2009年12月12日

ケイト・ウィンスレット その6


■「グッバイ・モロッコ」(原題「Hideous Kinky」) ギリーズ・マッキノン監督(1998)
この映画は、二人の子供を持つシングルマザーがモロッコで自分探しをする旅の物語です。原作はエスター・フロイドの「郷愁のモロッコ」ですが、映画は原作とは違った独自の物語展開になっています。(*1)

■あらすじ
ジュリアは不倫の苦悩からモロッコへ自分探しのためにやってきます。ジュリアにはビーとルーシーの二人の子供がいます。ビーはよく気のつく利発なお姉さんでルーシーは自作の物語を語れる感性豊かな女の子です。ジュリアはモロッコでのヒッピー生活を楽しんでいますが、二人の娘は不便さに不満を募らせています。そんな頃、大道芸人のビラルと出会います。ジュリアはすぐにビラルと恋仲になります。ジュリア親子とビラルは楽しく家族づきあいをするのですが、ジュリアへの仕送りが止まってしまい、ジュリアはお金が無くなって困ってしまいます。その頃、ビラルも仕事を失ってしまいます。

そこでジュリア親子とビラルはビラルの故郷に行くことにします。ところが、いざビラルの故郷に着いてみると、ビラルの妻が帰ってきていました。実はビラルは既婚でした。ビラルは故郷にいずらくなって逃げ出すようにジュリア親子と故郷をあとにします。湖畔でキャンプしますが、すぐに食料もなくなってしまいます。ビラルが苦心して食料を手に入れるのですが、食料が腐っていて子供たちは酷い目にあってしまいます。また、この旅行でジュリアとビラルの間には考え方や文化の違いによるすれ違いが見えてきます。ジュリア親子はビラルと別れてモロッコに帰ることにします。

モロッコについてジュリア親子はお金が無くて途方にくれるのですが、偶然、出会ったジャン・ルイ・サントーニという紳士に助けられます。ジャンの好意で宿泊場所を得たジュリアたちでしたが、ジャンの連れと気が合いませんでした。ジュリアはお金が届いたので、スーフィーに会いにアルジェに行くことにします。しかし、ビーは学校に行って勉強したいのでここに残ることにします。

ジュリアとルーシーだけでヒッチハイクでアルジェに向かいます。なんとかヒッチハイクでアルジェに着いたジュリアたちはスーフィーの高僧に会えることになります。ただし、最も偉大な高僧はすでに他界しており、後継者の高僧に会います。ジュリアが悟りの道を尋ねたので、高僧は修行に入れるかどうか、ジュリアの置かれている状況の質問をジュリアにしてゆきます。そこでジュリアはその高僧に涙ながらに本当の自分の境遇、自分は正妻ではなく不倫していることを打ち明けます。その夜、ジュリアはビーの夢を見ます。ジュリアはビーのことが心配になり、モロッコに帰ることにします。

ところが、帰ってみると、ビーが行方不明になっていました。慌ててあちこちを捜して、キリスト教の施設にいることを突き止めて、ビーを迎えに行きます。ところが、施設に着いてみると、ビーの様子がいつも変わっています。どうやら施設の寮母の影響で人が変わってしまったらしいのです。ジュリアはその施設に逗留しますが、そこで寮母とジュリアは些細なことで喧嘩になります。しかし、ジュリアは激しい怒りを表わして寮母から再び以前のビーを取り戻して、モロッコのアパートに帰ります。

その頃、アパートに観光の仕事に就いて民族衣装で正装したビラルが訪ねてきます。皆で再会を喜びますが、喜びも束の間、ビーが急病で倒れてしまいます。診察してもらった医者によると病気が重いので、すぐに英国に帰るように勧められます。しかし、帰れるだけのお金も無く、ビーの容態もどんどん悪くなってジュリアは困り果ててしまいます。それを見かねたビラルが観光用の正装を勝手に売ってロンドン行きのチケットを用意します。しかし、モロッコでは泥棒は重罪なので、ビラルはモロッコから姿をくらまします。ジュリア親子はビラルの好意に感謝しながら、モロッコをあとにしたのでした。

■ヒッピー母さん”ジュリア”
この映画は英国人女性ジュリアのヒッピーの物語です。ジュリアには2つの悩みがあります。1つは不倫の悩みです。子供たち二人は気付いていませんが、ジュリアは正式な妻ではなく、不倫相手です。もう1つの悩みは自我の悩みです。ただ、具体的にどういった自我の悩みかは映画からは分かりませんが、ともかく悟りを開くためにモロッコのスーフィーに会いにゆくと決めたのは確かです。時代設定が1972年ですので、ジュリアは60年代の米国から始まるヒッピームーヴメントの欧州版といったところでしょうか。映画でもジュリアたち以外に欧州各国からモロッコに来たヒッピーたちが描かれていました。当時のヒッピーたちは東洋思想にかぶれて、仏教やヨガやスーフィーなど様々な修行を試みていたようです。ジュリアも原作ではヨガにこっていたり、易経を携えてモロッコに来たりしています。原作で面白かったのは、ジュリアは最初はスーフィーに興味はなく、モロッコに来てからつい最近になってスーフィーに興味を持ったことでした。なんともミーハーな関心の持ち方です(笑)。ともかく、ジュリアをはじめ当時のヒッピーは物質文明に批判的で、かわりに内面を重視する精神世界に憧れていました。ですので、ジュリアの悟りを求める旅もヒッピーの常道だったと思います。(*2)

■ジュリアの旅
それで、このジュリアなのですが、二人の娘の母親なんですが、ヒッピーをやっていて、母親としては非常にいいかげんな感じなのです(笑)。ジュリアよりは娘のビーの方が常識人です。ですから、観客はあまりジュリアに共感しないかもしれません。どちらかというと、ビーに同情してしまいます。ですが、このジュリア、肝っ玉母さんというほどのドッシリ感はないのですが、何というか、それなりに、懸命に、賢明に?、自由に生きていくんですね。見てゆくうちにジュリアの不思議な力強さに惹きつけられてゆきます。ジュリアは特別な人間ではなく普通の人間なので、ときに不安や恐怖にかられますし、お金が無くなって住むところを失くしてしまって、子供たちの前で泣いてしまい、逆に子供たちに慰められたりするというダメっぷりも見せたりします。ですが、人間の心として大事な所は、このジュリアは折れないんですよ。説明が難しいですが、普通なら苦難によって心が曲がっちゃうんじゃないかと心配になるんですが、このジュリアはどんなに苦境にあっても心の大事なところは曲がらないのです。いや、ダメなところはダメなところで一杯持っているんですけどね。例えば、映画も終盤になって、せっかくビラルが用意してくれたロンドン行きのチケットを貰ったのに、ジュリアは娘たちに「これでロンドンに帰れるけれど、どうする?あなたたちが帰りたければ帰るわよ?」なんて、自分ではまだ踏ん切りがつかずにいます(笑)。どう考えても、この状況ではロンドンに帰って然るべきだろうに(笑)!子供たちもやや呆れ顔です。ですが、不完全なところもたくさんありながら、このジュリアがちょっと憎めないですね。案外、こういう生き方も良いんじゃないかって、最後にはユルく思えてきます。

ただ、女友達のエヴァから「あなたの旅は終わったのよ」と言われたときは、さすがにずしんと重いものがありました。子供を持っているジュリアはいつまでも旅を続けられないという苦々しさが伝わってきます。そして、ロンドンに帰る列車の中でモロッコを見つめるジュリアの目はどこか厳しい真剣な目をしています。そして、スーフィーの高僧から言われた言葉が回想されます。「たとえ、道が閉ざされていようとも、秘密の道が開かれる」と。ロンドンに帰って普通の生活に戻ってしまっても、生活に明け暮れる暮らしになっても、悟りの道は開かれるかもしれないという意味だと思います。ジュリアの旅は終わった。でも、子供たちの犠牲になって自分の自由は諦めるのではなく、子供たちを育てながらでも、ジュリアの自由への道は開かれる可能性はあるのだとジュリアの曲がらない心は希望を捨てないのだと思います。それは健全な心なのではないでしょうか。「大人になる」ということで、自由を諦めてしまっては人間の心は萎んでしまうのではないでしょうか。きっとジュリアの心はいつまでもその生き生きとした輝きを失わないのだと思います。

■ヒッピーという生き方
ここでヒッピーという生き方について考えてみます。とはいえ、ヒッピーと言っても様々なタイプがあるので一概にこうだとは決め付けられません。ここでは、あくまで私個人の私見に基づいたヒッピーという概念についての話であることを最初に断っておきます。

さて、「ヒッピーとは何か?」というと、私の考えでは、大きく2つの要素があると思います。1つは社会からドロップアウトすること、もう1つは悟りを開くために修行することだと思います。それぞれについて説明してゆきます。

■ドロップアウトの道
なぜ、社会からドロップアウトする必要があるのでしょうか?それは社会の中で生きることに心の束縛を感じるからだと思います。そして、そのまま社会の中で生き続けることは、いずれは心が死んでしまうと恐れるからだと思います。そのため、そこからいったん抜け出すためにドロップアウトするのだと思います。

では、ドロップアウトした後はどうすれば良いのでしょうか。主に次の3通りがあるのではないでしょうか。①コミューンという彼らの家族的・部族的な小さな共同体を作る、②宗教団体のような導師を中心として共同体を形成する、③雲水やイスラム僧のように、あるいは、ジャック・ケルアックのように個人(or家族)で放浪の旅をする、の3つがあると思います。次にそれぞれについて考えてみます。

はじめに、①のコミューンは自給自足であったりビジネスを始めたりしてやりくりしようとします。しかし、その多くはあまり長く続かなかったと思います。次に、②の宗教団体は葬式などの儀式によってお金を稼いだり、信者の寄付によって成り立っています。教団内ではそれなりに厳しい戒律で暮らしているのかもしれません。しかし、人が集まって共同生活を送れば、それなりに内部ではストレスが生じると思います。また、カルト化して暴走する団体もあるでしょう。最後に③の放浪は先々での仕事や物乞いや托鉢で生計を立てると思います。ほとんど浮浪者と変わらなくなってしまいます。以上の他に貯蓄を取り崩して生計を賄う方法がありますが、貯蓄が続く間だけ可能なので、無限定に持続可能というわけではありません。(*3)

以上のように、現代では、社会の外部に出るドロップアウトは永続的に持続するのが困難です。ですから、多くの人々は社会の外部に出るよりは一生の間、ずっと社会の内部にとどまることを選択していると思います。でも、本当にそれで良いのでしょうか?

ドロップアウトについて直接書かれたものではありませんが、ユニークなライフスタイルで、1930年代に書かれた英国のSF作家ステープルドンのSF小説「最後にして最初の人類」に描かれたものがあります。この小説自体は人類が死滅するまでの未来の歴史を描いたものなのですが、その中の未来のある時代では、社会の内と外の2つの世界を往来する未来社会が描かれています。描かれているのは人類が成熟した遠い未来の話で、人間は進化と遺伝子操作によって寿命がなんと3千年にまで延びているという設定の話です。この時代の人間たちは一度は絶滅した自然の生き物が生息する”野生大陸”なるものを作り、一時的に文明生活を離れて、この”野生大陸”で文明の利器を一切使わずに、野生のままの自然な生活を楽しむというものです。

この野生大陸へと、あらゆる年齢層の個人が、何年間も文明の助けをまったく借りずに
原始人の生活を送るために出かけていった。
高邁な人類たるもの、芸術と科学に一身を捧げるにしても、
原始のものと絶えず接触するための格別の処置を講じなくてはならぬと
理解されていたからである。
かくして野生大陸には、火打ち石や骨、
あるいは一致協力して苦労の末に大地から獲得した鉄で身を固めた野蛮人が、
常に点々と暮らしていたのである。
これら志願原始人たちは狩猟や単純な農耕に精を出していた。
わずかな余暇は、芸術と瞑想、
そして原始の人間としての醍醐味を満喫することに費やされた。
実際これら知的な人びとは、定期的に苦難と危険を自らに課したのだった。
そしてもちろん、それに強い興味を抱いてはいたが、
その苦難を恐れたり、生還できないのではないかと怯えることも多々あった。
危険はまさに本物だったからである。
・・・・・・
(野生大陸の)これらの生き物には、原始的な武器だけでは人間も恐れて当然の
獰猛きわまりない肉食獣も含まれていた。
したがって、野生大陸での死亡率は高かった。痛ましくも数多くの有望な命が奪われた。
とはいえ、人類的な観点からはこの犠牲には価値があると了解されていた。
定期的な野生生活を慣例化すると現実に精神的な効果が得られたからである。
三千年の寿命をもつ存在たちは、高邁な探求にほぼ全身全霊を傾けていたが、
野生で十年暮らすことにより大いに活力と啓示を与えられたのだった。

(オラフ・ステープルドン「最後にして最初の人類」より抜粋)

この野生大陸では、文明に一切頼らない完全な野生生活なので、命を落とすこともしばしばですが、それをも厭わないという姿勢です。この文明と野生を往来するというライフスタイルを私は実に興味深いと思っています。(*4)

■お金の束縛と心の自由
さて、現代のドロップアウトに話を戻します。人々がドロップアウトできないのは、文明社会の人々は「お金が無くては生きていけない」ということに心が縛られているからです。これが、本来は自由で美しいものであった人々の精神を卑屈で醜悪なものにしてしまっていると思います。お金の無かった大昔はそうではありませんでした。しかし、現代人はこう言うでしょう。「じゃあ、お金無しに生きてみればいい!できるものなら、やってみろ!どうだ?できまい!できもしないことを偉そうに言うな!」と。こうあからさまに言わなくても、例えば、実感しやすいものに、現代人に最も恐れられているもののひとつに失業があります。会社がどんなに理不尽で嫌で辞めてたくても、失業を恐れて辞められません。失業してお金が無くなれば生きていけないと恐れてしまいます。そのため、たとえ奴隷のように不当に働かされて、どんなに嫌な思いをしても、死ぬよりはマシだと考えて我慢して働き続けます。そして、私たちは「お金が無くては生きていけない」という恐怖心に縛られて、自由でしなやかな心を失い、いつしか心までお金の奴隷に成り下がってしまいます。これはお金持ちも同様で、お金に心が縛られており、同じく奴隷に成り下がってしまいます。

しかし、文明社会以前、人がこの大地に生れ落ちたときは、人は人としてあるだけで尊厳ある生き物だったのではないでしょうか。文明社会では何か人よりも秀でていることによって、尊敬を集めたり、価値があると見做されたりします。あるいは、極端な場合はお金さえ持っていれば、人から羨ましがられ、価値がある人間だと思われたりします。しかし、文明社会以前は、そんなものは何も必要なくて、ただ、人は人としてあるだけで尊厳が守られていたのではないでしょうか。かつて引用したアボリジニの次の言葉を思い出します。

白人たちが、アボリジニのことをあしざまに言うのは、
アボリジニが農民でも、建築屋でも、商人でも、兵士でもないからなのさ。
アボリジニってのは、それとは別者なんだ。
踊り手で、狩人で、放浪者で、神秘家なのさ。
だから白人は、わたしらのことを無知だとか怠け者だとか言うんだよ。
ブライアンや、おまえにもそのうちきっと、
わしらアボリジニの美しさと力が分かるじゃろうよ。

(ロバート・ローラー「アボリジニの世界 」より抜粋)

「お金が無いと人は生きていけない」という心の束縛から、人は解放されなければならないと思います。もちろん、お金持ちになってお金の心配をしなくて良いようになることを言っているのではありません。お金が有っても無くても、お金に関係なく、自由な心を持てるようになることを言っています。本来はもっと自由であった心、もっと美しいものであった心、もっと力強いものであった心を取り戻すべきだと思います。私はアボリジニやアメリカ先住民の昔の古老たちの写真を見ると、そのごつい岩石のような顔の向こう側に、その遠くを見つめる瞳の内側に、広大で深遠な美しい宇宙を見ることがあります。そして、私は自問します。「彼らのような心こそが人間本来の心であったのではないのか?彼らの心は美しく力強い。そして、何か神秘的な深ささえ持っている。果たして、私の心も彼らのような広大無辺の心に到達できるだろうか?文明社会の中で小賢しく生きることにあくせくするうちに、彼らのような心の広さ・静けさを忘れてしまっていないだろうか?それとも、もはや私は手遅れなのだろうか?」心の美しさに比べれば、文明社会のことなどすべて虚しいまやかしに過ぎないと思います。(*5)

■「悟りを開く」とは?
次に、「悟りを開く」とは何でしょうか?「悟りを開く」といっても、様々に異なる悟りのイメージがあります。また、仏教に限らず、スーフィズムや老荘などにも「悟りを開く」はあります。「悟りを開く」とは一体どういうことなのか、人や宗教によって異なるのではないでしょうか。禅の十牛図のような数段階からスーフィズムのような数十段階もの段階を経る修行体系もあれば、突然、一挙に悟りを開く頓悟や脱然貫通もあります。ですので、そもそも「悟りを開く」といっても、一概に言えず、具体的にはどういうものなのかも定まっていないのではないでしょうか。

ちなみに、日本人の「悟りを開く」というイメージは、「心の平安」や「余裕のある心構え」でしょうか。日本人の悟りに対するイメージは、すべてをお見通しの神様にでもなるような敷居の高いイメージがあるのではないでしょうか?逆にその一方で、突然、「悟った!」みたいな人もいるかもしれません。そういう人に言わせると「悟り」はかなり「物事を割り切る」ことが多いように思います。何が言いたいかというと、日本人は悟りを自分には手の届かないものと考える一方で、非常に簡単な卑近なものと考えたりして、結局、「悟りとは何か?」を真剣に考えなくなってしまったのではないかと思います。

また、中には「悟りとは何か?」と一生問い続けることだという人がいるかもしれません。でも、答えを求めて無意味な堂々巡りを続けていないでしょうか?仏教の教説でも、前半は哲学的な分析ですが、後半は瞑想の実践が説かれています。問い続けることはあくまで前半の哲学であって、本来は後半の実践が重要なのではないでしょうか。そもそも、悟りとは、哲学や思想などのような言葉の理解ではなく、実践だと思います。

一方、60年代の米国では、かなり大真面目に「悟りとは何か?」を探求していたと思います。文化的な基盤がないので簡単な間違いをすることもありますが、先入観念に囚われないという利点もあったと思います。やけっぱちのムチャクチャで安易な答えに飛びつくものも数多くあったと思いますが、それでも中には、東洋では見られない深い掘り下げもあったと思います。そんな中でサイケデリック・ドラッグの活用は大きな成果だったと思います。一見、ドラッグの使用は矛盾するように感じられますが、世界各地にあるシャーマニズムの伝承からはドラッグの活用はごく自然なことだと思います。空を飛ぶ欧州の魔女も軟膏タイプのサイケデリック・ドラッグを使用していました。人によっては「難解な書物を100冊読むよりも、サイケデリック・ドラッグを1回やる方が絶対的に良い。悟りを開く唯一の方法だ」という人もいます。確かにジャンキーの情報には誤った情報や虚偽の情報も非常に多いのも事実ですが、ドラッグの使用そのものはまったく的外れというわけではないんじゃないかと思います。ともかく、60年代米国の試み”サイケデリック革命”は「悟りを開く」ことに革命的な進歩をもたらしたと思います。ただ、残念ながら、サイケデリック・ドラッグは現代では非合法化されたので、「悟りを開く」ことは非合法になりました。(*6)

さて、「悟りを開く」とは何でしょうか?この映画の中では、「自我の消滅」と言っています。また、仏教では、「輪廻から解脱すること」だと言っています。よく分かりませんが、たぶん、そんなようなものじゃないかと私は思います。もっとも、これも数多くある悟りのイメージのひとつに過ぎません。ただ、多くの人は「悟りを開く」という先入観に縛られているかもしれないと思います。

■選択の問題
ところで、現代人にとって「悟りを開く」のは選択の問題なのかもしれません。元々、ブッダは”目覚めた人”という意味だそうですから、「目覚めること」を選択するという問題なのかもしれません。例えば、映画「マトリックス」の中で主人公ネオは奇妙な誘いから車に乗せられて謎の男モーフィアスに会いに行きます。その途中、ネオは不信から車を降りようとします。しかし、車のドアを開けて降りようとしたネオはモーフィアスの使者トリニティから「ドアの向こうに見える世界に何が待っているかあなたは知っている。それでもあなたはその世界に戻りたいの?」と言われます。ネオはその世界に何もないことをうんざりするほど知っていたため、再びモーフィアスに会いにゆくことを決意します。

そして、モーフィアスと会見がかない、モーフィアスから赤いピルと青いピルを差し出されます。モーフィアスは言います。「赤いピルを飲めば、世界の真実の姿を知ることができる。一方、青いピルを飲めば、今までのことは忘れて普通の暮らしに戻ることになる。ただし、よくよく言っておくが、見せるのはあくまで真実だ」と言います。赤いピルを飲んで真実を見ても、それを本人が気に入るか、気に入らないかは別の話です。「悟りを開く」のも選択の問題であって、それが気に入るとは限らないのかもしれません。現代では目覚めるよりも眠ったままの方が心地良いのかもしれません。喩えるなら、家畜になった動物が柵の中でのんびり暮らすような感じでしょうか。野生で生きるよりは家畜で生きる方が心地良いと感じるのかもしれません。どちらを選ぶかは、本人の選択次第なのかもしれません。ともかく、現代人は本人も知らず知らずのうちにどちらかを選択しているのかもしれません。(*7)

■ジュリアの選択
さて、話を映画に戻します。ジュリアは2つを追い求めています。それは「夫の愛情や子供たちとの暮らし」と「自我の消滅などの悟りの道」です。アルジェに行ったジュリアは高僧に悟りへの道を乞うのですが、スーフィーの高僧からはまず先にジュリアに対して質問がなされます。ジュリアの仕事のことやジュリアの家族のことが質問されます。高僧からの質問で「夫を愛しているか?」と問われたとき、ジュリアは「実は彼は夫ではない。不倫である。けれども、彼を愛している」と告白します。そして、ジュリアは泣き出してしまいますが、「自分はまだまだ未熟だ」と気が付きます。

これは、おそらく、悟りの道に入ってゆくためには、この世に執着があっては出来ないのだと思います。夫や子供たちへのジュリアの愛を執着と呼ぶのは気が引けますが、やはり、そういう観点から見れば執着の部類になると思います。それに、妻帯している日本の僧侶は論外ですが、そもそも、通常の修行者は妻帯や性行為を固く禁じられています。仏典の律蔵を見ても固く禁じられています。ところが、ジュリアはすでに母であり、家族形成を選択済みです。これは難しい問題だと思いますが、両方を選ぶことは残念ながら本質的に不可能なのだと思います。そういったものを捨てなければならないのだとしたら、悟りの道も良いものかどうかとは思いますが、しかし、たぶん、どうにもならないもので、どちらか1つしか選べないのではないかと思います。

ともかく、ジュリアの気持ちはよく分かります。愛も悟りもどちらも素晴らしいものだと思いますから、どちらか一方ではなく両方手に入れたいと思います。しかし、それは叶いません。そして、ジュリアはビーの夢を見て、モロッコに帰ります。モロッコに帰ってビーを取り戻したジュリアはビーとの間で再び親子の絆が深まります。しかし、それも束の間でビーが病気に罹ります。ビラルが罪を犯してまでしてジュリア親子にロンドン行きのチケットを贈ります。しかし、それでもジュリアは帰るか残るか迷います。ジュリアは子供たちは愛しているけれども、自分を犠牲にして自分の人生を捨ててまで子供たちのために生きようとはしません。ジュリアは子供たちを愛していないわけではなくて、両方をやりたいのです。子供たちも愛する、と同時に自分の人生も生きる、というように。ジュリアは子供たちのために自分の心を殺すことが正しいとは思えなかったのだと思います。しかし、それは現実的に不可能でした。友人のエヴァから「あなたの旅は終わったのよ」と言われ、ジュリアは苦々しく現実を受け止めます。ロンドン行きの列車に乗って車窓の外を見つめるジュリアの目は険しいです。なぜなら、ロンドンに帰ってもジュリアにとって希望はないからです。ジュリアは高僧から言われた言葉を噛みしめるように思い出します。「たとえ、道が閉ざされようとも、悟りの道は開かれる」と。おそらく、ロンドンでの生活はジュリアにとって出口のない試練なのでしょう。それでもジュリアのことだから、高僧の言葉を信じて進んでゆくのだと思います。そんな思いに耽っていると、車窓からビラルが元気な姿で別れの手を振っています。ジュリアはビラルの贈り物に感謝しながらモロッコを去ってゆきます。

■まとめ
この映画を見始めたときはジュリアはなんて身勝手な母親なんだとネガティブに感じますが、映画を見てゆくに従って、ジュリアの自由な生き方と自由な精神に触れて、ジュリアのような生き方があっても良いかもしれないと思えてきます。いかに私たちが文明社会の中に縛られて生きているかが分かってきます。もちろん、ジュリアの住んでいたモロッコが良い場所というわけではありません。モロッコにはモロッコの問題があります。ただ、どんな場所でもジュリアは自由に生きてゆくだろうと思えます。本来、私たちの精神は、ジュリアの精神のように自由であったはずだと気が付かされます。

■注釈
(*1)原作者のエスター・フロイドは精神分析学者のフロイトの曾孫にあたります。父親は著名な画家で、姉はVIVAのファッションデザイナーです。映画でいえば、妹のルーシーが原作者に、姉のビーが姉にあたります。

(*2)そもそもヒッピーは文明社会からドロップアウトすることを唱えています。文明社会の価値観から、いったん、その枠組みの外へ出ることです。ヒッピーはドロップアウトして、そこでコミューンという小さなまとまりを作って自分たちで生活することを目指しました。しかし、彼らの生活は質素でしたが、やはり、生活が苦しくなって次第にコミューンは消滅して行きました。あるいは、「あそこに行けばタダ飯が食えるぞ~」みたいな無料で食料を提供してくれるような団体もあったようですが、そういうところの中には後にカルト団体っぽいものになったりしたところもあるようです。当時のカリフォルニアはそういう悟りを探求するような小さな団体がたくさんあったようです。

ところで、このヒッピーの元祖は仏教の開祖シッダルタのサンガ(=共同体)だと私は思います(笑)。シッダルタも当時のマガタ国の文明社会(=身分制度など様々な社会制度)からドロップアウトするものとして、国王から公認を貰ってサンガを作りました。彼らは托鉢をするだけで働かず、あとは修行して質素に暮らしましたから、まったくヒッピーと同じです(笑)。勤勉な日本人から見たら、「けしからん!」と言われそうですが(笑)。ただ、別に仏教に限らずとも、このようにドロップアウトして修行する者は世界中で数多く見られたようです(笑)。西アジアの砂漠や洞窟で粗末なズダ袋みたいな服を着て、一人黙々と修行をしてたようです。今では考えられませんが、思うに当時はお金が無くても、けっこう生きていけたんじゃないでしょうか(笑)。自然から取ったり、そこら辺の人から貰ったりしたんじゃないでしょうか。コンビニのない生活ですから、まあ、生活は助け合いの面が多かったのかもしれません。いや、まあ、実際のところはよく分かりませんが(笑)昔は「戦争が起きたら山に逃げて暮らす」なんて言ってましたし、未開人なんかは自然が豊かだったので、たいして働かず楽して暮らしていたようです。今はもう自然が破壊されて無いので、自然に逃げ込んでも生きていけませんが…。動物でさえそうです。山に食べ物が無くなって熊も猪も減りましたし、雀さえ減っています。ともかく、ヒッピーというのは、意外と人類普遍の現象だと思います。(ヒッピーが許されない日本社会は普通じゃない精神構造かもしれませんね(笑)。)

ただ、ちょっと驚くのは、この当時の米国は東洋思想に対する関心が非常に高く、しかも、マニアックで高度な知識を勉強していたらしいという点です。小さな簡単な誤りもあるにはあるのですが、それよりも、本場の東洋が顔負けするほど深く東洋思想を学んでいたことがこの頃の本を読むと分かります。ともかく、取り組みが真剣で、日本とは本気度が全然違います。もっとも、今となっては、どことも意気消沈してしまっていると思いますが…。

余談ですが、偶然かもしれないが、ここでもキリスト教は悪者扱いされています。彼女の出演作を見ていると、他者がイスラム教などを信奉することは否定しないのですが、自分たちヨーロッパ人はキリスト教などの宗教を超克しようとしているように見えます。ヨーロッパ社会は現代になってやっと宗教を自分たちから切り離すことにしたのか、あるいは、キリスト教を引き剥がすことによって、もっと古いヨーロッパの土着的習俗に還ろうとしているのかもしれません。

(*3)歴史的に見れば、ドロップアウトの道は失敗ばかりじゃなくて成功例もあると思います。例えば、①はアメリカ先住民の部族社会が成功例だと思います。彼らは国家を作らずに少数単位の部族で共同体を形成しました。かなり個人の意思が尊重されたと思います。中には部族から離れて一家族だけで暮らす者もいたようです。②は釈尊の作ったサンガという共同体です。サンガは托鉢と寄付によって運営していたと思います。初期のサンガは釈尊のそばで一緒に瞑想修行したという感じじゃないでしょうか。托鉢で衣食をまかない、あとは働かずにひたすら修行したんじゃないでしょうか。働かないかわりに豊かさを放棄して質素な暮らしに甘んじるという感じでしょうか。国家や社会がこれを公認したのは、今よりもずっと豊かだった時代の話なのかもしれません。また、それ以外にも、様々な宗教で寺院で真面目に修行していた人たちもいるでしょう。ただ、カルト化したりや内部が腐敗するなどの失敗例も数多くあるとは思います。③はイスラム僧などは一国家を超えて同じイスラム教国というネットワークの中で旅が可能だったと思います。彼らはお金が無くても行く先々でとりあえず生きるだけの最低限の糧だけは得ることができたようです。言うなれば、無一文で世界旅行が可能だったと思います。ですから、ドロップアウトの道は成功もあれば失敗もあると思います。結局、その人次第なのかもしれません。

(*4)人類学者レヴィ=ストロースの報告では狩猟を生業とする未開社会の労働時間は1日4時間だったそうです。しかも、そのグループは老人と障害者など働かない人を2人も抱えていたそうです。その他の余った時間は遊びに費やしていたそうです。先史時代でも人口が多くない時代では、豊富な自然の食糧があったので、ほとんど働かない生活をしていたそうです。ですので、実際には、わずかな余暇というよりは、有り余る余暇になるかもしれません。

(*5)確かに文明社会においても自由と平等の市民社会を実現しようという努力はありますし、そうすべきだと思います。ただ、現状においてそれが成し遂げられていると胸を張って堂々と言えるでしょうか。年間3万人の自殺者を出すこの日本で「自分の生き、貢献した日本は自由と平等が成し遂げられた社会だった」と言えるでしょうか。後世の歴史家がそれを聞いたら、なんと言うでしょうか。「当時の人々は自分たちの社会に満足していたが、その一方で年間3万人の自殺者を出す格差もあった。つまり、当時の現状に満足していた人々は隣人が自殺してゆくのを見殺しにしたまま、自分の生活だけを守って満足していた。彼らは本当の現実を見ていなかったり、他人のことにはおかまいなしになっていた」と言うのではないでしょうか。私たちが「自分はまともだ。自分は正しい。」と思っているほど、後世の人々は私たちをまともな人間、正しい人間だとは思わないかもしれません。

(*6)例えば、仏教の重要なものに華厳思想があります。華厳思想は、空海の「十住心論」でも重視されており、重要度の高い順に言えば「真言」「華厳」「天台」の順に重視しています。また、禅の道元でさえも「華厳」を非常に重視しています。ところが、この華厳思想はとても難解です。華厳思想を理解するだけで一生が終わっちゃいそうです(笑)。しかも、難解なだけに正しく理解できずに、横道にそれた誤った理解になるかもしれません。また、たとえ、正しく理解できても実体験を伴わなければ、戯論と何ら変わることのない言葉遊びになってしまいます。喩えるなら、言葉の上での理解は山頂から見える景色を実際に見もせずに麓からあれこれ言うようなものだと思います。そうではなくて、とりあえず、山頂に登って景色を実際に見てから見えたものについてあれこれ言えば良いと思います。喩えるなら、華厳は登山マニュアルであって、登山マニュアルから思想を引き出すのではなくて、実際に見えた景色から思想が自然と出てくるのだと思います。単なる言葉の上での理解では、仏教的には実質的な意味がないんじゃないかと思います。そういうわけで、華厳は、時間もかかるし、理解も容易ではない。しかも、言葉の上での理解だけでは意味がない。だったら、それよりは、とりあえず、LSDを1回やった方がよっぽど有益じゃないかと思います(笑)。言葉の上での理解なんてどうでも良いんじゃないかと思います。あるいは、理解は後からで良いんじゃないかと思いますし、そのうち言葉になって付いてくるんじゃないかと思います。ともかく、人生の時間は有限で限られており、いつだって人生の残り時間は少ないと思います。あまり悠長にしてられないんじゃないかと思います。以上、あくまで推測ですが…。

(*7)現代人にとっては「悟りを開く」は選択の問題かもしれませんが、古代人にとっては選別の問題だったのではないかと思います。シャーマニズムの時代では、古代のシャーマンたちは自らの意思に関係なくスピリットによって否応なしにシャーマンに選別されたようです。ちなみに、多くの宗教はアニミズムが起源だと思いますが、仏教はシャーマニズムが起源ではないかと私は思っています。ただ、シャーマニズムでは重視した脱魂を仏教では軽視しているのはいささか問題ではないかと思います。なぜなら、脱魂はエネルギーと深い関わりがあると思うからです。また、「マトリックス」での赤いピルは極めて象徴的だと思います。というのも、現代人は自然を囲い込んで自然の力を封じ込めてしまいました。同様に現代人自身も文明によって囲い込まれて、心の自由を得る可能性をほとんど失ってしまいました。現代人にとって赤いピル(=サイケデリック・ドラッグ)だけが「悟りを開く」ための唯一の道ではないでしょうか。しかし、それもほとんど非合法になってしまいました。その結果、私たちはまるで家畜のように柵の中に放牧されているだけになってしまいました。そこには屠られるのをただ待つだけの、そして、その恐怖から目を逸らすために無駄な暇潰しに明け暮れる無意味で虚ろな生しかありません。私たちは「マトリックス」につながれた人々のように、本当に、完全に囚われた人々になりつつあります。

■参考文献
「路上」 ジャック・ケルアック
「ザ・ダルマ・バムズ」 ジャック・ケルアック
「カリフォルニア・オデッセイ3 めまいの街」 海野弘
「カリフォルニア・オデッセイ4 癒しとカルトの大地」 海野弘
「ジョン・C・リリィ 生涯を語る」 J・リリィ+F・ジェフリー

2009年12月5日

ケイト・ウィンスレット その5


■「ホーリー・スモーク」(原題「Holy Smoke」) ジェーン・カンピオン監督(1999)
この映画は、インドで宗教団体に入信した女性ルースと、カルト教団脱退の専門家PJ.ウォータス(通称PJ)の悪戦苦闘の物語です。

■あらすじ
オーストラリア女性ルースは、旅行で訪れたインドで、あるヒンドゥー教の宗教団体に魅せられて入信してしまいます。仕舞には教祖と結婚するとまで言い出します。そのことを知った家族は彼女の洗脳を解こうと米国からカルト教団脱退の専門家PJを呼びます。そして、家族はルースを騙してオーストラリアに連れ戻します。騙されて連れ戻されたルースは激しく怒りながらも、渋々、三日間だけという約束で、PJと二人だけで脱退プログラムを受けることになります。

一日目、PJは豊富な知識や紳士的な振る舞いからルースの洗脳を少しずつ解いてゆきます。そして、二日目、カルト教団の実態を見せるビデオを見せて彼女の洗脳を解きます。しかし、ルースは洗脳を解かれたことで心の支えを失います。ルースはカルト教団の欺瞞を見抜きましたが、同時に帰るべき家族にも欺瞞があることを見抜きます。ルースは心の支えを失い、帰るべき場所も失って混乱してしまいます。混乱したルースはPJを誘惑して関係を持ってしまいます。

翌日、PJから「君のために関係を持った」と聞かされて、プライドを傷つけられたルースはより激しく無軌道に荒れてしまいます。ルースはさらにPJを振り回して再び関係します。(最初のセックスが男性本位のセックスなら、次のセックスは女性本位のセックスを表していると思います。)

次の日の朝、PJの助手で恋人のキャロルが様子を見にやってきます。キャロルは二人の関係を知って怒って帰ります。ルースもPJに恋人がいることを知って怒ります。PJはルースに謝り、満足するまで自分を責めろと言います。ルースはPJをなじりますが効果があまりないため、そこで思案したルースはPJを辱めるために、PJに女装させます。女装したPJを笑い者にした後、今度はルースがPJから攻められる番が回ってきます。そのとき、ルースはPJから「思いやりを持て」と言われてしまいます。「思いやり」、実はルースにとってそれは最大の弱点でした!実は、ルースは自分は「思いやり」のない冷たい人間でみんなから嫌われていると思っていました。「思いやりのない人間ということで、みんなから嫌われてしまう」というのがルースが心の奥深くに秘めていた最も恐れている”おそれ”だったのです。ルースは自分の弱点を突かれてドン底まで落ち込んでしまいます。

次の日、これまでの自分も嫌になり、そして、PJを誘惑してからかったことも心から後悔して途方にくれ、自分を完全に見失ったルースは小屋から逃げ出します。しかし、逆にルースに夢中になったPJはルースを引きとめようとして誤ってルースを殴ってしまい、ルースはその場に気絶してしまいます。家族に見つかるのを恐れたPJはルースを隠しますが、結局、家族にも見つかり、ルースにも逃げ出されてしまいます。逃げ出したルースを裸足で追いかけたPJは荒野で意識が朦朧として倒れてしまいます。意識が朦朧とした中でPJは踊るシヴァ神の幻影を見ます。PJの失態を知ったルースの家族は怒り、意識が朦朧としたPJを捕らえてトラックの荷台で運びますが、そんなPJを見たルースはPJに「思いやり」のような”憐れみ”の感情をはじめて抱きます。

一年後、ルースはインドに戻りますが、教団には入らずに独自に正道の探求に勤しみます。また、新たな恋人もできます。一方、PJはキャロルと結婚して双子を設けます。ルースとPJは恋人同士ではありませんが、ルースとPJの間には恋愛ではないけれども、深い愛情が芽生えていたのでした。

■映画を理解するための注意点
「タイタニック」を見てウィンスレットのファンになった人もいるかもしれませんが、ものの見事にその幻想を打ち砕く作品になっています。見ているこっちの方が「そこまでやっていいのだろうか?」と心配になってしまいました。せっかくファンになった人も「こう過激では恐れをなして逃げてしまうんじゃないか?」と思いました(笑)。タイトルの「ホーリー・スモーク」の意味は、「聖なる煙」という意味ではなくて、「こいつはたまげた!」的な意味らしいですが、確かに、この映画を見ると何度もぶったまげるような場面を目にすることになると思います。その驚きがこの映画の理解を難しくしている原因のひとつになっています。

また、3日間という脱退プログラムの中でテンポよくステップを踏むように物語を進行させるという都合のために、物語展開に不自然さや強引さを感じるかもしれません。ただ、逆に言えば、ステップごとに明確な意味があるので、全体を通して見た後に、各ステップ毎にどのような意味があるのかを考えれば良いので、物語の意味が掴みやすいかもしれません。

■ルースの属する2つの共同体
ルースの所属する共同体は、元々はオーストラリアの家族でした。それがインド旅行でババに出会って教団の一員になってしまいます。結論から言うと、どちらも欺瞞に満ちた世界でした。家族も、父親は秘書と不倫していますし、兄弟も本当にルースのことを想っているのか怪しいものでした。義理の姉に至ってはPJといちゃついていました。母親は誠実なのですが、ルースを教団から脱退させようという母親が占星術や水晶パワーを信じた話をするのは笑えました。最後にルースが逃げ出したことを聞いたときに、脱退請負人であるキャロルも含めて聖歌を歌い出したのには笑いました。一方、インドの教団も教団内では彼らなりのモラルはあるようなのですが、外部の人間を教団に引き入れるために手段を選ばず騙したりするなど欺瞞に満ちていました。また、インドでは、女性蔑視が強く、ルースはその矛盾に気づいていました。結局、いずれの共同体にもルースが満足できる居場所はありませんでした。

■ルースの恋愛観
また、ルースの恋愛は浅薄なものでした。ルースのこれまでの男の恋人たちはなんとも軽薄そうな感じでした。ルースの女友達の恋愛観も、恋人の外見に囚われて、その人の中身を見ようとするものではありませんでした。インドから帰った直後のルースが女友達に「外見ではなくて中身が大切だ」と言ったときには、ルースは今までの恋愛になにかしら物足りなさを感じていたのではないかと思います。

ところで、ルースとPJの関係は恋愛かどうかはハッキリしません。そもそも二人が肉体関係を持ったきっかけはルースが拠り所を失ったことによる混乱からでした。それまでは、別にルースもPJも互いを恋慕しているわけではありませんでした。ただ、パブで酔っ払いから救出されたときは、多少、ルースはPJの愛情を感じたかもしれません。しかし、その日の夜も二人は関係を持ちますが、その日の関係はPJへのからかいがきっかけでしたし、何よりも前日のPJ主体のセックスではなく、ルース主体のセックスをするという、恋愛よりはむしろ性愛に重きが置かれていました。さらに、翌日、PJの助手で恋人のキャロルの存在を知ったとき、ルースは嫉妬して怒りますし、その後のセックスもボロボロになったルースが混乱した中でのセックスでした。つまり、短時間の中で二人の心の変遷がめまぐるしく展開します。ですから、この間の二人は恋愛とも性愛ともハッキリとしません。しかし、たぶん、それで良いのだと思います。というのも、恋愛なんて勢いだったり、未熟さだったり、若さだったりが恋愛の条件だからです(笑)。

■ルースの人格の問題
元々、教団に魅かれるのは、本人が何らかの問題を抱えている場合が多いのではないでしょうか。この映画のルースは家族の問題や人格の問題を抱えています。確かに、教団の儀式で集団催眠の中でルースはエクスタシー体験を教祖の愛として受け取ってしまい、教団に心酔してしまいます。しかし、それよりも前にルースの抱える諸問題がルースを教団に走らせたのだと思います。

ところで、ルースの入った教団はカルト教団なのかどうなのかは実は明確な表現はなかったんじゃないかと思います。教団もカルト教団も実は共同体の構造自体は同じだと思います。では、何が教団とカルト教団では違うのでしょうか。一般的には、反社会的か否かが違いの目安とされるかもしれません。しかし、よく考えてみると、そもそも教団は社会の価値観と教団の価値観は違うというところから出発していると思います。社会の価値観をそのまま受け入れるのなら、何も教団という枠組みを作らなくて良いはずです。つまり、本来は教団の価値観と社会の価値観は相容れない関係にあります。ですから、程度の差はあれ、教団もカルト教団も反社会的となりやすいと思います。つまり、教団とカルト教団の違いを明確にすることは難しいと思います。ただ、いずれにしろ、教団を形成すれば、共同体の問題が浮上してくると思います。悩みのまったく無い、人々が完全に幸福な状態の理想郷のような共同体など存在しないと思います。ですから、教団に入ったからといって問題が解決するわけではないと思います。しかし、理想郷ではなく、一時的な修練の場としての共同体はあると思います。そこは理想郷というよりは、むしろ、理想郷とは正反対の戦場に近いかもしれません(笑)。そういった場では鍛えられるかもしれませんが、人間らしく生きる共同体としては好ましい所ではないでしょう。

話を元に戻します。ルースの人格の問題は映画の最後に明らかになったように、「思いやりがない」でした。ルースも強く自覚しており、PJの指摘がきっかけで「思いやりが大切だ」というダライ・ラマの言葉を思い出して、その大切さを思い出します。

■グレート・ラヴ
ルースとPJの関係は何でしょうか?恋愛の愛ではなく、もっと大きな愛にルースは辿り着いたのだと思います。まあ、この大きな愛というのは、博愛といえば博愛なのですが、ちょっとニュアンスが違うかもしれません。喩えて言えば、アメリカ先住民がスピリットの中でもその最大の最も大いなるスピリットのことをグレート・スピリットと言いますが、それと同じような感じで、恋愛など数ある愛の中でも最も大いなる愛としてのグレート・ラヴといった感じではないでしょうか。ルースはPJに対して、かつては恋愛感情を抱いていたかもしれませんが、今は恋愛や性愛を抱いていません。今のルースには恋人がいますから。PJに対してあるのは、恋愛や性愛の要素のない、純粋な愛だけです。人は別に恋人や親子でなくても、愛を抱けると思います。ルースにとってPJは恋人でも先生でもありません。単なる一対一の人間同士です。ただそれだけの関係の中での愛なのだと思います。でも、この愛さえつかんでいることができるのであれば、このとても大きな大きな愛に触れているという実感さえあれば、ルースはこれからも正しい道を歩むことができるのだと思います。

グレート・ラヴには、例えば、アルセーニエフ描くところの猟師デルスウ・ウザーラの愛があります。彼は、人間だけでなく密林にいる動物や虫など生きとし生ける者すべてに対して愛を注ぎます。探検隊と野営しているときに、残った食べ物を火にくべようとした兵士にデルスウは怒ります。食べ物が焼けて炭になってしまったら、誰も食べられなくなるではないか、と。兵士は誰も食べる者はいないと言いますが、それに対してデルスウは自分たちが立ち去ったあと、イノシシが来て食べるかもしれないし、イノシシが来なくても虫が来て食べるかもしれない。だから、火にくべずに林の中に捨てるのだと言うのです。デルスウは密林に住む生き物すべてのことをいつも心配しているのでした。確かにデルスウは猟師ですから、生きるために動物たちを殺します。しかし、決して無益な殺生はしませんでした。デルスウの愛は死が身近にある恐ろしくも美しいこの自然の世界の中にあって、すべての存在に注がれているのです。限られたごく親しい人たちだけに向けられる愛ではなく、密林に生きるすべての生き物に向けられる広大無辺の愛、グレート・ラヴがそこにはあったのだと思います。デルスウはこの愛と共にあったからこそ、密林の中で生き物たちと調和の取れた正しい暮らしを営んでいけたのだと思います。

■俳優の試練
この作品ほど俳優に試練を課した作品はないのではないかと思えます。例えば、PJを演じたハーヴェイ・カイテルは女装させられます。口ひげをはやして男くさい役柄なのに、口紅を塗られ、赤いワンピースを着せられます。あげく荒野で「結婚してくれ~」とかっこ悪くウィンスレットの足にしがみつかされます(笑)。一方、ウィンスレットはアンダーヘアも丸見えの全裸シーンがありますし、さらに立ったままオシッコまでします(*1)。他にもセックスシーンが多いのですが、セックスのクライマックスで「まだ、いかないでぇ」(Don't come!Don't come!)と言わされたり、PJにウィンスレットのパンツを降ろさせて舐めさせるシーンもあります。そして、そこで感じる演技をしたりします。この他にも酔っ払いにパンツをずり下ろされるシーンはあるし、鼻血を出すシーンはあるしで大変です(笑)。また、ジェーン・カンピオン監督がウィンスレットにアドリブ的に仕掛けたのではないかという体型に関する微妙な質問をするシーンもあります。なので、この映画はハーヴェイ・カイテルにもウィンスレットにも、ものすごい重圧、俳優としての試練がかかった映画ではないかと思いました。特にウィンスレットは時期的には「タイタニック」の大ヒットの後に受けた仕事だろうだけに、よくこの仕事を受けたと思います。ちなみに、この映画の海外での公開が1999年なのに対して、日本の公開が2003年になってしまったのも、この過激な内容からなんとなく理解できます(笑)。ウィンスレットは「タイタニック」の影響で変わるどころか、「タイタニック」の自身の成功に対して、より挑戦的・好戦的にこの作品を選んだのではないかとさえ思えてきます。ウィンスレットは決して独りよがりな人間ではないと思いますが、それでも「タイタニック」の成功をものともせずに我が道を行くのは、並々ならぬ彼女の精神力の強さを感じます。

■まとめ
インドの教団に入信したルースですが、ルースが元々属していた故郷の共同体(=家族や友人や恋人)にも問題がありました。また、教団やインド社会にも問題がありました。結局、どちらの共同体にも問題があるのでした。また、ルース自身にも問題がありました。ルースの人格の問題です。ルースは自分には思いやりが欠け、周囲からそんな自分は嫌われていると思っていました。(←まあ、程度の差はあれ、誰しも抱えている問題だとは思いますが。)PJの脱退プログラムによってルースの教団への幻想は打ち砕かれますが、同時にルースには帰る場所=拠り所が無くなってしまいます。その混乱からPJとルースの恋愛・性愛が始まりますが、結果、ルースの思いやりに欠けるという人格問題に逢着します。一方、PJはルースを本気で愛してしまいます。滑稽で深刻な状況に二人は追い込まれますが、ルースに慈悲の心が芽生えます。一年後、ルースは教団に属さずに自分ひとりで正道を探求します。と同時に、二人で試練を乗り越えたルースとPJの間には、恋愛ではない大いなる愛が生まれます。

■注釈
(*1)この映画でウィンスレットは大胆な全裸のヌードを披露していますが、いろんな意味で勇気のあるヌードだと思います。ウィンスレットのスタイルは一般的なモデルのスタイルと比べると正直なところあまり良くありません。彼女はウェストが太いと言われるかもしれませんが、実際には胴が短いと言った方が正確だと思います。胴が短いのでウェストがクビレようがないのではないかと思います。そのかわり足が長く、腿からお尻にかけて肉がついているので、そこにボリュームあって、対比的にドレスの上からだとウェストがクビレているいるように見えるのではないかと思います。

私は彼女の闇に浮かぶ全裸を見たとき、思わず「古代ケルト人だ!」と思ってしまいました。古代ケルト人がどのような体型なのかは正確に資料が残っているわけではありませんし、当然、私も古代ケルト人がどういった体型なのか知るはずもありません。ですが、なぜか、ウィンスレットを見て古代ケルト人という言葉が頭に浮かんできました。それにしても、ウィンスレットは大胆です。このあとの展開でも、ウィンスレットはPJを誘惑して彼に胸を触らせたり、キスしようとしたりします。さらに、最後にはその場でオシッコまでしてしまいます。このオシッコの意味はいろんな解釈が可能だと思いますが、ともかく、PJもこの常軌を逸したウィンスレットの誘惑行為に、ついに気持ちが揺らいでウィンスレットと肉体関係を持ってしまいます。それにしても、この演技をやらせたカンピオン監督も凄いですが、それを見事に演じきったウィンスレットにも圧巻です。

2009年11月21日

ケイト・ウィンスレット その4


■「タイタニック」(原題「Titanic」) ジェームズ・キャメロン監督(1997)
3時間以上の長い上映時間にも関わらず、世界最高の興行収入を誇る映画史上最大のメガヒット映画です。この映画で主軸になっている物語はジャックとローズという二人の若者の恋愛物語ですが、物語の主題は絶体絶命の危険にさらされたローズというひとりの女性の生き方が変わることが最大のポイントになっていると思います。

■あらすじ
ローズは英国の名門貴族の令嬢なのですが、実際には経済的に行き詰まった貧乏貴族の娘です。そのため経済的な理由から母親の取り決めに従って、大富豪キャルと婚約してしまいます。しかし、ローズはキャルを愛しておらず、また、ローズにとって社交界は自由のない籠の中の鳥の生活でした。ローズはそういった世界に嫌気がさしていますが、お金のため母のためにやむなく我慢しています。そして、いま、アメリカで結婚式を挙げるために豪華客船タイタニック号に乗船します。一方、貧乏な青年画家ジャックは賭けで勝ってタイタニック号の乗船券を手に入れて駆け込みで乗船します。

タイタニック号が出港して一等客船では社交が繰り広げられます。しかし、ローズは窮屈な自由のない社交にいよいよ嫌気が差してしまいます。そして、いっそ死んでしまおうとタイタニック号の船尾から飛び降りて自殺しようとします。そこへジャックが現れて、ローズを思いとどまらせて救います。

ローズはジャックと打ち解けるうちに、彼の自由な生き方に触れて彼の自由な生き方に憧れます。そして、同時にジャックにも魅かれるようになります。一方、ジャックもローズに魅かれます。ジャックはローズがこのまま社交界にとどまれば、いずれは心が枯れ死してしまうと警告して、ローズに社交界から飛び出すことを勧めます。ローズはその場では飛び出すことを拒みますが、社交界に戻って冷静に自分を見つめ直したとき、このままでは自分は正気では生きていけないことを悟り、社交界を飛び出すことを決意します。

ローズはキャルと決別するために、ジャックにヌードの自画像を描いてもらいます。それを見たキャルは怒りに燃えてローズを取り戻すためにジャックに宝石泥棒の濡れ衣を着せます。そして、みんなの前でジャックのコートから宝石が見つかり、そればかりかそのコートも明らかに盗まれたものだと分かったとき、ローズは「ジャックが宝石を盗むために自分を騙したのか?!」と茫然自失になってしまいます。そんな混乱した中でローズはタイタニック号の設計者からタイタニック号が沈没することを知らされます。それを聞いたキャルとローズたちは急いで救命ボートに乗り込もうとします。ところが、乗り込む寸前に、ローズはキャルからジャックが死ぬだろうと聞かされます。それを聞いたローズは宝石の盗難がジャックを陥れるためのキャルの謀略だったことに気づきます。ローズは卑劣なキャルや自分勝手な母親など何もかもすべてを捨ててジャックの元に駆けつける決意をします。

キャルを振り払ったローズは浸水が始まって混乱した船内を一人で捜し回って、手錠で動けないジャックを見つけます。なんとか手錠を外した二人は救命ボートに乗るためにデッキへ上がろうとします。デッキへ上がる途中でジャックは仲間と合流して、三等客室を閉じ込めたゲートを破ってデッキへ上がります。しかし、救命ボートの乗船は女性と子供が優先で、ジャックはローズを逃そうとキャルと協力してローズだけを先に救命ボートに乗せます。いったん救命ボートに乗ったローズでしたが、ジャックを船に残してゆくことがどうしてもできずに、再びタイタニック号に飛び移ります。再び一緒になって抱き合うローズとジャックはふたりは分かち難く愛し合っていて、ふたりは離れられないと覚悟を決め、今度はふたり一緒で逃げることにします。それを見たキャルが逆上して二人に向かって拳銃を発砲します。ジャックとローズは再び浸水して混乱する船内を逃げ回ります。

浸水した船内から命からがらデッキにたどり着いた二人でしたが、救命ボートも無くなり、いよいよタイタニック号が最期の沈没に向かって傾きが激しくなります。ジャックはできるだけ長く船上にいようとして、二人は浮き上がる船尾へと向かいます。人ごみをかき分けて船尾にたどり着いた二人は手すりにしがみつきます。奇しくも、そこはローズが飛び降りようとしてジャックに助けられた場所でした。そして、ついにタイタニック号が海面から垂直になって完全に海に沈みはじめます。二人は意を決して沈没の渦に巻き込まれないように沈没と同時に船を蹴って飛び出すことにします。一度は死ぬために船尾から飛び出そうとしたローズでしたが、今度は生きるために船尾から飛び出したのでした。ただし、今回は一人ではなく、ジャックと一緒にでした。

極寒の海に投げ出された二人でしたが、ジャックが船板を見つけます。船板は一人しか乗れず、ジャックはローズを船板に乗せて、自分は船板にしがみついて救命ボートが来るのを待ちます。しかし、いくら待っても救命ボートは助けに来ず、ローズは寒さと絶望で死を覚悟して、ジャックに別れの言葉を告げようとします。しかし、ジャックはそんなローズの言葉を受け入れず、諦めずにがんばれとローズを励まし、絶対に諦めないことをローズに誓わせます。そして、海が静まりかえった頃、ようやく救命ボートが助けにやってきます。ローズは救命ボートに気づいて、喜んでジャックに知らせます。しかし、いくら呼んでもジャックの反応はありません。ジャックはすでに氷点下の海で凍死していたのでした…。ジャックの死を知ってローズは悲しみに打ちひしがれますが、自分を助けるために命を投げ出したジャックとの誓いを思い出して、必死で救命ボートを呼び戻して救助されたのでした。

それから、ひとり助かったローズはキャルとの縁を切り、姓もドーソンと変えて新たな人生を一人で歩んでゆくことを決意します。そして、84年後、年老いたローズはタイタニック号が沈没した場所で当時の回想を次のように言って締めくくり眠りにつきます。「ジャックは沈没から生命を救ってくれただけでなく、あらゆる意味で私を救ってくれた」と。眠りにつくローズの傍らには、タイタニック号沈没後の彼女の半生を写した写真が飾られています。そこには、チャレンジングな充実した人生経験の足跡が刻まれており、社交界から飛び出したローズが苦労しながらも、とても充実した自由な人生を送ったことが分かるのでした。

■人生の特異点
タイタニック号沈没事故がローズの人生を変えました。この物語はローズが助かった話ではなく、ローズの生き方が変わった話です。なぜなら、ローズはキャルを選んでもジャックを選んでも、どちらを選んでも沈没事故からは助かっただろうからです。仮に、もし、キャルと一緒にいれば、ローズは助かったはずです。ローズの母親は余裕を持って助かっています。ローズは何度か救命ボートで脱出するチャンスがありながら、それを自ら拒んでいます。ですが、もしキャルを選んでいたなら、たとえ沈没事故からは助かっても、ローズは一生籠の中の鳥であり続けたでしょう。そして、ジャックが言ったように彼女の真っ直ぐな心は籠の中で枯れ死してしまったのではないでしょうか。しかも、キャルは世界恐慌で自殺していますから、同様にローズも行き詰る可能性が高かったと思います。一方、ジャックを選んだ場合はどうなったかは映画の通りで危険にさらされながらも危機一髪で助かっています。ですから、少し興ざめしてしまいますが、極端に言えば、ローズはキャルを選んでもジャックを選んでもどちらでも沈没事故自体からは助かっていたのです。では、ローズはジャックを選んだことで何が変わったのでしょうか?それはローズの生き方が変わったのです。ですから、この物語はローズが沈没事故から助かる話ではなく、実は、ローズの生き方が変わる話なのです。

■”竿頭一歩前進”の物語
ローズの生き方を変える象徴的な行為が船尾からのジャンプです。これは禅でいうところの”竿頭一歩前進せよ”に近い精神です。ローズは、最初、死ぬために船尾に立ちます。そのときはジャックに助けられます。翌日、ジャックからは挑発的に皮肉られます。「君は飛べないひとだね」と。ローズはムカッとしてますが、実際、自由な世界への憧れはあるけれど、恐れから飛び出せずにいます。ジャックは、ローズがこのまま社交界の世界に閉じこもってしまえば、ローズのまっすぐな心が死んでしまう、そうならないようにローズに自由な世界へ飛び出すことをけしかけます。ローズはジャックの呼びかけに答えて、飛び出すことを決意します。ところが、その矢先に沈没が始まります。二人は懸命に逃げ惑ううち、船尾にたどり着きます。このとき、決意だけでなく、実際に行動で示すときがきたのです。今度は死ぬためではなく、生きるために船尾からジャンプします、今度は二人一緒に。自由に生きることは決して楽な生き方ではありません。危険が待ち構えていますし、責任も伴います。また、知恵や勇気を必要としますし、ときには代償も必要とされます。ですが、恐れて何もせずに心が死んでしまうよりは、はるかに良い生き方だと思います。

結果、ローズは、タイタニック号で旅立つ前とニューヨークに到着した後では、大きく変わっていました。ニューヨークに到着して自由の女神像の前で雨に打たれながら立っているローズは以前のロースではありません。お金の無い不安や自由な世界への恐れから籠の中から飛び出せなかったか弱い娘から、自分の意思と力で世界の荒波に立ち向かってゆく強い決意を持った女性に変わっていました。そういった意味で、この映画はタイタニック号沈没事故の前後における、ローズの”変身”の物語なのではないでしょうか。(*1)

■まとめ
この映画は人気俳優レオナルド・ディカプリオの魅力が最もよく輝いているラブストーリーとして捉えられる傾向が強いと思います。ですが、これまで述べてきたように、この物語は恋愛だけではなく、死に直面したひとりの人間、ローズという若い女性の生き方が変わる話だと思います。恋愛と変身が見事にシンクロするという極めて稀有な物語だと思います。だからこそ、これだけ多くの人々に感動を与えるのだと思います。

文明社会で生きるということは、人はひとりでは生きられません。人は生きるためにお金を必要とします。しかし、そのとき、人は自分の人生の中で遅かれ早かれローズと同じような選択を迫られます。生きるために心を捨ててお金を選ぶのか、あるいは、死ぬかもしれないがお金を捨てて心のある道を選ぶのかを迫られます。これはとても分かりやすいシンプルな選択問題です。この問題を解くのに頭の良さは必要ありません。必要なのは自分の心だけです。私は人間にとって最も大切なものは心だと考えています。ですので、人間はどんなに危険で恐ろしくても、お金ではなく、心を選ぶべきだと考えています。そして、この選択は必ず自分の心にはね返ってきます。人間の心は間違った選択をして一度死んでしまえば、二度と生き返ることはありません。私はローズは生命を賭して心のある正しい道を選択したのだと思います。そして、死んでしまったけれど、ジャックもまた心のある正しい道を選択したのだと私は思います。確かに、ジャックのように、たとえ正しい道を選択しても死ぬかもしれません。しかし、心が死んでしまって生きるよりは、結果的に死んでしまっても、心のある正しい道を選ぶ方が良いのではないでしょうか。(*2)

■注釈
(*1)似たような変身にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」があります。次のような末弟アリョーシャの変身の場面があります。以下引用です。

静かにきらめく星くずに満ちた穹窿が涯しなく広々と頭上を蔽い、まだはっきりしない銀河が天頂から地平線にかけてひろがっていた。静かな夜気が地上をくまなく蔽って、僧院の白い塔と黄金色の円屋根が琥珀の空にくっきり浮かんでいた。……じっとたたずんで眺めていたアリョーシャは、不意に足でもすくわれたかのように地上に身を投げた。何のために大地を抱擁したのか、どうして突然大地を抱きしめたいという、やもたてもたまらぬ衝動に襲われたのか、自分でも理由を説明することはできなかった。しかし泣きながら彼はかき抱いた。大地を涙で沾した。そして私は大地を愛する、永遠に愛すると無我夢中で誓った。……無限の空間にきらめく星々を見ても、感激のあまりわっと泣きたくなった。それはちょうど、これらの無数の神の世界から投げかけられた糸が、一度に彼の魂に集中したような気持ちだった。そして彼の魂は『他界との接触』にふるえていた。彼は一切に対して全ての人を赦し、同時に、自分の方からも赦しを乞いたくなった。しかも、ああ、決して自分のためではなく、一切に対して、全ての人のために……。あの穹窿のように確固として揺るぎないあるものが彼の魂の中に忍び入った。さっき地上に身を伏せた時は、脆弱い青年にすぎなかったが、立ち上がった時はすでに、一生かわることのない堅固な力をもった戦士だった。

(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」より抜粋)

他にも、生き方が変わる特異点の物語にアラン・ムーア原作の映画「V for Vendetta」があります。公安に捕まった娘イヴィーは公安から正義のテロリストVの居場所を吐けと拷問にかけられます。拷問にかけられて衰弱したイヴィーは「これ以上白状しないようなら、即刻処刑する」と公安に脅されます。しかし、それでもなおイヴィーは白状しませんでした。生命よりも大切なものを守るために処刑も辞さずとイヴィーは死を覚悟したのでした。そして、その次の瞬間、彼女の中で何かが変わります。スピリットの一撃によって魂を覆う殻に穴が穿たれた瞬間でした。イヴィーは錯乱して呼吸困難に陥りますが、Vによって連れ出された雨の中で立ち上がったときにはイヴィーはすでに戦士に生まれ変わっていました。イヴィーとVの会話を一部簡略化して下記に抜粋します。

「放っておいて!」 彼女が叫ぶ。「あんたなんか大嫌いよ!」
「それなんだ!」 彼は再び立ち止まり、彼女との距離を保った。
「最初、私も憎しみだけだった。憎しみが私の知る全てであった。
憎しみが私の世界を形成し、私を閉じ込め、
憎しみを食らい、飲み込み、呼吸する術を教えた。
血管に流れる憎しみだけで死ぬかもしれないと思っていた。
しかし、何かが起こった。君に起こったのと同じようなことが」
「うるさい!」 彼女が金切り声を上げた。「あんたの嘘はもう聞きたくないわ!」
「逃げてはいけない」 彼は続けた。「君はこれまでずっと逃げ続けていたのだ」
「ああ、いやよ」 彼女は突然あえぐと両膝をついて、胎児の姿勢になった。
パニックが止めどもない勢いで襲ってきたのだ。
「息が・・・できない・・・ぜんそく・・・小さい時に・・・」
彼女はぜいぜいと呼吸し呻きながら、何とか窒息しないようにした。
「私の話を聞くのだ、イヴィー」 彼は言った。
「今こそ君の人生で最も重要な瞬間だ。立ち向かうのだ。
君は彼らに両親を奪われた。君が好意を抱くようになった男を奪った。
君を独房に入れ、命以外の全てを奪った。君はそれが全てだと信じていたね?
君に残されたものは命だけだと。でもそうではなかったね?」
イヴィーは頷き、熱い涙が頬を伝った。
「君はそれ以外のものを発見した。あの独房で、君は命よりも重要なものを見つけた。
なぜなら、求めるものを渡さないのなら命を奪う、殺すと脅された時、
君はむしろ死んだ方がましだと言ったのだ。君は死と対決したんだ、イヴィー。
君は落ち着き、平静であった。あの時の感覚を思い出すんだ」
イヴィーは言われた通りにした・・・再び開放感を味わった。
「めまいがするわ。空気が欲しい。お願い。外に行きたい」
「エレベーターがある。屋上に連れていこう」
・・・・・・
彼から離れていないところで、降り注ぐ雨の中、屋上に立ち尽くしたまま、
イヴィーはむせび泣き始めた。
彼女もかつてのVと同じように、自らの存在全てが永劫なるものと融合するのを感じた。
頭上、踊り狂う稲妻が、再び神々しいばかりの激烈さで夜空を染め上げた。
神々が常にしてきたように「我こそ!」と絶叫し、光の中に人の姿となって顕現した。
啓示。
悟り。

(スティーヴ・ムーア「Vフォー・ヴェンデッタ」より簡略抜粋)

ローズも雨のニューヨークに降り立ったとき、固い決意をもった戦士だったのではないでしょうか。

(*2)ローズの選択について補足しておきます。沈没事故から助かったローズが他の男性と結婚したことを批判する意見がありますので、そのことについて述べておきます。恋愛の愛と大きな愛の違いがそこにはあって大事だと思いますので。さて、もし、ローズが沈没事故で助かった後、ジャックを一生大切に想って生涯結婚せずに暮らしたとしたら、ジャックは喜んだでしょうか?ジャックの願いは「ローズが幸せになること」です。ローズがジャックだけを想って子供も産まずに生涯を終えることは、ジャックにはそれがローズの幸せだとは考えられなかったと思います。確かにジャックは自分が生きていれば、ローズと一緒になりたかったでしょうが、ジャックは、もう、自分は生きられないことは分かっていたはずです。自分の生命を犠牲にしてもローズを救いたかったのがジャックが選んだ選択でした。だから、ジャックは死んでしまった自分のことを生涯想い続けるよりも、新しい伴侶を得て、家族を作って、ローズが充実した幸せをつかむことを願ったと思います。そこには、ジャックの無償の愛があります。この愛は恋愛の愛というよりも、もっと大きな愛で、ただ、ひたすら、愛するひとの幸せを願う愛です。そして、ローズには、ジャックのその気持ち、ジャックの愛が痛いほど分かっていたのだと思います。でも、ジャックの愛が分かれば分かるほど、それはローズには痛かったと思います。愛するジャックから彼の生命を賭けた愛をローズはもらった。けれども、死んでしまったジャックにはローズからは愛を返すことはできない。それはローズにとって辛く、胸の痛いことだったと思います。愛するひとに自分の愛を届けられないのだから。だから、なおのこと、いい加減な生き方はローズにはできません。ジャックが自分の生命を投げ出してまで救ってくれた生命なのですから、精一杯、生きなければジャックに申し訳が立たないからです。だから、ローズはジャックの愛に応えるためにも、精一杯、充実した人生を生きなければならず、そして約束を果たしたのだと思います。もちろん、ローズは夫を愛したと思いますし、一方でジャックも愛していると思います。これは恋愛の愛ではなくて、もっと大きな愛という意味で。恋愛の愛が至上の愛というわけではないでしょう。恋愛や結婚という形で愛が保証されるわけではなく、愛は善き心のあるところに芽生えるのだと思います。

(*3)ところで、ウィンスレットが出演した映画には同じようなシーンが数多く見られます。

例えば、水中のシーンが非常に多いです。まず、この「タイタニック」で大西洋に投げ出されて危うく溺れそうになったのは有名です。映画出演第一作目の「乙女の祈り」では水着を着て湖に飛び込みそうで飛び込みませんでした。かわりに浴槽の場面があります。「ハムレット」ではオフィーリア役であっさり溺死しました。「グッバイ・モロッコ」では水中シーンに慣れてきたのか、全裸で湖を大きなストライドで気持ち良く平泳ぎしています。ところが、「クイルズ」では再び洗濯槽で溺死してしまいます。もう、十分、ウィンスレットの水中シーンに慣れたかなと思ったら、「アイリス」では川でかなり大胆に全裸で泳いでいてびっくりしました。草木の緑と女性の白い裸体が綺麗に映えるラファエル前派の絵画を連想させる美しい光景でした。ウィンスレット自身も水中シーンには完全に慣れたのかなと思ったら、「エターナル・サンシャイン」では巨大な台所の流しの中で撮影中に失神してしまったそうです。それでも、やはり水中シーンは止められないらしく、「オールザキングスメン」では夜に海を泳いでいます。さらに「リトルチルドレン」ではプールで泳いでいます。まだまだ続きます。「ホリデイ」で邸宅のプールで豪快にクロールで泳いでいます。「愛を読むひと」では下着姿で川を泳いでいます。もうほとんど水中シーンでやることはやったかなと思ったら、「Romance&Cigarettes」ではとうとう水中で歌まで歌っています(笑)。これだけ水の場面が多い女優さんも珍しいと思います。

また、喫煙のシーンも非常に多いです。「日陰のふたり」で何度もタバコを吸っています。「タイタニック」ではキャルに喫煙を注意されてましたね。「グッバイ・モロッコ」ではお金がなくて落ち込んだ時に一服してました。「ホーリースモーク」では手巻きタバコを器用に巻いて一服してます。「アイリス」では、執筆にタバコは欠かせないようでした。唯一、「ライフオブデビッドゲイル」では嫌煙で相棒が吸うことを注意してました。「レボリューショナリーロード」では、夫婦喧嘩の後に気持ちを落ち着かせるために吸っていました。「Romance&Cigarettes」ではセクシーに煙を吹いています。ところで、ウィンスレットは、プライベートでは子供のいる家では吸わないらしく、外出中に吸うらしいです。ちなみに、アカデミー受賞後はタバコは止めるつもりと言ってはいましたが、どうなんでしょうね(笑)。

ところで、映画の中で俳優が格好良くタバコを吸うのは、映画のスポンサーにタバコ会社がいて、タバコの宣伝のためにわざわざ吸わせていることが多いんだそうです。というのも、国によっては規制でタバコの宣伝ができないらしいので、替わりに映画の中で宣伝するんだそうです。もしかしたら、ウィンスレットもタバコ会社と契約しているのでしょうか?ただ、内容的にどうなんでしょう。例えば、「グッバイ・モロッコ」ではジュリア(=ウィンスレット)はお金が無くなって困ってしまい、やさぐれてタバコを吸っています(笑)。また、「レボリューショナリー・ロード」では夫婦喧嘩のあとに自宅の裏山で、やはり、やさぐれてタバコを吸ってました(笑)。かなり身体に悪そうな吸い方でした。さらに、「Romance&Cigarettes」では肺ガンの写真を背景に肺ガンを患ってゲホゲホ言いながら踊るダンスを披露していました(笑)。タバコの宣伝としては逆効果なんじゃないでしょうか(笑)。たしかに、ウィンスレットの喫煙はちょっと気になりますが、ただ、彼女に喫煙を注意するのは勇気がいります。以前、映画「タイタニック」の中で喫煙を注意した男性がいましたが、彼がどのような結末を向かえたかは周知の通りです(笑)。


さらに、自転車のシーンも多いです。パターンは二人で自転車を並行に走らせることが多いです。「乙女の祈り」、「日陰のふたり」、「アイリス」、「愛を読むひと」など二人で自転車を走らせています。

それから、情感を込めて朗読するシーンもいくつかあります。「いつか晴れた日に」ではシェイクスピアの詩を朗読していますし、「日陰のふたり」では墓碑銘を読んでいます。「グッバイ・モロッコ」では翻訳を頼まれた詩を朗読しています。「Extras!」ではエッチ電話の一例を熱意を込めて読んでいます(笑)。また、歌を歌うシーンもあります。「乙女の祈り」でしっとりと歌っていますし、「いつか晴れた日に」ではピアノを弾きながら歌っています。「アイリス」では「The Lark in the Clear Air」をキレイに歌っています。ウィンスレットの朗読は非常に明確で力強いと思います。普通の会話でも彼女の英語は聞き取りやすいんじゃないでしょうか。 

2009年11月14日

ケイト・ウィンスレット その3


■「乙女の祈り」(原題「Hevenly Creater」) ピーター・ジャクソン監督(1994) 
この映画は1954年にニュージーランドで実際に起こった殺人事件を題材に作られた物語です。

■あらすじ
ポウリーンはニュージーランドの女子高生ですが、窮屈な学生生活にややうんざりしています。そんなある日、名門カンタベリー大学の新学長の娘ジュリエットが転校してきます。二人は周囲の普通の女子高生からは浮いたところがあり、また互いの共通点から、すぐに意気投合して親しくなります。

二人の共通点とは、1つはお互いに大きな病気を患った経験があることです。ポウリーンは幼い頃に脚の病気で長期間入院しており、今も脚に大きな傷跡が残っていますし、少し脚が不自由なところがあります。一方、ジュリエットも幼い頃に肺の病気で長期間入院しています。ジュリエットはこの入院中に両親と離ればなれになってしまって、かなり寂しい想いをしたようで、今でもそれが少しトラウマになっています。

もう1つの共通点は、二人はオペラ歌手のマリオ・ランザやハリウッドスターたちなど特定の音楽や美術をこよなく愛している点です。もしかしたら、ポウリーンはジュリエットに感化されたのがきっかけで、それらの趣味に走ったのかもしれませんが、いずれにしても、それらが好きであったことに違いはありません。彼女たちの趣味への憧れは、どんどん膨らんでいって、自分たちの好きな音楽や美術だけで作られた”第4の世界”を想像する至ります。彼女たちはキリスト教の天国よりもこの”第4の世界”に憧れるほどになります。

さらに、彼女たちは”ボロヴィニア王国”という中世風の架空の王国を創作して想像で楽しむようになります。王国の住人の像を作ったり、数世代に渡る王族の物語を創作したりします。そして、自分たちもその世界で王や王妃のような貴人となって自由気ままに振舞うこと-気に入らなければ領民を殺しまくったり、王家の夫婦生活を赤裸々らに描くなど-を想像して楽しみます。ジュリエットはデボラ、ポウリーンはジーナというようにボロヴィニア王国の登場人物の名前で互いを呼び合ったりするようにまでなります。そんな彼女たちの将来の夢は作家になって、ハリウッドに行くことでした。

ところで、ジュリエットは父は学者で地元の名門大の学長、母は結婚カウンセラーなど知的でアクティブな仕事をしており、お金持ちのエリート家族です。一方、ポウリーンは父は魚問屋のマネージャーで母は自宅の下宿を切り盛りしており、一般家庭です。家庭環境が大きく違う二人ですが、お互いに気が合うので仲良くなります。

そんなとき、ポウリーンとジュリエットは、ジュリエットの家族と一緒にバカンスに出かけます。ポウリーンも家族同然に仲良く遊んでいたのですが、ジュリエットの両親が学会で英国に行くため、当分、ジュリエットは一人ぼっちにされることが判明します。ジュリエットは幼い日のトラウマが甦ったのか、悲しみのあまり野山で一人泣き崩れてしまいます。心配したポウリーンが追いかけてきますが、ジュリエットの様子がいつもと違って変です。どうやら悲しみのあまり錯乱したジュリエットは幻覚を見ているようなのです。そして、不思議なことに、それが伝染したようにポウリーンにも同じ幻覚が見えるようになります。ついに二人は、二人だけの幻覚を共有するに至り、二人の親密度はさらに高まるのでした。

さらに、ある日、ジュリエットが肺病に倒れてしまいます。ジュリエットは結核に犯されており、療養所に長期入院することになります。その間、ジュリエットの両親は旅行で見舞いに行きませんでした。ポウリーンだけが手紙や見舞いなどジュリエットの心の支えになります。また、ポウリーンはこの間に下宿生と恋仲になりますが、下宿生とセックスしても全然気持ち良くはなく、むしろ、ジュリエットの面影が脳裏にちらつきます。ポウリーンにとってもジュリエットはかけがいのない存在であることが意識されます。そして、ジュリエットが退院するときには、ジュリエットは両親よりもポウリーンがかけがいのない存在になり、ポウリーンもジュリエットがかけがいのない存在になって、二人は互いに強く結びつきます。

そんな親密すぎる二人を見たジュリエットの父は、二人の同性愛を懸念してポウリーンの母親に働きかけて、ポウリーンを診察させます。診察の結果、ポウリーンに同性愛の傾向が見られるということで、ポウリーンの母親はポウリーンがジュリエットに会わないように厳しくします。ジュリエットが大好きなポウリーンは、次第に二人の仲を邪魔する母親が疎ましくなってゆきます。

そんなとき、ジュリエットの母親の不倫が発覚します。ジュリエットは深い悲しみに沈みますが、追い打ちをかけるように、両親の離婚が決まり、ジュリエットはひとり南アフリカの伯母の元に送られることが決まります。そのことを知ったポウリーンは自分もジュリエットについて行くと言い出しますが、母親が猛反対して許しませんでした。そのため、ジュリエットもポウリーンも互いに離れたくないばかりに激しく落ち込みます。二人のあまりの落ち込みようを心配した両親たちが二人で2週間ほど一緒に過ごせるようにします。二人はこの間に深く愛し合うようになり、ついには同性愛の関係まで結ぶようになります。そして、もう離れられないと感じたポウリーンは邪魔をする母親を殺すことを提案します。二人は母親を殺すことを決意して、殺害計画を立てます。

二人は計画通りにポウリーンの母親を誘って、ジュリエットとポウリーンの三人でハイキングに出かけます。そして、山中で二人は協力して、ポウリーンの母親をレンガで殴り殺したのでした…。

■悪の物語(*1)
この映画は”悪”を描いた物語です。”悪”と言っても、単なる”善悪の悪”ではありません。”制御できない力”、”枠には収まらずにはみ出してしまう荒ぶる過剰なエネルギー”としての悪を描いています。

通常、思春期の過剰なエネルギーは反抗期となって現れ、人それぞれに違った様々な人格形成に影響を及ぼしながら、最終的には、性にそのエネルギーを開放するようになると思います。

ところが、この二人の場合は、二人の強力な個性をもった乙女が偶然結びついたことで通常とは違ってきます。この二人はそのエネルギーのはけ口として妄想の世界を見つけ、ついには二人だけの世界を幻覚するに至ります。この二人だけの世界は二人だけに都合の良い世界なので、誰からも束縛を受けません。彼女たちはそこで自由に自分たちの欲求を開放します。その結果、大人たちの社会的な世界よりも自分たちの特殊な世界を正当なものと考え、母親殺しという突飛な暴走に至ったのだと思います。

■幻覚の世界と妄想の世界
興味深いのがジュリエットが幻覚を見る場面です。両親の学会旅行を知ったジュリエットは精神的な錯乱と過呼吸によって幻覚を見ます。過呼吸による幻覚は多くの事例があると思います。さらに面白いのは、ポウリーンまでがジュリエットに牽引されるように幻覚体験をするこです。人類学の調査報告によれば、夢見や幻覚を共有する事例は意外と多くあるようです。不思議なことに、シャーマンたちは、同じ場所で同時に眠ると、どちらかに引っ張られるように同じ風景・同じ場所の夢を見ることが多いらしいです。また、一般に体験的に知られている事例では、通常の覚醒した意識状態ですが、「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というように同じ対象に対して一人だけでなく複数の人が同じような幽霊の姿を見るように、同時にゲシュタルト崩壊を起こすのに似ています。

それから、上記した幻覚の世界とは別に彼女たちは妄想の世界を持っています。ボロヴィニア王国や第4の世界です。映画では、幻覚と妄想の区別が曖昧になってゆきますが、厳密には、幻覚と妄想は微妙に違うと思います。ですが、二人の「結びつきたい」という願望が強かったのでしょう、彼女たちの強い願望が妄想をよりリアルなもの、幻覚に近いものにまで高めたのだと思います。

まあ、とはいえ、これらの場面は映画で作られた話でしょうから、実際の彼女たちがこのような体験をしたかどうかは疑問です。ですが、よくできた話だと私は思います。

■同性愛への疑問
ところで、彼女たちを同性愛者と見る見方があるかもしれませんが、私はそれは少し違うと思います。彼女たちは最終的には同性愛関係に至りますが、いわゆるレズビアンかというと、そうではないんじゃないかと思います。なぜなら、彼女たちは、元々は理想の男性に恋焦がれていたからです。それが、周囲の反対が逆効果となって二人を強く結びつけ、ついには性への好奇心から同性愛関係に至ります。ですから、どちらかというと、レズビアンというよりは、互いを愛する表現として、最終的にセックスを選んだのだと思います。ですから、元々は、同性に性的欲求を感じるというものから発したのではなく、愛情表現のひとつとして、そのような関係になったと思います。なので、彼女たちの間に芽生えた愛は同性愛というよりは友愛に近いものだと思います。ただ、普通の友愛と違うのは、二人だけの幻覚と妄想の世界を共有した点です。二人だけの特別な世界を共有したことが、普通の友愛以上に強固な相愛へ二人を結びつけたのだと思います。(ただし、実在の二人は同性愛だったようです。)

それにしても、女の子同士でのハグやキスのスキンシップはキレイで良いなあって思いました。スキンシップをすることで相手の暖かみや存在を実感して愛情を確認しているようで、本当にいい感じです。

■演技について
この映画でジュリエット役を演じたケイト・ウィンスレットの演技が私はとても大好きです。
本当にこの映画の中のどの演技も味わい深くて好きなのですが、好きな場面をいくつか例として上げておきます。

①ジュリエットがポウリーンの足の傷を見る場面
ジュリエットが舐めるようにポウリーンの傷痕を見回して、大きな傷跡に背筋に寒気を感じながらも、興奮して目を細め、鼻を膨らませるのがとても良い感じです。

Can I have another look? . . .That's so impressive!
Can I touch it?  Woo. . . I've got scars . . . they're on my lungs.

見せてくれる?・・・すごい傷跡!
触ってもいい? うう、凄い、・・・私にも傷があるのよ、肺にね。

ウィンスレットは元々こういう膨らんだ鼻なのですが、こういう場面では一層引き立ちます。

②ジュリエットがポウリーンの母親に悪態をつく場面
ポウリーンの母親が両親が旅行でいないジュリエットを気遣って「両親はあなたのためを思って入院させたんだから…」というのですが、ジュリエットは腹立てて、目を剥き、舌を突き出して悪態をつきます。

They sent me off to the Bahamas "for the good of my health."
They sent me to the Bay of bloody Islands "for the good of my health."

バハマ諸島へ行かされたわ!体のためと言ってね!
くそニュージランドのホークス湾へも行かされたわ!体のためと言ってね!

ジュリエットの怒りに歪んだ醜さがたまりません。

③仕返しのいたずらをして草むらで笑う場面
ジュリエットの豪邸でパーティが催されている場面。ポウリーンを同性愛と診察した医師が婦人を伴って庭の池にやってきます。そこへジュリエットたちが大きな石を投げ込んで大きな水しぶきを上げます。その水しぶきが医師のズボンを濡らしてしまいます。それを見て、野原の陰で歓喜するジュリエットとポウリーンの会話が最高です。

ジュリエット”Direct hit! Gave his trousers a good soaking!
(命中!ズボンが見事にずぶ濡れ!)

ポウリーン”Everyone will think he's peed himself!”
(みんな、彼がお漏らししたと思うでしょうね!)

ジュリエット”HaーHaーー!!”
(ハッハーーッ!)
ジュリエットが草むらの間で歯を剥き出しにして笑うのがたまりません。乙女というより、ただの悪ガキです(笑)。

④バスルームでポウリーンの悩みを笑い飛ばす場面
浴槽の中で向き合って座っている場面で、ポウリーンが悲しそうな表情で自分の置かれた窮状を訴えます。

ポウリーン ”I think I'm going crazy”
(私、頭が変になっちゃいそう…)

それに対して、ジュリエットが不敵な表情で余裕で次のように笑い飛ばします。

ジュリエット”No, you're not, Gina, it's everybody else who is bonkers!”
(そうじゃないわ、ジーナ。狂ってるのは連中よ!)

最後に、「フンッ!」と笑って吐き捨てるジュリエットの鼻息が最高です!!!

⑤母親をレンガで殴り殺す場面
ジュリエットがポウリーンからレンガを受け取って、ポウリーンの母親にレンガを打ちおろします。
そのときのジュリエットの悪魔的な醜さが何ともいえません。

他にも、ジュリエットとポウリーンが下着で森の中を歌い踊っていたら仕事中のおじさんに見つかる場面やジュリエットが弟に「あんたのオモチャを全部壊してやるから!」と言って舌と鼻を突き出す場面も好きです。他にも良い場面がたくさんあります。私的には、この映画全般のケイトの鼻がとても良い感じに思います。

■千変万化の変化
この映画の中で、ウィンスレットは千変万化の変化(へんげ)を見せます。野蛮人からお姫様まで多種多様な顔を変幻自在に見せる、まさに、変身です。そんな生き生きとした彼女の中に熱い生命の炎を感じます。特に、人が悪に燃えるとき、生命の炎は妖しく激しく煌めきます。

■まとめ
この事件をどう捉えるかは難しい問題です。おそらく、当時の彼女たちには罪の意識は希薄だったのではないかと思います。彼女たちから見れば、愛し合う二人の邪魔をする母親を単に排除したかったというのが理由だからです。当時の社会は同性愛は悪だったかもしれませんが、現代では特に同性愛そのものが悪というわけではないでしょう。二人からすれば、二人の愛を邪魔する者こそ悪だったに違いないでしょう。もっとも、殺されたポウリーンの母親が先頭に立って二人の邪魔をしていたわけでないので、誤解・妄想に基づく殺人であって、母親からすれば、迷惑千万な話です。ともかく、どんな理由であれ殺人は悪であるので、二人に重大な罪があることに変わりありません。ただ、悪意に基づく殺人ではなく、二人が強く愛し合うがゆえに起こった事件だけに、第三者から見れば、どこか煮え切らない割り切れない思いが残ります。

ただ、この映画自体は、特殊なケースではあるけれども、思春期の女の子の制御できないエネルギーの問題を扱っていると思います。彼女たちは幻覚と妄想を共有して、さらに、同性愛にまで目覚めます。他と違って彼女たちが特殊なところは、妄想の共有や同性愛だけでなく、幻覚まで共有できる点にあると思います。幻覚を共有できるのは、女性ゆえの強力なエネルギーがなせる業だと思います。

■注釈
(*1)この作品の他に悪を描いた映画には「時計じかけのオレンジ」があります。これは青年の暴力と性の暴走を描いた作品です。物語のベース自体は近未来の管理社会になっているのですが、表現の主体は暴力と性が描かれています。この映画での悪は青年の悪であり、それは性欲や暴力衝動という比較的シンプルな悪を描いています。一方、「乙女の祈り」では、幻視という女性の強力な精神力がもたらす精神的な暴走を描いているので、「時計じかけのオレンジ」のシンプルな暴力世界よりも、より豊かな悪の世界になっていると思います。もっとも、シンプルではあるけれども、恐ろしさという点では「時計じかけのオレンジ」に優る映画はないと思います。

また、近年では悪を描いた映画に「ダークナイト」(=バットマン)のジョーカーがあります。ジョーカーは秩序の純粋な破壊者足らんとしています。どういうことかというと、例えば「バットマン」に登場する怪人たちはいずれも心にトラウマを抱えています。怪人たちは、そのトラウマが元で心の歯車が狂って、反社会的な怪人となってしまっています。一方、怪人を取り締まるバットマン自身も実は様々なトラウマを心に抱えています。ただ、バットマンの場合は怪人たちと違って、トラウマから生じた反動を社会正義のために使っています。ですが、心にトラウマを抱えている点ではバットマンも怪人も同じです。(米国のアニメ版では、バットマンは相棒のロビンから人間味に欠けると指摘されて落ち込んでいました。実はバットマンは人間的に完全無欠な英雄でなくて、むしろ、人間として問題を多く抱えた人物なのです。)なので、バットマンも怪人も奇妙なコスチュームに身を包んでいるのだと思います。ところが、ジョーカーの場合は怪人たちやバットマンとは違っています。確かにジョーカーも醜い姿になったことがきっかけで怪人になってはいます。しかし、ジョーカーと他の怪人たちでは決定的な違いがあると思います。それは何かと言うと、まず、怪人たちの悪を別の言葉で言い換えると、怪人たちの悪は実は自分たちの別の正義に基づいていると言えると思います。つまり、バットマンの正義と怪人たちの別の正義のぶつかり合いが物語になっています。しかし、ジョーカーは違います。ジョーカーには別の正義はありません。というのも、怪人たちの悪である別の正義も実は普通の正義と同じく秩序のある世界だからです。正義の種類は異なっているけれど、どちらも彼らの正義=規則に基づいた秩序ある世界なのです。つまり、怪人たちは別の正義に基づいた秩序ある世界に生きています。しかし、ジョーカーは秩序そのものを破壊しようとします。ジョーカーには正義はもちろん、別の正義もありません。ジョーカーにあるのは、ただ秩序を破壊することだけです。ジョーカーの目指すものはカオスです。彼は秩序ある世界の純粋な破壊者たらんとしているのです。彼の名前の如く、トランプのジョーカーのように彼だけはバットマンや他の怪人たちとは次元を異にする別格になっています。自然世界にエントロピーの法則があるように、カオスに向かってゆくのが自然の摂理なのかもしれません。ジョーカーはそれを体現した存在なのかもしれません。ということは、社会秩序に収まるように心を抑制する私たちの方があるいは不自然なのかもしれません。ジョーカーのような破壊への衝動は本当は人間に自然に備わっていたものなのかもしれないのです。私たちの子供の頃がそうであったように、あるいは、詩人ランボーのように。確かに愉快犯は否定されねばなりませんが、その心を自分たちにはまったく無いものとして無理解に拒絶するとき、実は心が病んでいるのはジョーカーの側ではなく、私たち自身の心が自分でも気づかないうちに病んでしまっていることになるのかもしれません。ですから、悪は拒絶されねばなりませんが、悪を理解する心を失ってはいけないと思います。(これは人類学では道化論に近いと思います。ただ、悪の制御は容易ならざるものがあって、上記のように悪を秩序の枠組みに組み込むことなど不可能だとは思います。なお、世界最強の破壊者は道化です。)ちなみに、私はバットマンシリーズの中ではティム・バートン監督の「バットマン・リターンズ」が好きです。この作品では怪人の悪よりも人間の悪の方がよっぽど悪辣で厄介なものであることが描かれていますし、キャットウーマンの女性的な狂気や生命力が表現されていて好きです。バットマン自身も自分の二重性(=異常人格)に苦しんでいます。それにしても、そもそも、まったく狂気のないまともな人間というのはいるのでしょうか?むしろ、人間は狂気を抱えている存在なのではないでしょうか?人が胸を張って自分はまともだと主張するとき、実はバットマンに登場する怪人たちのように自分の正義を他人に押し付けるようなものなのかもしれません。

それから、さらに脱線ですが、悪女ではないけれど、ほんの少し悪を見せる映画に黒澤明監督の「わが青春に悔なし」があります。原節子演じる八木原幸枝が男友達に論争でやり込められた腹いせにまったく関係のない別の男友達に、理由もないのにいきなり土下座をさせるシーンがあります。「ねぇ、ねぇ、お願い。何でもいいから土下座して。ねぇったら!」と甘えるように言って男を無理矢理土下座させたときに、ゆらゆらと愉悦に浸る原節子の黒い笑みが浮かび上がってきます。しかし、すぐに我に返って土下座を止めさせます。黒澤監督が見事に描いた悪のゆらめきです。ちなみに、原節子の撮り方は小津安二郎より黒澤明の方が私は好きですし、その方が正しいんじゃないかと思っています。確かに小津安二郎の世界も嫌いではありませんが、原節子のような日本人離れした豪華で派手な美人は黒澤明のような線が太く印象の濃い力強い女性の役のほうが断然良いと思います。逆に小津安二郎の中の原節子はどこか押し込められて窮屈に感じます。下手をすると抑圧された女性になってしまいます。ですので、「わが青春に悔なし」の八木原幸枝や「白痴」のナスターシャ(=那須妙子)の方が原節子の生命力が十分に発揮されていて私は大好きです。今でも「白痴」の激しく燃える炎のような女性ナスターシャにピッタリな日本の女優は原節子を除いていないのではないかと思います。なお、この「白痴」のナスターシャも燃えさかる暖炉の中に10万ルーブリを投げ込んでしまうなど、彼女もまた制御できない悪、荒ぶる魂を抱えた女性なのだと思います。ナスターシャを刺し殺してしまうロゴージンも同様に荒ぶる魂を抱えていますが、ナスターシャとロゴージンの関係を見ても分かるように、ナスターシャの激しさの前ではロゴージンもかすんでしまいます。生命力の激しさでは、女性の方が圧倒的に強いと思います。ちなみに1958年のソ連版「白痴 」も私は大好きです。

(*2)余談ですが、私はこの映画を見て、やはりヨーロッパ人の精神文化の基層はキリスト教ではないのではないかと感じました。キリスト教は元々は西アジアで生まれた一神教の一種であって、ローマ帝国によって国教として広められましたが、その実、ヨーロッパ社会の底流にはもっとアニミスティックな宗教観が脈々と受け継がれているのではないかと感じました。映画の所々で見られる非キリスト教的な宗教的な感性があることに、アニミスティックな日本人としてちょっと親近感が持てました。

2009年11月7日

ケイト・ウィンスレット その2

■「アイリス」(原題「Iris」) リチャード・エアー監督(2001)
この映画は、英国の著名な作家で哲学者のアイリス・マードックの半生を描いた物語です。映画は若き日のアイリスをケイト・ウィンスレットが演じ、年老いてアルツハイマー病に冒されてゆくアイリスをジュディ・デンチが演じています。原作は、文芸評論家で夫のジョン・ベイリーの回想録が元になっています。

■あらすじ
この映画は2つのパートに分かれています。1つは恋愛に自由奔放な若き日のアイリスを描いています。もう1つは年老いてアルツハイマー病を患って自分がどんどん失われてゆく晩年のアイリスが交互に描かれています。アイリスの夫ジョン・ベイリーは、若いときはアイリスの自由奔放さに振り回され、年老いてからはアルツハイマー病によって振り回されます。ジョンは翻弄されているように見えますが、それでもジョンはアイリスを強く愛し続けるという話です。

若い頃のアイリスは数多くの恋愛遍歴を持ち、ベイリーと付き合いはじめても、他に恋人がいるくらいでした。そんな恋人のひとりにモーリスがいました。モーリスもアイリスの恋人の多さに辟易しており、ベイリーを交えた食事会の席でも、そのことでアイリスを責めたりしました。モーリスによれば、アイリスがたくさんの恋人を作るのは小説を書くために経験豊富な男達を知るためだというものでした。そこで、アイリスとモーリスの間でちょっとした口論になるのですが、ベイリーはアイリスをかばいます。アイリスはベイリーの優しさに心を動かされて深い関係になります。しかし、それでもアイリスには多くの男友達がいて、ベイリーは友人のジャネットからも忠告を受けたりします。けれども、ベイリーはそれでもなおアイリスを愛し続けます。しかし、あまりの男友達の多さに嫉妬したベイリーはアイリスの世界に自分を入れてくれないことを寂しくアイリスに訴えます。アイリスはベイリーと世界を共有するために自身の男性遍歴についてベイリーに告白します。ここは驚くと共にちょっと面白かったのですが、次から次へとアイリスの男性遍歴が明かされてゆきます。「えっ!そんなにたくさんいたの?!」というくらい(笑)。すべての男性遍歴を聞き終わって、アイリスとベイリーは抱き合って深い愛を誓うのでした。

一方、年老いたアイリスはアルツハイマー病に冒されて痴呆に悩まされますが、なんとか最後の小説「ジャクソンのジレンマ」を書き終えます。しかし、その後はどんどん病気が進行して、言葉だけでなく、アイリスの人格さえも失われてゆきます。いつの間にか街を徘徊したりしてベイリーを心配させたりします。友人のジャネットの葬儀の帰り道では興奮して、走っている状態の自動車から飛び降りさえしてしまいます。ベイリーはそんなアイリスに手を焼きながらも自宅で面倒を見続けますが、ついにアイリスの症状も酷くなり、ベイリーも限界に達したとき、アイリスを介護施設に入れることにします。そして、それからまもなくしてアイリスは静に息を引き取ったのでした。

■アイリスの両性愛
ここでは、普通とはちょっと違ったこの映画の見方を提示します。普通はこの映画は若い時はアイリスの自由奔放な恋愛遍歴に、年老いてからはアイリスのアルツハイマー病に振り回されながらも、夫ジョン・ベイリーがアイリスとの苦労しながらも愛し合った二人の愛を描いた物語として受け取られると思います。しかし、ここではそれとはちょっと違う見方を提示しようと思います。

映画の中のアイリスはよく「真実は私の胸の内にだけある」と言っています。アイリスは自分の心のうちを人に知られるのを好みません。小説も最初は誰にも読ませんでした。アイリスには、ちょっと秘密主義なところがあります。ですので、本当は秘密でもないのに秘密っぽくして「さあ、どうかしら?」(ニヤリ)といった感じでジョンをからかうようなところがあると思っていました。例えば、それは映画の中でカフェでアイリスとジョンが落ち合う場面で、先にカフェで待っていたアイリスが女友達と別れのキスをしていました。ジョンはそれを色々と勘ぐって「君はレズなの?」と言って尋ねます。アイリスはニンマリと微笑んでその質問に答えませんでした。私はてっきり「真実は私の胸の内にある」という信条でジョンをからかっているのかと思っていました。

ところが、アイリスの経歴を見てみると、実はアイリスにはなんと女性の恋人がいました!相手は彼女が勤めていた大学の同僚だったようです。1963年、44歳のときにアイリスは大学を辞めていますが、どうやらアイリスとその女性との同性愛がばれたのが原因でジョンとの間に夫婦の危機があり、その女性の恋人への執着を断つためにアイリスは大学を辞めたようなのです。この点を踏まえると、ジョンに「レズなの?」と訊かれた時にアイリスが答えなかったのは、ジョンをからかっていたわけではなかったと思います。さらに、アイリスの男性遍歴を全部告白していた場面をそれを踏まえて考えると、たしかにアイリスが男関係を洗いざらい喋ったことに嘘はないのですが、それは男関係だけであって、まさかアイリスが女性とも関係しているとはジョンは夢にも思っていなかったのではないでしょうか(笑)。なかなかお茶目なアイリスです(笑)。

ともかく、アイリスは女性も男性も両方いけるバイセクシャルだったようです。ジョンから見れば、なんだか裏切られたような気もしないではないですが、私が思うに、アイリスにとっては男性の恋人と女性の恋人では次元が違ったのではないかと思います。アイリスにとっては、どちらも同じように愛していたのではないでしょうか。特にアイリスには子供がいませんでしたから、恋愛に対しては、比較的、自由な感覚があったのかもしれません。ただし、一方のジョンも、実はアイリスと死別してから、わりと早くに再婚しています。まあ、でも、それでいいんだと思います。本人の自由意志だと思います。他人がとやかく言うことではないのでしょう。いやはや、とにもかくにも人間というのは、なかなか複雑な生き物のようです。

ところで、面白いのですが、アイリスは1993年に過去の自分の日記(1945年~1954年頃)を見返してみたところ、自分があまりにも多くの人に恋してきたことを知って、自分で自分に驚いています。「何を今さら!」とちょっと笑ってしまいます(笑)。しかも、1985年にアイリスは批評の中で複数の人間と関係している作家を厳しく非難さえしています。いやはや、なんともお茶目なアイリスです(笑)。

アイリスの性は、まあ、ノーマルに考えれば自分勝手と映ると思いますが、半面、とても自由です。アイリスは異性にとどまらず、同性までも性愛の対象になっています。どちらか一方ではなくて両方というところがアイリスらしいと思います。このアイリスの自由な姿勢が彼女の哲学や思想にも反映されていると思います。彼女は常識や既成概念に囚われることなく、物事の本質に迫っていきます。そういった彼女の自由な精神が哲学よりもさらに深い、彼女の小説に表現されているような精神の深みへ彼女を到達させたのだと思います。

■演技について
この映画でのウィンスレットの演技は、一見何の変哲もないように見えます。しかし、実はよく見ると、ウィンスレットの様子が他の出演作とはどこか違っています。何か変です。普段の彼女とは違った違和感を感じます。よくよく見てみると、目が何だか変です。そこで若い頃のアイリス・マードック本人の写真や映像を見てみました。そうしたら、この映画でウィンスレットがやろうとした演技の意味がよく分かりました。

実はアイリス本人の目は、普通の人とは違う、ちょっとした特徴がありました。一番の特徴は、左目がわずかに外斜視になっていることです。次に、右目が利き目になっており、右目の眼光がひと際輝いていることです。また、目の動きにも特徴があって、普通の人とは違って、目がとてもよく動きます。インタビューで話しているときの映像を見ると、時々、目が少し飛び出て、カッと力強く見開いたような目になったりしますし、逆にうっすらと見開いて集中したりすることもあります。そして、テキパキと本当によく動く目で、しかも眼球の可動範囲が広く、動き方も上下左右だけでない多様な角度で動きます。まるで眼窩にはめ込まれた球体がコロコロ、コロコロと動くような感じです。そして、何よりも、グッと集中したときの目、カッと見開いたときの目の眼光が極めて力強いです。変な言い方ですが、眼にグリップ力があって、グリッと紙に折り目を付けるように目で押さえられる感じです。おそらく、アイリスは自分の心の深いところへも、意志の力が強いので、比較的簡単にダイブできているように感じられます。例えば、普通の人は思い出すときに眉間に皺を寄せて「えーと」と暗闇を手探りするように頭の中に自分の意志を届かせようとするものです。しかし、アイリスの場合はほんのちょっとだけ意志を集中させるだけで、自分の心の深いところまで比較的簡単に手が届いているように感じられます。もちろん、普通の人と同じように「えーと」と思い出す行為もやってはいます。ただ、普通の人と比べれば、容易に深いところへ入っていっていると思います。ともかく、アイリスは目に特徴のある人物です。

さて、そんな目に特徴のあるアイリスですが、それを演じるウィンスレットも特徴のある目つきになっています。まず、アイリス本人のように外斜視に見えるように、ウィンスレットは目の見開き方を左右で若干異なるようにしています。具体的には、右目を大きく見開き、左目はそれよりは小さく見開いています。そして、カメラと顔の角度を正対させずに若干角度をつけることで、左目の白目の部分をひきたたせて、左目が外斜視であるように見せています。同時に右目は大きく見開かれ、右目が利き目となって視線のリードとして力強い目になっています。さらに、眼球も通常の位置よりは少し前に飛び出しています。そして、目が飛び出しているため、眼光も通常よりは強くなっています。しかも、ウィンスレットはこれらの状態を、静止状態ではなく、自然な動きの中で行っています。ウィンスレットの顔のアップがある場面にそれがよく表れています。驚いたことにウィンスレットは、静止した瞬間的にこれらの特徴を現出させるのではなく、連続した動きの中で動きに合わせて自然に連動させて行っています。歌いながらや昂ぶった感情が連続する中で自然に連動させて演技しています。(参考動画参照)。

参考写真:上段左端がアイリス・マードック本人。上段右端が演じていないときのウィンスレット本人。それ以外はアイリスを演じているウィンスレット。
なお、これらの特徴は、この映画「アイリス」でのウィンスレットの目と他の出演作でのウィンスレットの目を見比べてみるとはっきりすると思います。例えば、他の出演作で言えば「ネバーランド」と見比べてみるとはっきりすると思います。「ネバーランド」でのウィンスレットの目は、元々、目がまっすぐなのですが、コルセットの衣装を着て姿勢がとても良いためか、とてもまっすぐな目になっています。それに比べて、アイリスを演じているウィンスレットの目は左右が非対称です。ともかく、このアイリスを演じているときのウィンスレットは他の出演作とは様子が少し違っています。

しかし、ウィンスレットがどのような技術でそれらを実現しているのかは分かりません。俳優自身の技量によるものなのか、メイキャップによる演出によるものなのか、あるいは、撮影時のカメラワークや撮影後の画像処理によるものなのかは分かりません。例えば、「タイタニック」の船尾から飛び降りようとした場面の撮影では、何度も撮り直して涙が乾いてしまうので、ウィンスレットは目の中に氷の粒を入れて撮影したそうです。もしかしたら、アイリスの撮影では眼球の裏側に綿でも詰めて、眼球を飛び出させでもしたのでしょうか?でも、それはちょっと痛いんじゃないでしょうか?そうじゃなくて、やはり、気合いで目に力を入れて演じたのでしょうか?もしそうだとすると、目にかかる負担が大きくて、後々大変だと思います。ともかく、実際はどうやって演じたのかは分かりませんが、ちょっと不思議です。ともかく、映画史上、斜視を演じた俳優は他にいないのではないでしょうか。

■その他の演技
その他の演技についても、驚かされました。最も驚かされたのは、川の中を全裸で泳ぐ場面です。確かにウィンスレットの演技はいつも大胆なのですが、この全裸での水泳はいつになく大胆でした。ただし、これは夫ジョン・ベイリーの原作「アイリスとの別れ1 作家が過去を失うとき」に忠実で原作に書かれているエピソードそのままです。驚いたことに、アイリス本人は実際に全裸で戸外の川で泳ぐのが大好きで、近所の川で全裸でよく泳いでいたそうです。他にも、例えば、イタリア旅行で行った川でもアイリスたちは全裸で泳いで、人だかりができる騒ぎになって警官が駆けつけたそうです。ですから、映画でセンセーショナルになるように勝手に脚色して大胆に描いたというよりは、原作を忠実に再現したら、結果的に大胆になってしまったというのが本当のところだと思います。それにしても、ウィンスレットは魚のような動きでキレイでした。川の緑と女性の裸体はラファエル前派の絵を彷彿とさせて、自然の緑と女性の白い滑らかな裸体のコントラストが美しかったです。それから、ジョンとのベッドシーン(?)も大胆でした。戸惑うジョンに対して、彼のズボンのポケットにアイリスが手を突っ込んでひねり上げる場面には驚きました。ここでは、実物が映っているわけではありませんが、そのしぐさ(=演技)に少々衝撃を受けるのではないかと思います。

■アイリスを演じたウィンスレットの演技に関する注意点
さて、ここまでアイリスを演じたウィンスレットの演技について幾つか語ってきましたが、ここで注意しておきたいことがあります。私はウィンスレットがアイリスの目の特徴、つまり、「左目が斜視、右目が利き目」をうまく演じたことを言いました。しかし、勘違いしやすいのですが、私はウィンスレットがアイリスの斜視を真似した理由は、形態模写のように、ただアイリスの外見だけを真似することを目的としたわけではないと考えています。どういうことかと言うと、外見をアイリスらしく見せるために斜視を真似したのではなく、アイリスの本質を表現するのに、この場合には、アイリスの斜視を真似したんだと考えています。「目は口ほどにものを言う」という諺がありますが、アイリスの人格の特徴は目に際立って顕れていたと思います。アイリスの心の有り様がアイリスの目によく表れていると思います。なので、ウィンスレットはアイリスの目を真似したんだと思います。単に形態模写を目的としたわけではないと思います。実際のアイリス本人の斜視とウィンスレットの真似した斜視では、まったく同じというわけではなくて、違いがあります。しかし、アイリスの心の有り様やアイリスの本質はウィンスレットの真似した目によって上手く演じられていると思います。

これは、このアイリスの演技に限らずに、他の出演作にも言えることだと思います。ウィンスレットの演技は演じるキャラクターの本質を捉えて演じることに特徴があると思います。もちろん、キャラクターの本質とは言っても、それはウィンスレットが捉えた、ウィンスレットが個人的に考えているキャラクターの本質に過ぎません。ですから、ウィンスレットが捉えた本質が正しいのかどうかという問題は常にあります。ただ、それは認識の問題で、どの俳優のどの演技にも生じる問題ではあります。そんなことよりも問題なのは、例えば、アイリスの本質がウィンスレットに移植されて、アイリスを演じたウィンスレットとなって顕現したとき、それはアイリス本人とは、また違った人物であるように人々には映る可能性があります。しかし、それでもなお、アイリスの本質を捉えた演技になっていると感じられるのです。それが、演じるキャラクターがアイリスのような実在の人物ではなく、架空の人物であった場合でも、そのキャラクターの本質がウィンスレットという生身の人間の中で”生きた本質”となって顕現していると思います。(*1)

さて、なんだかよく分からない話になってしまいました。今、言ったような話は、演技においてよくある話のようであり、あるいは、ちょっと変わった話のようでもあります。とりあえず、ここでは、ウィンスレットの演技は、外見や形態模写などの表象からではなく、内面や本質から、演じるキャラクターに迫っているのではないかということだけを頭の片隅に置いておいて下さい。「アイリス」では斜視という外見を似せるという演技をやっていると思われるかもしれませんが、実はウィンスレットは内面から迫るという演技をやっているのだということを頭の片隅に置いておいて下さい。

■まとめ
この映画で描かれているアイリス・マードックは夫ジョン・ベイリーから見たアイリスであって、アイリスのほんの一面に過ぎません。アイリスの哲学や小説に触れるとそこにはまた別のアイリスを発見することになると思います。しかし、アイリスの何ものにもとらわれない自由な思想や哲学は、この映画で表れている彼女の自由奔放さに繋がっていると思います。アイリスという人間全体を理解しようとするときに、この映画はアイリスの貴重な一面を私たちに教えてくれると思います。また、アイリスほどの知性の持ち主が最後にはアルツハイマー病に斃れたことは、私たちに人生の悲痛さと儚さを教えてくれていると思います。人生は本当に短いのだと思います。

なお、アイリス・マードックの哲学や思想については、この私的魔女論シリーズの最後に考える予定です。

■注釈
(*1)この成功例が「愛を読むひと」だと思います。「愛を読むひと」では監督のスティーヴン・ダルドリーは原作で描かれているハンナ・シュミッツの本質を見誤っていると思います。それに対して、ウィンスレットは見事にハンナの本質を捉えていると思います。ダルドリー監督は「朗読者」の主人公を誤ってミヒャエルに据えてしまって「愛を読むひと」を構築してしまいました。しかし、ウィンスレットがハンナを正しく演じたことで、この映画は救われていると思います。監督が最重要の主人公をマイケルに、二番目に重要な登場人物をハンナにしたことで、ウィンスレットが捉えたハンナ像でウィンスレットが演じられる余地が運良く生じたのだと思います。ダルドリー監督のハンナ像では、ハンナは強制収容所の元看守という過去を持つ文盲の女性で、無知ゆえに罪を犯し、恥を克服できなかったために刑務所で生涯を閉じた頑固な女性という貧しい女性像で終わってしまったと思います。ところが、ウィンスレットが正しくハンナを捉えたおかげで、ハンナが深みのある女性像に仕上がったと思います。結果的には、それが功を奏して、この映画にダルドリー監督の構想にはなかった深みを与えることができたのではないかと思います。女優が映画監督を超えて映画に生命を吹き込むことに成功した極めて珍しい事例だと私は思っています。

■参考文献
ジョン・ベイリー「作家が過去を失うとき -アイリスとの別れ(1)」
ジョン・ベイリー「愛がためされるとき -アイリスとの別れ(2)」