2007年3月25日

メジロ


近くを歩いていたら、公園の木に一羽のメジロがとまっていました。鮮やかな緑色が見えましたが、キョロキョロと忙しく動いたかと思うとすぐに飛び立ってしまいました。その羽ばたきで、小さなつぼみを持った小枝が微かに震えるように動きました。春の訪れを告げてくれているようでした。

それにしても、冷たい風の吹く三月でした。そんな春風から、次のような李白 の詩を思い出したりします。

天下 傷心の処
労労 客を送るの亭
春風 別れの苦しきを知り
柳条をして青から遣めず

(李白「労労亭」より抜粋)

中国の古い習慣では、旅人を見送るときに柳の枝を折って記念に渡したらしいです。冬が過ぎて柳の枝が青むころ、多くの人々は旅に出たようです。そんな習慣を元にこの詩は詠まれているようです。
「この世で最も人を悲しませる場所があります。それは、労労亭、すなわち、友人を送別するこの場所のことです。だってほら、春を告げるあの陽気な春風でさえも、別れの苦しさ・悲しさを知っていて、旅立つのはまだ早いとばかりに柳の枝に青い芽を吹かせていないではありませんか。」このように詠っているように感じられます。
「天下傷心」という詩句は随分思い切った表現かもしれません。でも、それ程までに離別の悲哀が深いものであることを李白は知っていたのだと思います。そして、別れた友のことは永遠に記憶されるのでしょうね。

また、一方で、そんな透明に澄んだ冷たい冬の空気に、春の陽光が射し込んでくると、一切の悲哀が淡くほのかに透き通しになってゆくような気がします。そして、さらに、精神も魂も純粋に透明になって、そればかりか木々や建物や空間も何もかも全てが透明になって、永遠の静けさや休らいが訪れるような、そんな気がします…。

異郷に在っても、故里の

古いならわしを尊び守って

明るく澄んだ春の祭の日に

一羽の小鳥をにがしてやる。

私はしみじみなごやかな気持ちになる。

何を神に向かって不平など言うことがあろう、

ただの一羽ではあるけれど、生きものに

自由を贈ってやることができたのだもの。

(プーシキン「小鳥」より抜粋)

”すべての人がいつも穏やかで調和のとれた平安な心でいられたら…”とプーシキン は願ったのでしょうね。

さてさて、春は別れの季節、旅立ちの季節なのかもしれませんね。
もう、春ですね。

2007年3月19日

国立民族学博物館


国立民族学博物館 を鑑賞しました。

大阪モノレールの万博記念公園駅を出ると、左手に鬱蒼とした森の中からニョッキリと突き出した太陽の塔 が見えました。そして、お腹の怒った顔がこちらを睨みつけていました。まるで、科学技術で勝ち誇った傲慢な文明社会に対する大地の怒りのように感じられました…。

さて、国立民族博物館では、世界の諸民族の様々な標本資料を鑑賞することができました。常設展では、オセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、そして、日本というように世界一周旅行のようにして各地域の資料を鑑賞することができました。また、特別展の「聖地巡礼-自分探しの旅へ-」も鑑賞できました。スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラ の巡礼を追ったドキュメンタリーでした。日本には四国遍路 があるので、聖地巡礼はとても親しみやすいものでした。その他にも、恐山 のイタコ やジプシー の黒マリア の映像もあって、とても興味深かったです。全体的に、本当にたくさん見るところがあって、1日ではとても時間が足りないくらいでした。

今回、ネイティブ・アメリカンに興味があって見に行ってみました。ネイティブ・アメリカン関連の資料としては、ホピ族 のものがありました。他にも、マヤ文明 やアボリジニ やアイヌ の資料を間近に見ることができました。また、オセアニアの仮面やアフリカの彫刻もとても興味深いものでした。来場していた若者たちが細かなスケッチをしたり、写真を取ったりと、とても勉強熱心に鑑賞していました。

ネイティブに興味があるのですが、ネイティブといってもただ単に先住していたという意味では考えていなくて、また、世界には多種多様なタイプがあるので一概に捉えることもできないとも思います。ただ、文明の嵐にさらされ続けてきたネイティブの中には、これからの人類にとって、とても大切なものを持っているものがあるように思えるのです。

たとえば、ネイティブ・アメリカン の生き方から、多くの大切なことを学ぶことができます。ネイティブの思想は、様々な局面で円環の思想を形成しています。人生や人間関係や自然との関係など多くの面で円環思想を形成しています。単純化すると、”自分の行為は自分に返ってくる”という円環的な因果律といえるかもしれません。そして、その中心には、グレート・スピリットが深く関わっています。エリアーデ などのシャーマニズム 研究を見ると、ネイティブ・アメリカンに限らず、世界中のネイティブの中に同じような精霊を見つけることができます。精霊は理知では捉えられないもののようですが、神秘的な感覚では捉えられる、とてもリアルな存在のようです。

また、ネイティブの世界観では、あえて分別すると世界は可知と不可知で捉えられ、さらに可知は既知と未知に分けられるようです。人間の知性は精霊を含む全ての世界を完全には捉えられないという世界観を持っているようです。そして、そんな世界の中にネイティブは生きていて歓びを見出します。(*1)

私は大いなる海を浮き漂うもの。
大いなる川の藻草のように流れになびく。
大地と大いなる雨風に揺さぶられ、運び去られ、
なおも私の心は歓びにうち震える。

(ユーバブヌック(イグルーリック族)1920年頃 「俺の心は大地とひとつだ 」より抜粋)

そして、この不可知や未知を持つ世界観からネイティブ・アメリカンは、狩人精神に基づく謹厳な行動規範で生きるようです。世界は知性では計り知れないからこそ、世界に対して優しく丁寧に、大胆かつ繊細に触れて、自らは謹厳に生きるのだと思います。特徴的なのが、愚かさを笑うユーモアです。人間はしばしば物事をすべて知性で捉えられると傲慢に考えてしまいがちです。そんな愚かさをユーモアのある語り口で戒める物語が数多く伝えられているようです。人間は自らの愚かさを忘れて愚かさに陥りやすいので、それを思い出すためにその種の物語が多いようです。(*2)

二人は湖の岸辺の大きな岩の上に腰をおろしている。
そこへ雨が降りはじめた。
「なあ、兄弟、濡れないうちに早く家に帰ろう」
亀のヘヨカは兄弟に声をかけた。
「ああ、それがいい、そうしよう。おいらも雨はたまらん」
蛙のヘヨカが応える。
それから仲良く一緒に湖に飛び込んだ。
ボチャンと。

北山耕平 「ネイティブ・マインド 」から「史上最短の物語」より抜粋)

また、狩猟採集社会によく見られる、贈与経済という物に執着しない経済を実践していたようです。未開社会では、必要なものは社会内の交換に頼らずに、自分たちで自然から調達します。同じ部族内では物をみんなで分与・共有したようです。また、物を貯めこんで蓄財することもできなかったようです。他にもクラ交易 やポトラッチのようなタイプの贈与経済があったのではないでしょうか。ラコタ族 では他者の持ち物を褒めると、褒めた人にその持ち物を(たとえ、それがどんなに必要なものであっても)贈り与える習慣のようです。このように、狩猟採集社会では、経済は交換ではなく贈与がほとんどだったのではないでしょうか。交換経済が原則の現代の文明社会からは想像できない社会に生きていたように感じられます。彼らは物に執着せずに物質よりも精神の豊かさを重要と考え、実践していたとも言えると思います。文明人よりも豊かな精神を持っていたのではないかと思います。(*3)

人生で大切なのは、実は、なんでもないようなことなのだ。
僕らは幸せを求めすぎて、かえって人生を複雑なものにしてしまっている。
一生懸命に求めすぎてしまうのだ。だがそれは、実はすぐ傍にあって、
ときには子どもが元気よく出入りするティーピーだったり、
シチューができるのを待っている犬だったり、
温泉につかることだったり、家族の触れ合いだったりする。
そう、幸せとは、そんななんでもないことの中にあるものなのだ。

(ビクター・ガブリエル「英語がわからない犬たち」「風のささやきを聴け 」より抜粋)

さらに、ネイティブ・アメリカンでは、ヴィジョン・クエスト(=幻視探求)という成年儀礼を経ることで、一人前の大人になるようです。それは、自らの死を射程に入れた人生の全体性を獲得するための試練のようです。ヴィジョン・クエストはネイティブたちにとっても困難な試練らしく、ヴィジョン(=霊夢)をなかなか得られない者もいるようです。それは魂に精霊の刻印を刻むような決定的で強烈なヴィジョンのようです。

そうして得られたヴィジョンに生涯支えられるようにして、家族を形成して子孫を残し、死を迎えるようです。彼らは最後の日まで、祈りや瞑想などですっかり自分を整理し内的沈黙を蓄えて、人生の最後・完成を迎えるようです。ネイティブ・アメリカンの老人たちの写真を見ると、沈黙が蓄積された彼らの心の中には、青空や宇宙が無限に広がっているように感じられます。そして、文明人が漠然と向かえる死ではなく、物理的なまでの、人生の完成としての死を彼らは獲得しているようにさえ思えます。(*4)

クラウフットの死の間際に、看病してきた娘は「人生って、何なんでしょうね?」と尋ねた。
すると、クラウフットはしばらく考えていたが、やがて老いた目を思い出に輝かせ、
かすかに微笑みながら、娘のほうを向いて言った。

人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
冬の寒さに浮かぶバッファローの白い息
草原を横切り、夕日の中に消えていく小さな影。

(ブラックフット族クラウフット「人生とは?」 「風のささやきを聴け 」より抜粋)

さて、数万年前、ネイティブたちはベーリング海峡を通ってアメリカに渡ったり、南下してオーストラリアに渡ったりしました。それは、狩猟民族たちが国家を形成する文明社会を拒絶して離れるためだったようにイメージしたりします。文明社会は階級を形成したり、自然を見えなくしたりして、人間の精神を貶めてはいないでしょうか。狩猟民族たちは直感的にそれを感じて嫌ったのではないか、そして、狩人の生き方こそが高い精神性を持った生き方だと考えたのではないか、そんなように思ったりもします。そして、日本はそういう環太平洋のネイティブ・モンゴロイドの一部ではないかと考えたりもします。今、グローバリズムによってますますエコノミックアニマル化・文明化する日本人の精神風土ですが、真剣にネイティブな生き方に学ぶべきときではないか、そんなように考えたりします。そんなことを考えるとき、国立民族学博物館の標本たちが精霊を宿して生命を持ったように、生き生きと輝き始めるのを感じます。(*5)

*1 ネイティブの世界観を次図のようにイメージしたりします。 
あるいは、次図のような島宇宙の世界観もイメージしたりします。
”自分の行為は自分に返ってくる”という円環思想を次図のようにイメージしたりします。


また、自然と人間の関係は、人間が自然から貰うばかりの贈与関係をイメージします。
(逆に、ここから贈与概念が生まれてくるような気がします。)


*2 狩人精神は東西南北の四方位になぞらえられるような構造を持っています。

*3 交換と贈与は次図のようなイメージです。


贈与経済で得られる豊かさは無形のために、交換経済のように物に限定されていないので、
多様性に富んでいるともいえるかもしれません。

*4 彼らの人格からは、金剛曼荼羅のような、中心のない非線形的思考を感じます。一方、
文明人は、自我を中心として発出するような胎蔵曼荼羅のような線形的思考に感じられます。


あるいは、不純な夾雑物のないクリアーな心の輪(=メディスン・ホイール)を感じます。
祈りや瞑想でメモリ空間が清掃されて、深層意識に沈黙が蓄積される様を次図のようにイメージします。


大乗起信論 では、アラヤ識 と意識の連続体を次図のように捉えるようにイメージしたりします。


*5 ネイティブ・ロードは次図のようにイメージします。


*6 レヴィ=ストロース の次のような言葉から、彼もネイティブから思想的に多大な影響を受けたように感じら
れます。

私というものは、何かが起こる場所のように私自身には思えますが、
『私が』どうするとか『私を』こうするとかいうことはありません。
私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。

(レヴィ=ストロース「神話と意味」より抜粋)

私がここで示したいと思うのは、人間が神話のなかでいかに思考するかではなく、
神話が人間の中で、人間に知られることなく、いかに思考するかである。

(レヴィ=ストロース「神話論理」より抜粋)

*7 ネイティブ・アメリカンのシャーマニズムは極めて高度な精神体系を持っているように思います。
そして、その中には東洋哲学をも凌駕する叡智を持っている呪術さえあるように思います…。

2007年3月18日

アルトメロウ展


アルトメロウ 」(white canvas )を鑑賞しました。

「“2番目の美”をテーマに掲げ独自のアート活動を模索する、materi、秋山しゅん、の二人展。まだまだ“1番”には遠い二人ですが、高みを目指すという意を込め、“2番”という数字を掲げました。」といった展覧会でした。

良い意味で未分化な作品に思いました。それは、美と静寂の2つの要素が未分化状態で表現されているように思いました。風景や素材の瞬間々々を捉えた作品に感じられ、それが美のみを捉えるのでなく、静寂・静止をも捉えた、美と静寂の両方が未分化な状態で提示された作品のように感じられました。そして、その静寂の方の奥には、詩的なモノ、未知な何かを感じます。

そもそも美とは何だろうと考えたりもしました。案外、自分の場合、欧米文化と日本文化の融合した文明社会の中で培われ身に付いた感覚かもしれないと考えたりもしました。一方、静寂が表わそうとしているのは、もっと深いプリミティブなもののように感じました。これらの作品が美一辺倒に突き進まずに、静寂というもう一つの感覚を含めたのは、どこか通常の美では捉え切れないものを世界に感じているからではないかと想像したりしました。

それにしても、その静寂の奥には何があるのか、そんな想像を巡らすとき、オクタビオ・パス の次のような言葉を想起します。

詩は人間を、その人間の外に置くが、同時に彼の根源的存在に回帰させる。
彼を彼自身に戻すのである。
人間は自らのイメージである彼自身でもあり、かつ他者でもある。
リズムであり、イメージでもある語句を通して、
人間-存在への永続的願望-は存在するのである。
詩は存在へ入ることである。

(オクタビオ・パス 詩論「弓と竪琴」より抜粋)

静寂の奥には、なにか根源的存在=始原を感じてしまいます。どこかネイティブ・アメリカンやアボリジニなどの先住民たちのプリミティブなアートを思い出しますし、始原はアボリジニ がいうところのドリームタイムやネイティブ・アメリカン のグレート・スピリットのようにも感じられます。

一方、そんな未開社会に思いを馳せるとき、グレーバー が指摘している政治人類学者クラストルの未開社会観を想起します。

アマゾンの人々が国家権力の初期段階的形態に
まったく気づいていないわけではなかったら?
彼らは、ある一定の男たちが、暴力の脅威に裏付けられて、
他の皆に対して有無を言わせず命令するようになったら
どうか気づいていないわけでなく、
そのためにこそ、そのようなことが起こらないように心掛けていたのではないか?

(デヴィッド・グレーバー「アナーキスト人類学のための断章 」より抜粋)

クラストルによると、国家の陥りやすい陥穽を避けるために、あえて国家形態を取らずにアナーキーな共同体としての部族を選択したと言っているようです。
(余談ですが、グレーバーの言葉は過激で辛辣です。

誰かがわれわれを売ったり貸したりする代わりに、
われわれが自分たちを貸し出しているのだ。
近代的資本主義は単に古い奴隷制の新しい姿である。

アメリカにおいて費やされる労働時間のほとんどが、
実質的にはアメリカ人の働き過ぎによって起こされている。
夜間のピザ配達人、犬の洗濯師、
夜間仕事で忙しいビジネスウーマンの子供たちの子守をする女性たちの
子供たちのために夜間保育所を運営する女性たち。

上から下に向けてなされる組織化に不可避的に随伴する、
終わりなき侮辱とサドマゾ的なゲーム。

(同上)
ちょっと極端過ぎ・偏見な気もしますが、面白くはあります。)

未開人たちは、一見、全く財産を持たない最も貧しい労働者階級のように見えますが、実は大きく違って、自給自足できる独立した気高い精神性を持つ人たちのように考えられます(クラストル「暴力の考古学 」)。(ただし、文明社会で文明人として生きる未開人の貧困問題はあるようです。)むしろ、レヴィ=ストロース がインド文明に見たような、文明が堕してしまう階級差別には陥らない、みんなが尊厳を持った気高い生き方とも捉えられるような気がします。ただし、文明がもたらした多くの成果も否定はできないとも思います。

そんな文明と野生の共存に想いを馳せるとき、現在も命懸けで闘っているサパティスタ民族解放軍 の次のような言葉に見られる試みに可能性を見出したりもします。

多様な世界が入る世界、そのための幾何学

あるいは

これが抵抗に関するひとつのモデルである。
しかし、このモデルについてあまり気に止めることはない。
抵抗のモデルはいくらでもあり、世界としてのモデルも世界にはいくらでもある。
だから、あなたの一番お気にいりのモデルを描けばよい。
モデルにおいては、抵抗におけると同様に、多様性こそが豊かさである。

(反乱副司令官マルコス「世界のジグソーパズルの七つのピース 」より抜粋)

さらに、メキシコの先住民社会には、サパティスタ以外にもサパティスタとは異なる方法で理想を目指す先住民社会もあるようです。確かに、世界はインターネットによって多様なシステムが可能な世界になってきているようにも感じます。(ただ、グローバリゼーションも刻々と変化して改善しているような気もします。ただ、先住民はもっと根本的に異なる理想を持っているようです。)

一方、世界の他地域を考えると、イランなどは全体主義の陥穽に落ち込む可能性はあるだろうし(「テヘランでロリータを読む 」)、ベネズエラのチャベス政権 にも同様の可能性が感じられます。それこそ未開人が拒否した国家の陥穽に感じられます。

また、一方、グローバリゼーションで世界は、映画「CODE46 」のような都市国家ネットワークになるのかもしれません。そして、都市機能は大脳化してリアリティが見えなくなり、人間が動物化・家畜化することを、東浩紀 などは指摘しているようにも思います。それは野生とは程遠いように感じられます。

ただ、サパティスタが反対する新自由主義 とは何なのか。何が失われようとしているのか。それが何なのか、自分には正確に理解できていないかもしれません。そんなとき、次のような言葉を思い出します。

それは失ってはいけない。
また、奪われてもいけない。

(「V for Vendetta 」より 女囚ヴァレリーの言葉)

憶測ですが、経済的なことだけでなく、奥深くには、そういった大切なモノがあるように思います。知らず知らずのうちに大切なモノを捨ててしまっているかもしれない中、彼らにはそれが何かがはっきり見えているのかもしれません。このメキシコ先住民の闘争がどこに逢着するのか、とても興味深いです。

それにしても、彼らが選択した生き方の深い深い根源にあるものは何なんでしょうか。
そんなことを考えるとき、次のようなアボリジニの言葉が思い出されます。

白人社会で育ったアボリジニのブライアンは、自分がアボリジニであることを恥じていて、
それを察した彼の祖母は次のように言います。

白人たちが、アボリジニのことをあしざまに言うのは、
アボリジニが農民でも、建築屋でも、商人でも、兵士でもないからなのさ。
アボリジニってのは、それとは別者なんだ。
踊り手で、狩人で、放浪者で、神秘家なのさ。
だから白人は、わたしらのことを無知だとか怠け者だとか言うんだよ。
ブライアンや、おまえにもそのうちきっと、
わしらアボリジニの美しさと力が分かるじゃろうよ。

(ロバート・ローラー「アボリジニの世界 」より抜粋)

短い言葉の中にも多くのことが語られているように思います。アボリジニが文明社会に触れてもなおアボリジニの生き方に誇りを持つのは、文明人の価値感が全く転倒してしまう程の、文明以上の想像を遥かに越えた素晴らしい、力強い何かがあるのだと思います。
(ただし、現代のアボリジニ社会が抱える問題(麻薬・アルコール・ギャングなど)はおそろしく深刻なようです…。)

さてさて、そんな妄想から目覚めたとき、目の前のこの未分化な作品たちが、小さな萌芽のように感じられました。

2007年3月5日

オリエント美術館


岡山市立オリエント美術館 」を鑑賞しました。

今回は常設展のほかに岡崎重樹氏のエジプトのコレクションも展示されていました。今回も人類史・文明史を堪能しました。ペルシアやギリシャやガンダーラ等々数多くの世界文明の中心の文物を垣間見れて、来るたびに本当にインスパイアされます。それに何度も通っているのですが、それでも初めて見る展示品もあったりします。この美術館の収蔵品の多さにはびっくりします。東大との共同研究も始まるようですし、もしかしたら日本のオリエント研究の中心になっているのかもしれませんね。

今回も手で触れられる展示物が用意されてました。
1000年前くらいの陶器類でした。陶器の破片に直に触れることで、1000年前の人が感じたであろう感触が蘇って、自分の中に当時の暮らしや街のヴィジョンが流れ込んでくるようなイメージが膨らんでゆきます。ただ、今回は古いわりには漫画のような可愛らしい陶器の絵柄から、日常的・台所的な、陶器の破片ということもあって、皿が飛んだり、皿が割れたりするような、痴話喧嘩のような、身につまされたりするような、実存的な、あまりに実存的な妄想、いつもの突飛な支離滅裂な妄想が湧き出してきました……。

たとえ話。
怒った彼女がコップを投げつけた。命中して僕の額がパックリと割れた。
床に落ちたコップを拾い上げ、額から血を流しながら僕は呟いた。

実存は本質に先立つ

(サルトル「実存主義とは何か」より)

おそらく、サルトル はこう言いたかったのだと思います。
「本来、コップの本質とは、お茶を注がれる食器なのだが、この場合、コップは彼女の怒りを乗せた怒りのツブテとして実存したのだ。つまり、現在の行動によって本質はあっさりと実存に乗り越えられるものなのだ」と。

そう!サルトルの実存主義は哲学ではありません。それは行動です、生き方です!それも生命を激しく燃焼させる生き方です!武士道にも似た行動する主体としての気概です(投企など)。サルトルが言った人間主義とは、自らに責任を背負って立ち、自分自身の生命を賭して、生きる生き様を言っています。

おそらく、構造主義 から見れば、実存主義 は天動説のような独りよがりな傲慢な人間中心の思想に見えたり、構造主義のような相対的な視点ではなく、絶対空間的視点しか持たない自分勝手な自己中心主義的な思想に見えたりしたのだと思います。逆に実存主義から見れば、構造主義は行動の伴わない、現実や行動の不確定性を知らない、外からの傍観者的な頭デッカチな思想に見えたのだと思います。

サルトルは行動する人でした。他者も行動に巻き込もうとアンガージュマン(=社会参加)を説きました。行動のドライブ感を肌で感じていたのだと思います。何となく彼の複雑な政治活動から窺えます。そんな、行動科学では捉えられないような、すばしっこい野生動物のような、自由奔放で予測不可能な行動こそが実存主義の本領なのだと思います。(ある意味ある面では、イタリアの洗練された実存主義はマキャヴェリズム と言えるかもしれません。)

構造主義と実存主義の両立を考えると、どことなく次のようなハイスピードで走る自動車漫画「湾岸ミッドナイト 」を連想したりもします。

自分の未熟さで事故を起こしてしまった友也はアキオの言葉を思い出しながらいいます。

クルマとの距離をツメてコントロール下におく、
それは一体感じゃナイ・・・と。
走ってる自分をドコかで見ている自分がいる。
そーゆー感覚が大事なんだ・・・。

また、俯瞰や鳥瞰を言うのと同時に現前のドライビングについても

同時には成立しない関係だろ。
互いに矛盾するモノが主張する限り、それは当然のコト。
その成立しないアンバランスの中の
バランス感をひたすら探す。

感覚を研ぎ澄ませて本能的に先行し、事後的に経験を通して理解してゆくようです。

体で知り、心で感じて、そして、頭で理解する。

(楠木みちはる「湾岸ミッドナイト 」より)


(なお、一方でサルトルは、「嘔吐」のような存在の本質に迫る内宇宙を観想するかのような一面もあります。また、もう一方では、数々の女性遍歴も重ねているようです。とても不思議な謎に満ちた人です。)

さて、ずいぶん前に実存主義は構造主義に乗り越えられたと言われていますが、このように実存主義は行動で、構造主義は分析なので、2つは異なる次元のようにも感じます。

そう!だから、実存主義は終わってはいません!これからも終わることはないと思います。人が自らの自由意志で行動する限り終わることはありません。実存主義者の生命が燃え尽きるまで終わらないのです!

そんな実存主義者の闘争を想像するとき、アラン・ムーア 原作の映画「V for Vendetta 」の一場面を想起します。

Vはイヴィーの前に屈み込み、肩に手を添えて言った。

彼らは君の両親を奪い、君の弟を奪った。
君を施設に押し込め、命以外の全てを奪った。
君はそれが全てだと信じていたね?
君に残されたものは命だけだと。
でも、そうではなかったね?
君はそれ以外のものを発見した。
あの独房で、君は命よりも大切なものを見つけた。
なぜなら、求めるものを渡さないのなら命を奪う、殺すと脅された時、
君はむしろ死んだほうがマシだと言ったのだ。
君は死と対決したんだ、イヴィー!

そして、イヴィーに啓示が訪れます・・・。


実存主義者の精神、それは、絶望の中で死に直面してもなお立ち向かってゆく自由意志そのものなのです。

さてさて、いつもながら支離滅裂な無茶苦茶なことを書いてしまいました。でも、この書くという行為によって、この記事は「実存は本質に先立つ」ことになったかもしれません(^^ゞ。

2007年3月4日

児玉知己展


児玉知己展 日常の筆跡 」(slogadh463 )を鑑賞しました。

ちょうど1年前に鑑賞した王国展に出品されていた児玉さんの個展でした。今回も生い茂る葉っぱが爆発的な増殖によって見るものを飲み込んでゆく、そんな魔力に満ちた作品でした。イマ・ココという空間を侵食して、草間弥生的な”あちら側”の異空間を彼独特の植物的生命力で切り開いていくように感じました。これらの作品は植物的魔力で開く異次元の扉といったものをイメージします。また、自然の生命力が、自然を破壊する人類に対して、反撃してその恐るべき巨大な生命力で人類を囲い込み、飲み込んでしまうイメージも喚起しました。

そんな文明による自然や野生の破壊を想像するとき、アイヌの少女知里幸恵 の次のような言葉を思い出します。

その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、
美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、
真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず
山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、
白いカモメの歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、
花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、
紅葉の秋は野分に穂揃うすすきわけて、宵まで鮭とる篝も消え、
谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。
嗚呼なんという楽しい生活でしょう。

平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、
山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、
野辺に山辺に嬉々として暮らしていた多くの民の行方も亦いずこ。
僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた
昔の人の美しい魂の輝きは失われて、
不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、
よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……
それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、
自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、
露ほども想像し得なかったのでありましょう。

時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。
激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、
いつかは二人三人でも強いものが出て来たら、
進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。
それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。

けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、
言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、
亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。

アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、
雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中
極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書き連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に詠んでいただく事が出来ますならば、
私は、私たちの同族先祖と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

(知里幸恵「アイヌ神謡集 」序文より抜粋)

なんてきれいな心、なんて純粋な魂なのでしょうか。彼女の言葉には本当に心が震わされます。この序文を読むとレヴィ=ストロース の「悲しき熱帯」を想起します。彼は未開社会を構造分析することで文明社会を相対化したことで知られています。けれども、何より彼は未開社会の本当に豊かな世界を知っていたのだと思います。文明社会では閉じられてしまった、真に世界に開かれた遥かに豊かな人間の可能性を見たのだと思います。滅びゆく未開と破壊する文明の間に立った最後の人類学者が未開との離別に愛惜を込めた、次のような言葉が思い出されます。

さらば、未開人たちよ! さらば、旅よ!
・・・・・・
その本質を把握しようとして、ミツバチのような労働を中断して堪えている、
その短い中休みの間にある機会なのだ。
あらゆる我々の成果より、美しい鉱物の瞑想の中に、
知らぬ間の理解がときには一匹の猫と交える互いの許しの、
そして忍耐の、静穏さの、重い瞳の瞬きの中に、
百合の花のくぼみに嗅ぐ香りの中にある機会である。

(レヴィ=ストロース「悲しき南回帰線」より)

一方で1986年に日本で行われた「レヴィ=ストロース講義」など読むと、当時の若い人類学者からは未開社会の破壊や未開人の浮浪者化などの問題について質問が浴びせかけられています。また、現在、アナーキスト人類学のデヴィッド・グレーバー など読むと文明社会内での貧困や移民の問題などが感じられます。何となく、それらが円環的にひとつの問題系として繋がっているように感じられます。

(余談ですが、未開社会での労働時間は1日の中で2~4時間と短く、その膨大な余暇を宗教や芸術活動に費やしていて、文明社会の方が労働など現実の領域に窮屈に縛られているというレヴィ=ストロースの話は面白かったです。

さらに余談ですが、彼らには宗教と芸術の間に区分が無いように感じます。例えば、現代美術などは日常的な物を別な配置=異化 をするだけで、何らかの意味生成過程 を経て、新しい意味を帯びた新鮮な輝きを放つモノに変えてしまいます。典型的な例としては、デュシャン の泉などです。一方、精霊などは例えば「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というように光の加減等で霊的なものが宿っているように見えたりします。

結果、受ける感じとしては、現代美術からは新鮮な輝きや生気を感じるのに対して、幽霊からは得体の知れないモノへの恐怖を感じるという違いはあります。でも、ともに物質としては存在しないモノ、生気や霊性として宿るモノという意味では同じ領域のように感じます。これは日常言語と詩的言語で言えば、ともに詩的言語の領域のように感じます。なので、彼らには区別が無いのではないかと思います。さらに区別が無い上に精霊の領域に踏み込んで行ったふしすらあります。また、元々、ピカソ など現代美術はアフリカ芸術から影響を受けているので当然と言えば当然かもしれません。)

さて、しかし、このような問題をどのように考えていけばいいのでしょうか。自然科学者がその答えを知っているのでしょうか。けれども科学は専門細分化してしまい、限られた専門分野から捉えた狭い視点になってしまいます。今はレヴィ=ストロースのような人間の全体性を持って人類社会について言及できる人たちが減ってしまいました。あるいは、新たに政治・経済・社会に長けた社会システムの専門家がその任を担うのかもしれません。

でも、そういった専門家にはレヴィ=ストロースと違って決定的に欠けているものがあると思うのです。それは、未開社会を本当に理解しているような、未開社会の精神を内側から理解し愛し慈しんでいるような、形式論理やシステム主義では見落とされ表現できない、自然や宇宙に開かれたスピリチュアルな豊かな精神を感じ取っている、人間にとって本当の幸福とは何かを知っている、「野生の思考」が欠けていると思うのです。

ただ、実際に経験して学びとれる野生はもう残ってはいないように思います。これからは先人たちが残してくれたヒントを元に、自分たちで「野生の思考」をもう一度切り開いて磨いていかなければならないと思います。

そんなことを考えながら作品を見ていると、作品の中の葉がざわめいて、その陰で何かが動いたように感じられました…。僕はドキドキしながらも、その扉の向こう側の何かに魅了されるのでした…。