2007年2月26日

キョウ暁青版画展 自言自語


龔暁青版画展 自言自語 」(whoite canvas )を鑑賞しました。

銅板による金属的なイメージと水墨のような微妙な滲みがクロスした作品たちでした。「沈浮」という作品では、漢字が大小に散りばめられたり、所々に黒い四角形があったり、タイトルからも漢字が前後に浮き沈みしているように感じられ、漢字版マトリックスのように想像してしまいました。また、「自言自語」(talk to myself)というタイトルからも、次のような妄想に耽ってしまいました…。

近代は、ニーチェ の言う神の死後に神の代わりを模索してきましたが、哲学も数学も物理学も世界を完全な体系として表現できなかったように思います。(*1) そして、現代は、システムという新しいタイプの神々が現れて、私たちの心を捉え始めたように感じられます。世界はリゾーム 状のインターネットに覆われ、結節点(ノード)では企業やコミュニティやソサエティなどを形成して、そこでは各々のシステムが働いています。ネット全体の全知全能の神は存在しないかもしれませんが、ノード毎にシステム(=神々)は存在しているように思います。(*2)

「システムは完全世界である。」 人々はそう思い始めているような気がします。今、システムは日々修正され強化されています。そして、いつか疑いもなくシステムに盲目的に従う日が来るかもしれません。また、振り返れば、ヒトの現実感覚は、狩猟民だった洞窟のリアルから、農村のリアル、都市のリアルへと変遷してきましたが、いまやネットのリアルへと変わろうとしているように思います。ヒトが生きることのリアルをシステムのポイント(=マネー)に感じる、そんな世界になろうとしているように感じます。(*3)

確かにシステムは人間を越えています。(*4) 人間には決定論的に予測できなくても、システムはシミュレートして、より正確な予測を可能にしています。デルフォイの神託 のようにシステムの回答は信憑性がとても高くなってきました。いずれ気候や株価だけでなく、司法や軍事や人生など全てについて私たちに最適な助言をしてくれるようになるでしょう。(*5) また、音楽や小説などの創作も可能になるかもしれません。(*6)

また、電子マネーや知財情報だけでなく、日記や広告など私たちの無意識までもその網の目の中に捕捉しようとしています。(*7) たとえ、欲望と倫理がせめぎ合ったとしても、ネット空間は無限なので、あらゆる可能世界はネット空間のどこかで実現されると思います。倫理に関係なくお金さえあれば、欲望は望めば実現可能となるように思います。(*8) そして、システム化の流れは資源が無くならない限り、もう誰にも止められないとも思います。

しかし、システムは現実でしょうか?例えば、あるドキュメンタリー映画の中でアフリカに物資を運ぶ輸送機のパイロットが医薬品と兵器を同時に運んでいるという話がありました。(*9) 彼らはシステムに従っているだけで娘思いの普通の人達でした…。 ところが、9.11が起こったとき、私たちはいきなり後ろからハンマーで頭を殴られるような衝撃を受けました。私も輸送機のパイロットと同じようにシステムに従っているだけで、何か悪いことをしているという自覚はありませんでした。しかし、自爆してまで私たち西側世界を憎む人たちが世界には居ました。もしかすると、知らず知らずのうちに壊してはいけないものを壊していたのかもしれません。システムは私たちに完全な世界を見せていましたが、それは幻想だったのかもしれません。自分の自由意志を持っていると思っていましたが、実は私たちは「マトリックス 」の住人のように、いつしかシステムの家畜になっていたのかもしれません。(*10) しかし、一体何を信じて、どう考えればよいのでしょうか。無限迷路のようなシステムからどうすれば抜け出すことが可能なのでしょうか。

そんな憂鬱な妄想にとりつかれていると、「自言自語」というこの展示会のタイトルから、希望の星のように仏哲学者ミッシェル・フーコー のことが思い出されました。

フーコーは、スキンヘッドでまるで宇宙人のような風貌でしたが、彼の頭脳もまた宇宙人のように感じられます。彼は構造主義 の極限を突き進んでいたように思います。彼は分析対象を俯瞰、さらに鳥瞰と、恐ろしく外へと外へひいて見ることができました。その結果、まるで大気圏外までジャンプしてヨーロッパ大陸を一望するように、西洋の知の枠組み(エピステーメー )を捉えていました。いわゆる「外の思考」です。システムに対しても「外の思考」で捉えることができるかもしれません。

ところが一方で、晩年、フーコーは「性の歴史」を通して、自己へ自己へと大きく内側へと志向してゆきます。今までは外へ外へとジャンプしていたのが、今度は内へ内へとダイブするようになっていきました。彼は自己を形成しているモノを見極めようとしました。そして、彼は「自己のテクノロジー」というものに考え至ります。しかし、残念ながら、彼はエイズに斃れて仕事は未完に終わります。

フーコーが「自己のテクノロジー」で目指したものは何だったのでしょうか?内への探求では、自己を形成しているものをどんどん剥ぎ取っていきます。人間が自然に生まれ持っていたものではない、枠組みの中で着せられた心の上着をどんどん引き剥がして行きました。例えば彼はゲイでしたが、人は一度はゲイになるべきだと言っていました。それは現在の性をいったん全部脱ぎ去ることを意味していたように感じられます。自分のものだと思っている性も実は文化的枠組みの中で着せられた上着に過ぎないと考えていたのではないでしょうか。この試みはアイデンティティを見つけるというのとはちょっと違うと思います。これはアイデンティティをも引き剥がす、もっと激しい行為のように思います。自己の探求というより自己の改造というくらいの激しい試みに感じられます。彼は最終的に一体何を目指していたのでしょうか?どこへ辿り着こうとしていたのでしょうか?

そんなとき、オーストラリアのSF作家グレッグ・イーガン の小説「ディアスポラ 」の主人公の冒険が思い出されます。冒険の末、外へと向って宇宙の果てに辿り着いたとき、主人公が自分の内面(「真理鉱山」)にダイブして見たものは何だったのか。彼が見た自己とは何だったのか。フーコーが目指していたのは、まさに、こういうコトだったのではないでしょうか。
フーコーは言います。

私が何者であるかおたずね下さるな、
同一の状態にとどまれなどとは言って下さるな。

(フーコー「知の考古学」序論より抜粋)

フーコーとは何者なのか?何者だったのか?

自己のテクノロジーを施したとき、そこに何を見出したのでしょうか。

さて、フーコーは「外の思考」と「自己のテクノロジー」を残してくれました。ぼんやりとですが、分かるような気がします。そして、今、ネットという無限の海で漂流するとき、システムという出口も外部も見えない世界に閉じ込められているとき、足場も無く何を信じればいいか分からない世界にいるとき、フーコーが残してくれた、これら”知的道具”は私たちの道を切り開いてくれるように思います。

さてさて、こんな、支離滅裂なSF妄想を自言自語しながら、展覧会場を後にしたのでした…。


*1 数学の不完全性定理 、物理学でのミクロとマクロで統一理論 が出ていないことなどから。

*2 映画「マトリックス」の中で、トレインマンというプログラムが「ここではオレが神だ!」と言って、ネオを殴り飛ばすシーンが思い出されます。

*3 ニーチェの言う神と同じように、マネーにも姿形はなく、光速でネットを駆け巡り、人間にだけ価値が認められるというのは、皮肉な類似のように感じられます。

*4 チェスで人間の名人がコンピュータ・ディープブルーに負けた話を思い出す一方で、羽生善治 の言葉「人間のレベルが大したことがないと思いますので。いまの人間のレベルが2パーセントくらいではコンピュータに凌駕される可能性もあると思います。人間のレベルをもっと高めないとダメです。」(「羽生 21世紀の将棋」より)が興味深いです。

*5 神林長平 「戦闘妖精雪風 」の中で、軍指令本部が、作戦計画についてセントラルコンピュータの回答を意思決定の参考にしているのが思い出されます。また、アニメ「攻殻機動隊2ndGIG 」の中で、裁判所で裁判長の前に置かれていた3台のコンピュータが膨大な判例を検索・集計して評決しているのが思い出されます。

*6 複雑系科学者の金子邦彦が書いたSF小説「進物史観」では、コンピュータに物語を作らせる人工物語システムが登場します。とてもおもしろい結末を描いているのが思い出されます。

*7 広告などは人々の無意識下の欲望を掻き立てるメッセージとして、あらゆる場所、あらゆる手法をとって出現しはじめました。

*8 バーチャル世界では、あらゆる欲望を可能にするように思います。倫理的に規制された世界を望む者にはそれを、欲望が開放された世界を望む者にはそれを用意すると思います。そして、ニーチェが「善悪の彼岸」で言ったように欲望を抑制する根拠=倫理の正当性は全く無くなるように思います。根拠を国家に託すことがあるかもしれません。そんなとき、秘密警察の台詞を思い出します。秘密警察は反逆者に対して、「おまえの生命など国家の前では無に等しい」と言ったりします。数式で表すと、


になるような気がします。全国民に対して1人あたりの価値は本来全国民分(1億2千万人分)の1ですが、ナショナリズムや社会主義などは、国家に対して無限大の価値を与えるので、xは無限大となり、「国家の前では一市民の価値は無に等しくなる」のだと思います。神を無限大に定義する宗教と同じような構造に感じます。

*9 (未見なのですが)「ダーウィンの悪夢 」はドキュメンタリーらしいですが、恣意的な編集で真実を歪めているとの批判もあるようです。そのことを知ったのもまたネットによる検索からでした。

*10 「マトリックス」のサイファーのように幻想を現実として受け入れたり、幻想と知りながら幻想に生きることを受容するのは、ニーチェのいうニヒリズムかもしれません…。ただ、システムは概して不完全で方便だという東洋的な感性はあるかも(^^ゞ

*11 ウォシャウスキー姉弟の「マトリックス」やスピルバーグの「AI 」など人間をはるかに凌駕した人工知能を想起します。 「AI」の進化したロボットなどは、人間よりも遥かに慈悲深く理知的で優秀な存在です。いかに人間が愚かな存在なのかをこの映画では見せつけられます。また、本当にマトリックスのように被創造物であるシステムにヒトが支配される皮肉な未来が来るのかもしれません。ある意味、システムは死を超越した新しい生命の進化形態といえるかもしれません。また、未来学者のアルビン・トフラー が21世紀は人間の再定義の時代になると言っています。サイバーパンクな時代が到来するのかもしれません。クオリア の研究が進めば、意識とネットが繋がるかもしれません。次のようなハイデガーの言葉が思い出されます。

時に、近代人は、自分自身を技術的に製作するという目的に向かって
まっしぐらに突進しているかのような観を呈する。

ハイデガー 「ピュシスの本質と概念について」より抜粋)

2007年2月25日

今崎順生個展

今崎順生個展 ”Current” 」(slogadh463 )を鑑賞しました。

とてもクールな作品でした。車窓から見た雨のアスファルトのようなヴィジョンでした。高速でもスローでもない日常的なスピードから見た景色のように感じられました。雨や風の線がどこか現代社会の生を象徴しているように感じられました。ただ、出口の無い深刻ぶった暗さでもなく、かと言ってあっけらかんとした明るさでもない、しっかりとした大人びた力強い視線を感じました。現代社会を浮き足立った高速で駆け抜けるのでもなく、殺伐とした現実に弱く停止してしまうのでもない、大人のしっかりした足取りを感じました。例えば、同じモノクロでも水墨画と比べると、エッジの立った線、静謐さよりは悲愴さ、流麗さよりは透徹さを感じました。どこか知的なユダヤ的なモノクロを連想します。

そんな想像に浸るとき、ひとりのユダヤ人哲学者のことを思い出します。ジャック・デリダ です・・・。

彼もハイデガー に引き続いて神が死んだ後の哲学を模索しました。しかし、彼もまた言語による完全な形而上学の構築は不可能だと考えていたようです。

哲学は昨日死んだのだ。
ヘーゲルとかマルクス、あるいはニーチェとかハイデッガー以来息絶えているのだ。
そして現になおも、哲学はその死滅にむかってさ迷っているにちがいあるまい。
・・・・・・
哲学はある日、歴史のなかで絶命したのだ。

(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)

このような認識から彼は、死を隠蔽してきたロゴス中心主義を批判して、解体 (=再構築・誤読)という戦略を実践します。解体は創造と破壊が表裏一体となった戦略でした。テキストを解体(=再構築)することで新しい可能性を創造すると同時に硬直した読解を揺さぶり、解体しました。結果、言葉の微分マシンのようなデリダは、形而上学を悉く砂粒まで解体することになりました。時々は砂粒が種子となって瓦礫となった哲学の土くれから新しい芽が芽吹く可能性(散種 )もあったかもしれません・・・。彼はまるで現代哲学のモーゼ でした。ロゴス中心主義からエクソダス(出エジプト)して、エルサレム(=完全形而上学)を目指して砂漠に人々を導いて行くような行為でした。ただ、ちょっと違うのは、約束の地エルサレムは見えることなく、ひたすら不毛な砂漠を突き進む解体ばかりでした。そんな、世界が砂に埋もれてもなおエジプトを捨て砂漠を突き進む悲愴なエクソダスを想像するとき、まるでデリダ自身の述懐であるかのような、次のような詩の一節を思い出します。


何に 向かって 彼は突進しないのか?
世界は消えうせている、私はおまえを担わなければならない。


(デリダ「雄羊」から パウル・ツェラン 「大きな、赤熱した穹窿」より抜粋)

一方、もう一人のユダヤ人哲学者レヴィナス を想起します。彼は根底に無限を持ち込もうとしたようです。主著「全体性と無限」や「存在の彼方へ」を著しますが、難しいことはよく分かりませんが、同心円を描いて中心や外周に無限や無を据えたエーン・ソーフをモデルにしているように感じてしまいます。彼は、まるで幾重にも円周を重ねて無限のスパイラルを描くように、ひたすら思想や倫理を持続して説いてゆきます。レヴィナスは完全な形而上学を構築するというよりは、「砂嵐のような文体」でユダヤ教的思想を無限の回廊を歩むように実践・展開・持続することに意味を見出したように思います。次のような言葉を思い出します。


思考の円環を完成できると確信していたヘーゲルのごとき総合の天才なら、
このような楽観論に身を委ねることもできよう。
・・・・・・
つまり哲学的言説が閉鎖しうる可能性についても考えてみなければならないのではなかろうか。
中断、それが哲学的言説にとって可能な唯一の終末ではなかろうか。
・・・・・・
ヘーゲルの企てさえ、"現実"を囲い込むことができると思い上がっている無思慮を免れてはいない。


(レヴィナス「存在の彼方へ」便概より抜粋)

そんなレヴィナスに対して、デリダは最終的な問いを投げかけます。

「われわれは、ギリシャ人か?ユダヤ人か?」

(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)

それにしても、この2人の人間離れした無限運動のような、でも決して単調ではない、根気強い哲学的アプローチには驚嘆してしまいます。そして、デリダの解体戦略は多くの種子を砂漠に撒き散らしましたし、レヴィナスの不断の哲学道的歩みも渦巻くように伝播しました。彼らの撒いた種子が、本人たちの想像を遥かに超えて、まったく新しい可能性として、いつか芽吹く日が来るのかもしれません。種子たちは、今はただ、その時が来るのを殻の中で息をひそめて待っているのかもしれません・・・。


しかし、神も哲学も失くしてしまい、ニーチェ の提示した問題が残ってしまいました。現代に至っては、ニヒリズムルサンチマン などが、私たちの精神を奥深くまで侵食しているかもしれません・・・。でも、西洋哲学の死を見つめ続けてきたデリダは言います。

この、哲学の死とか死の運命の彼方で、
あるいはたぶんまさにその死とか死の運命のおかげで、
思考には未来があるのだ。

(デリダ「暴力と形而上学」より抜粋)

もしかしたら、これらの作品で描かれている道の先のように、未来があるのかもしれない。
そんな想像をしながら、この作品を見つめていました・・・。

2007年2月19日

倉岡一誠展 ROCKET

倉岡一誠展 ROCKET 」(slogadh463 )を鑑賞しました。

白い丸いタイルをテクスチャに赤紫っぽい色で所々を染めた作品でした。何かの痕跡のように感じました。霊的な何かが通った痕跡、あるいは、まったく逆に、バスルームを連想するタイルで何かが殺された血痕のようにも感じました。そんなことを想像していたら、”神の死”について朦朧と妄想していました…。

近代の始まりにニーチェ は「神は死んだ」と宣言しました。それは、産業革命によって列車で通勤して工場で働くといった近代社会が始まって、当時の人たちも今の私たちと同じように神を信じなくなったり、必要としなくなったりしたからだと思います。(これは日本に当てはめると「自然は死んだ」と言うのと等しいかもしれません。)人々の心から神(=自然)への畏敬の念が消えてしまったことで、この時代の人たちのメンタリティが過去の人たちと比べて大きく変わったようにニーチェには感じられたのかもしれません。そんなとき、次のような詩を想起します。

氷の心を持つ偽善者ら、神々を利用してその名を口に乗せるな!
君らは悟性は持つだろう、だが太陽神の存在を信じることはない、
雷神も、ましてや海の神にいたっては。
大地が死ぬとき、誰が死の大地に感謝しよう?

心安んじあれ 神々よ! あなたがたはそれでも歌を飾ってくれる、
たとえあなたがたの名前から 魂が姿を消してしまったときですら、
さらに偉大な言葉が必要と言うのなら、
母なる自然よ! あたなを想い見るだけでよいのだ。

ヘルダーリン 「偽善の詩人たち」より抜粋)

神々と歌ったりして汎神論 云々と論じてみたくなるかもしれません。でも、ヘルダーリンを好んだ哲学者ハイデガー は彼の詩を宗教や哲学で解釈することを拒みます。解釈するのではなく、心で感じることを重視したようです。(どこか本居宣長が漢籍や仏典の知識で解釈することを戒める「もののあわれ」を説くのに似ています。)ハイデガーは人々からこういった詩を心の奥深くで感じて理解する心が失われてしまうのではないか、人々が表面上は敬虔であっても内面は「氷の心を持つ偽善者」になってしまうと考えたのかもしれません。だから、解釈してうわべの説明に安んずるよりも感じることを重んじたのかもしれません。

しかし一方で、ハイデガーは神が死んだ後の哲学を考えたようです。当時の哲学はほとんど神を土台に据えていたので、これからは神無しで哲学を再構築しなければならないと考えたのでしょうね。なので、まったく神が登場しない哲学を再構築しようとしたのだと思います。そこで、まず、根本的な事柄、”存在”を再度考え直そうとしたのでしょう。それまでは、「存在=神」でしたが、神が死んでしまった今、存在を再定義しなければならなくなったようです。そして、「存在と時間 」を考えましたが、神無しでの哲学の再構築はうまく行かなかったようで、主著「存在と時間」は未完に終わります。ハイデガーは存在について考えているうちに、次第に形而上学に対して微妙な不信を抱いていったように思います。「言葉は存在の家である」と言うほどにハイデガーは言葉を信じ愛していたのですが、言葉で形而上学を完全には構築できないのではないかと感じていったのではないでしょうか。「ある=存在する」という言い回しが複雑にしていますが、語りえぬことを語る詩を愛したハイデガーの次のような言葉が思い出されます。


展示されている芸術作品とはいったい何であるのかという、
講演で提起した問いは、まだ全面的に納得できるほど明らかでないように思えます。
この問いの背後には、
そもそも芸術作品はあるのか、という問いが潜んでいないでしょうか。
それとも、芸術は、形而上学ともども崩れてゆくのでしょうか。

(ハイデガー 弟子ペツェット宛手紙より抜粋)

ちなみに、 では「言無展事」といって、言葉は存在をあるがままにすべてを表現することはできないと言い切っています。不立文字というように言語に対する力強い不信がそこにはあります…。

さて、ニーチェのいう神が死んでしまったのは何となく納得できます。でも、私たち日本人にとって、現代においてもなお自然は死んでいません。ただ、ここでいう自然は神と似たようなカテゴリにある言葉のようにも思います。今なお生き続けている自然と日本人の無意識はとても深いところで繋がっているようです。というのも、たとえ、存在が謎に包まれていても、自然と切り離されて文明社会で生きていても、経済活動に思考も行動も束縛されていても、今なお自然が語りかける声を聞くことができるからです。それは、得体の知れない何かに対して私たちの心が開かれているからだと思うのです。コンピュータのようなロゴス中心主義的な二元思考だけではない、非論理的な思考ならざる思考回路が開かれている、そんな気がします。

2007年2月18日

東島毅展

東島毅展 」(岡山県立美術館)を鑑賞しました。

深い紺青の宇宙空間に光が走ります。この光は生命の光、粘りのある光のように感じられます。この光には意志の力を感じます。これはインド哲学でいうところのプラーナ なのかもしれません。ジェームズ・タレル や島村敏明などの光の探求者を思い出します。

この光からは、この宇宙に生み落とされた光が外へ外へと伸びゆこうとしているように感じられます。まるで生命の光にも似ているように感じられます。個体の遺伝情報を背負った生殖細胞は、性行為によって受胎して爆発的な細胞分裂を展開して、新たな個体へと成長してゆきます。そこでは物質に閉じ込められた光が物質を所狭しと外へ外へと伸び開こうとしているように感じられます。そのとき、光は物質を巻き込みながら組織化して個体として成長してゆく、そんな風に感じたりします。そんな想像をするとき、ここに描かれた光には物質性を離れた生命本来の純粋清浄な光のように感じます。

あるいは、夢の中で見る心や存在の本質の光のようにも感じます。それは、どこかで外宇宙へと繋がっているかもしれない内宇宙の闇の中に浮かぶ光陰のようにも感じます。

さらに、紺青の闇の中から光の文字が浮かび上がってくるヴィジョンからは、次のような空海 の真言哲学 の言葉を思い出します。

五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり

(空海「声字実相義」より抜粋)

存在の無底の底から顕現する法身説法や「存在はコトバである」という果分可説な真言の深秘を想像してしまいます…。

また一方で、存在の根底の場であるような紺青の宇宙空間からカバラ の存在停止の闇を想起したりもします。


神は闇をもて己れの隠処となし給う。
まわりを取り巻くは、深き水の暗さと大空の密雲のみ。

(「旧約聖書 詩篇18篇11節」より)

カバラでは、この存在停止の闇は”光り輝く暗黒”という内的光に充ちているといいます。そして、この目眩む闇である内的光エーン・ソーフの中から一滴の光の雫、原初の一点を滴らせてセフィーロート が展開してゆくといいます…。どこか次のようなボルヘス の言葉を思い出したりします。


あるペルシア人は神性を表すために、
ある意味で全ての鳥である一羽の鳥について語っている。
リールのアランは、中心がいたるところにあって円周がどこにもない球体について語り、
エゼキエルは、同時に東西南北を向いている四つの顔を持つ天使について語っている。
・・・・・・
その途方もなく大きな瞬間において、私は心楽しい、
あるいはぞっとするほどの恐ろしい何百万という行為を目にした。
しかし、何よりも驚いたのは、すべてが重なり合うことも、透明になることもなく
ひとつの点に収まっているということであった。私はすべてを同時に見た。
言語は継起的なものなので、私がここに書き写すものもそうならざるをえないが、
それでも多少はとらえることができるだろう。
・・・・・・
エル・アレフの直径は2、3センチメートルだったと思うが、
その中に宇宙空間がそのままの大きさですっぽり収まっていた。
一つ一つの事物が(いわば鏡面のように)無限になっていた。
というのも、私は宇宙のあらゆる視点からそれをはっきり見ていたからだった。
私は大勢の人でごった返している海を見た、夜明けと黄昏を見た、
アメリカの群集を見た、黒いピラミッドの中心にある銀色のクモの巣を見た、
壊れた迷宮を見た、鏡を覗き込むように私の様子を窺っている無数の目を間近に見た、
地球上のすべての鏡を見たが、そのどれにも私は映っていなかった、
・・・・・・
あらゆる角度からエル・アレフを見た、エル・アレフの中の地球を、
ふたたび地球の中のエル・アレフを、エル・アレフの中に地球を見た、
自分の顔と内臓を見た、君の顔を見た、私はめまいを覚え、泣いた、
というのも私の目は人間によってその名を不当にも奪われはしたが、
誰一人実際に見た人のいない秘められた推測上の物体、
すなわち想像もつかない宇宙を見たのだ。
私は限りない崇拝の念、限りない哀れみを感じた。


(ホルヘ・ルイス・ボルヘス「エル・アレフ」より抜粋)


また、これらの紺青は、岡野玲子の「陰陽師 第11巻白虎」やイブ・クラインらの青にも通じるような気がします。

さてさて、このように「東島毅展」からは、言葉を覚える以前の遠い昔に忘れてしまった存在の根源の場に出会える、そんな貴重な体験を感じさせてくれる展覧会でした。