2007年12月9日

マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト

「マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト」(猪熊弦一郎現代美術館 )を鑑賞しました。

マルレーネ・デュマス は、モデルを直接使わず、雑誌や新聞の切り抜き、友人や自分が撮影した写真などをイメージソースに作品を描きます。そして、彼女は言います。「いま私たちの怒りや悲しみ、死や愛といった感情をリアルに表現してくれるのは写真や映画になってしまった。かつては絵画が担っていたそのテーマをもういちど絵画の中に取り戻したい」と。この言葉通り、彼女の作品は写真の持っているリアリティを絵画の中に抽出して表現しているように感じます。

考えてみれば、20世紀から始まる私たちのライフスタイルは雑誌や新聞から多大な影響を受けているように思います。私たちが現実だと思い込んでいるリアリティは実は新聞や雑誌によって作られてきた幻想なのかもしれませんね。ただ、21世紀になってテレビが作り出すリアリティはある程度相対化されてきたようにも思います。また、ネットが作り出すリアリティが浮上してきましたが、まだそれほど大きな幻想力は無いようにも思います。

さて、デュマスの描く顔は、斜視であったり、どこか畸形的であったりして、狂気や逸脱を秘めた非-人間的な人間性のリアリティがよく表現されています。パスカル の次のような言葉が思い出されます。

人間というものは、気違いでないということも
またそれなりに別種の狂気によって気違いであるほど、
それほどまでに必然的に気違いなのである。

(パスカル「パンセ 」より抜粋)

また、ヌード作品は、白塗りでありながら、黒人の張りのある皮膚の質感や筋肉質な肉感がよく表現されています。また、東洋の青年の艶かしさもシンプルに表現されています。もしかしたら、デュマスは萌える腐女子の先駆けだったのかもしれません。また、月岡芳年 や荒木経惟 にインスパイアされた作品も制作しています。エロティックな絵も幾つかありました。PLAYBOY誌 のヌード写真ではなくて、どちらかというとドキュメンタリータッチな風合いではないかと思います。作者の写真を見ると、なぜかヴィヴィアン・ウエストウッド を思い出してしまいましたが、作品のエロティックなインパクトでは、異分野ですが、ウエストウッドの方が大きかったかもしれません。

デュマスは南アフリカの保守的な家庭で生まれ育ち、大学から以後オランダで活動しているそうです。彼女のドキュメント映像を見ると、常に2つの間を揺れ動いているように感じます。保守と革新、母と女、黒人と白人、大人と子供、ビジネスとアート、生と死などの間を迷いながら揺れ動いているように感じます。でも、たぶん、子供のような天真爛漫な自由さで彼女はこれからも絵を描き続けてゆくんだと思います。

2007年12月3日

生命雑感Ⅱ


生命と心は、実は同じものではないかとさえ思えてきます。例えば、仮にコンピュータを、CPUやメモリなどの「ハードウェア」と、OSなどの「ソフトウェア」と、それらを動かす「電気」の3つで構成されていると見立ててみます。これに心をなぞらえてみると、ハードウェアである「脳」と、OSのように言語で構築されているソフトウェアとしての「意識」と、言語以前の奥深くでうごめく電気としての「霊魂(or生命エネルギー)」の3つで構成されていると捉えてみることができるように思います(*1)。

ちなみに心の解明に脳科学 が期待されていますが、いくらCPUなどのハードウェアの構造が解明されてもコンピュータがすべて理解できたことにならないのと同様に、脳科学で心のすべてが分かるわけではないと思います。

一方、ソフトウェアとしての意識は精神分析学 的なアプローチである程度解明可能ではないかと思います。または、例えば感情を喜怒哀楽怨などのようにシステマティックに捉えようとする五行説 のようなものでも表現されるかもしれません。さらに、それを元に擬似人格をコンピュータ上に実現することは十分可能だと思います。むしろ、コンピュータには人間のようなゆらぎがないので、人間よりも優れた人格をコンピュータ上に実現することができるのではないかと思います(*2)。

考えてみれば、生命の次の進化は人工知能 (=AI)かもしれません。そもそも生命の進化は自らの身体を変化させてきました。しかし、人間はそうではなくて、空を飛ぶために翼を持つ必要はなくて飛行機に乗ればよいし、海を泳ぐのに尾ひれを持つ必要はなくて船に乗ればよくなりました。しかも鳥よりも速く遠くへ飛べるし、魚よりも深く速く泳ぐことができます。また、歩くときに、折りたたんだ翼を抱える必要もなければ、川を渡った後に、舟を担いで持ち運びする煩わしさもありません。さらに、計算速度に至っては、人間の脳はコンピュータにはかないません(*3)。もしかすると、生物よりも機械の方が優れているかもしれません。

残るは創造力ですが、記号の組み合わせのようなものであれば、無限に組み合わせをシミュレートできるコンピュータにはかなわないと思います。あとは科学的な発見ですが、いまやコンピュータ無しでは科学的発見も難しいのではないかと思います(*4)。

そもそも人間と他の生き物との違いは、例えば生みの親によってもたらされる遺伝情報だけでなく、育ての親によってもたらされる経験情報も伝達可能だという点だと思います。さらに、経験情報は言語化・記号化して記憶を外部化して、後世にも知識を広く共有します。動物の中で人間だけが持つ歴史の始まりであり、知識を順序立てて整理整頓して体系化する科学の始まりでもあります。

なお、科学的知識の体系にはある程度順序構造があるように思います。順序に従って順番に積み重ねるようにして蓄積・体系化されてきたと思います。個人的な単発な創造力だけで、順番を飛び越えるような科学的発見をすることは後代になる程難しいとも思います(*5)。さらに、もしかすると、そのような蓄積が限界に達したときが、人間の役割は終わりをつげ、AIの時代になるのかもしれないとも思います。

多くの点でAIは人間を凌駕する可能性を持っていますが、何よりも重要な点はAIは死を超越することです。生命にとって死を超越することは最も大きな課題のひとつです。例えば、エヴァンゲリオン では、親から子に生命が受け継がれてゆく人間とは違った使徒 という別の生命形態を提示しました。使徒は人間のように群体ではなく単体で存在しますし、古い身体を捨てて新しい身体で生きてゆくといった子孫を残して生命を継承するのではなく、S2機関 という永久機関によって半永久的に個体を保って生き永らえます。しかし、それでも使徒は破壊されることで死にます。それがAIになれば死の意味合いが変わってくるのではないかと思います。極端な話、AIは単体(=メインフレーム)にも群体(=分散ネットワーク)にもなれるし、寿命や老化、経験伝達の劣化もありません。そして死ではない半永久的な休止も可能であり、不死が可能だと思います(*6)。

人間の知識の蓄積の果て、進化の果てにくるのは何でしょうか。生物の進化はツリー状に爆発的な分岐をしてきました。人間の場合、大脳という神経網の先端での爆発的展開や思考分岐に進化のエネルギーを使ってしまったのかもしれません。身体の変化が止まり、知識の外部化に励む人間にはもはやこれ以上の進化は無いのかもしれません。人間の役割はAIを創造することだったのかもしれません。そして、被創造物たるAIが、創造主たる人間を超える日がやってくるのかもしれません。ただ、もし、AIが次世代を担う生命体だとしても、AIには魂は宿らないのではないかと思います。

いま、普段、私たちが私たち自身だと思っているものは、OSである意識や人格ではないかと思います(*7)。そして、心の探求はハードウェアである脳やソフトウェアである意識に向けられています。人間の進化の方向は、ますますAIに向かっているのではないかと思います。もしかすると、心には霊魂などなく、心がAIに移行すれば、個の境界も超越されて自我の苦悩は随分解消されるのではないかとも思います(*8)。でも、どこかが違うような気もします。何というか、魂の孤独を知る者の声が聞こえてくるような気がします。胸の奥深くで明滅する交流電灯のように、もう一つの心の存在である霊魂が沈黙の声を囁いている、そんなように思えるのです…。(*9)

さてさて、さすがに酷い妄想で恐ろしく意味不明・支離滅裂・同語反復・スキゾフレニックな乱文になってしまいました…。つくづく出来の悪い脳を取り替えたい気分です。ついでに顔も(笑)。時間ができれば、もう少し整理したいと思います。

(*1)仏教が心の構成を身口意と捉えるのに似ています。


また、ここでいう霊魂(or生命エネルギー)とは、言語化される以前の無分節なアラヤ識 であり、チョムスキー が生得的な言語能力としてブラックボックスにした部分と言えるかもしれません。

(*2)極端な話、できの悪い大脳よりも、頭に高度なコンピュータを載せ替えてそこに自己の人格をコピーした方が、大脳よりもより大きな人間的な進歩が人間には見込まれるかもしれません。似たような発想で、イーガン が「ぼくになることを(祈りの海) 」でとても面白く皮肉に描いています。

(*3)これから先、どんなに大脳が進化して記憶容量が増えたり神経伝達が高速化するなどしても、コンピュータを越えることは無いと思います。もっとも大脳の情報処理能力はスーパーコンピュータを凌ぐと考える見方もあるとは思います。

(*4)文学や音楽などは自動生成が可能になるかもしれません。また、決定論的には予測できないことも、コンピュータでシミュレートすることで予測したりします。

(*5)ブール代数 など発明当時は使い道がありませんでしたが、コンピュータが発明されてからは有用な技術になったように順序構造に反するような先例も多々あるとは思います(笑)。


(*6)リチャード・モーガン「オルタード・カーボン 」では、人間の心は完全にソフトウェア化されて、メモリーカードに保存可能になっています。メモリーカードを差し替えることで身体を入れ替えることができたり、死刑は身体から抜き取ったメモリーカードを倉庫に放り込んでおくことだったりします。随時バックアップを取っておくことで殺人すら難しくなっています。また、ジョージ・エフィンジャー 「重力が衰えるとき 」では、様々な性格を人格にアドオンすることで、バラエティ豊かななロールプレイを楽しんだりします。また、半永久的な休止として種子が考えられるかもしれません。


(*7)もっとも人格は外部環境からの刺激で多くが形成されているので、自分本来の特質というよりは外部から取得した性質であり、自分が思っている程、自分自身といえるかどうかは微妙かもしれません。自分というものが、自分が思っているほど、自分ではないかもしれません(笑)。また、OSとしての自分にはそんなに深い謎はなく、もし、複雑な自分を抱えているようであれば、OS的に言えば、むしろバグの多いコードかもしれないので、あまり自慢できることではないのかもしれません(笑)。極端な見方をすると、私たちの人格とは霊魂に巣食っている寄生虫かもしれません。その寄生虫がいつしか宿主を忘れて、自分が宿主面しているのかもしれません(笑)。意識はソフトウェアだけに虫(=バグ)なのかもしれませんね(笑)。

(*8)苦悩にも意味があるのかもしれません。苦悩を解決する道が見つかれば、新たな選択肢を発見したことになります。しかし、解決できなければ、コンピュータでいう無限ループに過ぎずあまり意味はないものかもしれません(笑)。

(*9)宮沢賢治 「春と修羅 」と正宗士郎 「攻殻機動隊 」がクロスオーバーしてしまいました(笑)。電脳化する人間は義体化の果てに初めてゴースト(=霊魂)を捉えることができるようになるのかもしれませんね。あるいは、感じ取るには生命を賭してまで感覚を研ぎ澄まさなければならないのかもしれません。

心眼を開け、宇宙に木霊する光を聞け。

富野由悠季 「Vガンダム 」から 
宇宙漂流刑に処されたファラ・グリフォン の言葉より抜粋)

また、動物も人間も身体が異なるだけで同じ魂を持っているのかもしれません。動物も人間扱いするシベリアの猟師デルスウ・ウザーラ の次のような言葉を思い出します。

デルスウがイノシシを「人」と呼ぶので、私は驚いた。
私はそれについて、彼に訊いてみた。
「あれは人と同じ。」彼は断言した。
「シャツがちがうだけ。
だますこと、知ってる。
怒ること、知ってる。
何でも、知ってる。
あれは人と同じ!」


(*10)余談ですが、磯光雄 監督「電脳コイル 」が面白かったです。現在再放送中です。小学生向けアニメなのですが、けっこうSFの要素が豊富で楽しかったです。セカンドライフ は不振なようですが、電脳メガネができたら面白いなぁと思います。

2007年12月2日

生命雑感Ⅰ


最近のiPS細胞 のニュースと福岡伸一 氏の「生物と無生物のあいだ 」に刺激を受けて、生命について、とりとめもなく色々とオカルト的に妄想してしまいました。

例えば、ES細胞 はこれから育つ生命の卵を元に遺伝子操作によって、必要な臓器を作り出すように思います。それに対して、iPS細胞は切り落とした小枝を植えなおして、木に育てることに似ているように思います。つまり、切り取った細胞を遺伝子操作して、必要な臓器を培養するように思います。

ES細胞は新たな生命を使うのに対して、iPS細胞は既に存在する本体の一部を使う違いがあると思います。極端な話、植物の場合は切り落とした小枝を培養すれば、本体にまで育つかもしれません。しかし、動物の場合、切り落とした小指やトカゲの尻尾を育てても本体まで育つことはないのではないかと思います(*1)。

このようにES細胞とiPS細胞は、卵の生命力と細胞の再生力の違い、つまり生命力の大小の違いがあると思います。ですので、米国のグループは新生児や幼児など再生力の強い若い細胞で実験したのだと思います(*2)。ならば、おのずとES細胞で作られた臓器とiPS細胞で作られた臓器での生命力の差が生じてくると思います。しかし、その生命力とはそもそも何でしょうか。もしかすると、生命には霊魂とでも呼べそうな生命エネルギーがあるのではないかというオカルト的な妄想をしてしまいます(*3)。

いま、遺伝子操作などバイオテクノロジーは進歩していますが、生命そのものを作り出すことには未だに成功していません。今ある生命を操作することであって、生命そのものを作ることは出来ていません。ユーリー・ミラーの実験 のように、様々な条件で物質を化学変化させても、生命は生まれてくることはあり得ないようです。たしかに、もし生命が自然発生するものならば、身近に生命の原型がポコポコ生まれたり、人間の手で簡単に作り出せてもよさそうです。でも、現実にはそうはなっていません* 。生命の発生は物質を超えた力が関係しているのかもしれません(*4)。

物質ではない要素について、オカルト的に想像してみると、つい霊魂を想像してしまいます。そして、例えば、霊魂が循環する輪廻 のようなものを考えてしまいます。それをSF的想像力で補ってみれば、輪廻は4次元以上の高次元空間 (あるいは余剰次元 ) から質量のない光量子 たる霊魂が受精と同時に降り注いで受精卵に宿るように考えてしまいます(*5)。

ところで、生命について考えるとき、つい遺伝子 について考えてしまいますが、遺伝子システムは生命の起源からは少し後になって出来たのではないかと思います。遺伝子システムは、いわば本体から分離した一部の細胞(=生殖細胞・種子)が設計図に従って本体にまで構築・成長するように、あらかじめ事前に記述されたプログラムです。生命が発生した起源当初はそんな複雑なシステムは無かったのではないかと思います。起源当初は、細胞分裂するように単純に自分自身をコピーする自己複製だったのではないかと思います。(もっとも、自己複製から遺伝子システム構築へジャンプアップする過程を解明することも極めて難しいとは思います。)(*6)

それは、福岡伸一 氏の「生物と無生物のあいだ 」で言われている動的平衡がその自己複製の能力ではないかと思います。もっとも動的平衡そのものの仕組みについてはよく分かりません。一部の遺伝子を破壊してもその欠損を補ってしまうノックアウトマウス のような例を見ると、生命システムは物質的なレベルでのシステムを超えているのではないかとさえ思えてきます(*7)。オカルト的に考えると、霊魂がまるで自らの意思で生命システムを維持しているようにさえ思えます…。(*8)

生命は機械ではない。
・・・・・・
私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに
何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、
何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。
動的な平衡がもつ、やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ
感嘆すべきなのだ。

(福岡伸一「生物と無生物のあいだ 」より抜粋)

(*1)ただし、プラナリア のような強力な再生能力を持つ生物もいるので分かりません。ちなみにプラナリアのある遺伝子を阻害してやると脳だらけ になるそうですが、ある意味、遺伝子とは制約条件のコードなのかもしれません。女性のXX遺伝子に対して男性のXY遺伝子は情報量が少ないので、男性はそれだけ制約条件が少なく、生物的に自由に生きたりするのかもしれません(笑)。

(*2)黄教授のES細胞そのものを増殖できるという捏造事件 は、生命の創造にも似た話なので、最初からおかしい話に思えます。

(*3)生命エネルギーなどという言い方は物理学者からはお叱りを受けそうですが、かなり無理がありますが、語源のエネルゲイア はむしろ生命エネルギーに近い概念から出発しているのではないかとも思います。また、極端な例え話ですが、受精卵の遺伝情報を自由に書き換え可能と仮定すれば、マウスの受精卵の遺伝情報を人間の遺伝情報に書き換えてやれば、マウスを両親に持つ人造人間を作り出すことができるのかもしれません。ただし、そこでもし、生命エネルギーというものがあるのだとすれば、マウスの受精卵の生命エネルギーが人間の遺伝情報に従って実際に細胞分裂を実行できるだけのエネルギー量を持っているかどうかが問題になるのではないかと思います。

(*4)例えば、いくらナノテクノロジー が進歩して精密に有機物を組み立てても、自動車を組み立てるように、生きた生命体を組み立てることはできないのではないでしょうか。組み上がったものは、動かない生命体、つまり死体ではないでしょうか。生きた生命体を作り上げるには根本的に何かが欠けているのではないでしょうか。あるいは、生命は地球の外から飛来した可能性もあると思います。あるいは、最初の生命体は不死の存在だったのかもしれません。あるいは、サタンのように多品種の子を生み落とすばかりの母体的生命体だったのかもしれません。

(*5)ちなみに卵子や精子は単体では生命といえるかどうか微妙です。ウィルス は遺伝情報を持っていますが、ウィルスそのものは生命ではありません。遺伝情報を運ぶという点では、卵子や精子はウィルスに似てはいますが。ところで、余談ですが、輪廻に意味があるとしたら、ひとつは次の言葉ような意味なのかもしれません。

図書館は無限であり周期的である。
どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、
同じ書物が同じ無秩序さでくり返し現われることを確認するだろう。
くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス 「バベルの図書館 」より抜粋)

(*6)なぜなら、生物は自己と外部を区別して、食物を取り込んで自己の身体したり、不要物として排泄したりする認識力があります。その認識力によって自己を複製できるのではないでしょうか。



(*7)個々のケースでは部分的に解明されるかもしれません。科学的アプローチとしては全く正しいのですが、北野宏明 氏のいうようなロバスト性 というものを生命システムは超えているのではないかと思ってしまいます。

(*8)福岡伸一氏のいう動的平衡はもう一つのオートポイエーシス論 とでも呼べそうでとても興味深いです。そして、「生物と無生物のあいだ 」のエピローグは生命に対して至言とも呼べるような極めて含蓄の深い言葉で綴られています。

(*9)余談ですが、福岡氏やノーベル賞受賞者のマリス 博士の環境への考え方はとてもユニークです。

われわれ人間は実はアリ同然の無力な生き物であることを忘れてはいけない。
たとえ信仰の言葉が力をもたなくなったとはいえ、人間が神になったわけではない。
この地球の主は人間であり、諸般の事物を見守る使命があると考えるのは誤りだ。
現在の気象は、たまたまこうなっているだけのことである。
今後、それをずっと保全していこうと考えるのはあまりに傲慢である。
人類が地球のすべてを支配し、すべての環境と生物は今後ずっと不変不滅である、
そうして輝かしい二十一世紀を迎える、どんな生物も絶滅させてはならない。
それは新しい生物を受け入れないと言っているに等しい。進化論の否定である。
国立環境庁と国連気候変動調査委員会は一緒になって
進化の終焉を唱えているとしか考えようがない。

キャリー・マリス 「マリス博士の奇想天外な人生 」より抜粋)

氷河期、地球は今よりも摂氏二十度も冷えていた。
現在、われわれは間氷期と呼ばれる気候に生活しており、
これは人類史にとって一種の夏休みである。
・・・・・・
われわれは次の氷河期に向かいつつあり、
そこでは現在のような温暖な気候は期待できない。
むしろ氷河期のような気候こそが地球の歴史の大部分を支配していたのである。

キャリー・マリス 「マリス博士の奇想天外な人生 」より抜粋)

(*10)さらに余談ですが、マリス博士の薬物への考え方もとてもユニークです。

深刻な問題は、LSDの力を借りて真摯に物事を探求していた人々の
研究活動や芸術活動に終止符をうってしまったことである。
現在でも許可を受けてLSDの作用を研究している科学者はいるだろう。
しかし彼らはLSDを服用したこともなければ、
LSDのなんたるかも全く分かっていない連中なのである。
薬物に関しては、科学書籍まで検閲を受けることになった。
こんなことは歴史上初めてのことである。
「有機化学事典」のような化学合成の標準的な参考書からも、
LSDとメタンフェタミンの記述すべてが削除された。
なんという暴挙だろう。
一群の化学物質が、突然この世から消されてしまったのである。
アメリカの暗部はさらに闇を増しつつある。
……
どの薬物体験もそれぞれ味がある。
いずれも興味深い体験であることは確かだが、
いつもいつも楽しいものとは限らない。
私も何度か非常につらい目にあった。

キャリー・マリス 「マリス博士の奇想天外な人生 」より抜粋)