■「Romance & Cigarettes」(日本未公開) ジョン・タトゥーロ監督(2005)(*1)
この映画は、ブルーカラーの男性ニックが長年連れ添った妻や娘たちがいるのに浮気をしてしまうのですが、ある出来事(=悲劇?)をきっかけに誰が自分を大切に想っていてくれたかに気づく物語だそうです。ただし、日本未公開作品です。また、性を主題としたミュージカルコメディで、登場人物たちがひと言では言い表せない、えもいわれぬ感情が芽生えたときに、突然、歌い出して、その感情を表現するという”お約束”があります。
■あらすじ
残念ながら、日本未公開のためにあらすじは不明です。推測ですが、あらすじは浮気した男が妻の元へ帰る話だと思います。ウィンスレットは浮気相手のピンク色の女性トゥーラを演じています。YouTubeで映画の一部が見られます。ミュージカルコメディなので、この作品はストーリー性よりもコメディ性が高いのではないかと思います。
キャストは浮気する夫がジェームズ・ギャンドルフィーニ、その妻がスーザン・サランドン、叔父(?)がクリストファー・ウォーケン、そして、夫の浮気相手がケイト・ウィンスレットです。この映画はともかくはっちゃけています。エロといっても視覚的にエロティックではなく、下ネタ満載といった感じでしょうか。YouTubeでウィンスレットの出演している場面だけを見たのですが、もう、可笑しくて可笑しくて笑いころげました。
■演技について
ウィンスレットの演技が抜群に面白いです。
①セックスの場面
いやぁ~もうバカ笑いするしかありません(笑)。セリフも声質も超面白いです。体位を入れ替えるときの声質も喉の奥でスナップを効かせたような声で笑えました。そのときの話の内容(笑)。そして、トゥーラが上になって激しく動いているときの顔の表情、その一連の流れも世界最高に面白かったです(超笑)。本当にこれ以上にない可笑しさでした!!!それにそんなに激しくすると折れちゃいますって(笑)。あ、でも、お父さんが奇声を発して動物みたいでしたが、幸せだったかもしれません(笑)。私も含めて男って本当にバカですね(笑)。最後のフィニッシュのセリフもFワードっていろいろな意味があるんだって分かりました(笑)。自分も含めた、人間の愚かさって言っていいのかな、人間の滑稽さって言うのかな(笑)。うまく言えませんが、なんとも楽しい気分になれます。
②フライドチキンを食べるピロートークの場面
次にするセックスの体位について話しているみたいなんですが、内容がよく分かりません(笑)。なんて言っているんでしょうか?誰か教えて下さい(笑)。なんて言うか、凄すぎます(笑)。しかも、フライドチキンを食べる場面がなんとも面白い。ウィンスレットがはしたなく指で歯をシーシーするのには本当に腹を抱えて笑いました(笑)。アングロ・サクソンの人たち、しかも女性が歯をシーシーするのを見て、私は世界観が大きく変わりました(笑)。まあ、最後に、トゥーラが歌い出すはめになったのは、お父さんの元気の問題が生じたんでしょうね(笑)。
③その後の歌の場面
この歌っているときのトゥーラの振り付けを考えた人は間違いなく天才だと思いました(笑)。トゥーラはパンツを履く場面(笑)。鉄格子の間で演歌っぽく歌っているときのトゥーラの顔がたまりません(笑)。しかも、歌っている最中に何度もパンツがチラチラ見えるし(笑)。パンツをチラっと見せながら、ベッドに飛び上がって吠えるように「ラ~ブ・ミ~♪」って、なんかもう最高でした(笑)!胸もプルルン、プルルンさせるし(笑)。パ~ン、パ~ンってお尻を手でたたくし(笑)。なんて言うかチープって言えばいいのか、滑稽って言えばいいのかな(笑)。とにかく、見ていて可笑しくて可笑しくて(笑)。いやあ、「ホンマ、このひと、天才や~!!!」と思いました。
④池の畔での別れ話の場面
”何がロック・ハードやねん!どこでナニすんねん?!”(笑)って感じで笑いました。ウィンスレットはこの映画以外にも今まで水中シーンが多い女優でした。「タイタニック」で溺れそうになってますし、「ハムレット」や「クイルズ」では溺れ死んでいます。「グッバイ・モロッコ」や「アイリス」では全裸で泳いでいます。そして、ついに、この映画では、水中で歌を歌います(笑)。もう、”水の女優世界一”はあなたです(笑)。しかも、この水中の場面、歌詞に合わせて魚を泳がせたり、ヒトデを出したりでなかなか凝ってます。けれども、スタッフの時計をはめた腕が映ったりするチョンボもそのまま映っています(爆)。それにしても、ここまで、やったら、ウィンスレットもさぞ楽しいでしょう。いや、もう、本当にお見事というしかありません(笑)。
⑤火事場のダンスの場面
バカはどこの国にもいるなあって素直に笑いました(笑)。いろいろと象徴的にエッチな意味を入れてましたね(笑)。性ってカーニバルなんだろうなあ、本当に楽しそうでした。
他にも、ベンチでの卑猥な会話の場面、電話での卑猥な会話、下着ショップでの乱闘シーンなど面白いです。
■参考動画
(1)参考までにYouTubeにあった「Romance&Cigarettes」の動画を貼っておきます。
低画質だけど、含まれている場面が多いです。 →
動画① 、
動画②高画質だけど、含まれている場面が少ないです。 →
動画③ 、
動画④
(2)それから、ついでに英国のコメディドラマ「エキストラ!スターに近づけ」の動画も貼っておきます。
■性エネルギーの知覚
さて、ここからは、ウィンスレットと性について考えてみます。
ウィンスレットは映画の中の演技においても、あるいは、インタビューにおける発言においても、性的表現が多いと思います。それに対して「ウィンスレットは性欲旺盛で淫乱な女性なのではないか?」といった邪推をするひとがいるかもしれません。ここではそういう話ではなくて、もっと深い話をしようと思います。
まず、映画において性的表現が多いのは、女優であるウィンスレットではなく、監督に采配が委ねられています。ですので、映画において性的表現が多いからといってウィンスレットの性癖を云々するのは正確ではないと思います。しかし、その一方で、出演作品を見てみると、性的に衝撃的な表現が強い作品が多いのも事実です。しかも、その内容は多種多様でバラエティに富んでいます。つまり、様々タイプの性に対して、ウィンスレットはその意味を理解を示していると思います。確かに、たまたま偶然に性的表現の多い映画に出演してしまったという可能性も否定はできませんが、ウィンスレット本人がそういう作品を選んでいる可能性も否定することはできません。ウィンスレットには性に関する独自の考え方があるのかもしれません。つまり、性を人間の人生の営みの中で重視するといった感覚が彼女には強くあるのかもしれません。
また、ウィンスレットはインタビューの中での発言において性的表現が多いです。(1つのインタビューに限らず、いくつかのインタビューで見かけた記憶があります。)例えば、『愛を読むひと』のインタビューの1つでも次のような発言があります。
仕事の選び方について聞かれた際、彼女は”ballsy”という言葉を使うことが多い。
その意味は?
睾丸”ball”から来た俗語で、女なのに度胸があるという意味なの。
(両手で玉をぎゅっと握り締める振り付きで)”ballsy”よ!
この挑戦的な性格は、多分舞台俳優の父親譲りだと思うわ
ウィンスレットのこの発言は、直接、性に関する話ではありません。「度胸があって挑戦的な性格」を表現するのに”Ballsy”という形容をしているだけです。しかし、別の見方をすると、ウィンスレットは「度胸があって挑戦的な性格」を”Ballsy”と表現するのが「自分にとってしっくりくる」「自分にとってリアルである」とも言えると思います。何が言いたいのかといいますと、ウィンスレットは性に対して確かな”手ごたえ”を持っているのではないか、ということです。この1つの発言だけをとって、そういうのは少し言い過ぎではないかと思われるかもしれませんが、実際、彼女のこれ以外の数多くのインタビューを見てみても、”Ballsy”という言葉だけではなく、様々な性的な言葉を使って表現するケースが多いのです。
さて、では、「性に対して確かな”手ごたえ”を持っている」とはどういうことでしょうか?ここでは、分かり易くするために、あえて、もう少し意味を狭めて考えてみます。性を性欲に限定して、「性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」とします。では、「性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」とは何でしょうか?ちょっと恥ずかしい表現になってしまうのですが、男性の立場に置き換えて考えてみると、ひとつは「ペニスが勃起しているとき、性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」と言えると思います。まあ、本当は欲情して勃起に至るまでにプロセスがありますが、ここではあえて省略します。卑猥な表現になってしまいますが、「ビンビンに勃起したペニスを感じるとき、性に対する欲動が激しく脈打っている」と感じるのではないでしょうか。まあ、男性の欲動はそう単純ではない面もあるとは思いますが、逆に、このようにバカなほど単純な面もあると思います。ともかく、「性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」ということに対する簡単なイメージができたと思います。
さて、話をウィンスレットに戻します。では、ウィンスレットにとって「性欲に対して確かな”手ごたえ”を持っている」とはどういうことでしょうか?「男性のペニスに相当する女性の身体の部位が興奮して勃起している」などとバカなことは考えないで下さい。それは浅はかな考えです。実はもっと抽象的なものを彼女はつかんでいるのではないかと私は思うのです。それは「性的に興奮して欲動がその人を突き動かす」というときの”欲動”にあたる部分です。性的に興奮して欲動に突き動かされるとき、私たちの心も身体もダイナミックな変化を起こします。その激しく脈打つようなダイナミックな動きを起こしている、おおもとにあるのが”欲動”です。性的に興奮してくると、心臓が激しく脈打ったり、ペニスが勃起したり、身体の各部位が興奮したりします。身体の内側から押し出されるように変化します。喩えるなら、川の上流から川の下流へ押し出されるような感じです。何かが押し出されるような感じです。川で喩えれば、欲動は川の水源です。性的に興奮すると川の水源でポンプが動き出して、どんどんと川下へ押し出すような感じです。ですから、勃起したペニスは川下で大きく波打つ波のようなもので、あくまで下流という結果に過ぎません。この大波を起こしているおおもとは水源たる欲動にあります。その欲動をウィンスレットは手づかみでつかむようにして”つかんでいる”のではないかと思うのです。
では、「欲動を手づかみでつかむ」とはどういった感じでしょうか?これまた卑猥な表現で申し訳ないのですが、男性の場合は感じとしては、文字通り「勃起したペニスをつかむ」といった感じかもしれません。(これはあくまで感じを理解するための説明であって、その行為が「欲望を手づかみする」ことそのものというわけではありませんのでご注意下さい。)では、ウィンスレットの場合はどうでしょうか?もちろん、欲動のある場所はそういった身体の特定の部位といった身体的なものではないでしょう。それは心の中にあるのか身体の中にあるのか、あるいは、その中間にあるのか分かりません。特定の場所にそれがあると言い切るのはなかなか難しいと思います。あえて、言うなら、「自分の中にある」としかいえないと思います。
さらに、それはどのようなものでしょうか?喩えなのですが、映画「スターウォーズ」に出てきた武器で「ライトセイバー」を想像してみて下さい。これはちょっと大きすぎるので、これをもっと短剣くらいの短さに小さくしたもの、稚拙な例ですが、アニメ「海のトリトン」でトリトンが持っていた光る短剣「オリハルコンの短剣」くらいがピッタリな感じかもしれません。ともかく、何か、そういった手で握るのにちょうど良いくらいの大きさの、光る、そして、暖かいものを想像してみて下さい。そして、「自分の胸に手を当てて考えてみる」や「ペンダントを握って祈る」といったような心の奥深くへダイブするような感じでそれを”つかんでみる”ところを想像してみて下さい。おそらく、ウィンスレットはこのような感じで”欲動を手づかみ”しているのではないかと思います。実はこれは別に特別なことではなくて、私たちも同じようなことをしているとは思うのですが、ウィンスレットの場合は私たちよりは遥かに、”かなりハッキリと”、あるいは、”ありありと”、”明白に”、”くっきりとした自分の中の光る光の柱を”、”しっかりとしたつかんでいるという手ごたえ”を持って、それを”つかんでいる”のだと思います。
さて、これをつかんでしまうと、そこには”手ごたえ”が生じます。ありありとしたリアリティを感じます。ウィンスレットのインタビューなどの発言に性的表現が多いのはこのためだと思います。つまり、ウィンスレットにとって性は心のダイナミズムにとって遥かにリアリティがあるからです。また、様々な映画の性的な演技に対応できる理解力もこの手づかみによる”手ごたえ”の感覚(=リアリティ)があるからだと思います。
(ただ、性に対して「センシティブ(=敏感)であること」のと「淫乱であること」は違います。念のために言っておきますが、ウィンスレットは性に対する理解は深いと思いますが、彼女本人の行動は淫乱なところは一切なく、いたってノーマルじゃないだろうかと思います。むしろ、自身の欲動が明確な分、かえって「禁忌と侵犯」的なエロスの感覚は弱いのではないかと思います。)
ここまでを整理すると、ウィンスレットは性的欲動の根源までさかのぼって、ダイナミックに胎動している欲動を”つかんでいる”という感覚を持っているのではないかと思います。さらに、拡張して考えると、性的に興奮したときの欲動に限らず、普段は静かに眠っている欲動も含めた欲動の全体、性の全体、つまり、性的エネルギーを彼女は”つかんでいる”のではないかと思うのです。それは身体的とも抽象的とも違って、エネルギー的レベルにおいて、性的エネルギーを知覚=実感しているのではないかと思います。
■意味エネルギーの知覚
そして、ウィンスレットは”性”だけでなく、実は”意味”についても”性”と同じように”つかんでいる”のではなないかと思います。
”意味”を”性”のように”つかむ”とはどういうことでしょうか?ここで言葉と意味の関係について考えてみます。言葉には名前と意味があります。シニフィアンとシニフィエです。モノに名前(=言葉)が付けられるとき、言葉と意味は下図のAのような箱と中身のような関係になるのではないでしょうか。そして、中身は箱に閉じ込められた火の玉のような感じではないでしょうか。逆に考えれば、意味は、本来、下図のBのような言葉の箱に制約されない自由なエネルギーを持ったものだったのではないでしょうか。しかし、名前(=箱)を与えられることによって、意味はその名前に縛られて閉じ込められてしまうのではないでしょうか。
もし、ウィンスレットが性と同じように意味をつかんでいるとするならば、この意味が閉じ込められた箱ではなく、本来の意味であった制約される以前の意味エネルギーをつかんでいるのではないかと思います。意味エネルギーは言葉に制約される以前の意味の元の姿ですので、言葉で制約された意味よりも正確で、原初的かつ本質的な意味だと思います。
あるいは、別の見方をすると、単にひとつの言葉に限らずに、複数の言葉を含んでいる対象(←テキストや主義や思想など)の”意味全体”をつかんでいるのではないかと思います。例えば、主義と思想と意味空間の関係を下図のように考えてみると分かり易いと思います。主義は条文のようなコード化された平面とすると、思想は平面的な条文を多次元的な現実に合うように有機的なシステムとして立体化したものだと思います。しかし、それでも思想は現実には完全には整合しないと思います。ところで、逆に考えれば、主義にしろ、思想にしろ、意味の情報空間の中から、ある一定の意味があるものという条件の下に抽出したものだと思います。しかし、主義にしろ、思想にしろ、言葉に射影した瞬間に意味は制約されます。なぜなら、一つ一つの意味が言葉の箱に押し込められているからです。言葉から主義や思想の意味を知覚するのではなく、意味エネルギーをつかむようにして、それらの意味を知覚するというのが、全体性の知覚だと思います。それは意味空間で包摂することで意味エネルギーを損なうことなく、正しく知覚することになるのだと思います。
認識されたモノが言葉に分節する以前の意味の原形、意味エネルギー。それは言葉という容器に捕らわれる前の意味本来の姿です。もし、その意味エネルギーを手づかみできれば、それは様々な言葉に変容する前のものだと思います。それは形が定かではありませんから、人は曖昧にしか感じられないかもしれません。形を明確にしようと言葉にしたとき、本来の意味は歪められたり、削られたりします。しかし、もし、それを意味エネルギーの状態のまま、明確に感じられるとしたらどうでしょう?常に玉虫色に変容しつづける人魂のような意味エネルギーの全体的感触を直接つかんでいるとしたらどうでしょうか?もし、そうなら、その直接的感触から、物事の意味を本当に正しく意味をつかみとることが可能なのではないでしょうか?もし、ウィンスレットが無意識にそれを成し遂げているとしたら!?確かに、彼女が実際にそれを成し遂げているかどうかは私たちには分かりません。しかし、彼女の演技は言葉よりも意味が正確ではないかと思います。(*4)
ところで、性と意味の関係について深く考えてきた学問に精神分析学があります。精神分析学は性にダイナミズムを感じ取ってはいたものの、それをエネルギーの原理として確立することはできませんでした。それは科学としてはもっともな態度だと思います。そのため、精神分析学は、エネルギーに向かわずに、人格形成に関わる個人的経験の積み重ねに着目して、子供の頃の人間関係、つまり、父母との親子関係にその大きな根拠を求めるようになりました。しかし、それはエネルギーが本来持つダイナミズムに、直接、核心に触れるというものではなくて、そのダイナミズムによってもたらされたスタティックな結果を事後的にトレースしたものに過ぎないと思います。精神分析学が性に着目したのは正しいかったと思いますが、最も重要なエネルギーではなく、副次的な家族関係に向かったのは、誤りとまでは言いませんが、ちょっと直接的ではない迂遠な取り組み方だったと思います。(もちろん、そういった精神分析学から得られた成果は多かったとは思います。しかし、同時に誤りや弊害も多かったとも思います。)
さて、ここで、ウィンスレットに話を戻します。ウィンスレットの場合は性や意味についてエネルギーのレベルで、その確かな手ごたえをつかんでいると思います。それは精神分析学が踏み込むことができなかった領域だと思います。精神分析学が目指して果たしえなかった領域だと思います。確かに、エネルギーレベルでの性や意味は、明確な形を持ちませんので、つかんだモノを言葉として表現することは難しいでしょう。しかし、言葉にできなくとも、性エネルギーや意味エネルギーを知覚していることができれば、それは心や物事を深いレベルで知覚していることに他ならないと思います。彼女の発言で性的表現が多いのは性が意味に影響を与えるのをエネルギーレベルではっきりと知覚しているからだと思います。そういった意味ではウィンスレットの知覚は精神分析学を超えていると思います。(しかも、ウィンスレットはエネルギーを知覚するだけにとどまっていないと思います。これについては次回の記事で言及します。)
■もうひとつのオルガスムス
ところで、脱線ですが、性の話に関連して、「グッバイ・モロッコ」や「ホーリー・スモーク」で出てきたオルガスムス体験について少し言及してみようと思います。「グッバイ・モロッコ」では女友達のエヴァが音楽に合わせて踊っているときに一種のトランス状態に入ってオルガスムスに達します。また、「ホーリー・スモーク」ではルースが儀式の最中に導師ババに額を押されてオルガスムスに達します。この2つの作品で出てきたオルガスムス体験は通常のセックスにおけるエクスタシーとは本質的に異なると思います。
通常のセックスにおけるオルガスムスは、オルガスムスに達するまでのプロセスはともかく、最終的には、こみ上げてきたものが脳の一点から弾けるように快楽が拡散してゆくのではないかと思います。いわゆる、「イク」ときは脳の一点が爆発するように、爆発した瞬間に一気に快楽がもたらされて、それが徐々に脳全体に拡散してゆくような感じではないかと思います。絶頂=エクスタシーはこの爆発した瞬間に頂点に達する感覚ではないかと思います。絶頂に達した後の拡散の加減に多少の男女差はありますが、基本的な快感原理は男女でも同じではないかと思います。
ところが、これらの映画でのオルガスムスは通常のエクスタシーとは異なると思います。快感の大きさから言えば、通常のエクスタシーが絶頂=頂点であるとするならば、これらのオルガスムスは頂点に達する手前くらいの快感、プラトー状態=高原というべき快感の大きさに過ぎないと思います。ただし、エクスタシーとの大きな違いはその持続時間と快感の範囲だと思います。エクスタシーは時間的には短いですが、プラトー状態は、場合によって異なりますが、比較的長い持続時間があると思います。また、エクスタシーが脳の一点から拡散する快感なのに対して、プラトー状態は脳の広い範囲に渡っての快感だと思います。うまくプラトー状態に達することができれば、運動で長時間ぐるぐる回転して目が回ったときのように、勝手に脳内で回転が生じます。喩えて言うと、脳がクリームシチューやチーズフォンデュのようなトロトロととろけた状態になり、それが自動的に回転するので、棒でゆっくりとシチュー=脳がかき混ぜられているような感じになります。そして、そのかき混ぜられているときに、まるで肩コリのように脳にコリがあるのが感じられます。クリームシチューで喩えれば、ジャガイモのような具が脳内にゴロっところがっている感じです。そして、回転でかき混ぜられて、そのコリに触れたとき、そのコリがほぐされて溶かされていってトロトロになるような快感があります。さらに、それは精神的にもほぐされてトロトロになるような感覚をもたらすので、「どうにでも好きにしていい」みたいな気持ちにさせます(笑)。とはいえ、「命やお金を差し出せ!」と言われて、差し出すほどまでになるかどうかは疑問です。そして、この回転は放置しておくといずれは止まりそうになりますが、自分で漕ぎ足すように、うまく自分の意志で刺激を与えてやれば、回転をけっこう持続することが可能です。ですので、これを長時間続ければ、エクスタシーほどの快感の深さではなくとも、どんどんと身も心もトロけた状態になってゆくので、比較的大きな快感、緩みきったリラックスを得ることが可能なのではないかと思います。(ただし、個人差があるかもしれませんが、脳のコリに当たったとき、人によっては、若干、痛いと感じるかもしれませんし、翌日は頭痛になるかもしれません。)ただ、このオルガスムスの難点はこの状態に達するまでのプロセスが面倒なことと、プロセスそのものが日によって反応が異なるのでコントロールが難しいことだと思います。もしかしたら、訓練を積めば、比較的容易にプラトー状態に入ることが可能になるかもしれませんが。なお、映画の中で頭を前後にゆすったり、体を左右に振ったりするのは、この回転を意図的に引っ張り出そうとしているからだと思います。(*5)
しかし、このプラトー状態に大きな意味があるかどうかは疑問です。「ホーリー・スモーク」のルースのように、このオルガスムスを導師ババの愛と受け取ってしまうのは明白な間違いでしょう。また、プラトー状態は希少な体験かもしれませんが、実はけっこう通常のセックスでもそうと走らずに同様の快感を少なからず感じていると思います。ただ、自律的に回転が始まるところまで達しないだけで、実際には同種の快感を少ないながらも多くの人は感じ取っているのではないかと思います。また、通常のエクスタシーと比べれば、快感の範囲はプラトー状態の方が広いかもしれませんが、それもせいぜい脳内の限られた僅かな範囲に過ぎません。喩えるなら、自分の内部のごく限られた一部を攪拌しているに過ぎません。ともかく、「ホーリー・スモーク」でも指摘しているように、間違いやすいのですが、エクスタシー体験を至上のものと考えるのは大きな間違いだと思います。エクスタシー体験やセックスに高い価値を与えてきたのが、過去から現在に至るまでジャンキーなどの多くの探求者たちの間で繰り返されてきた大きな間違いであり、大きな落とし穴だったと思います。
■超現実的な体験
さらに、脱線ですが、半端なジャンキーたちにエクスタシー体験と混同されてきたものに、超現実的な体験があると思います。超現実的体験とは何でしょうか?超現実とは、言うなれば現実よりも現実的なことです。現実よりも現実的(=リアル)とはどういうことでしょうか?喩えて言えば、物体を手袋ごしに掴むことと素手で掴むこととの違いです。手袋ごしに物体を掴むよりは素手で掴んだ方がリアルでしょう。それと同じように、超現実的とは、現実よりも直接的な知覚があるのだと思います。実は私たちは身体という手袋を間に挟んで世界を感じているのだと思います。しかし、それがいったん身体という手袋が取り払われて、”むき出しの神経”で直に世界を感じることが可能になれば、その方がより鮮烈にリアルに世界を感じ取れるのだと思います。しかも、”むき出しの神経”と書きましたが、実際には神経よりも、もっと自分そのものの感覚です。ひと言で言えば、その自分そのものとは魂のことです。魂でダイレクトに世界を感じることができたとき、現実よりも現実的に世界を知覚していると実感できるのだと思います。そして、それは気持ちの良いものなのだと思います。もちろん、それはエクスタシー的な気持ち良さではありません。それは今まで以上に風を感じたり、音を感じたり、光を感じたりすることができるのだと思います。その鮮烈な感覚が私たちに歓喜を呼び起こすのだと思います。また、さらに、自分の意識がより鮮明になるようにも感じるのだと思います。実は、普段の意識はぼんやりした、半分、寝ぼけた意識状態なのです。本当は、意識はもっと鮮明になれるのだと思います。意識は光です。喩えて言えば、物質に宿った魂(=意識)は生物となって展開しますが、いったん、その物質(=身体)から解放されたとき、魂は本来の輝きを取り戻して十全に光り輝くのだと思います。意識が物質に束縛されているとき、その光はボヤけてしまうのだと思います。
さて、ずいぶん突拍子もない超現実的?非現実的?なお話で暴走してしまいました(笑)。本当にそんな超現実はあるのでしょうか?超現実的な体験はおしゃべりして理解するものではないと思います。実際に体験して理解するものだと思います。ですので、超現実の話はこの辺で止めておきます。
■まとめ
さて、映画「Romance&Cigarettes」については特に言うことはありません。見て楽しめば良いと思います。ただ、この中での、ウィンスレットの笑える演技の中に彼女の体現している何かを感じ取れればと思います。彼女はこの映画の中で比較的自分の自由に演技しているのではないかと思います。いえ、実際にはそうではなくて、細かく監督に決められた演技かもしれません。しかし、たとえそうであっても、彼女は見事にそれを演じていると思います。とりあえず、それを記憶に焼き付けて、その奥深くにある理由に、いつか思いを馳せられたら良いと思います。ついつい笑って忘れ去ってしまいそうな映画ですが、実はウィンスレットのある本質を感覚的に知るのに良い映画だと私は思います。
それから、性的エネルギーと意味エネルギーの話をしましたが、ウィンスレットは性や意味をエネルギーレベルでまるで手でつかむように知覚しているのではないかと思います。また、ウィンスレットにとって性のエネルギーと魂のエネルギーはとても近い関係にあるのだと思います。
■注釈
(*1)性をコミカルに描いた名作に「キャンディ」や「女性上位時代」などがあります。ともにキュートな女性が様々な性の遍歴を旅する物語です。おそらく、「Romance & Cigarettes」もこの部類に属する映画であり、なかなか名作なのではないかと思います。特に、卑猥な言葉の面白おかしい表現としては、この映画はこの中でも群を抜いていると思います(笑)。実際、映画関係者からは映画のセリフが卑猥すぎると評判(?)になったそうです。ちなみに、ウソか本当かは分かりませんが、監督によると、ケイトのアドリブがいやらしすぎたので、これでもまだいやらしいセリフをカットした方らしいです(笑)。
「Romance & Cigarettes」は淫猥なセリフが多い事で話題になっているが、同作のジョン・タトゥーロ監督はベネチア映画祭でこう語っている。
この問題に関してはケイト・ウィンスレットにも責任の一端はある。
なぜならケイトがこの映画で喋っている言葉には彼女のアドリブもあるからだ。
ケイトが発したアドリブにはカットしなければならなかったものも幾つかある。
この映画で使うにはあまりにもいやらし過ぎたから。
まあ、どこまで本当か嘘かは分かりませんが、どんだけなんだ!面白すぎます(笑)。
(*3)ジョルジュ・バタイユの遊蕩は有名です。友人ジャン・ピエルは売春宿に出入りするバタイユの遊蕩をたしなめますが、それに対してバタイユは次のように答えています。
なあジャン、こう言ったら君にも分かってもらえると思うけれど、
二人の間での性交と何人もの間での性交とでは、
風呂に浸かるのと海水浴ほどの違いがあるんだ。
(*4)アラヤ識の非言語と言語の境界領域で言葉が浮上してくる瞬間を捉えようとしたものに、クリステヴァの記号の生成過程があると思います。そこは存在が曖昧な空間で天使や霊のように言葉が現れては消えてゆく生成消滅を繰り返す量子的な不可思議空間(=コーラ)になっていると思います(下図参照)。しかし、意味エネルギーは、この空間、このアラヤ識よりも、さらに下の、さらに奥の、もっと非言語の地下奥深くに下降したところにある、マントルにあるマグマ状のものだと思います。
ところで、この記号生成過程では、記号Aが生まれた瞬間に記号非Aも生まれています。しかし、記号非Aは顕在化せずに、その存在を無視=殺害されます。
(*5)ちなみにMDMAの効用を読むとこれに似ているように思います。もちろん、私はMDMAをやったことはありませんが、MDMAはこの快感をもっと弱くしたような、さらに助走が長くプロセスをより困難にしているように思えます。MDMAは当然非合法であり、また、不純物が多いらしく事故も多い危険な薬物ですので絶対にやってはいけません。また、もし、MDMAがプラトー状態と同じ種類の快感であるならば、原理的に薬物でこの状態に引き上げても、その快感の度合いは低いのではないかと思います。それに、そもそも快感のためにドラッグに手を出すのは、もっとも愚かなことです。60年代のサイケデリック革命と現代のドラッグ汚染の大きな違いです。60年代のサイケデリック・ドラッグはどちらかというと快感ではなく、むしろ不快感をもたらすものでした。多くのひとは気持ちが悪くなって嘔吐しましたし、恐ろしさのあまり病院に駆け込んだりしました。フラッシュバックに悩まされる者も少なからずいたと思います。それでも当時の人々は精神を拡張するためにサイケデリック体験に飛び込んで行きました。一方、現代では精神に対する興味はほとんどなくなり、単に快感だけを求めるようになってしまいました。たいへんな堕落です。現代に至っては、サイケデリック・ドラッグに対する多くの誤解や間違った先入観を人々は持ってしまっています。もちろん、ドラッグは安易に行うものではありませんし、不真面目な気持ちではその人に害を為すと思います。安易な考えでは「マトリックス」のサイファーのように赤いピルを飲んだことを後悔するようになるでしょう。しかし、心と魂の探求のために、未知なる精神の領域を探索する旅のために、完全な自由に至るために、真面目にドラッグを試みることは、危険は伴いますが、決して間違った行為ではないと思います。