2006年8月28日

可視幻想


「可視幻想 山村浩二 アニメーション+原画展」 (広島現代美術館 )を鑑賞しました。


「頭山」で有名な山村浩二 さんのアニメーション展でした。本当に多様な技法の様々な作品に驚かされました。一個人でこれだけたくさんの技法に実験的に挑戦、取り組んでいるアニメ作家は珍しいのではないでしょうか。次回作のカフカ「田舎医者」が楽しみですね!

さらに、この日はワークショップ「アニメーションの未来へ、山村浩二の注目する若手作家」と題して、トークと上映会が開催されました。若手作家として、大山慶 さん、和田淳さん、中田彩郁さんが登場されました。

上映された作品は、大山さんの「ゆきどけ」「診察室」、和田さんの「やさしい笛、鳥、石」「鼻の日」、中田さんの「舌打ち鳥が鳴いた日」「おばあちゃんの作業部屋」「ICAFアイキャッチ」、山村さんの「Fig」でした。

全体的な感想としては、「無限(ループ)」、「切り替り(ジャンプ)」、「変化(メタモルフォーゼ)」というキーワードが頭に浮かびました。

「鼻の日」では、場面の切り替りにとっても驚嘆しました!まるで夢のような性質です!この場面の切り替りはアニメでなければ表現できないと思います!また、作品全部が感覚で作られているので、他にも一杯感じるところがあってとてもおもしろかったです!

「ゆきどけ」では、アニメの中にそこだけリアルな目や歯を用いることで、現実以上にリアルに感じられました!また、ラストでシミ(?)が広がるところはサプライズでした!

また、トークでノルシュテイン監督 の言葉の引用が興味深かったです。
”ちゃんと人生を楽しんでないのでは?!”とのこと。


確かに多くの若いクリエイターに、活力というか、生き生きした歓びというか、いたずらっぽいユーモラスというか、それらの源となる何かが欠けている気がします。それは知性的にはなったけれど、野性を失ってしまったからかもしれないとも思いました。

このトークでも身体性が話題に取り上げられましたが、奇しくも富野由悠季 もごく最近の高橋良輔 との対談の中で身体性の重要性について熱弁を振るっておられました。

山村浩二 さんの取り組みは、商業アニメとはまた違った別の世界を私たちに見せてくれる可能性を秘めていると思います。コンピュータの進歩によって個人での創作が可能となった今、新大陸の道が開かれたように思います。今、多くの分野で新しいモノが出尽くした感が強くなっている中、まだまだ新しい可能性を秘めていると感じさせてくれるのは、これらアニメの世界だけではないでしょうか。今回のトークメンバーを含めて新たな創作グループを立ち上げられるとのこと、今後の更なる活躍に期待大です!

「第11回広島国際アニメーションフェスティバル」 も少しだけ覗くことができました。(もっと時間があれば・・・。)

外国人が多い国際的なイベントはやっぱり興奮しますね!

2006年8月27日

第6回詩のボクシング岡山大会予選


「第6回詩のボクシング岡山大会予選」を鑑賞しました。


総勢28名が予選突破を目指して6組に分かれて、3分間の詩の朗読に挑みました。

楠かつのり 氏と沖長ルミ子氏が審査した結果、岡山大会本大会出場者16名が選ばれました。

様々なスタイルの朗読を鑑賞できて、充実した楽しい時間を過ごせました。

他県を知らないので正しくはわかりませんが、
岡山県の「詩のボクシング」は、本当に層が厚いなあと思いました。
(高校野球漫画で地方大会が充実しているのと似ています。)


それから、朗読以外に楽しみなのは、朗読後の講評で楠かつのり氏と朗読者の対話です。

楠さんは、必ず揺さぶりを朗読者に仕掛けてきます。

虚を突くようなことを聞いたり、ワザと怒らせるようなことを言ったりして相手を挑発します。
(もちろん、それは悪意からではありません。むしろ、朗読者の魅力を引き出すためだと思います。)

そうすることで、朗読者の朗読モードではない顔を引き出そうとします。

(これは禅の公案に少し似ています。ただし、公案 は弟子をダブルバインド にまで持っていったりしますが。)


それは、朗読者のリアルを引き出そうとしているのだと思います。

バロウズ のいうところのネイキッドな本当の姿、むき出しのリアル、生々しいリアルなどです。
ただし、グロテスクな露悪趣味を追求しているわけではありません。
それは、生き生きとしたリアル、生命の輝きを求めているのだと思います。


(もちろん、朗読そのものが審査の対象であることには違いないとは思いますが。)

というわけで、「詩のボクシング」のもう一つの楽しみ、
楠かつのり氏と朗読者とのやり取りが、予選大会では見ることができました!

2006年8月22日

BODY


BODY                                              

小学校の南 住宅街に在る境内
見上げると くらくら 満開の桜
ざわざわ ざわざわ 風の路
ひらひら ひらひら 桜の花
揃えられた黒革靴 倒された脚立
ゆらゆら ゆらゆら 黒背広
ざわざわ ひらひら ゆらゆら

オフィス街に在る公園の砂場
赤黒い砂の上に 仰向けに横たわる全裸の女
見開いた眼 歪んだ口元 切り裂かれた腹部
へその緒で繋がる胎児の瞼の上で 小刻みに動く蝿
朱に染まる車の谷間は 写らない

月夜の2号線 ん 事故? 
駐車灯を点け左へ寄せ 懐中電灯手に現場へ 
歩く度に揺れるライトが アスファルトに光る何かを照らす
千切れた左手首 自己主張する赤マニュキア
ライトで浮かぶ横転した356スピードスター
砕けたフロントガラス 運転席には左手首の無い赤いドレスの女・・・

買い物客でごった返す 年末日曜昼下がり
デパートタクシー乗り場のベンチに 仰向けに横たわるホームレス男 動いてない胸と腹
通報したのか2名の警官が現れる 1名が話し掛け 他の1名が無線連絡
5分後 ノーサイレンで赤色回転灯を点けた救急車が到着
野次馬が見守る中 2名の救急隊員が後部ドアから担架を引き出し 男を乗せ収容
警官と業務連絡後 ノーサイレンで搬送
街は年末日曜午後の顔に・・・

生かされている 意識とは関係なく 決められたDNA
分裂する細胞 脈打つ心臓 乾く喉 滲む血・涙
かく汗 湧く唾液・欲望 減る腹 溜まる排泄物・精液 勃起する陰茎
伸びる体毛・爪 襲う睡魔 罹る病 
そして 朽ちる 肉体

2006年8月21日

岩本文秀さん


岩本さんは詩人です。

岩本さんの詩は恐ろしくエネルギッシュな詩です。

ズシリと腹に響く詩です。時にコミカルに、時に度肝を抜くド迫力で私たちの心に揺さぶりをかけます。和太鼓のビートに魂が撃ち抜かれるような激しい衝撃を私たちに与えます。はじめて岩本さんの詩の朗読を聞く方は腰を抜かしそうになりますので注意してください。聞いた後は自分の中に不思議な活力が生まれているのを感じます。

作品には、「蕃山町ブルース」や「昭和」があります。

また、大朗読詩誌「DOG MAN SOUP」の写真を担当されています。

このブログでは、「BODY」 を掲載しています。

岩本さんは、詩の朗読会「大朗読」 に出演されています。

2006年8月20日

mimucus 2006.8


詩の朗読会「mimucus 2006.8」 を鑑賞しました。
以下、感想です。

mabito君は、「夏について」を朗読されました。  
静寂を破って朗読がいきなり始まる。夏の思い出がコトバの断片(フラグメント)となって打ち出されてゆく・・・。フラッシュバックするように、夏の光景が心のスクリーンに映し出されては消えてゆく・・・。その断片は、楽しい思い出・悲しい出来事・不思議な間隙等々であったりする。次々と流れていく場面を、いつしか、ただ茫然と眺めている自分に気付く・・・。しかし、それも、いつかは終りを告げる。虫の小さな生命が気まぐれで殺傷されるように、「パタン!」と本が閉じられるように、それは唐突に終わる・・・。この詩の終わり方は禅みたいでとても良かったです!この詩は、夏のバーチャル臨死体験なのでしょうね。一見シンプルだけど、実はとても技巧的な詩だと思いました。作者の意図に、僕は、まんまと、そして心地よく乗せられたのでした。

へい太さんは、大蟻喰いに夫を殺された未亡人からのメールを題材にした読み語りでした。
 スパムメールなのですが、エロティックな文章よりも、「なぜ、大蟻喰いに殺されるの???」の方が気になる話なのでした。

みごなごみ先生は、「喋りつづける雨を背中に」を朗読されました。
言葉の語呂によって、意味が次々と転回してゆく不思議な渦巻きが頭の中に広がっていきます。まるで、Belousov-Zhabotinsky反応 に現れるスパイラルパターンに似ています。(sample )それでいて全くの支離滅裂にはならない不思議な首尾一貫性(セルフコンシステント)を感じさせるのです。今回の作品では、限りなく転回してゆく様は降り続く雨を喚起しました。


岩本さんは、「BODY」を朗読されました。
昨今は悲惨な事件がニュースで流れるので、とてもリアルに迫ってくるものがありました。そして、この作品で描かれているのは、荒ぶる自然としての身体でした。切り裂けば、臓物や血液がドバッと飛び出るグロテスクな生々しい身体です!そして、それこそがリアルな身体なのです!それはビートの元祖の一人、バロウズ が描いた「裸のランチ 」以来描きつづけられている、ネイキッドな、中身をさらけ出された、むき出しの身体なのです!



ホムラさんは、「一大事千差万別」他2編を朗読されました。
1篇目は、イデオロギーが生きていた時代からイデオロギーなき時代への移り変わりの中で、人々の虚しい変遷を描いているように感じました。シュプレヒコールに熱狂的に参加していた者が、今では自宅でTVゲームの瑣末な差異に明け暮れる、そんな虚しさを描いているように感じました。ポストモダン世代が現実に引っ掛かりを持てないという、フラットの虚しさ、リアリティの欠如を描いているのかもしれません・・・。2篇目は、やや内向する精神?を感じました。3篇目は、中也?を感じました。

それから、ホムラさん+絵亜反吐さんのユニット"OLD FLAG"が、9月22日(金)にPEPPER LAND でパフォーマンスされるそうです!とっても楽しみですね!

2006年8月13日

アルベルト・ジャコメッティ展


僕は失恋すると、少し離れた美術館に遠出する。

何故だろうか・・・。

人生の中で、川の流れが一瞬止まるときがある、青天に稲妻が一瞬走るときがある、という・・・。
そんな瞬間を求めて僕は美術館に向かうのかもしれない・・・。

そんなわけで気がつけば、兵庫県立美術館 に着いていた。
安藤忠雄 が設計した、そびえ立つコンクリートの高い壁が僕を迎え入れた。


美術館ではアルベルト・ジャコメッティ の展覧会が開催されていた。


ジャコメッティの作品はとてもシンプルだ。
針のように細長く引きのばされた彫刻、執拗に塗り込められた人物の肖像。
しかし、彼の創作は作品の完成ではなく、求道の過程を表している。


写真の発明以来、写実的であることに絵画は敗北した。写実を超えて描かれる対象物の本質を描くことに力が注がれることになる。それはセザンヌ以降の絵画の実験の始まりだった。

そんな実験の中でジャコメッティは「見えるがまま」に描くことを模索した。まるで愚直な修行僧のように・・・。
ジャコメッティの友人であり、モデルであり、良き理解者である矢内原伊作は次のようにいっている。

彼の仕事は見えるがままにぼくの顔を描くということだ。
見えるがままに描く、
この一見簡単なことを
しかし、いったい誰が本当に試みたであろうか。

ジャコメッティにとって、「見えるがまま」とはどういうことだったのだろうか?
それは、サルトル の実存主義がいうところの本質かもしれない。
あるいは、仏教でいうところの直観もしくは正見 かもしれない・・・。


きっとそれは、対象物を全く客観的に描くということ、つまり絶対的客観なんだろう。
しかし、相対論 的* にも論理学 的にも絶対的客観なんてありえはしない。

でも、ほんの一瞬だけ、暗雲の中から一筋の光の晴れ間が一瞬覗くようにして、
絶対的客観が現出するような気がしてならない・・・。

そんな瞬間を、主客合一する瞬間を秋山基夫 氏のオカルト詩の中に僕は見出したりするのだ。

それにしても、ジャコメッティは遂に見えるがままに描くことに成功しなかった。
でも、彼はそんなことを意に介さなかった。
彼はいう。

そんなものはみな大したことではない。
絵画も彫刻もデッサンも文章も文学も
そんなものは意味があってもそれ以上のものではない。
試みること、それが一切だ。
おお、何たる不思議のわざか。

彼はいつしか意味そのものを超越していたのかもしれない。

2006年8月6日

大原美術館


大原美術館 は東洋随一の私立美術館です。


大原美術館は本館、分館、工芸館、東洋館から構成され、数多くの収蔵品を展示しています。
たとえ、ひとつの国のナショナルギャラリーとしても、十分通用する収蔵品・名品の数々です。

収蔵品には、エル・グレコ、セザンヌ、ゴーギャン、ドガ、モネ、ルノワール、マチス、イヴ・クライン、フォンタナ、ポロック、イサム・ノグチ、ヘンリー・ムーア、ロダン、児島虎次郎、岸田劉生、棟方志功など名だたる芸術家の作品があります。

また、近代絵画だけでなく、前衛芸術まで展示されています。

さらに、中国、エジプト、イラン、ギリシア、ローマなどの古代美術や日本の工芸品なども展示されています。

まさに世界規模で文化遺産・美術品を広く収蔵しています。


これらは大原孫三郎 が残した貴重な遺産です。


彼はお金の使い方の達人でした。
労働、福祉、芸術、学術など多岐に渡る社会事業に財産を投じてきました。
本当に生きたお金の使い方といえるでしょう。

(孤児院を創設した石井十次 との出会いが、彼を大きく変えたようです。)


21世紀になって多くのアーティストが、アートとお金の関わりについて意識するようになりました。

村上隆の「芸術起業論」 のように、ビジネスを強く意識したアプローチもあります。

一方で、次のような宮沢賢治の「農民芸術概論」 が思い出されたりします。

ずゐぶん忙がしく仕事もつらい。
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい。
・・・・・・
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである。
・・・・・・
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した。
いま芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである。
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ。
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ。
・・・・・・
強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ。
・・・・・・
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである。
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である。

(宮沢賢治「農民芸術概論」 より抜粋)

今よりも厳しい時代にありながら、宮沢賢治はとても高い理想を抱いて実践していたことに驚かされます。

「農民芸術論」が書かれた時代は、作品に触れる機会さえも難しかったのかもしれません・・・。

でも、倉敷には大原美術館があります。


子どもたちが大原美術館のような美術に間近に触れられることは、とても貴重な体験だと思います。
子どもたちの感性を豊かなものにしてくれます。子どもたちの心を豊かにしてくれます。
すぐには成果は見えません。でも、心のどこかに蓄えられて豊かな人生の糧になると思います。

大原美術館は、先人が残したとても貴重な礎で、身近に触れられる私たちはとても幸せです。