2006年7月30日

禁酒會館


禁酒會館 はとても不思議な建物です。


禁酒會館は左右をビルに囲まれて、ひっそりとたたずむ大正モダンな建物です。
3階まである木造建築で部屋がたくさんあって、その一つ一つに違ったお店が入っていたりします。喫茶ラヴィアンカフェ やCLCブックス岡山店 があります。また、2階ホールでは詩の朗読会 やタンゴ教室 が開かれたりします。さらに中庭があって舞台が作られています。

そして、禁酒會館には不思議な陰翳があります。
大正モダンの和と洋が柔和に融合した不思議な陰翳があります。なにか隠花植物的な、でも、毒々しさのない健康的な柔らかさを感じます。とても不思議なバランスの上に建っています。

竹久夢二 にも通じる不思議な柔らかいバランスです。


そして、文化や芸術などの新しい芽が芽生える苗床のような不思議な場所です。
アングラではない自由で素直な土壌を感じます。

次のような永瀬清子の詩が思い出されます。

はばかることなくよい思念(おもい)を
私らは語ってよいのですって。
美しいものを美しいと
私らはほめてよいのですって。
・・・
私らは語りましょう 語りましょう 手をとりあって
そしてよい事で心をみたしましょう。

(「美しい国」より抜粋)

太平洋戦争が終わったとき、永瀬清子は自由の詩を歌いました。今までがんじがらめに縛られていた心の翼を、自由におもいっきり広げて伸ばしたときのウキウキした爽快な気分がよく表われています。国土は焼け野原となって希望など無い状態であったのに、彼女は物質的な豊かさはなくとも、この心があるじゃないかとばかりに高らかと希望の詩を歌います。

この禁酒會館には、この詩のような、とても素直で自由な空気に溢れています。

2006年7月23日

オリエント美術館


僕は時々、山の中や神社を歩きたくなる。木洩れ日を見上げたり、土を踏みしめたくなる。そうしないと何だか身体の調子が悪くなる。僕にとって、オリエント美術館 はそういった森や神社に代わる場所だ。


暗がりの中に展示された古代の器たちが僕を遥か過去へと引き戻す。注口が3つもある壺、周りに子壺を配した壺、動物達を模した土器など、実用的ではないが横断的な意味を込めた器たち。そして、それら土偶を見るとき、僕の中の縄文的感性が時代と場所を越えて共鳴する。そうして言語領域が完成される以前の自分、直感的・野性的・始原的な自分を取り戻す。


特別展として「中国古代の暮らしと夢」 が開催されていた。
墓の中へ副葬される明器と呼ばれるミニチュアの展示だった。来世での理想の暮らしのために、様々な物や人をミニチュアに模して埋葬した。祭器は人の道具、明器は鬼神の道具だそうだ。明器にはいろいろな装飾が施されている。例えば、蝉。蝉は死者の再生を象徴しているそうだ。または熊。熊は神獣として四隅を守っていたりする。熊・・・。アイヌのイヨマンテ や宮沢賢治の「なめとこ山の熊」 が思い出される。

また、農民や楽士や舞人など人々をかたどったものを俑(ヨウ)というそうだ。農作業をしたり、音楽を奏でたり、踊っていたりとダイナミックな動きを捉えた人々の姿だ。そのダイナミックに躍動する姿は、あともう少しで漢字という記号に生成される寸前、その一歩手前の状態だ。現実世界を漢字の森(意味世界)で覆い尽くした漢字文明も、死者の世界に対しては記号以前であるミニチュアを用いてモノの魂を託すのだろうか。死後は魂と魄に分かれるという。これらミニチュアには、秩序的な楷書や知的に脱構築した草書とも違う、もっと野性的なスピリチュアルな精神性を感じる。

(そういえば、漢字とはまた違った趣きのあるアラビア書道 なんかも興味深い。)


死者の世界に思いを馳せていたとき、視線を感じて振り返ると、
青く浮かび上がった有翼鷲頭精霊像が死の法官のように僕を見据えていた。
そして、奥の方では黒石に刻まれたハムラビ法典が掟を示して生きる厳しさを教えていた。


熱に浮かされた僕は、水のせせらぎに導かれて、二階の噴水に辿り着く。

ちょろちょろと流れる噴水の水音だけが静かに聞こえる。
ここはモスクのドームのようであり、嘆きの壁のようでもある。
天窓を見上げると、曙光が差し込んでいる。
まるで、階梯を登ることをヴェルギリウス が誘っているかのようだ。
ここから見上げる天空が僕には天使たちのカタパルトに見えた。


その後、喫茶イブリクの異国情緒なアラビックコーヒーで目を覚ましたのだった。


2006年7月16日

岡山の近代詩人7人展


「岡山の近代詩人7人展」 (吉備路文学館 )が開催されています。


内容は、岡山が輩出した7人の詩人、正富汪洋、竹久夢二、有本芳水、赤松月船、木山捷平、永瀬清子、吉塚勤治らの著書、色紙、原稿、書簡、愛用品、写真などの展示でした。

永瀬清子さんと一緒に、若かりし日の三沢浩二先生 がモノクロ写真に写っておられました。

また、2Fでは「吉備路の作家墨書展」も展示されていました。原爆詩 三部作が印象的でした。

また、1Fフロアには岡山を中心とした小説や詩、俳句、短歌などの同人誌が50種類ほど書棚に納められていました。こんなにたくさんの刊行中の同人誌が岡山にあったなんて驚きでした。

「岡山の近代詩人7人展」 は、10月9日(月)まで吉備路文学館 にて開催されています。

2006年7月10日

OUKOKU-TEN painting exhibition 2006


「OUKOKU-TEN」 (アトリエ宮崎王国)を鑑賞しました。


宮崎さんら倉敷芸科大出身の5人のグループ展でした。

宮崎政史さんの作品は真っ白いキャンバスの前面と背面の2つの平面のみで表現されたシンプルな作品でした。これは視覚で物の形を認識するときの原初の段階ではないでしょうか。色彩や細部などが認識されるよりももっと前の段階、認識が働き始める原初の瞬間を捉えたような作品でした。それはとてもシンプルで透明でクリアな、そしてピュアな形象です。認識が完成される前、社会的な認識で汚される前の、純粋な心の働きです。まるで認識が種子の殻から芽を出したばかりの瞬間を捉えたような作品でした。

伊藤玄樹さんの作品は、心の奥にある情念のマトリックスの上に銀色のメタリックな線条で押さえるかのような印象でした。線条の内側にはこのような赤いマグマのような情念が秘められているのかもしれません。

廣川達也さんは爽やかな色彩の作品です。朝、目覚めたとき、世界は新鮮な色彩で輝いています。曇りのない目で世界を眺めたとき、こんな色彩で世界は僕らを歓迎してくれるのかもしれません。

紙本真理さんの作品は、セザンヌが印象派を飛び越えて、いきなり抽象画を描いたかのような作品でした。原色がとても綺麗でした。コリン・ウィルソン のいうアウトサイダーに見えるヴィジョンもこの絵のようなものかもしれないと想像しました。


児玉知己さんの作品は、草間彌生 の「無限の網」のような作品です。この作品の原体験は、元々は鬱蒼とした草々を見つめたときのヴィジョンではないでしょうか。地面一杯に生い茂る草にじぃっと見入ると、前後などの遠近感を失くします。さらに草と自分という主客を失くして、そこには草と一体となった自分がいるかもしれません。そうしているうちに、グラグラと眩暈を起こして、いつしか草に飲み込まれて心はサイケデリックな空間に陥ってしまいます。そこでは魂はそのサイケデリック空間でネイキッドな状態に晒されます。そこではもっとも敏感な部分が剥き出しになったように空間の息づかいを魂にダイレクトに感じます。日常世界よりも、もっともっと深いリアリティがそこにはあります。この作品には伊藤若冲 の鶏画のような生々しい艶やゴッホ の糸杉やひまわりに通じる生命力があります。この作品は日常空間を飲み込んでしまうほど強力な生い茂る破壊的生命力に溢れています。

(写真の撮影・掲載を許可下さった宮崎さん・伊藤さん、ありがとうございました。)

「OUKOKU-TEN」 はギャラリーすろおが463 で7月17日(月)まで開催されています。

2006年7月9日

加藤健次さん


加藤さんは詩人です。
 
加藤さんの詩はジャズのような渋い大人の詩です。そして、現実を直視するリアリズムの眼差しを持った詩です。彼の前では世界はネイキッドな剥き出しの姿をさらけ出します。
 
作品には、「最後のジャングル」や「ツー・ベース・ヒット」があります。
詩集に「やなぎ腰のおとこ芸者 」や「紺屋記 」があります。
また、映像作品も制作されています。

加藤さんは、詩の朗読会「大朗読」 に出演されています。


加藤 健次

2006年7月8日

東井浩太郎さん


東井さんは詩人です。

東井さんの詩は、一見コミカルで私たちを滑稽な感覚に誘います。しかし、次第に滑稽な笑いの背後にある詩的空間を浮上させます。最後には、私たちの心の中にソリッドな沈黙が現出します。
彼は日常空間を破壊する確信犯です。

作品には、「ピーター」や「底抜け脱線電話」があります。

東井さんは、詩の朗読会「大朗読」 に出演されています。

2006年7月7日

みごなごみ先生


みごなごみ先生は岡山を代表する詩人のひとりです。

詩集に「彼岸バス 」があります。

また、第20回松崎義行賞を受賞されています。

英語圏の近現代詩研究家として活躍されています。
特にウィリアム・ブレイクの研究では、その独創性を高く評価されています。


みご なごみ
彼岸バス
詳しくは下記のホームサイトをご覧下さい。

2006年7月2日

【生き様、死に様に格差はあるか!?】


 また今年も夏がやってきた。それはすなわち、原爆の日や終戦記念日などの「反戦シーズン」の到来でもある。

 つい最近も筆者はあるメディアの読者投稿でこのような反戦の意見を目にした。

 「この時期になると、私は特攻隊を始めとする戦死者達の事を思い、無駄死にしていった彼らが哀れでなりません。このような愚かな戦争は間違っても繰り返されるべきではなく・・・(以下略)」

 無駄死に?

 哀れ?

 筆者はこのような論調を目にするたびにひどく不快な気分に襲われるのである。それはこういった論調の根底に、「反戦」とは程遠い「傲慢な優越感の吐露」を読みとってしまうからである。

 無論、戦場で散っていった多くの兵達にとって、その死は言うまでもなく本意ではなかったであろう。それは疑いようもない。が、だからと言って誰がそれを「無駄死に」と断じ、「哀れむ」事ができるのだろうか。「無駄死に」「哀れむ」と言った言葉使いは「優越者の言葉」である。安全圏である高い場所から見下ろすように投げかけられた言葉である。それはとりもなおさず、本気で「国」(なんなら「家族」「故郷」といった言葉に置き換えてもいい)を守るために生命の限りに戦い、散っていった者達の、その「生き様」にケチをつけているようなものであろう。侮辱だとさえ言っていい。

 考えてもみて欲しい。例えば、家族を守るためにがむしゃらに働いて過労に倒れるサラリーマンの話などは現在でもよく聞く話である。だが、そこで彼らに対して「無駄死にだ」「哀れだ」などという言葉をなげかける事が果たしてできるだろうか?

 ついでなので述べたいと思うのだが、「自らの意思ではなく、国の都合でいやいや戦わされて死んでいくから哀れな無駄死になのだ」という認識もナンセンスであろう、と筆者は思う。

 過労死していくサラリーマンだって、「家族や会社の都合でやむをえず無理な労働をさせられて死んでいく」事にはなんの変わりは無いのではあるまいか?人の世とは、そういったある種の、時としてはやりきれないような自己犠牲という名の「優しさ」の上に成り立っているのではないのだろうか?

 我が子をかばって事故死する親、危険な場所で命を賭けて取材を続け散っていくジャーナリスト、市民の平和のために殉職していく警察官や消防士、溺れている子供を助けようとして自らも濁流に飲まれる善意の青年……。これら挙げていけばきりがない、現代社会でもありふれた、優しく、せつなく、悲しく、それでいてなお人間の尊厳を高らかに主張してやまない幾多の死に様、生き様と、かつての戦争における戦死者達の死に様、生き様との間において、そこに何の格差もありえようはずはない、と筆者は思うのである。

 「反戦」の主張は真に結構。それについては筆者にも異論を差し挟む余地は無い。だが、それは「現在の戦争、あるいはその原因を取り除こうとする主張」であるべきであろう。間違っても、「過去の戦争に関わる全てを貶める主張」であってはならないし、そんな主張は主張者の自己満足以外になんの結果も生み出しはしないだろう。

 夏。戦死者だけでなく、なにかを守るために命を賭けたすべての人々に、筆者は思いをはせようと思う。

*本文は奈良県のNPO法人戦争体験保存会 の発行する冊子「戦中話」にホムラ が本名で連載しているコラムを転載したものです(05年夏号掲載分)。

2006年7月1日

神薙 炎さん


神薙 炎(カルナギ ホムラ)さんは、詩人・小説家です。

1972年生で岡山県に在住されています。文筆業を副業とされています。
自称”邪道詩人”で、影響を受けた主な詩人は中原中也、尾崎豊とのことです。
’04年にHappy?Hippie!で朗読デビューされました。’05年詩のボクシング岡山大会で4位入賞されています。

代表作には、「夜の劇場・地獄変」 や「無限の回廊」があります。
「無限の回廊」はホームサイト「喫茶謎」 に音声ファイルで掲載されています。是非、一度、聴いてみて下さいね。

彼の詩は少年や道化師をテーマにした作品が多いですね。
人間の持つ聖俗の二面性からくる原罪(トラウマ)やその葛藤を表現しているのかもしれません。
また、技法は正統な現代詩から演劇的なパフォーマンスまでバラエティに富んでいます。
岡山の若手朗読詩人の中では最も力強い声の持ち主です。

また、「ポストモダン詩を騙る言葉遊びの駄文を『詩』と称する事については金輪際認めない」
との主張を貫いておられます。

それから、Happy?Hippie!主催者のM氏との「詩のフォーマット論争」で岡山文壇に激しい論争を巻き起こして論客デビューもされました。

彼の知識は日本文学や西洋文化にとどまらず、政治や科学など興味の範囲は多岐に渡っています。
また、アニメや漫画などサブカルチャーにも造詣が深いです。さらに共同制作で絵本も出版されています。

現在、mimucus、大朗読など県内の詩の朗読会で活躍されています。また、香川や奈良のAWCイベントなど県外にも遠征されています。

また、友人の絵亜反吐(エアヘッド)さんと組んだユニット「OLDFLAG」では、「音響朗読」と名乗ってマルチメディアなアート活動もされています。 代表作に「地獄の唄」 があります。

また、ロシアの画家ヴルーベリ の「鎮座せるデーモン」 を連想させる詩「巨人の残像」 も掲載しています。
 
また、エッセイ「生き様、死に様に格差はあるか!?」 を掲載しています。
 
ホムラさんの代表作や新作は、下記のホームサイトをご覧下さいね!