2009年11月21日

ケイト・ウィンスレット その4


■「タイタニック」(原題「Titanic」) ジェームズ・キャメロン監督(1997)
3時間以上の長い上映時間にも関わらず、世界最高の興行収入を誇る映画史上最大のメガヒット映画です。この映画で主軸になっている物語はジャックとローズという二人の若者の恋愛物語ですが、物語の主題は絶体絶命の危険にさらされたローズというひとりの女性の生き方が変わることが最大のポイントになっていると思います。

■あらすじ
ローズは英国の名門貴族の令嬢なのですが、実際には経済的に行き詰まった貧乏貴族の娘です。そのため経済的な理由から母親の取り決めに従って、大富豪キャルと婚約してしまいます。しかし、ローズはキャルを愛しておらず、また、ローズにとって社交界は自由のない籠の中の鳥の生活でした。ローズはそういった世界に嫌気がさしていますが、お金のため母のためにやむなく我慢しています。そして、いま、アメリカで結婚式を挙げるために豪華客船タイタニック号に乗船します。一方、貧乏な青年画家ジャックは賭けで勝ってタイタニック号の乗船券を手に入れて駆け込みで乗船します。

タイタニック号が出港して一等客船では社交が繰り広げられます。しかし、ローズは窮屈な自由のない社交にいよいよ嫌気が差してしまいます。そして、いっそ死んでしまおうとタイタニック号の船尾から飛び降りて自殺しようとします。そこへジャックが現れて、ローズを思いとどまらせて救います。

ローズはジャックと打ち解けるうちに、彼の自由な生き方に触れて彼の自由な生き方に憧れます。そして、同時にジャックにも魅かれるようになります。一方、ジャックもローズに魅かれます。ジャックはローズがこのまま社交界にとどまれば、いずれは心が枯れ死してしまうと警告して、ローズに社交界から飛び出すことを勧めます。ローズはその場では飛び出すことを拒みますが、社交界に戻って冷静に自分を見つめ直したとき、このままでは自分は正気では生きていけないことを悟り、社交界を飛び出すことを決意します。

ローズはキャルと決別するために、ジャックにヌードの自画像を描いてもらいます。それを見たキャルは怒りに燃えてローズを取り戻すためにジャックに宝石泥棒の濡れ衣を着せます。そして、みんなの前でジャックのコートから宝石が見つかり、そればかりかそのコートも明らかに盗まれたものだと分かったとき、ローズは「ジャックが宝石を盗むために自分を騙したのか?!」と茫然自失になってしまいます。そんな混乱した中でローズはタイタニック号の設計者からタイタニック号が沈没することを知らされます。それを聞いたキャルとローズたちは急いで救命ボートに乗り込もうとします。ところが、乗り込む寸前に、ローズはキャルからジャックが死ぬだろうと聞かされます。それを聞いたローズは宝石の盗難がジャックを陥れるためのキャルの謀略だったことに気づきます。ローズは卑劣なキャルや自分勝手な母親など何もかもすべてを捨ててジャックの元に駆けつける決意をします。

キャルを振り払ったローズは浸水が始まって混乱した船内を一人で捜し回って、手錠で動けないジャックを見つけます。なんとか手錠を外した二人は救命ボートに乗るためにデッキへ上がろうとします。デッキへ上がる途中でジャックは仲間と合流して、三等客室を閉じ込めたゲートを破ってデッキへ上がります。しかし、救命ボートの乗船は女性と子供が優先で、ジャックはローズを逃そうとキャルと協力してローズだけを先に救命ボートに乗せます。いったん救命ボートに乗ったローズでしたが、ジャックを船に残してゆくことがどうしてもできずに、再びタイタニック号に飛び移ります。再び一緒になって抱き合うローズとジャックはふたりは分かち難く愛し合っていて、ふたりは離れられないと覚悟を決め、今度はふたり一緒で逃げることにします。それを見たキャルが逆上して二人に向かって拳銃を発砲します。ジャックとローズは再び浸水して混乱する船内を逃げ回ります。

浸水した船内から命からがらデッキにたどり着いた二人でしたが、救命ボートも無くなり、いよいよタイタニック号が最期の沈没に向かって傾きが激しくなります。ジャックはできるだけ長く船上にいようとして、二人は浮き上がる船尾へと向かいます。人ごみをかき分けて船尾にたどり着いた二人は手すりにしがみつきます。奇しくも、そこはローズが飛び降りようとしてジャックに助けられた場所でした。そして、ついにタイタニック号が海面から垂直になって完全に海に沈みはじめます。二人は意を決して沈没の渦に巻き込まれないように沈没と同時に船を蹴って飛び出すことにします。一度は死ぬために船尾から飛び出そうとしたローズでしたが、今度は生きるために船尾から飛び出したのでした。ただし、今回は一人ではなく、ジャックと一緒にでした。

極寒の海に投げ出された二人でしたが、ジャックが船板を見つけます。船板は一人しか乗れず、ジャックはローズを船板に乗せて、自分は船板にしがみついて救命ボートが来るのを待ちます。しかし、いくら待っても救命ボートは助けに来ず、ローズは寒さと絶望で死を覚悟して、ジャックに別れの言葉を告げようとします。しかし、ジャックはそんなローズの言葉を受け入れず、諦めずにがんばれとローズを励まし、絶対に諦めないことをローズに誓わせます。そして、海が静まりかえった頃、ようやく救命ボートが助けにやってきます。ローズは救命ボートに気づいて、喜んでジャックに知らせます。しかし、いくら呼んでもジャックの反応はありません。ジャックはすでに氷点下の海で凍死していたのでした…。ジャックの死を知ってローズは悲しみに打ちひしがれますが、自分を助けるために命を投げ出したジャックとの誓いを思い出して、必死で救命ボートを呼び戻して救助されたのでした。

それから、ひとり助かったローズはキャルとの縁を切り、姓もドーソンと変えて新たな人生を一人で歩んでゆくことを決意します。そして、84年後、年老いたローズはタイタニック号が沈没した場所で当時の回想を次のように言って締めくくり眠りにつきます。「ジャックは沈没から生命を救ってくれただけでなく、あらゆる意味で私を救ってくれた」と。眠りにつくローズの傍らには、タイタニック号沈没後の彼女の半生を写した写真が飾られています。そこには、チャレンジングな充実した人生経験の足跡が刻まれており、社交界から飛び出したローズが苦労しながらも、とても充実した自由な人生を送ったことが分かるのでした。

■人生の特異点
タイタニック号沈没事故がローズの人生を変えました。この物語はローズが助かった話ではなく、ローズの生き方が変わった話です。なぜなら、ローズはキャルを選んでもジャックを選んでも、どちらを選んでも沈没事故からは助かっただろうからです。仮に、もし、キャルと一緒にいれば、ローズは助かったはずです。ローズの母親は余裕を持って助かっています。ローズは何度か救命ボートで脱出するチャンスがありながら、それを自ら拒んでいます。ですが、もしキャルを選んでいたなら、たとえ沈没事故からは助かっても、ローズは一生籠の中の鳥であり続けたでしょう。そして、ジャックが言ったように彼女の真っ直ぐな心は籠の中で枯れ死してしまったのではないでしょうか。しかも、キャルは世界恐慌で自殺していますから、同様にローズも行き詰る可能性が高かったと思います。一方、ジャックを選んだ場合はどうなったかは映画の通りで危険にさらされながらも危機一髪で助かっています。ですから、少し興ざめしてしまいますが、極端に言えば、ローズはキャルを選んでもジャックを選んでもどちらでも沈没事故自体からは助かっていたのです。では、ローズはジャックを選んだことで何が変わったのでしょうか?それはローズの生き方が変わったのです。ですから、この物語はローズが沈没事故から助かる話ではなく、実は、ローズの生き方が変わる話なのです。

■”竿頭一歩前進”の物語
ローズの生き方を変える象徴的な行為が船尾からのジャンプです。これは禅でいうところの”竿頭一歩前進せよ”に近い精神です。ローズは、最初、死ぬために船尾に立ちます。そのときはジャックに助けられます。翌日、ジャックからは挑発的に皮肉られます。「君は飛べないひとだね」と。ローズはムカッとしてますが、実際、自由な世界への憧れはあるけれど、恐れから飛び出せずにいます。ジャックは、ローズがこのまま社交界の世界に閉じこもってしまえば、ローズのまっすぐな心が死んでしまう、そうならないようにローズに自由な世界へ飛び出すことをけしかけます。ローズはジャックの呼びかけに答えて、飛び出すことを決意します。ところが、その矢先に沈没が始まります。二人は懸命に逃げ惑ううち、船尾にたどり着きます。このとき、決意だけでなく、実際に行動で示すときがきたのです。今度は死ぬためではなく、生きるために船尾からジャンプします、今度は二人一緒に。自由に生きることは決して楽な生き方ではありません。危険が待ち構えていますし、責任も伴います。また、知恵や勇気を必要としますし、ときには代償も必要とされます。ですが、恐れて何もせずに心が死んでしまうよりは、はるかに良い生き方だと思います。

結果、ローズは、タイタニック号で旅立つ前とニューヨークに到着した後では、大きく変わっていました。ニューヨークに到着して自由の女神像の前で雨に打たれながら立っているローズは以前のロースではありません。お金の無い不安や自由な世界への恐れから籠の中から飛び出せなかったか弱い娘から、自分の意思と力で世界の荒波に立ち向かってゆく強い決意を持った女性に変わっていました。そういった意味で、この映画はタイタニック号沈没事故の前後における、ローズの”変身”の物語なのではないでしょうか。(*1)

■まとめ
この映画は人気俳優レオナルド・ディカプリオの魅力が最もよく輝いているラブストーリーとして捉えられる傾向が強いと思います。ですが、これまで述べてきたように、この物語は恋愛だけではなく、死に直面したひとりの人間、ローズという若い女性の生き方が変わる話だと思います。恋愛と変身が見事にシンクロするという極めて稀有な物語だと思います。だからこそ、これだけ多くの人々に感動を与えるのだと思います。

文明社会で生きるということは、人はひとりでは生きられません。人は生きるためにお金を必要とします。しかし、そのとき、人は自分の人生の中で遅かれ早かれローズと同じような選択を迫られます。生きるために心を捨ててお金を選ぶのか、あるいは、死ぬかもしれないがお金を捨てて心のある道を選ぶのかを迫られます。これはとても分かりやすいシンプルな選択問題です。この問題を解くのに頭の良さは必要ありません。必要なのは自分の心だけです。私は人間にとって最も大切なものは心だと考えています。ですので、人間はどんなに危険で恐ろしくても、お金ではなく、心を選ぶべきだと考えています。そして、この選択は必ず自分の心にはね返ってきます。人間の心は間違った選択をして一度死んでしまえば、二度と生き返ることはありません。私はローズは生命を賭して心のある正しい道を選択したのだと思います。そして、死んでしまったけれど、ジャックもまた心のある正しい道を選択したのだと私は思います。確かに、ジャックのように、たとえ正しい道を選択しても死ぬかもしれません。しかし、心が死んでしまって生きるよりは、結果的に死んでしまっても、心のある正しい道を選ぶ方が良いのではないでしょうか。(*2)

■注釈
(*1)似たような変身にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」があります。次のような末弟アリョーシャの変身の場面があります。以下引用です。

静かにきらめく星くずに満ちた穹窿が涯しなく広々と頭上を蔽い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。……じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することはできなかった。しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙で沾した。そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。……無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持ちだった。そして彼の魂は『他界との接触』にふるえていた。彼は一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全ての人のために……。あの穹窿のように確固として揺るぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。さっき地上に身を伏せた時は、脆弱い青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。

(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」より抜粋)

他にも、生き方が変わる特異点の物語にアラン・ムーア原作の映画「V for Vendetta」があります。公安に捕まった娘イヴィーは公安から正義のテロリストVの居場所を吐けと拷問にかけられます。拷問にかけられて衰弱したイヴィーは「これ以上白状しないようなら、即刻処刑する」と公安に脅されます。しかし、それでもなおイヴィーは白状しませんでした。生命よりも大切なものを守るために処刑も辞さずとイヴィーは死を覚悟したのでした。そして、その次の瞬間、彼女の中で何かが変わります。スピリットの一撃によって魂を覆う殻に穴が穿たれた瞬間でした。イヴィーは錯乱して呼吸困難に陥りますが、Vによって連れ出された雨の中で立ち上がったときにはイヴィーはすでに戦士に生まれ変わっていました。イヴィーとVの会話を一部簡略化して下記に抜粋します。

「放っておいて!」 彼女が叫ぶ。「あんたなんか大嫌いよ!」
「それなんだ!」 彼は再び立ち止まり、彼女との距離を保った。
「最初、私も憎しみだけだった。憎しみが私の知る全てであった。
憎しみが私の世界を形成し、私を閉じ込め、
憎しみを食らい、飲み込み、呼吸する術を教えた。
血管に流れる憎しみだけで死ぬかもしれないと思っていた。
しかし、何かが起こった。君に起こったのと同じようなことが」
「うるさい!」 彼女が金切り声を上げた。「あんたの嘘はもう聞きたくないわ!」
「逃げてはいけない」 彼は続けた。「君はこれまでずっと逃げ続けていたのだ」
「ああ、いやよ」 彼女は突然あえぐと両膝をついて、胎児の姿勢になった。
パニックが止めどもない勢いで襲ってきたのだ。
「息が・・・できない・・・ぜんそく・・・小さい時に・・・」
彼女はぜいぜいと呼吸し呻きながら、何とか窒息しないようにした。
「私の話を聞くのだ、イヴィー」 彼は言った。
「今こそ君の人生で最も重要な瞬間だ。立ち向かうのだ。
君は彼らに両親を奪われた。君が好意を抱くようになった男を奪った。
君を独房に入れ、命以外の全てを奪った。君はそれが全てだと信じていたね?
君に残されたものは命だけだと。でもそうではなかったね?」
イヴィーは頷き、熱い涙が頬を伝った。
「君はそれ以外のものを発見した。あの独房で、君は命よりも重要なものを見つけた。
なぜなら、求めるものを渡さないのなら命を奪う、殺すと脅された時、
君はむしろ死んだ方がましだと言ったのだ。君は死と対決したんだ、イヴィー。
君は落ち着き、平静であった。あの時の感覚を思い出すんだ」
イヴィーは言われた通りにした・・・再び開放感を味わった。
「めまいがするわ。空気が欲しい。お願い。外に行きたい」
「エレベーターがある。屋上に連れていこう」
・・・・・・
彼から離れていないところで、降り注ぐ雨の中、屋上に立ち尽くしたまま、
イヴィーはむせび泣き始めた。
彼女もかつてのVと同じように、自らの存在全てが永劫なるものと融合するのを感じた。
頭上、踊り狂う稲妻が、再び神々しいばかりの激烈さで夜空を染め上げた。
神々が常にしてきたように「我こそ!」と絶叫し、光の中に人の姿となって顕現した。
啓示。
悟り。

(スティーヴ・ムーア「Vフォー・ヴェンデッタ」より簡略抜粋)

ローズも雨のニューヨークに降り立ったとき、固い決意をもった戦士だったのではないでしょうか。

(*2)ローズの選択について補足しておきます。沈没事故から助かったローズが他の男性と結婚したことを批判する意見がありますので、そのことについて述べておきます。恋愛の愛と大きな愛の違いがそこにはあって大事だと思いますので。さて、もし、ローズが沈没事故で助かった後、ジャックを一生大切に想って生涯結婚せずに暮らしたとしたら、ジャックは喜んだでしょうか?ジャックの願いは「ローズが幸せになること」です。ローズがジャックだけを想って子供も産まずに生涯を終えることは、ジャックにはそれがローズの幸せだとは考えられなかったと思います。確かにジャックは自分が生きていれば、ローズと一緒になりたかったでしょうが、ジャックは、もう、自分は生きられないことは分かっていたはずです。自分の生命を犠牲にしてもローズを救いたかったのがジャックが選んだ選択でした。だから、ジャックは死んでしまった自分のことを生涯想い続けるよりも、新しい伴侶を得て、家族を作って、ローズが充実した幸せをつかむことを願ったと思います。そこには、ジャックの無償の愛があります。この愛は恋愛の愛というよりも、もっと大きな愛で、ただ、ひたすら、愛するひとの幸せを願う愛です。そして、ローズには、ジャックのその気持ち、ジャックの愛が痛いほど分かっていたのだと思います。でも、ジャックの愛が分かれば分かるほど、それはローズには痛かったと思います。愛するジャックから彼の生命を賭けた愛をローズはもらった。けれども、死んでしまったジャックにはローズからは愛を返すことはできない。それはローズにとって辛く、胸の痛いことだったと思います。愛するひとに自分の愛を届けられないのだから。だから、なおのこと、いい加減な生き方はローズにはできません。ジャックが自分の生命を投げ出してまで救ってくれた生命なのですから、精一杯、生きなければジャックに申し訳が立たないからです。だから、ローズはジャックの愛に応えるためにも、精一杯、充実した人生を生きなければならず、そして約束を果たしたのだと思います。もちろん、ローズは夫を愛したと思いますし、一方でジャックも愛していると思います。これは恋愛の愛ではなくて、もっと大きな愛という意味で。恋愛の愛が至上の愛というわけではないでしょう。恋愛や結婚という形で愛が保証されるわけではなく、愛は善き心のあるところに芽生えるのだと思います。

(*3)ところで、ウィンスレットが出演した映画には同じようなシーンが数多く見られます。

例えば、水中のシーンが非常に多いです。まず、この「タイタニック」で大西洋に投げ出されて危うく溺れそうになったのは有名です。映画出演第一作目の「乙女の祈り」では水着を着て湖に飛び込みそうで飛び込みませんでした。かわりに浴槽の場面があります。「ハムレット」ではオフィーリア役であっさり溺死しました。「グッバイ・モロッコ」では水中シーンに慣れてきたのか、全裸で湖を大きなストライドで気持ち良く平泳ぎしています。ところが、「クイルズ」では再び洗濯槽で溺死してしまいます。もう、十分、ウィンスレットの水中シーンに慣れたかなと思ったら、「アイリス」では川でかなり大胆に全裸で泳いでいてびっくりしました。草木の緑と女性の白い裸体が綺麗に映えるラファエル前派の絵画を連想させる美しい光景でした。ウィンスレット自身も水中シーンには完全に慣れたのかなと思ったら、「エターナル・サンシャイン」では巨大な台所の流しの中で撮影中に失神してしまったそうです。それでも、やはり水中シーンは止められないらしく、「オールザキングスメン」では夜に海を泳いでいます。さらに「リトルチルドレン」ではプールで泳いでいます。まだまだ続きます。「ホリデイ」で邸宅のプールで豪快にクロールで泳いでいます。「愛を読むひと」では下着姿で川を泳いでいます。もうほとんど水中シーンでやることはやったかなと思ったら、「Romance&Cigarettes」ではとうとう水中で歌まで歌っています(笑)。これだけ水の場面が多い女優さんも珍しいと思います。

また、喫煙のシーンも非常に多いです。「日陰のふたり」で何度もタバコを吸っています。「タイタニック」ではキャルに喫煙を注意されてましたね。「グッバイ・モロッコ」ではお金がなくて落ち込んだ時に一服してました。「ホーリースモーク」では手巻きタバコを器用に巻いて一服してます。「アイリス」では、執筆にタバコは欠かせないようでした。唯一、「ライフオブデビッドゲイル」では嫌煙で相棒が吸うことを注意してました。「レボリューショナリーロード」では、夫婦喧嘩の後に気持ちを落ち着かせるために吸っていました。「Romance&Cigarettes」ではセクシーに煙を吹いています。ところで、ウィンスレットは、プライベートでは子供のいる家では吸わないらしく、外出中に吸うらしいです。ちなみに、アカデミー受賞後はタバコは止めるつもりと言ってはいましたが、どうなんでしょうね(笑)。

ところで、映画の中で俳優が格好良くタバコを吸うのは、映画のスポンサーにタバコ会社がいて、タバコの宣伝のためにわざわざ吸わせていることが多いんだそうです。というのも、国によっては規制でタバコの宣伝ができないらしいので、替わりに映画の中で宣伝するんだそうです。もしかしたら、ウィンスレットもタバコ会社と契約しているのでしょうか?ただ、内容的にどうなんでしょう。例えば、「グッバイ・モロッコ」ではジュリア(=ウィンスレット)はお金が無くなって困ってしまい、やさぐれてタバコを吸っています(笑)。また、「レボリューショナリー・ロード」では夫婦喧嘩のあとに自宅の裏山で、やはり、やさぐれてタバコを吸ってました(笑)。かなり身体に悪そうな吸い方でした。さらに、「Romance&Cigarettes」では肺ガンの写真を背景に肺ガンを患ってゲホゲホ言いながら踊るダンスを披露していました(笑)。タバコの宣伝としては逆効果なんじゃないでしょうか(笑)。たしかに、ウィンスレットの喫煙はちょっと気になりますが、ただ、彼女に喫煙を注意するのは勇気がいります。以前、映画「タイタニック」の中で喫煙を注意した男性がいましたが、彼がどのような結末を向かえたかは周知の通りです(笑)。


さらに、自転車のシーンも多いです。パターンは二人で自転車を並行に走らせることが多いです。「乙女の祈り」、「日陰のふたり」、「アイリス」、「愛を読むひと」など二人で自転車を走らせています。

それから、情感を込めて朗読するシーンもいくつかあります。「いつか晴れた日に」ではシェイクスピアの詩を朗読していますし、「日陰のふたり」では墓碑銘を読んでいます。「グッバイ・モロッコ」では翻訳を頼まれた詩を朗読しています。「Extras!」ではエッチ電話の一例を熱意を込めて読んでいます(笑)。また、歌を歌うシーンもあります。「乙女の祈り」でしっとりと歌っていますし、「いつか晴れた日に」ではピアノを弾きながら歌っています。「アイリス」では「The Lark in the Clear Air」をキレイに歌っています。ウィンスレットの朗読は非常に明確で力強いと思います。普通の会話でも彼女の英語は聞き取りやすいんじゃないでしょうか。 

2009年11月14日

ケイト・ウィンスレット その3


■「乙女の祈り」(原題「Hevenly Creater」) ピーター・ジャクソン監督(1994) 
この映画は1954年にニュージーランドで実際に起こった殺人事件を題材に作られた物語です。

■あらすじ
ポウリーンはニュージーランドの女子高生ですが、窮屈な学生生活にややうんざりしています。そんなある日、名門カンタベリー大学の新学長の娘ジュリエットが転校してきます。二人は周囲の普通の女子高生からは浮いたところがあり、また互いの共通点から、すぐに意気投合して親しくなります。

二人の共通点とは、1つはお互いに大きな病気を患った経験があることです。ポウリーンは幼い頃に脚の病気で長期間入院しており、今も脚に大きな傷跡が残っていますし、少し脚が不自由なところがあります。一方、ジュリエットも幼い頃に肺の病気で長期間入院しています。ジュリエットはこの入院中に両親と離ればなれになってしまって、かなり寂しい想いをしたようで、今でもそれが少しトラウマになっています。

もう1つの共通点は、二人はオペラ歌手のマリオ・ランザやハリウッドスターたちなど特定の音楽や美術をこよなく愛している点です。もしかしたら、ポウリーンはジュリエットに感化されたのがきっかけで、それらの趣味に走ったのかもしれませんが、いずれにしても、それらが好きであったことに違いはありません。彼女たちの趣味への憧れは、どんどん膨らんでいって、自分たちの好きな音楽や美術だけで作られた”第4の世界”を想像する至ります。彼女たちはキリスト教の天国よりもこの”第4の世界”に憧れるほどになります。

さらに、彼女たちは”ボロヴィニア王国”という中世風の架空の王国を創作して想像で楽しむようになります。王国の住人の像を作ったり、数世代に渡る王族の物語を創作したりします。そして、自分たちもその世界で王や王妃のような貴人となって自由気ままに振舞うこと-気に入らなければ領民を殺しまくったり、王家の夫婦生活を赤裸々らに描くなど-を想像して楽しみます。ジュリエットはデボラ、ポウリーンはジーナというようにボロヴィニア王国の登場人物の名前で互いを呼び合ったりするようにまでなります。そんな彼女たちの将来の夢は作家になって、ハリウッドに行くことでした。

ところで、ジュリエットは父は学者で地元の名門大の学長、母は結婚カウンセラーなど知的でアクティブな仕事をしており、お金持ちのエリート家族です。一方、ポウリーンは父は魚問屋のマネージャーで母は自宅の下宿を切り盛りしており、一般家庭です。家庭環境が大きく違う二人ですが、お互いに気が合うので仲良くなります。

そんなとき、ポウリーンとジュリエットは、ジュリエットの家族と一緒にバカンスに出かけます。ポウリーンも家族同然に仲良く遊んでいたのですが、ジュリエットの両親が学会で英国に行くため、当分、ジュリエットは一人ぼっちにされることが判明します。ジュリエットは幼い日のトラウマが甦ったのか、悲しみのあまり野山で一人泣き崩れてしまいます。心配したポウリーンが追いかけてきますが、ジュリエットの様子がいつもと違って変です。どうやら悲しみのあまり錯乱したジュリエットは幻覚を見ているようなのです。そして、不思議なことに、それが伝染したようにポウリーンにも同じ幻覚が見えるようになります。ついに二人は、二人だけの幻覚を共有するに至り、二人の親密度はさらに高まるのでした。

さらに、ある日、ジュリエットが肺病に倒れてしまいます。ジュリエットは結核に犯されており、療養所に長期入院することになります。その間、ジュリエットの両親は旅行で見舞いに行きませんでした。ポウリーンだけが手紙や見舞いなどジュリエットの心の支えになります。また、ポウリーンはこの間に下宿生と恋仲になりますが、下宿生とセックスしても全然気持ち良くはなく、むしろ、ジュリエットの面影が脳裏にちらつきます。ポウリーンにとってもジュリエットはかけがいのない存在であることが意識されます。そして、ジュリエットが退院するときには、ジュリエットは両親よりもポウリーンがかけがいのない存在になり、ポウリーンもジュリエットがかけがいのない存在になって、二人は互いに強く結びつきます。

そんな親密すぎる二人を見たジュリエットの父は、二人の同性愛を懸念してポウリーンの母親に働きかけて、ポウリーンを診察させます。診察の結果、ポウリーンに同性愛の傾向が見られるということで、ポウリーンの母親はポウリーンがジュリエットに会わないように厳しくします。ジュリエットが大好きなポウリーンは、次第に二人の仲を邪魔する母親が疎ましくなってゆきます。

そんなとき、ジュリエットの母親の不倫が発覚します。ジュリエットは深い悲しみに沈みますが、追い打ちをかけるように、両親の離婚が決まり、ジュリエットはひとり南アフリカの伯母の元に送られることが決まります。そのことを知ったポウリーンは自分もジュリエットについて行くと言い出しますが、母親が猛反対して許しませんでした。そのため、ジュリエットもポウリーンも互いに離れたくないばかりに激しく落ち込みます。二人のあまりの落ち込みようを心配した両親たちが二人で2週間ほど一緒に過ごせるようにします。二人はこの間に深く愛し合うようになり、ついには同性愛の関係まで結ぶようになります。そして、もう離れられないと感じたポウリーンは邪魔をする母親を殺すことを提案します。二人は母親を殺すことを決意して、殺害計画を立てます。

二人は計画通りにポウリーンの母親を誘って、ジュリエットとポウリーンの三人でハイキングに出かけます。そして、山中で二人は協力して、ポウリーンの母親をレンガで殴り殺したのでした…。

■悪の物語(*1)
この映画は”悪”を描いた物語です。”悪”と言っても、単なる”善悪の悪”ではありません。”制御できない力”、”枠には収まらずにはみ出してしまう荒ぶる過剰なエネルギー”としての悪を描いています。

通常、思春期の過剰なエネルギーは反抗期となって現れ、人それぞれに違った様々な人格形成に影響を及ぼしながら、最終的には、性にそのエネルギーを開放するようになると思います。

ところが、この二人の場合は、二人の強力な個性をもった乙女が偶然結びついたことで通常とは違ってきます。この二人はそのエネルギーのはけ口として妄想の世界を見つけ、ついには二人だけの世界を幻覚するに至ります。この二人だけの世界は二人だけに都合の良い世界なので、誰からも束縛を受けません。彼女たちはそこで自由に自分たちの欲求を開放します。その結果、大人たちの社会的な世界よりも自分たちの特殊な世界を正当なものと考え、母親殺しという突飛な暴走に至ったのだと思います。

■幻覚の世界と妄想の世界
興味深いのがジュリエットが幻覚を見る場面です。両親の学会旅行を知ったジュリエットは精神的な錯乱と過呼吸によって幻覚を見ます。過呼吸による幻覚は多くの事例があると思います。さらに面白いのは、ポウリーンまでがジュリエットに牽引されるように幻覚体験をするこです。人類学の調査報告によれば、夢見や幻覚を共有する事例は意外と多くあるようです。不思議なことに、シャーマンたちは、同じ場所で同時に眠ると、どちらかに引っ張られるように同じ風景・同じ場所の夢を見ることが多いらしいです。また、一般に体験的に知られている事例では、通常の覚醒した意識状態ですが、「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というように同じ対象に対して一人だけでなく複数の人が同じような幽霊の姿を見るように、同時にゲシュタルト崩壊を起こすのに似ています。

それから、上記した幻覚の世界とは別に彼女たちは妄想の世界を持っています。ボロヴィニア王国や第4の世界です。映画では、幻覚と妄想の区別が曖昧になってゆきますが、厳密には、幻覚と妄想は微妙に違うと思います。ですが、二人の「結びつきたい」という願望が強かったのでしょう、彼女たちの強い願望が妄想をよりリアルなもの、幻覚に近いものにまで高めたのだと思います。

まあ、とはいえ、これらの場面は映画で作られた話でしょうから、実際の彼女たちがこのような体験をしたかどうかは疑問です。ですが、よくできた話だと私は思います。

■同性愛への疑問
ところで、彼女たちを同性愛者と見る見方があるかもしれませんが、私はそれは少し違うと思います。彼女たちは最終的には同性愛関係に至りますが、いわゆるレズビアンかというと、そうではないんじゃないかと思います。なぜなら、彼女たちは、元々は理想の男性に恋焦がれていたからです。それが、周囲の反対が逆効果となって二人を強く結びつけ、ついには性への好奇心から同性愛関係に至ります。ですから、どちらかというと、レズビアンというよりは、互いを愛する表現として、最終的にセックスを選んだのだと思います。ですから、元々は、同性に性的欲求を感じるというものから発したのではなく、愛情表現のひとつとして、そのような関係になったと思います。なので、彼女たちの間に芽生えた愛は同性愛というよりは友愛に近いものだと思います。ただ、普通の友愛と違うのは、二人だけの幻覚と妄想の世界を共有した点です。二人だけの特別な世界を共有したことが、普通の友愛以上に強固な相愛へ二人を結びつけたのだと思います。(ただし、実在の二人は同性愛だったようです。)

それにしても、女の子同士でのハグやキスのスキンシップはキレイで良いなあって思いました。スキンシップをすることで相手の暖かみや存在を実感して愛情を確認しているようで、本当にいい感じです。

■演技について
この映画でジュリエット役を演じたケイト・ウィンスレットの演技が私はとても大好きです。
本当にこの映画の中のどの演技も味わい深くて好きなのですが、好きな場面をいくつか例として上げておきます。

①ジュリエットがポウリーンの足の傷を見る場面
ジュリエットが舐めるようにポウリーンの傷痕を見回して、大きな傷跡に背筋に寒気を感じながらも、興奮して目を細め、鼻を膨らませるのがとても良い感じです。

Can I have another look? . . .That's so impressive!
Can I touch it?  Woo. . . I've got scars . . . they're on my lungs.

見せてくれる?・・・すごい傷跡!
触ってもいい? うう、凄い、・・・私にも傷があるのよ、肺にね。

ウィンスレットは元々こういう膨らんだ鼻なのですが、こういう場面では一層引き立ちます。

②ジュリエットがポウリーンの母親に悪態をつく場面
ポウリーンの母親が両親が旅行でいないジュリエットを気遣って「両親はあなたのためを思って入院させたんだから…」というのですが、ジュリエットは腹立てて、目を剥き、舌を突き出して悪態をつきます。

They sent me off to the Bahamas "for the good of my health."
They sent me to the Bay of bloody Islands "for the good of my health."

バハマ諸島へ行かされたわ!体のためと言ってね!
くそニュージランドのホークス湾へも行かされたわ!体のためと言ってね!

ジュリエットの怒りに歪んだ醜さがたまりません。

③仕返しのいたずらをして草むらで笑う場面
ジュリエットの豪邸でパーティが催されている場面。ポウリーンを同性愛と診察した医師が婦人を伴って庭の池にやってきます。そこへジュリエットたちが大きな石を投げ込んで大きな水しぶきを上げます。その水しぶきが医師のズボンを濡らしてしまいます。それを見て、野原の陰で歓喜するジュリエットとポウリーンの会話が最高です。

ジュリエット”Direct hit! Gave his trousers a good soaking!
(命中!ズボンが見事にずぶ濡れ!)

ポウリーン”Everyone will think he's peed himself!”
(みんな、彼がお漏らししたと思うでしょうね!)

ジュリエット”HaーHaーー!!”
(ハッハーーッ!)
ジュリエットが草むらの間で歯を剥き出しにして笑うのがたまりません。乙女というより、ただの悪ガキです(笑)。

④バスルームでポウリーンの悩みを笑い飛ばす場面
浴槽の中で向き合って座っている場面で、ポウリーンが悲しそうな表情で自分の置かれた窮状を訴えます。

ポウリーン ”I think I'm going crazy”
(私、頭が変になっちゃいそう…)

それに対して、ジュリエットが不敵な表情で余裕で次のように笑い飛ばします。

ジュリエット”No, you're not, Gina, it's everybody else who is bonkers!”
(そうじゃないわ、ジーナ。狂ってるのは連中よ!)

最後に、「フンッ!」と笑って吐き捨てるジュリエットの鼻息が最高です!!!

⑤母親をレンガで殴り殺す場面
ジュリエットがポウリーンからレンガを受け取って、ポウリーンの母親にレンガを打ちおろします。
そのときのジュリエットの悪魔的な醜さが何ともいえません。

他にも、ジュリエットとポウリーンが下着で森の中を歌い踊っていたら仕事中のおじさんに見つかる場面やジュリエットが弟に「あんたのオモチャを全部壊してやるから!」と言って舌と鼻を突き出す場面も好きです。他にも良い場面がたくさんあります。私的には、この映画全般のケイトの鼻がとても良い感じに思います。

■千変万化の変化
この映画の中で、ウィンスレットは千変万化の変化(へんげ)を見せます。野蛮人からお姫様まで多種多様な顔を変幻自在に見せる、まさに、変身です。そんな生き生きとした彼女の中に熱い生命の炎を感じます。特に、人が悪に燃えるとき、生命の炎は妖しく激しく煌めきます。

■まとめ
この事件をどう捉えるかは難しい問題です。おそらく、当時の彼女たちには罪の意識は希薄だったのではないかと思います。彼女たちから見れば、愛し合う二人の邪魔をする母親を単に排除したかったというのが理由だからです。当時の社会は同性愛は悪だったかもしれませんが、現代では特に同性愛そのものが悪というわけではないでしょう。二人からすれば、二人の愛を邪魔する者こそ悪だったに違いないでしょう。もっとも、殺されたポウリーンの母親が先頭に立って二人の邪魔をしていたわけでないので、誤解・妄想に基づく殺人であって、母親からすれば、迷惑千万な話です。ともかく、どんな理由であれ殺人は悪であるので、二人に重大な罪があることに変わりありません。ただ、悪意に基づく殺人ではなく、二人が強く愛し合うがゆえに起こった事件だけに、第三者から見れば、どこか煮え切らない割り切れない思いが残ります。

ただ、この映画自体は、特殊なケースではあるけれども、思春期の女の子の制御できないエネルギーの問題を扱っていると思います。彼女たちは幻覚と妄想を共有して、さらに、同性愛にまで目覚めます。他と違って彼女たちが特殊なところは、妄想の共有や同性愛だけでなく、幻覚まで共有できる点にあると思います。幻覚を共有できるのは、女性ゆえの強力なエネルギーがなせる業だと思います。

■注釈
(*1)この作品の他に悪を描いた映画には「時計じかけのオレンジ」があります。これは青年の暴力と性の暴走を描いた作品です。物語のベース自体は近未来の管理社会になっているのですが、表現の主体は暴力と性が描かれています。この映画での悪は青年の悪であり、それは性欲や暴力衝動という比較的シンプルな悪を描いています。一方、「乙女の祈り」では、幻視という女性の強力な精神力がもたらす精神的な暴走を描いているので、「時計じかけのオレンジ」のシンプルな暴力世界よりも、より豊かな悪の世界になっていると思います。もっとも、シンプルではあるけれども、恐ろしさという点では「時計じかけのオレンジ」に優る映画はないと思います。

また、近年では悪を描いた映画に「ダークナイト」(=バットマン)のジョーカーがあります。ジョーカーは秩序の純粋な破壊者足らんとしています。どういうことかというと、例えば「バットマン」に登場する怪人たちはいずれも心にトラウマを抱えています。怪人たちは、そのトラウマが元で心の歯車が狂って、反社会的な怪人となってしまっています。一方、怪人を取り締まるバットマン自身も実は様々なトラウマを心に抱えています。ただ、バットマンの場合は怪人たちと違って、トラウマから生じた反動を社会正義のために使っています。ですが、心にトラウマを抱えている点ではバットマンも怪人も同じです。(米国のアニメ版では、バットマンは相棒のロビンから人間味に欠けると指摘されて落ち込んでいました。実はバットマンは人間的に完全無欠な英雄でなくて、むしろ、人間として問題を多く抱えた人物なのです。)なので、バットマンも怪人も奇妙なコスチュームに身を包んでいるのだと思います。ところが、ジョーカーの場合は怪人たちやバットマンとは違っています。確かにジョーカーも醜い姿になったことがきっかけで怪人になってはいます。しかし、ジョーカーと他の怪人たちでは決定的な違いがあると思います。それは何かと言うと、まず、怪人たちの悪を別の言葉で言い換えると、怪人たちの悪は実は自分たちの別の正義に基づいていると言えると思います。つまり、バットマンの正義と怪人たちの別の正義のぶつかり合いが物語になっています。しかし、ジョーカーは違います。ジョーカーには別の正義はありません。というのも、怪人たちの悪である別の正義も実は普通の正義と同じく秩序のある世界だからです。正義の種類は異なっているけれど、どちらも彼らの正義=規則に基づいた秩序ある世界なのです。つまり、怪人たちは別の正義に基づいた秩序ある世界に生きています。しかし、ジョーカーは秩序そのものを破壊しようとします。ジョーカーには正義はもちろん、別の正義もありません。ジョーカーにあるのは、ただ秩序を破壊することだけです。ジョーカーの目指すものはカオスです。彼は秩序ある世界の純粋な破壊者たらんとしているのです。彼の名前の如く、トランプのジョーカーのように彼だけはバットマンや他の怪人たちとは次元を異にする別格になっています。自然世界にエントロピーの法則があるように、カオスに向かってゆくのが自然の摂理なのかもしれません。ジョーカーはそれを体現した存在なのかもしれません。ということは、社会秩序に収まるように心を抑制する私たちの方があるいは不自然なのかもしれません。ジョーカーのような破壊への衝動は本当は人間に自然に備わっていたものなのかもしれないのです。私たちの子供の頃がそうであったように、あるいは、詩人ランボーのように。確かに愉快犯は否定されねばなりませんが、その心を自分たちにはまったく無いものとして無理解に拒絶するとき、実は心が病んでいるのはジョーカーの側ではなく、私たち自身の心が自分でも気づかないうちに病んでしまっていることになるのかもしれません。ですから、悪は拒絶されねばなりませんが、悪を理解する心を失ってはいけないと思います。(これは人類学では道化論に近いと思います。ただ、悪の制御は容易ならざるものがあって、上記のように悪を秩序の枠組みに組み込むことなど不可能だとは思います。なお、世界最強の破壊者は道化です。)ちなみに、私はバットマンシリーズの中ではティム・バートン監督の「バットマン・リターンズ」が好きです。この作品では怪人の悪よりも人間の悪の方がよっぽど悪辣で厄介なものであることが描かれていますし、キャットウーマンの女性的な狂気や生命力が表現されていて好きです。バットマン自身も自分の二重性(=異常人格)に苦しんでいます。それにしても、そもそも、まったく狂気のないまともな人間というのはいるのでしょうか?むしろ、人間は狂気を抱えている存在なのではないでしょうか?人が胸を張って自分はまともだと主張するとき、実はバットマンに登場する怪人たちのように自分の正義を他人に押し付けるようなものなのかもしれません。

それから、さらに脱線ですが、悪女ではないけれど、ほんの少し悪を見せる映画に黒澤明監督の「わが青春に悔なし」があります。原節子演じる八木原幸枝が男友達に論争でやり込められた腹いせにまったく関係のない別の男友達に、理由もないのにいきなり土下座をさせるシーンがあります。「ねぇ、ねぇ、お願い。何でもいいから土下座して。ねぇったら!」と甘えるように言って男を無理矢理土下座させたときに、ゆらゆらと愉悦に浸る原節子の黒い笑みが浮かび上がってきます。しかし、すぐに我に返って土下座を止めさせます。黒澤監督が見事に描いた悪のゆらめきです。ちなみに、原節子の撮り方は小津安二郎より黒澤明の方が私は好きですし、その方が正しいんじゃないかと思っています。確かに小津安二郎の世界も嫌いではありませんが、原節子のような日本人離れした豪華で派手な美人は黒澤明のような線が太く印象の濃い力強い女性の役のほうが断然良いと思います。逆に小津安二郎の中の原節子はどこか押し込められて窮屈に感じます。下手をすると抑圧された女性になってしまいます。ですので、「わが青春に悔なし」の八木原幸枝や「白痴」のナスターシャ(=那須妙子)の方が原節子の生命力が十分に発揮されていて私は大好きです。今でも「白痴」の激しく燃える炎のような女性ナスターシャにピッタリな日本の女優は原節子を除いていないのではないかと思います。なお、この「白痴」のナスターシャも燃えさかる暖炉の中に10万ルーブリを投げ込んでしまうなど、彼女もまた制御できない悪、荒ぶる魂を抱えた女性なのだと思います。ナスターシャを刺し殺してしまうロゴージンも同様に荒ぶる魂を抱えていますが、ナスターシャとロゴージンの関係を見ても分かるように、ナスターシャの激しさの前ではロゴージンもかすんでしまいます。生命力の激しさでは、女性の方が圧倒的に強いと思います。ちなみに1958年のソ連版「白痴 」も私は大好きです。

(*2)余談ですが、私はこの映画を見て、やはりヨーロッパ人の精神文化の基層はキリスト教ではないのではないかと感じました。キリスト教は元々は西アジアで生まれた一神教の一種であって、ローマ帝国によって国教として広められましたが、その実、ヨーロッパ社会の底流にはもっとアニミスティックな宗教観が脈々と受け継がれているのではないかと感じました。映画の所々で見られる非キリスト教的な宗教的な感性があることに、アニミスティックな日本人としてちょっと親近感が持てました。

2009年11月7日

ケイト・ウィンスレット その2

■「アイリス」(原題「Iris」) リチャード・エアー監督(2001)
この映画は、英国の著名な作家で哲学者のアイリス・マードックの半生を描いた物語です。映画は若き日のアイリスをケイト・ウィンスレットが演じ、年老いてアルツハイマー病に冒されてゆくアイリスをジュディ・デンチが演じています。原作は、文芸評論家で夫のジョン・ベイリーの回想録が元になっています。

■あらすじ
この映画は2つのパートに分かれています。1つは恋愛に自由奔放な若き日のアイリスを描いています。もう1つは年老いてアルツハイマー病を患って自分がどんどん失われてゆく晩年のアイリスが交互に描かれています。アイリスの夫ジョン・ベイリーは、若いときはアイリスの自由奔放さに振り回され、年老いてからはアルツハイマー病によって振り回されます。ジョンは翻弄されているように見えますが、それでもジョンはアイリスを強く愛し続けるという話です。

若い頃のアイリスは数多くの恋愛遍歴を持ち、ベイリーと付き合いはじめても、他に恋人がいるくらいでした。そんな恋人のひとりにモーリスがいました。モーリスもアイリスの恋人の多さに辟易しており、ベイリーを交えた食事会の席でも、そのことでアイリスを責めたりしました。モーリスによれば、アイリスがたくさんの恋人を作るのは小説を書くために経験豊富な男達を知るためだというものでした。そこで、アイリスとモーリスの間でちょっとした口論になるのですが、ベイリーはアイリスをかばいます。アイリスはベイリーの優しさに心を動かされて深い関係になります。しかし、それでもアイリスには多くの男友達がいて、ベイリーは友人のジャネットからも忠告を受けたりします。けれども、ベイリーはそれでもなおアイリスを愛し続けます。しかし、あまりの男友達の多さに嫉妬したベイリーはアイリスの世界に自分を入れてくれないことを寂しくアイリスに訴えます。アイリスはベイリーと世界を共有するために自身の男性遍歴についてベイリーに告白します。ここは驚くと共にちょっと面白かったのですが、次から次へとアイリスの男性遍歴が明かされてゆきます。「えっ!そんなにたくさんいたの?!」というくらい(笑)。すべての男性遍歴を聞き終わって、アイリスとベイリーは抱き合って深い愛を誓うのでした。

一方、年老いたアイリスはアルツハイマー病に冒されて痴呆に悩まされますが、なんとか最後の小説「ジャクソンのジレンマ」を書き終えます。しかし、その後はどんどん病気が進行して、言葉だけでなく、アイリスの人格さえも失われてゆきます。いつの間にか街を徘徊したりしてベイリーを心配させたりします。友人のジャネットの葬儀の帰り道では興奮して、走っている状態の自動車から飛び降りさえしてしまいます。ベイリーはそんなアイリスに手を焼きながらも自宅で面倒を見続けますが、ついにアイリスの症状も酷くなり、ベイリーも限界に達したとき、アイリスを介護施設に入れることにします。そして、それからまもなくしてアイリスは静に息を引き取ったのでした。

■アイリスの両性愛
ここでは、普通とはちょっと違ったこの映画の見方を提示します。普通はこの映画は若い時はアイリスの自由奔放な恋愛遍歴に、年老いてからはアイリスのアルツハイマー病に振り回されながらも、夫ジョン・ベイリーがアイリスとの苦労しながらも愛し合った二人の愛を描いた物語として受け取られると思います。しかし、ここではそれとはちょっと違う見方を提示しようと思います。

映画の中のアイリスはよく「真実は私の胸の内にだけある」と言っています。アイリスは自分の心のうちを人に知られるのを好みません。小説も最初は誰にも読ませんでした。アイリスには、ちょっと秘密主義なところがあります。ですので、本当は秘密でもないのに秘密っぽくして「さあ、どうかしら?」(ニヤリ)といった感じでジョンをからかうようなところがあると思っていました。例えば、それは映画の中でカフェでアイリスとジョンが落ち合う場面で、先にカフェで待っていたアイリスが女友達と別れのキスをしていました。ジョンはそれを色々と勘ぐって「君はレズなの?」と言って尋ねます。アイリスはニンマリと微笑んでその質問に答えませんでした。私はてっきり「真実は私の胸の内にある」という信条でジョンをからかっているのかと思っていました。

ところが、アイリスの経歴を見てみると、実はアイリスにはなんと女性の恋人がいました!相手は彼女が勤めていた大学の同僚だったようです。1963年、44歳のときにアイリスは大学を辞めていますが、どうやらアイリスとその女性との同性愛がばれたのが原因でジョンとの間に夫婦の危機があり、その女性の恋人への執着を断つためにアイリスは大学を辞めたようなのです。この点を踏まえると、ジョンに「レズなの?」と訊かれた時にアイリスが答えなかったのは、ジョンをからかっていたわけではなかったと思います。さらに、アイリスの男性遍歴を全部告白していた場面をそれを踏まえて考えると、たしかにアイリスが男関係を洗いざらい喋ったことに嘘はないのですが、それは男関係だけであって、まさかアイリスが女性とも関係しているとはジョンは夢にも思っていなかったのではないでしょうか(笑)。なかなかお茶目なアイリスです(笑)。

ともかく、アイリスは女性も男性も両方いけるバイセクシャルだったようです。ジョンから見れば、なんだか裏切られたような気もしないではないですが、私が思うに、アイリスにとっては男性の恋人と女性の恋人では次元が違ったのではないかと思います。アイリスにとっては、どちらも同じように愛していたのではないでしょうか。特にアイリスには子供がいませんでしたから、恋愛に対しては、比較的、自由な感覚があったのかもしれません。ただし、一方のジョンも、実はアイリスと死別してから、わりと早くに再婚しています。まあ、でも、それでいいんだと思います。本人の自由意志だと思います。他人がとやかく言うことではないのでしょう。いやはや、とにもかくにも人間というのは、なかなか複雑な生き物のようです。

ところで、面白いのですが、アイリスは1993年に過去の自分の日記(1945年~1954年頃)を見返してみたところ、自分があまりにも多くの人に恋してきたことを知って、自分で自分に驚いています。「何を今さら!」とちょっと笑ってしまいます(笑)。しかも、1985年にアイリスは批評の中で複数の人間と関係している作家を厳しく非難さえしています。いやはや、なんともお茶目なアイリスです(笑)。

アイリスの性は、まあ、ノーマルに考えれば自分勝手と映ると思いますが、半面、とても自由です。アイリスは異性にとどまらず、同性までも性愛の対象になっています。どちらか一方ではなくて両方というところがアイリスらしいと思います。このアイリスの自由な姿勢が彼女の哲学や思想にも反映されていると思います。彼女は常識や既成概念に囚われることなく、物事の本質に迫っていきます。そういった彼女の自由な精神が哲学よりもさらに深い、彼女の小説に表現されているような精神の深みへ彼女を到達させたのだと思います。

■演技について
この映画でのウィンスレットの演技は、一見何の変哲もないように見えます。しかし、実はよく見ると、ウィンスレットの様子が他の出演作とはどこか違っています。何か変です。普段の彼女とは違った違和感を感じます。よくよく見てみると、目が何だか変です。そこで若い頃のアイリス・マードック本人の写真や映像を見てみました。そうしたら、この映画でウィンスレットがやろうとした演技の意味がよく分かりました。

実はアイリス本人の目は、普通の人とは違う、ちょっとした特徴がありました。一番の特徴は、左目がわずかに外斜視になっていることです。次に、右目が利き目になっており、右目の眼光がひと際輝いていることです。また、目の動きにも特徴があって、普通の人とは違って、目がとてもよく動きます。インタビューで話しているときの映像を見ると、時々、目が少し飛び出て、カッと力強く見開いたような目になったりしますし、逆にうっすらと見開いて集中したりすることもあります。そして、テキパキと本当によく動く目で、しかも眼球の可動範囲が広く、動き方も上下左右だけでない多様な角度で動きます。まるで眼窩にはめ込まれた球体がコロコロ、コロコロと動くような感じです。そして、何よりも、グッと集中したときの目、カッと見開いたときの目の眼光が極めて力強いです。変な言い方ですが、眼にグリップ力があって、グリッと紙に折り目を付けるように目で押さえられる感じです。おそらく、アイリスは自分の心の深いところへも、意志の力が強いので、比較的簡単にダイブできているように感じられます。例えば、普通の人は思い出すときに眉間に皺を寄せて「えーと」と暗闇を手探りするように頭の中に自分の意志を届かせようとするものです。しかし、アイリスの場合はほんのちょっとだけ意志を集中させるだけで、自分の心の深いところまで比較的簡単に手が届いているように感じられます。もちろん、普通の人と同じように「えーと」と思い出す行為もやってはいます。ただ、普通の人と比べれば、容易に深いところへ入っていっていると思います。ともかく、アイリスは目に特徴のある人物です。

さて、そんな目に特徴のあるアイリスですが、それを演じるウィンスレットも特徴のある目つきになっています。まず、アイリス本人のように外斜視に見えるように、ウィンスレットは目の見開き方を左右で若干異なるようにしています。具体的には、右目を大きく見開き、左目はそれよりは小さく見開いています。そして、カメラと顔の角度を正対させずに若干角度をつけることで、左目の白目の部分をひきたたせて、左目が外斜視であるように見せています。同時に右目は大きく見開かれ、右目が利き目となって視線のリードとして力強い目になっています。さらに、眼球も通常の位置よりは少し前に飛び出しています。そして、目が飛び出しているため、眼光も通常よりは強くなっています。しかも、ウィンスレットはこれらの状態を、静止状態ではなく、自然な動きの中で行っています。ウィンスレットの顔のアップがある場面にそれがよく表れています。驚いたことにウィンスレットは、静止した瞬間的にこれらの特徴を現出させるのではなく、連続した動きの中で動きに合わせて自然に連動させて行っています。歌いながらや昂ぶった感情が連続する中で自然に連動させて演技しています。(参考動画参照)。

参考写真:上段左端がアイリス・マードック本人。上段右端が演じていないときのウィンスレット本人。それ以外はアイリスを演じているウィンスレット。
なお、これらの特徴は、この映画「アイリス」でのウィンスレットの目と他の出演作でのウィンスレットの目を見比べてみるとはっきりすると思います。例えば、他の出演作で言えば「ネバーランド」と見比べてみるとはっきりすると思います。「ネバーランド」でのウィンスレットの目は、元々、目がまっすぐなのですが、コルセットの衣装を着て姿勢がとても良いためか、とてもまっすぐな目になっています。それに比べて、アイリスを演じているウィンスレットの目は左右が非対称です。ともかく、このアイリスを演じているときのウィンスレットは他の出演作とは様子が少し違っています。

しかし、ウィンスレットがどのような技術でそれらを実現しているのかは分かりません。俳優自身の技量によるものなのか、メイキャップによる演出によるものなのか、あるいは、撮影時のカメラワークや撮影後の画像処理によるものなのかは分かりません。例えば、「タイタニック」の船尾から飛び降りようとした場面の撮影では、何度も撮り直して涙が乾いてしまうので、ウィンスレットは目の中に氷の粒を入れて撮影したそうです。もしかしたら、アイリスの撮影では眼球の裏側に綿でも詰めて、眼球を飛び出させでもしたのでしょうか?でも、それはちょっと痛いんじゃないでしょうか?そうじゃなくて、やはり、気合いで目に力を入れて演じたのでしょうか?もしそうだとすると、目にかかる負担が大きくて、後々大変だと思います。ともかく、実際はどうやって演じたのかは分かりませんが、ちょっと不思議です。ともかく、映画史上、斜視を演じた俳優は他にいないのではないでしょうか。

■その他の演技
その他の演技についても、驚かされました。最も驚かされたのは、川の中を全裸で泳ぐ場面です。確かにウィンスレットの演技はいつも大胆なのですが、この全裸での水泳はいつになく大胆でした。ただし、これは夫ジョン・ベイリーの原作「アイリスとの別れ1 作家が過去を失うとき」に忠実で原作に書かれているエピソードそのままです。驚いたことに、アイリス本人は実際に全裸で戸外の川で泳ぐのが大好きで、近所の川で全裸でよく泳いでいたそうです。他にも、例えば、イタリア旅行で行った川でもアイリスたちは全裸で泳いで、人だかりができる騒ぎになって警官が駆けつけたそうです。ですから、映画でセンセーショナルになるように勝手に脚色して大胆に描いたというよりは、原作を忠実に再現したら、結果的に大胆になってしまったというのが本当のところだと思います。それにしても、ウィンスレットは魚のような動きでキレイでした。川の緑と女性の裸体はラファエル前派の絵を彷彿とさせて、自然の緑と女性の白い滑らかな裸体のコントラストが美しかったです。それから、ジョンとのベッドシーン(?)も大胆でした。戸惑うジョンに対して、彼のズボンのポケットにアイリスが手を突っ込んでひねり上げる場面には驚きました。ここでは、実物が映っているわけではありませんが、そのしぐさ(=演技)に少々衝撃を受けるのではないかと思います。

■アイリスを演じたウィンスレットの演技に関する注意点
さて、ここまでアイリスを演じたウィンスレットの演技について幾つか語ってきましたが、ここで注意しておきたいことがあります。私はウィンスレットがアイリスの目の特徴、つまり、「左目が斜視、右目が利き目」をうまく演じたことを言いました。しかし、勘違いしやすいのですが、私はウィンスレットがアイリスの斜視を真似した理由は、形態模写のように、ただアイリスの外見だけを真似することを目的としたわけではないと考えています。どういうことかと言うと、外見をアイリスらしく見せるために斜視を真似したのではなく、アイリスの本質を表現するのに、この場合には、アイリスの斜視を真似したんだと考えています。「目は口ほどにものを言う」という諺がありますが、アイリスの人格の特徴は目に際立って顕れていたと思います。アイリスの心の有り様がアイリスの目によく表れていると思います。なので、ウィンスレットはアイリスの目を真似したんだと思います。単に形態模写を目的としたわけではないと思います。実際のアイリス本人の斜視とウィンスレットの真似した斜視では、まったく同じというわけではなくて、違いがあります。しかし、アイリスの心の有り様やアイリスの本質はウィンスレットの真似した目によって上手く演じられていると思います。

これは、このアイリスの演技に限らずに、他の出演作にも言えることだと思います。ウィンスレットの演技は演じるキャラクターの本質を捉えて演じることに特徴があると思います。もちろん、キャラクターの本質とは言っても、それはウィンスレットが捉えた、ウィンスレットが個人的に考えているキャラクターの本質に過ぎません。ですから、ウィンスレットが捉えた本質が正しいのかどうかという問題は常にあります。ただ、それは認識の問題で、どの俳優のどの演技にも生じる問題ではあります。そんなことよりも問題なのは、例えば、アイリスの本質がウィンスレットに移植されて、アイリスを演じたウィンスレットとなって顕現したとき、それはアイリス本人とは、また違った人物であるように人々には映る可能性があります。しかし、それでもなお、アイリスの本質を捉えた演技になっていると感じられるのです。それが、演じるキャラクターがアイリスのような実在の人物ではなく、架空の人物であった場合でも、そのキャラクターの本質がウィンスレットという生身の人間の中で”生きた本質”となって顕現していると思います。(*1)

さて、なんだかよく分からない話になってしまいました。今、言ったような話は、演技においてよくある話のようであり、あるいは、ちょっと変わった話のようでもあります。とりあえず、ここでは、ウィンスレットの演技は、外見や形態模写などの表象からではなく、内面や本質から、演じるキャラクターに迫っているのではないかということだけを頭の片隅に置いておいて下さい。「アイリス」では斜視という外見を似せるという演技をやっていると思われるかもしれませんが、実はウィンスレットは内面から迫るという演技をやっているのだということを頭の片隅に置いておいて下さい。

■まとめ
この映画で描かれているアイリス・マードックは夫ジョン・ベイリーから見たアイリスであって、アイリスのほんの一面に過ぎません。アイリスの哲学や小説に触れるとそこにはまた別のアイリスを発見することになると思います。しかし、アイリスの何ものにもとらわれない自由な思想や哲学は、この映画で表れている彼女の自由奔放さに繋がっていると思います。アイリスという人間全体を理解しようとするときに、この映画はアイリスの貴重な一面を私たちに教えてくれると思います。また、アイリスほどの知性の持ち主が最後にはアルツハイマー病に斃れたことは、私たちに人生の悲痛さと儚さを教えてくれていると思います。人生は本当に短いのだと思います。

なお、アイリス・マードックの哲学や思想については、この私的魔女論シリーズの最後に考える予定です。

■注釈
(*1)この成功例が「愛を読むひと」だと思います。「愛を読むひと」では監督のスティーヴン・ダルドリーは原作で描かれているハンナ・シュミッツの本質を見誤っていると思います。それに対して、ウィンスレットは見事にハンナの本質を捉えていると思います。ダルドリー監督は「朗読者」の主人公を誤ってミヒャエルに据えてしまって「愛を読むひと」を構築してしまいました。しかし、ウィンスレットがハンナを正しく演じたことで、この映画は救われていると思います。監督が最重要の主人公をマイケルに、二番目に重要な登場人物をハンナにしたことで、ウィンスレットが捉えたハンナ像でウィンスレットが演じられる余地が運良く生じたのだと思います。ダルドリー監督のハンナ像では、ハンナは強制収容所の元看守という過去を持つ文盲の女性で、無知ゆえに罪を犯し、恥を克服できなかったために刑務所で生涯を閉じた頑固な女性という貧しい女性像で終わってしまったと思います。ところが、ウィンスレットが正しくハンナを捉えたおかげで、ハンナが深みのある女性像に仕上がったと思います。結果的には、それが功を奏して、この映画にダルドリー監督の構想にはなかった深みを与えることができたのではないかと思います。女優が映画監督を超えて映画に生命を吹き込むことに成功した極めて珍しい事例だと私は思っています。

■参考文献
ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき -アイリスとの別れ(1)」
ジョン・ベイリー「愛がためされるとき -アイリスとの別れ(2)」

2009年11月1日

ケイト・ウィンスレット その1


■はじめに
女優ケイト・ウィンスレットの人と作品について、書いてみようと思います。
なお、作品については完全ネタバレで書きますので、ご注意・ご了承下さい。

■「ケイト・ウィンスレット 人と作品」シリーズの全体構成について
はじめに、「ケイト・ウィンスレット 人と作品」シリーズの全体構成を話しておきます。このシリーズは「その1」から「その8」までの8つの記事で構成するつもりです。

まず、「その1」では①ウィンスレットの女優として優れた点(=問題提起)と②ウィンスレット本人の人となりについて書きます。次に「その2」から「その7」まではウィンスレットが出演した映画の作品論を書きます。そして、最後の「その8」では、「その1」で述べたウィンスレットの優れた点の背後にあるウィンスレットの特徴について、「その2」から「その7」までを踏まえて私なりの考えを書こうと思っています。

ただし、「その2」から「その7」までを踏まえるとは言うものの、それは作品そのものを踏まえるのであって、「その2」から「その7」までの作品論の記事を踏まえるという意味ではありません。つまり、各作品論から論理的に「その8」が導かれるという工程にはならないと思います。「その2」から「その7」までは、どちらかと言えば、個別の作品論にとどまると思います。では、なぜ、「その2」から「その7」までが必要なのかと問われるかもしれません。これはなんて言いえばいいか、作品を身体で喩えると、極端に言えば、作品論は骨で、作品論で取り上げられなかった作品の部分は肉になります。作品論で骨格を浮かび上がらせることによって、逆に肉の部分も明確に浮かび上がってくると思います。そして、肉の部分が浮かび上がってくると、そこには骨にはない肉の部分のみが持つ生きた熱気が伝わってくると思います。私はこの熱気をこそ「その8」でつかみ出したいと思っています。ですので、とにもかくにも、映画そのものを鑑賞して下さい。映画を鑑賞せずに作品論だけを読んだだけでは、肉の部分は分からないと思います。そして、肉の部分が分からなければ、熱気について書いた「その8」もまったく意味不明になってしまいます。確かに、今となってはこのシリーズで取り上げた作品は「タイタニック」を除いては鑑賞するのが難しいかもしれませんが、読者の皆様には、とりもなおさず、まず映画を鑑賞して下さいますようお願いします。



■問題提起 -変身の秘密-
では、私が考えているウィンスレットの女優として優れた点を挙げます。それは主に次の3点だと考えています。1つ目は、言うまでもなく、(1)「演技力」です。2つ目は(2)「意味の把握力」です。3つ目は(3)「衝撃的な演出力」です。次にそれぞれについて簡単に説明しておきます。

(1)の「演技力」はさらに次の3つに分解できると思います。1つ目は演じる人物の感情などを正確に表現できることです。2つ目は「深い悲しみ」など心の位置を深く遠くまで動かせることです。つまり、深い表現ができています。3つ目は演じる人物になりきることです。人物になりきるといってもコピーではなく、その人物が生きた人物、リアリティのある人間として動き出させることができます。つまり、人物を人間全体として表現できていると思います。

次に、2つ目の優れた点の(2)「意味の把握力」ですが、ウィンスレットは自分の演じる人物がどういった心理でそのような行動や感情になるのかをよく把握しています。これは(1)の正確に演じることに通じます。演じる人物の気持ちを正確に把握しているからこそ、その人物を正確に演じられるのです。また、この「意味の把握力」が、彼女が出演しようとする作品の選択にも生かされていると思います。脚本を読んで作品の意味を見抜く力があるから、良い作品を選べるのだと思います。ただし、意味の把握力と把握したことを細かく言葉で説明できることとは少し違うと思います。あくまで把握であって説明ではないと思います。

それから、3つ目の優れた点「衝撃的な演出力」ですが、これはウィンスレット自身によるものなのか、それとも映画監督・演出家によるものなのかが不明確なので、ちょっとウィンスレットの優れている点に含めて良いものか迷っています。しかし、彼女の一連の出演作品を見ていると、監督は違えども非常に衝撃的な演出が多いです。ウィンスレットがあえてそういった衝撃的な演出・表現がある映画を引き受けているのかもしれませんが、これだけ多いとウィンスレット自身による演出表現の可能性が高いと思います。

以上をまとめておくと、私の考えるウィンスレットの優れた点は下記のような感じです。

(1)演技力 ①表現の正確さ ②深い表現ができる ③人物全体が表現できる
(2)意味の把握力
(3)衝撃的な演出力

これを読むと「なんだ?俳優にとって当たり前のことじゃないか?」と思われるかもしれません。俳優にとっては身につけていて当然の基本的な事柄かもしれませが、実はこれがウィンスレットが特異なまでに優れている点だと私は思っています。これについてはウィンスレットの作品を鑑賞していただくのが一番良いと思います。彼女の作品を見れば、上記したようなことを彼女が如何に見事にやってのけているかを理解していただけると思います。映画を鑑賞して、その物語の意味するところがつかめたら、そこから逆算的にウィンスレットの優れた点が浮かび上がってくると思います。物語の意味をつかむのが大変かもしれませんが、私の作品論が多少なりともその補助になれば幸いです。

そして、ここからが問題です。このようなウィンスレットの優れた点は何に起因するのでしょうか?彼女はどうやってこのような演技が生み出しているのでしょうか?これからこのシリーズを読むにあたって、読者の皆様にはこういった疑問(=問題意識)を少しでいいので持っていただけたらと思います。このような問題意識をほんの少し頭の片隅において、このシリーズを読んでいただけたらと思います。この疑問については、このシリーズの最後にまとめようと思います。そして、そこでウィンスレットの”変身の秘密”に迫ってみたいと思います。

とはいえ、そんなに堅苦しい話は抜きにして気楽に映画を見てください。私の記事もどちらかというと、ウィンスレットの一ファンとして、単に彼女の映画が好きだということを自分の言い方で言いたいだけなのです(笑)。まあ、何事も大げさにしてしまうサガなんでしょう。

それでは、ウィンスレットの人と作品について書いてゆこうと思います。今回の記事では、ウィンスレットのおおよその人となりを書きます。次回以降の記事では、ウィンスレットが出演している作品の作品解説を書いてゆきます。

■ケイト・ウィンスレットの略歴
ケイト・ウィンスレットは、英国のイングランド南部のバークシャー州はレディングという街の出身です。

祖父母・父母・姉妹も俳優の演劇一家で育ちます。両親は俳優学校を経営しています。
1975年生まれで、8歳の頃に女優を志し、11歳から16歳までレッドルーフ演劇学校で学びます。
1991年にTVドラマ「ダーク・シーズン」でデビューし、「ゲットバック」などにも出演します。
1994年にピーター・ジャクソン監督の「乙女の祈り」で映画デビューします。
1997年に公開された「タイタニック」で一躍に有名になります。
1998年に助監督のジム・スレアプレトンと結婚し、2000年に長女を出産しますが、2001年に離婚します。
2003年にサム・メンデス監督と再婚して、同年、長男を出産します。
2009年に「愛を読むひと」でアカデミー賞主演女優賞を獲得します。

■ウィンスレットの人種について
英国は古くはケルト人、ローマ支配下の時代にはローマ人が、中世にはサクソン人(=ゲルマン人)が流入しています。また、部分的に北欧のデーン人の支配下にあった時代もあったそうです。英国は極西にあって大陸から様々な民族が入り混じったので、何人なのかを特定することは難しいのでしょう。そういった点では、極東にある日本と似ています。ちなみに、ウィンスレットは、髪はブロンドで、虹彩は綺麗なアイスグレーです。普通に考えれば、ウィンスレットはアングロ・サクソン人じゃないかなあと思います。ただ、映画『ホーリー・スモーク』でウィンスレットの全裸を見たとき、私はなぜだか「古代ケルト人だ!」と思ってしまいました。私は古代ケルト人なるものを知っているわけではないのですが、なぜかそう思ってしまいました。

■ウィンスレットの家族について
父母は舞台俳優で、姉・妹・弟の4人姉妹で、姉も妹も女優です。また、レディングの地元新聞の調べですが、土地台帳によればウィンスレットの祖先はパブリカン(=パブの亭主)だったそうです。また、ウィンスレットがアカデミー賞を欲しいと考えた理由のひとつに両親が俳優学校を経営していることもあるのではと私は思っています。

■初めて女優を目指した場所
ウィンスレットによると、8歳の頃、テレビドラマを見た後のトイレの中で母親のことを考えていたときに、自分が女優になりたいということに気づいたそうです。「お母さんが女優になればどんなに素晴らしい女優になるだろう」と考えたとき、はたと「自分は女優になりたいんだ!」と気づいたそうです。また、ウィンスレットにとって、トイレはとても重要な空間だそうで、今までも閃きや決断などトイレが重要な役割を果たしてきたそうです(笑)。まるで、どこかの国の中小企業の社長さんみたいですし、”おばさんぽい”と言われるのも分かるような気がしますが、変な話ですが、同時にハリウッドやセレブに象徴される虚栄心に満ちた虚飾の世界に流されない彼女のリアリズムもそこにあるのでしょう。それに、彼女の演技は真にリアルな人間を描くことがテーマのひとつになっているのではないかと思います。ちなみに、彼女のオスカー像もトイレの中に飾ってあるんだそうです。

■ウィンスレットの家庭
ウィンスレットによると、彼女の家庭は裕福ではなかったそうで、服は姉のお下がりで、お小遣いもとても少なかったそうです。ただし、お小遣いの件は父親のコメントによると「うん?それが普通だよ」とのことです(笑)。どこの国でもお小遣い事情は似たような話みたいですね。夏には、家族でオンボロの中古車に乗って、よく海水浴に行ったそうです。父親は俳優の仕事がないときはトラックの運転手やクリスマスツリーの配達人などの様々な仕事をしてきたそうですが、船で事故に遭い、18時間に及ぶ手術をし、足に障害が残ったらしいです(?)。ウィンスレットはその時の障害者子弟の奨学金で演劇学校に通ったそうです。ただ、父親はアカデミー賞のレッドカーペットを家族と一緒に歩いていたので、そう重度の障害ではないんじゃないかなと思います。(←この件はちょっと不正確かもしれません。)

■発音の苦い思い出
ウィンスレットによると、演劇学校で先生との間でちょっとした事件があったそうです。ウィンスレットの英語の発音に出身の訛りがなく、きれいな発音だったそうなのですが、先生はそれをウィンスレットが出身を偽っており、そんな嘘をつくような不誠実な者には役は与えないと言ったそうです。これは当時のウィンスレットにはショックだったようです。ところで、英国の階級と英語の発音の関係など、どうも私にはよく分かりません。また、英国の教育制度も勉強不足で、いまひとつ分かりません。ウィンスレットは16歳で演劇学校を卒業しているようですが、日本の教育制度と比べると、物足りない気がします。あ、それから、ウィンスレットの英語の発音はかなり良いんじゃないでしょうか?英語のことなので私には正しく評価できませんが、聞いていてスカッとする気持ち良さがあると思います。また、私には違いが分かりませんが、また役者なら当たり前なのかもしれませんが、役によって、英語の訛りも簡単に変えるそうです。個人的な推測ですが、英国人はみなそれなりに言葉に対して思い入れはあるとは思いますが、ウィンスレットはそういうのとはまた少し違う意味で言葉に対する思い入れがあるような気がします。

■演劇学校時代のあだ名
また、生徒時代は”Blubber”(=脂肪)とあだ名されてイジメられて、よく泣いていたそうです。ただし、学校側はイジメは無かったとコメントしています。ウィンスレット自身も当時はとても太っていたと述懐しています。「顔はともかく体型がねぇ」とよく言われたそうです。ただ、ウィンスレット自身は自分の顔を美人だと思ったことは一度もないそうです。ドラマ「ダーク・シーズン」を見ると、確かに横に安定感のある将棋の駒のような体型です。今と比べると着ぐるみを着ているんじゃないかというくらい身体が大きいです。縦と横の長さの比が今と全然違います。まさにウィンスレットにとってこの頃は”ダーク・シーズン”だったのでしょう。とはいえ、今現在が痩せすぎで、本来はこの頃くらいの体型が彼女にとっての健康的な体型じゃないかと思います。ただ、体型については、この後も長い間に渡ってウィンスレットに付きまとう問題になってゆきます。ウィンスレットのあだ名は普通は”イングリッシュ・ローズ”ですが、別のあだ名があって、それは、”コンバット・ケイト”というあだ名です。それというのも、ウィンスレットは体型のことでマスコミなど周囲と闘ってきたからです。ウィンスレットと体型については改めて別記します。

参考動画: ”Dark Season ep1-3 ”

■ドラマ「ダークシーズン」の頃
ところで、TVドラマ「ダーク・シーズン」ですが、ウィンスレットはまだまだ10代の子供といった感じです。体型も大きなお尻で、ちょっとしたお相撲さんといった感じです。ウィンスレットが演じている少女レートはヨーヨーを愛好していて、ドラマの中でも度々ヨーヨーで遊んでいるのですが、けっこう失敗しています。「そんなに失敗ばかりしていたら、NGじゃないの?」と思うくらいに。もしかしたら、ヨーヨーが下手というキャラ設定なのでしょうか?ケイトはヨーヨーはあまり上手ではなさそうです。ともかく、この頃のウィンスレットはどこにでもいる普通の子供と特に変わった様子はないと思います。ちなみに、サングラスのお兄さんがトレンドレだと思います。

■恋人トレンドレのこと
ウィンスレットはドラマ「ダーク・シーズン」で共演した俳優で脚本家のステファン・トレンドレと恋人関係になります。ステファン・トレンドレは1963年生れでウィンスレットより12歳年上で1990年から1995年頃まで付き合っていたそうです。ネットによるとウィンスレットは15歳くらいから彼と同棲していたようです。しかし、その後二人は破局しますが、ちょうどその頃、彼は癌を発病します。ウィンスレットは破局後も彼の看病をしていましたが、「タイタニック」の出演が決まり、彼が看病よりも「タイタニック」の出演を優先しろということで、ウィンスレットは「タイタニック」の撮影に行きます。しかし、トレンドレの病気は悪化して1997年12月に34歳という若さで他界してしまいます。そのとき、ウィンスレットには「タイタニック」のL.Aプレミアがあったのですが、そちらは欠席してトレンドレの葬儀に参列しています。後にウィンスレットも当時はあまりのショックで頭の中が混乱していたと述懐しています。そして、あのとき、トレンドレが「タイタニックに行くな」と言ってくれれば、十分に付き添って、彼を満足に送ってあげられたのにと悔やむ気持ちがあり、今でもそのことを想うと胸が痛むそうです。

■恋愛遍歴
ウィンスレットは「ハムレット」で共演したルーファス・シーウェルとも1995年から1996年の間、付き合っていたようです。彼とは「ホリデイ」(2006年)で再び共演しますが、そのときの彼の役どころは、二股をかけてウィンスレットを振り回す上司役でした。映画の中で最後に彼はウィンスレットに思いっきり振られてしまいます。元恋人同士で恋人役を共演するのって、どんな気持ちなんでしょうね(笑)。ところで、生徒時代のウィンスレットは、「ゴースト/ニューヨークの幻」で有名なパトリック・スウェイジの大ファンだったそうです。また、「タイタニック」の次の出演作品「グッバイ・モロッコ」(原題「Hideous Kinky」1998年公開)で出会った助監督ジム・スレアプレトンと意気投合して結婚します。その後、スレアプレトンとは2001年に破局しますが、2003年にサム・メンデス監督と再婚します。こうやって見てみると、15歳からほぼ途切れることなく、ウィンスレットは誰かしらと何らかの恋愛関係にあったと思います。ただ、彼女は恋多き女性という感じではなく、パートナーがいるということが生活の一部だったんじゃないだろうかと個人的には思います。

■タイタニックの実感
ウィンスレットによると、「「タイタニック」が世界中の人々に見られたんだな」と自分で実感したのは、ヒマラヤ付近を旅行中に地元の老人から「あんた、タイタニックに出てた人じゃろ」と言われたときだそうです。ちなみに、ヒマラヤ旅行って「ホーリー・スモーク」のインド・ロケのときかもしれませんね。ともかく、「タイタニック」によって生活は一変したそうで、パパラッチされるようになったそうです。

■離婚について
スレプレトンとの離婚については、夫と妻の経済的な不釣合いが原因ではないかと言われていますが、本当のところは分かりません。ウィンスレット自身は「タイタニック」の大ヒットにも関わらず、特に姿勢は変わらなかったのではないかと思います。彼女のその後の出演作や映画に取り組む姿勢から「タイタニック」で彼女は変わらなかったと私は思います。むしろ、スレプレトンが変わったのかもしれません。当時のウィンスレットが述べた離婚理由は、確か「理に合わぬことをされたから」だったと思いますが、ちょっとこの記憶は確かではありません。今でもスレプレトンは娘さんと会うので、ウィンスレットとも互いに交流はあるようですし、サム・メンデスとも仲良くやっているようです。ちなみに、トレンドレと別れたときは「お互い、いろいろな面で若過ぎた」と言っていたように思います。

■夫サム・メンデス監督のひと言
サム・メンデス監督は元々は舞台演出家ですが、「アメリカン・ビューティ」でアカデミー賞監督賞を受賞した映画監督でもあります。彼は知的で良識のあるタイプの映画監督というイメージが私にはあります。良識があることが映画監督にとって適切かどうかは微妙だと思いますが、映画人としては優れた発言が多いと思います。ところで、彼は以前は女優のレイチェル・ワイズとも付き合っていたそうです。ウィンスレットと結婚後、あるとき、テレビに出ているレイチェル・ワイズを見て、「彼女は痩せて綺麗になったね」と言ったんだそうです。それを聞いたウィンスレットが「あまり深い意味はないとは思うんだけど…」と前置きしたうえで、「夫が昔の恋人のことを誉めるのは気になる」んだそうで、それがきっかけで痩せることを決意したそうです。ただし、痩せようと思った理由はそれだけではなくて、太いのが理由で役が自分に来ないことも、痩せようと思った理由のひとつではあるそうです。

■母親と妻
ちなみに、ウィンスレットは子煩悩な母親で、子供の送り迎えや家事などの育児と女優業を両立させる優等生ママだったそうですが、さすがにいつ終わるともしれない撮影と家事の両立は無理らしく、近年は家政婦を雇うことにしたそうです。ただ、以前から言っていましたが、子供たちが家庭の味を母親の料理ではなく家政婦の料理になってしまうのはなんとか避けたいそうです。また、映画「リトル・チルドレン」のインタビューの中で、ウィンスレット扮する主人公サラが児童への性犯罪歴を持つ男性に対して最後には優しく接したのですが、記者から「自分の子供が被害に会うようなことがあっても?」と聞かれたとき、ウィンスレットは「喜んで殺してあげるわ」と答えたそうです。ウィンスレットの場合は迷わず本当に実行すると思います。そのくらい、ウィンスレットの子供に対する愛情は強いと思います。

そんな子煩悩のウィンスレットですが、「子供達との食事も楽しいのだけれど…」と前置きした上で夫のサム・メンデスとウィンスレットの二人きりでの食事にたまには行くそうです。で、実際に出掛けても、おしゃべりに夢中で、結局、どこにも立ち寄らずにドライブだけして帰ってきたこともあったそうです。どちらも同じ映画業界で働いているので話しやすいのかもしれませんね。

また、現在は英国と米国に家を持って、行ったり来たりしてるそうですが、いずれは年老いた両親の面倒を見るために英国に帰る予定だそうです。ちなみに、ウィンスレットが以前に住んでいた家はグイネス・パルトロウが買い取ったそうで、最近は隣の家も買い足して豪邸にリフォームしているそうです。また、スレプレトンと結婚していたときはテムズ川の中にある島に家があったそうで、何年か前の大雨のとき島に閉じ込められたこともあったそうです。

ともかく、彼女は開けっぴろげな性格というわけではないのですが、他の俳優たちと比べて家族の話が多く、彼女の関心事の中で家族が占める割合がとても高いように思います。もちろん、映画に対する情熱も人一倍強く、まるで男のように映画に対する情熱を語ったりします。ウィンスレットにとって大事なものは、家族と映画なんだろうと思います。ウィンスレットは、子供たち、夫、両親、姉妹などの家族愛と映画への情熱の両方がとても強い女性だと思います。

■映画が好きな理由のひとつ
ウィンスレットによると、映画の仕事が好きな理由のひとつに撮影現場の雰囲気が好きなことが挙げられています。映画の撮影現場というのは戦争状態の軍隊に似ていると思います。そこでは集団がひとつの目的に向かって、それぞれの役割を精一杯に果たそうと努めます。映画の場合は良い作品を作るという目的のためです。そして、自己犠牲を厭わずに、皆がその場での最善を尽くします。そういった雰囲気が好きなのではないでしょうか。あの非常事態での一体感は緊張感と胸躍る楽しさがあるのでしょう。ウィンスレット自身、「愛を読むひと」の撮影現場について、次のように語っています。

面白いことに、映画作りって、毎日軍隊の訓練キャンプにいるようなものなの。
大変になることはわかっている。でもそれをすり抜けなくてはならないの。
ライフルを置いて座り込み、あきらめることはできない。前進しなくてはならない。
だからある意味、超人的になる必要があるわ。撮影はそういうものなの。前進あるのみ。
もちろん、疲れるわよ。わたしだけじゃなくて、みんな疲れている。
でも全員に一体感があるから、みんなが世話し合い、相手を気遣う。
この映画にはそれがあった。
だからこそわたしにとって特別な映画なの。全員が常に互いを気遣い合っていたから。


女神モリガンは戦争の女神といわれていますが、戦争にはこのような高揚感があるからではないでしょうか。ただ、好戦的なのかどうかは分かりません。ともかく、戦いに臨んで意気高揚する感覚が好きなんだろうと思います。もっとも、ウィンスレットもいざ戦いと判断したならば、炎のように燃え上がって獅子の咆哮の如き雄叫びを上げるようにも思います(笑)。他に実在の女性で女神モリガンのような闘いの女性としては、私は英国の古代ケルト人のイケニ族の女王ブーディカを連想してしまいます。

■体型の悩み
さて、ウィンスレットの一番の悩みは体型だったと思います。今では彼女の自宅には”ファッション雑誌は置いてはならぬもの”だそうです。なぜかというと、ファッション雑誌で賞賛されている細い体型は不自然極まりない体型であって自分はそのことで随分余計な無駄な悩みを抱えてしまったので、娘にはそういった無駄な悩みはしてほしくないとのことで、家には一切ファッション雑誌は置いていないそうです。

ところで、ウィンスレットは太い女優というイメージあるそうですが、私個人は太っているわけではなくて、体型が構造的に太くみえる体型じゃないだろうかと思います。確かに「ダーク・シーズン」の頃は自分でも認めているように太っていたと思います。しかし、それ以降痩せた後でも彼女が太いと言われてしまうのは、彼女の場合は構造的に太ってみえる体型だからだと思います。映画で彼女の体型を見ると、胴部がとても短いです。おそらく、胴が短い分、内臓が収まるスペースが狭いので、脂肪の有無に関係なく、ウェストが他の女性のようにくびれないのだと思います。確かに服を着ていると、一見、ウェストが少しはくびれているように見えますが、実はお尻から腰にかけて肉付きが良いため、腰と比較すると、腰の下からお尻にかけて太くなって、見た目、ウェストがくびれているように見えるのだと思います。実際にウィンスレットは他の女性ほどにウェストがくびれていないのではないかと思います。映画「ホーリー・スモーク」で全裸シーンがありますので、それを見るとそうじゃないかと思います。

ともかく、若い頃、ウィンスレットは体型でずいぶん悩んだそうです。やはり、女優としてやってゆくのにも体型は気になる問題だったのだと思います。そういったウィークポイントを挽回する意味で演技派女優として演技に磨きをかけたのかもしれません。初期の頃、おそらく、日本未公開ですが、映画2作目の「A Kid in King Arthur's Court」だと思いますが、彼女はかなり過激なダイエットをしたという話を聞いたことがあります。写真を見ると、首とかかなり細っそりしています。「ダーク・シーズン」と比べると、やはり激痩せしたと思います。ですが、その後の出演作からは比較的健康的な体型に戻っていったと思います。推測ですが、あまりに危険なダイエットは無理だと考えたのではないでしょうか?彼女は、その後、チャレンジングな役柄に続けて挑戦してゆきます。そして、モデルやハリウッド女優のような細い体型が標準的な美しい体型ともてはやされることは間違っているという結論に達したのだと思います。ハリウッドでもてはやされる体型に公然と否と言ったわけです。そこからウィンスレットの闘いが始まります。

ウィンスレットは自分の体型について、ゴシップ誌から不当な中傷をされると訴訟を起こしています。ちなみに起こした訴訟はすべて勝っており、慰謝料などは寄付に使われています。そのため、”コンバット・ケイト”というあだ名となったようです。ウィンスレットによると、30歳を越えたくらいから、体型に限らず何事にも、周囲の意見に惑わされなくなったそうです。たかが体型のことかもしれませんが、駆け出しの頃のウィンスレットはかなり深刻に悩んだのだと思います。そして、いつしか自分が正しいと思う普遍的な揺るぎない判断基準を自分の中に見つけたのだと思います。

体型のことに限らずに、ウィンスレットは「タイタニック」で得た名声に縛られたり惑わされたりすることなく、一個人の信念のようなもので自分が正しいと信じた道を歩んでいると思います。アカデミー賞を受賞した後の「愛を読むひと」の日本向けインタビューの中で「アカデミー賞は嬉しいことだけど、自分の中の個人の目標はまた別で、それは人から認めてもらう類のものではない。そういった個人的に達成したいことがまだまだある」と言っています。一見、人によっては格好をつけていると思われるかもしれませんが、虚栄心のないウィンスレットの性格からすると、おそらく、正直な気持ちなのだと思います。彼女の中には、お金や名誉ではない、何らかの手ごたえのある、生きた価値基準があるのだと思います。

■ウィンスレットのモチベーション
さて、ウィンスレットの演じることや映画に対するモチベーションの高さ、映画への情熱はどこから来るのでしょうか?正直なところ、彼女のモチベーションの源泉が何なのかは分かりません。彼女は比較的若い頃から俳優の仕事をしており、とにかく目の前の仕事をこなしてきただけなのかもしれません。そういった現場の中で自然と培われたのかもしれません。また、両親も祖父母も姉妹も俳優という俳優一家で育っているので、家庭環境から自然と俳優であることに対するモチベーションが高くなったのかもしれません。あるいは、経済的な理由かもしれません。彼女はインタビューの中でも自分の家庭が裕福ではなかったことや自分のことを労働者階級だと言ったりしています。あるいは、ウィンスレットは「自分には舞台や映画などで演じるときの恐怖感・緊張感が必要だ」とも言っています。舞台俳優によく見られる現象で、舞台の緊張感に生の充実を実感できることをいっているのだと思います。そういった役者の本能的な感覚もウィンスレットが映画に打ち込むモチベーションのひとつかもしません。とはいえ、何が彼女にとって演じることの最大のモチベーションなのかは分かりません。

■ウィンスレットのウソ
ウィンスレットはあまりウソをつかない女性です。反語的な事例ですが、ゴシップ誌で「ウィンスレットもついにハリウッドのウソにまみれた世界の住人になってしまったか?!」という記事が出たことがあります。これは逆に言うと、ウィンスレットはそれまではウソをつかない女優だっということの証明でもあると思います。もっともウィンスレットがまったくウソをつかない女性かというと、そうではなくて、「いつか晴れた日に」を監督したアン・リー監督は当時ウィンスレットはマリアンヌ役を取るために本当は19歳なのに21歳と偽っていたと証言しています。姉のエレノア役がエマ・トンプソンだったので、あまり年齢が離れすぎると良くないと思ったのでしょう。まあ、若い俳優がなんとしても役を取るために罪の無いウソをつく面白い事例だと思います。それよりもウィンスレットがウソをつかいないというのは自分の虚栄心を満足させるためにウソをつくといった意味でのウソで、そういうウソをウィンスレットはつきません。体型に関する事柄もそのひとつです。ウィンスレットは自分が正しいと思ったことは、たとえ誰がなんと言おうと、たとえ自分ひとりであっても、自分が正しいと確信しているのであれば自分を曲げてしまうことはない女性なのだと思います。 

■まとめ
ウィンスレットの人となりについて、簡単にまとめてみます。
まず、ウィンスレットは家族愛が強い女性です。子供たち、夫、両親、姉妹をとても大切にしています。次に、映画への情熱も強いです。顔が綺麗なだけの飾りとしての女優ではなく、自分の考えを持ってしっかりと俳優業に取り組んでいると思います。(そのため、母親と俳優業の両立が大変そうです。まあ、世の働く母親は、皆、同様なのだと思います。ウィンスレットはどちらも手抜きしたくないのでしょうけど、とはいえ、現実はなかなか難しいのではないでしょうか。)

それから、恋愛遍歴も豊富です。15歳くらいから、ほとんど途切れることなく、何らかの恋愛状態にあったのではないでしょうか。ウィンスレットは一度に多数の恋人がいるというような恋多き女性というわけではありませんが、ともかく、若い頃は常に誰かひとりは恋人が不可欠だったのかもしれません。また、スレプレトンと離婚を経験していますが、それについても、ウィンスレットはインタビューで「人生でいろいろな経験をしてきた。結婚も経験したし、離婚も経験した」と臆することなく語っています。ウィンスレットは離婚を他人からは触れられたくない人生の傷と考えて、離婚の話題に触れられるのを恐れたり、離婚を隠したりするといったようなことはしていません。はじめからそうだったかどうかは分かりませんが、今現在は、彼女は結婚の失敗や離婚の苦痛を克服しているのだろうと思います。

人生の中でウィンスレットを最も悩ませた問題は体型問題だと思います。これについては、学校でいじめられたり、自分でもコンプレックスだったようで、若い頃は過激なダイエットもしたようです。しかし、いつからかは分かりませんが、細い体型を女性の体型の理想像とする考えに否定の立場をウィンスレットは取り始めます。実際にゴシップ誌と訴訟を起こしているので、ウィンスレットは自分が正しいというかなり強い確信を持っているのだと思います。とはいえ、女優の仕事を取るため、ダイエットするということもやっていますので、自身の理想と世間の現実の間で微妙な妥協をしています。ともかく、一見、体型の悩みなんてどうということはないように感じますが、ウィンスレットにとっては人生の中でも極めて大きな悩みだったのではないかと思います。そして、ウィンスレットはその悩みに対して自分の結論を出して、世間が何と言おうと、自身の信念に従って行動していると思います。(←微妙な妥協はありますが。)体型問題のことを言っているのかどうか分かりませんが、ウィンスレットは30歳を過ぎたくらいから、世間や他人の言うことに惑わされなくなったと言っています。何が言いたいかといいますと、ウィンスレットは自分の考えを持つ女性で、自分が納得したことでなければ、世間がどう言おうと流されないのだと思います。その一方で、仕事のためにダイエットするなど、ある程度、リアリストの面もあると思います。ともかく、ウィンスレットにとって体型問題が最大の悩みであり、それに対して自分の考えを見出して克服したのだと思います。

実はウィンスレットのこの姿勢は仕事に対する姿勢でも同じだと思います。彼女は自分の演じる役の意味を自分で理解して納得した上で演じているのだと思います。いや、まあ、俳優は、皆、そうだと言えばそうなんだと思いますが、特にウィンスレットは自分の中のリアリティと突き合せて、演じる役の心情を深く理解しようと努めているのではないかと思います。そして、自分で納得できないキャラクターの心情は演技しないんじゃないかと思います。まあ、俳優を使う監督の側からすれば、ウィンスレットは少々面倒くさい役者、扱いづらい役者かもしれません。でも、結果的には、ウィンスレットの出演作を見れば、ウィンスレットの演技は十二分に印象深い優れた演技になっていると思います。

さて、最後にウィンスレットの性格の特徴についてまとめます。ウィンスレットの性格の特徴ですが、ひと言で言えば、シンプルだと思います。言い換えれば、心に複雑なところや糸が絡まったような複合体(=コンプレックス)のようなものが少ないと思います。心を部屋で喩えると、ウィンスレットの心の部屋は、ゴチャゴチャと物を置いてあるような部屋ではなくて、物があまり置かれていないスッキリとした部屋だと思います。また、コンプレックスだけでなく、自分をよく見せようとするナルシズムや虚栄心などの飾りっ気もない部屋だと思います。彼女の心の部屋を覗いても、物が転がっていたり、物が散乱しているという感じではないと思います。当然、たまった汚れ物を整理せずに積み上げてあるといったこともないと思います。下手をすると、物が少ないのに小奇麗に整理されてあるので、殺風景なくらいかもしれません。また、その部屋で働く力、すなわち、彼女の望みもシンプルだと思います。極端に言えば、家族愛と映画愛という2つの力が働いているだけだと思います。(もちろん、望みではなく欲としては、食欲や性欲はあるとは思います。物欲は比較的少ないんじゃないだろうかと思います。)仮に心理学的に彼女の心を分析してみても、シンプル過ぎて、あまり引っ掛からないんじゃないかと思います。ある意味、癖のない性格といえるかもしれません。でも、シンプルなだけに反応も早いと思います。例えば、彼女を侮辱すれば、人一倍、素早く激しい怒りとなって返ってくるのではないかと思います。また、彼女はあけ透けな性格ではありませんが、他人に見られても困るようなものが彼女の心の部屋には少ないと思います。なので、ウソをつく必要性が少ないので、ウソも自然とつかず、正直だろうと思います。ごくたまに、あけ透けな人の中には自分の醜さや弱さに居直って、普通なら見られて困るものも平気で人目にさらす場合がありますが、ウィンスレットの場合はそれとは違うと思います。見られて困るものが少ないだけで、まったく無いわけではないと思います。何が言いたいかというと、デリカシーはあるだろうということです。デリカシーなどの感覚が無いのではなく、人一倍感覚は強く敏感だろうに、心の部屋が整理されているので、心をオープンにできるのだと思います。感覚が強いので正しさに対する信念や美意識のようなものが彼女にはあるのですが、心をオープンにできるので、それらを外にさらすことで、それらをさらに強く自然に鍛え上げているのだと思います。ですので、私はこの心のシンプルさがウィンスレットの人間としての強さの基底になっており、女優としての優秀さに繋がっていると思っています。

■追記
実は「序論」を書きあぐねています。いえ、半ば放棄しつつあります。「序論」は以前に誤操作で一時的に公開状態にしてしまったのでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、ややまとまりに欠けてしまっています。本編で書き漏らしていることを「序論」で補おうとしているためもあります。例えば、女神モリガンの話も「序論」で補足するつもりでいます。ですので、「序論」は最後に書き加えることにします。本当は「序論」なので本編の見通しができていれば最初に書けなければいけないんですけど…。