感触を与えるのは、この生命力の痕跡からくるものだと思います。その精確さや彫りの深さはウィンスレットの生命力がその端々にまで行き届いているからだと思います。
(*3)気がつけばバレエを見なくなって久しく、私の現状認識は古くて間違っているかもしれません。私がバレエを見ていた頃は、まだ、アナニアシヴィリもギエムもまだまだ若くて華やかなりし頃でした。私自身も(笑)。
(*4)ただし、深い悲しみや怯えなど感情表現として心の位置をグンと遠く離れた位置にまで押し出したりするような演技の場合には、シンプルなエネルギーの曲げは行われていると思います。そして、ウィンスレットは強い意志力を持っているだけに計り知れない深さ、恐るべき位置にまで到達していると思います。