2009年10月25日

映画『愛を読むひと』について


小説『朗読者』を映画化したスティーヴン・ダルドリー監督の映画『愛を読むひと』について少し書いておきます。この記事では、監督のスティーヴン・ダルドリーとハンナを演じた女優ケイト・ウィンスレットでは、この物語の解釈が異なっていることについてお話ししようと思います。

■ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットの物語の見方の相違
驚いたことに、この映画では、ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットでは、物語の解釈、特にハンナの人物像が違っています。二人の違いは、簡単に言ってしまえば、マイケルを中心に物語を見る見方とハンナを中心に物語を見る見方の違いだと思います。ダルドリー監督は前者であり、主題を愛と罪と恥と捉えていると思います。そのなかでも、特に恥の部分を大きなポイントに据えていると思います。一方、ウィンスレットは後者に近く、ハンナという特異な人物をとても深いところで理解したうえで、この物語を愛と罪のラヴストーリーだと捉えていると思います。
ウィンスレットはインタビューの中で次のように述べています。

最初のころに気付いたことは、ハンナを理解することが不可欠だということだった。
必ずしも彼女を好きになる必要も、共感する必要もないと思ったわ。(*1)
でも、彼女を理解しなくてはならなかった。それにとても強く感じたのは、
わたしが思う彼女を、ほかの誰とも共有したくないということだったの。
みんながハンナ・シュミッツに対する意見を持っている。
彼女は意見を呼び起こすキャラクターだわ。
小説の読者も、この映画のスタッフも、脚本家も、監督も、
全員がハンナに対して違う意見を持っている。
でもわたしの意見は、人と食い違うことが多かったの。
だから胸の内に収めておく必要があった。いつもとは違う体験だったわ。
普段は話し合って、みんなと共有し、協力し合う方が好きなの。
だから彼女を演じるのは、ある意味孤独な作業だった。
人と距離を置かなくてはならなかったから。

ポイントは後半の発言なのですが、ウィンスレットにしては極めて珍しいのですが、自分の演じるキャラクターの人物像を監督や他のスタッフたちと共有していません(*2)。こういうのは下手をすると映画が失敗作になりかねません。そんなことはベテラン女優であるウィンスレットは百も承知で十分すぎるほど分かっていたはずだと思います。ですが、それにも関わらず、彼女はそうはしなかった。なぜでしょうか?おそらく、ウィンスレットは自分の考えるハンナ像にゆるぎない確信があったのだと思います。

それでは、ダルドリー監督とケイト・ウィンスレットの物語の見方をそれぞれ順番に見てゆきましょう。

■スティーヴン・ダルドリー監督の見方
ダルドリー監督は、この物語の三大要素を愛と罪と恥と捉え、特に、恥を主眼にこの物語を捉えていると思います。ダルドリー監督は、まず、ハンナという女性を、自分が文盲であることを恥ずかしさゆえに明かせず、結局、文盲によってモラルなどへの理解不足を招き、無知ゆえの罪を犯してしまい、ひいては彼女を不幸な人生に追いやったと考えていると思います。つまり、逆に言えば、恥を克服さえしていれば、文盲も克服できたであろうし、不幸な人生を送ることもなかったのではないかと考えていると思います。次の監督の発言はそれを裏付けていると思います。

興味深いのは、ハンナが、アウシュビッツで自分がした行為よりも
非識字者であることを恥じている点だと思う。
つまり、2つのレベルの非識字があるわけだ。
1つは文字通り字が読めないこと、もう1つはモラルへの理解だ。
この2つは、この映画の全編を通してのテーマとも言えるね。

ハンナは文字が読めないために、単に文字が読めないというだけでなく、モラルへの理解も欠けてしまった。そのため、本来ならハンナはアウシュビッツで犯した罪を一番に恥じるべきなのに、そうではなくて、文字が読めないことを一番に恥じるという間違いを犯しているというのです。

一方、マイケルも、ハンナとの男女関係を羞恥心から他人に明かすことができず、結局、ハンナの文盲を裁判で知らしめることができなかった。また、ナチに加担した罪びとを愛してしまったということも、恥じると同時に愛しているというアンビバレンツな精神状態に陥り、彼のトラウマになってしまったと考えているのかもしれません。次の監督の発言はそれを裏付けていると思います。

戦後育ちのドイツ人の世代は、ある時点までは何も知らされなかったのに、
成長してから、両親や先生、医師や牧師たちまでもが虐殺に関わっていた
という現実に直面する。
その時に、その人たちへの愛をどうするかということ。
それがこの映画のテーマなんだ。
・・・・・・
マイケルの場合も、一生がある程度まで台無しになってしまう。
自分が愛した相手が、何かの犯罪にかかわっていたと知ったとき、
その相手に対する愛の価値は損なわれるのか。
だからこれは、本質的にはハンナの物語ではなく、マイケルの物語なのです。

ゆえに、この映画では”恥の克服”が大きなテーマになっていると思います。映画のラストシーンにそれが一番よく表れていると思います。映画の一番最後でマイケルは、意を決して自分の娘にハンナとの男女関係を含めた過去を話しはじめます。自分の過去の女性関係を自分の娘に話すという極めて特異な行為で締めくくっているのです。ラストシーンで車から降りたときのレイフ・ファインズ演じるマイケルの緊張した真剣な表情から、恥を克服しようとする決死の覚悟が窺えます。つまり、原作にはない、この映画のラストシーンの監督の意図は、羞恥心の克服だと思います。

結局、ダルドリー監督はマイケルを主眼にして、この物語を見ています。マイケルはハンナとの関係を恥じてか、あるいは、ハンナが文盲を隠していることを尊重してかの理由で、裁判でハンナが文盲であることを言えなかった。そして、結果的にそれがハンナを終身刑にしてしまい、さらに、ナチの罪びとをを愛してしまった葛藤にもなり、彼はトラウマを負ってしまう。結局、ハンナは恥を克服できなかったけれども、マイケルはハンナと関係したという恥を克服して、彼は自分の娘にハンナとの関係を告白して、恥を克服して映画は終わるのだと思います。(告白を重視するのはキリスト教的かもしれません。)

しかし、それではあまりにもハンナという人物を軽視した見方ではないでしょうか?

■ウィンスレットの見方
一方、ウィンスレットは、インタビューで、ハンナという難しい役柄をどうのように演じたのかと聞かれて、次のように前置きしました。

ハンナを演じるのはとても複雑だった。
常に、ほかの人が彼女をどう思っているのか、考えていなくてはならなかったから。
それに彼らの意見と私の意見はしょっちゅう食い違う。
ハンナのような繊細なバランスを必要とする女性を演じるには、
直感に問いかけるというとても危険な賭けが必要になる。(*3)
自分が思う人物像から離れないことが大事なの。
だからスティーヴン・ダルドリー監督とさえ、意見が食い違うことがあったわ。
これは傑作ドイツ文学だから、誰もがハンナ・シュミッツについて違う意見をもっている。
しかも読者の意見はすでに確立しているの。
だから私は自分の耳を閉じておかなくてはいけなかったの。

そして、インタビュアーから「ウィンスレット演じるハンナが冷淡に見えた」と言われたのですが、そのことに答えて、ウィンスレットは次のように語っています。

まず、インタビュアーの意見に対して、

面白い見方ね。冷淡さは考えなかったわ。
あったとしても私の中での優先順位は最後ね。

と前置きして、そして、ハンナを演じるために、ウィンスレットが重視した点を次のように話します。

計り知れない空虚さを身に着けなくてはならない。
空虚と冷淡とは違うの。
空虚でも誰かを愛することはできる。

ウィンスレットのこの発言に私は、正直、驚きました。これはとても興味深い発言だと私は思いました。つまり、ウィンスレットにとって、ハンナは心に空虚さを抱えた女性なのです。空虚さといっても、虚しさや寂しさではないと思います。それは言葉にならない空(くう)の空間というべきでしょうか。私は以前の記事で書いた下図を思い出しました。


ここでいう空虚さとは、この図の非-言語領域にあたるのだと思います。言葉で形成される言語領域の人格ではなく、言葉では構成されていない、白い透明な空っぽの無の空間です。すなわち、非-言語的な空虚な空間です。

ウィンスレットが周囲からよく質問されることで「役選びはどのような観点で選んでいるのですか?」という質問があります。それに対して、ウィンスレットは、「直感で選ぶ」と答えるケースがとても多いです。もちろん、役を選んだ理由を色々と述べることもありますが、最終的には「直感で選んだ」と答えることが多いです。ウィンスレット自身、非常に直感的な女性だと思います。ですので、ウィンスレットのハンナの理解は、まさにウィンスレットの直感が直感して直感ならしめたのだと思います。ハンナの心の真空にウィンスレットの心の真空が共鳴したのだと思います。(*4)

ウィンスレットが実際にハンナをどのような人物だと捉えていたかを言葉で説明するのは難しいと思います。ウィンスレットはハンナについて次のようにコメントしています。

確かアメリカで、11月か12月頃だったと思うのだけど、
大きな丸テーブルを囲んでインタビューに答えていたら、
誰かが、とても重い質問をしてきたわ。
そのとき、インタビューの最中なのに、私は突然、感情的になってしまったの。
最悪だったわ。
でもそういうことが、続けて起こったの。
それは、ハンナが私の奥深くにまだ生きているからだと思った。
実際、彼女を自分の中に感じることもあるわ。
猛烈に彼女がかわいそうになるの。
彼女を許したり、いつも好きだったりするわけじゃない。
でも本当に、彼女がかわいそうになる。
でも、その理由を説明するのは難しいの。
私が彼女を身近に感じて演じてきた経験は、ほかの人たちとは共有できない。
とても個人的な経験なの。

ウィンスレットはこれまで他の映画でのインタビューでは自分が演じてきたキャラクターを割と客観的に語ってきていたと思います。もっと荒っぽくいえば、自分とはまったく違う赤の他人として、演じたキャラクターを突き放して語っていたと思います。自分との共通点や相違点を客観的に分析できていて話せていたと思います。演じた人物の良い点や悪い点を客観的に掴めていたと思います。(*5)ところが、ハンナに関しては少し事情が違うのではないかと思います。

確かに、多くの映画女優は、毎回、自分の出演した最新作は特別だと言って宣伝します。ですが、ウィンスレットは、その意味では、今まで比較的正直に答えています。毎回、「この役は最高に特別だった!この映画は私の最高傑作よ!」というような言い方はしていないと思います。確かに、この「愛を読むひと」はアカデミー賞作であるので、ウィンスレットにとって他の作品よりも特別な意味合いが強いのは確かです。ですが、それでも、ウィンスレットの場合は、アカデミー賞作だからという理由だけで、作品を特別扱いはしないだろうと思います。

前置きが長くなりましたが、そして、かなり穿った見方ではあるのですが、ウィンスレットの奥深くで、まだ、ハンナと同調する部分があるのではないかと思うのです。それこそまさに、非-言語領域の空間ではないかと思うのです。ウィンスレットとハンナは同じ階調・同じ周波数の非-言語領域の真空空間を共有しているんじゃないかと思うのです。ウィンスレットの中にハンナへの共鳴があると思うのです。しかし、それは言葉にはならない共鳴です。心に同じ類の空っぽの真空を抱えているといった感じだと思うのです。特にハンナの場合はかなり孤独な魂の持ち主です。ウィンスレットもハンナを演じるにあたっては、内面を同調させるために、かなり奥深くまでダイブしなければならなかったと思います。そして、だからこそ、ウィンスレットはハンナの行動の意味を言葉よりももっと深いところで理解して、ウィンスレットは心のとてもとても深いところでハンナに共感するのだと思います。

■私の見方
さて、私の見方ですが、前回までの記事「『朗読者』を読む」シリーズでおおよそ分かると思います。ですので、ダルドリー監督よりはウィンスレットの方に近いです。ただし、細かい点ではウィンスレットともずいぶん解釈が違ってくるとは思います。とはいえ、原作と映画は、それぞれ違った物語になるのはしかたがないことです。違った物語になっても、それはそれで豊かな内容の作品になれば良いだけのことです。

ただ、この映画で私が最も違和感を感じるのが、ハンナの自殺のシーンです。映画では、ハンナはマイケルの愛を失ったことに絶望して自殺したように描かれています。しかも、本を踏み台にしています。ハンナは決して本を軽んじる人ではないと思います。むしろ、文字が読めるようになったことを誇りにさえ思っているはずですから、本がまるで無駄だったかのように本を踏み台にするのはいくらなんでも違うのではないかと思います。まあ、監督なりの皮肉を描いているのかもしれませんが…。ともかく、私には、ハンナが失意のうちに死んだとは、どうしても思えないのです。ハンナはもっと毅然とした態度ですべてと決別したんだと思うのです…。

けれども、この映画のおかれた立場を考えると、ダルドリー監督があのようなラストシーンにせざるをえなかったのも理解できます。なぜなら、ハンナに達観して自殺されても困るからです。元ナチの看守に胸を張って死なれてはナチを肯定するように受け取られてしまいかねない、それはマズイと思うからです。ですから、元ナチのハンナにはみじめな気持ちで死んでもらわなければならなかったのだと思います。ですが、それは作品の趣旨に反すると私には思えるのです。それでは反ナチという別の全体主義が作品の解釈を歪めていると思うのです。とはいえ、ナチ問題を客観的に判断するには、社会はまだ時間が必要なんだと思います。そう、まだ、傷が癒えるには時間が必要なんだと思います。ただし、全体主義の危険性はいつの時代も人間につきまとうでしょうから、客観的に判断できる日がくるのかどうかは分かりませんが…。

最後に付け加えると、私はこの映画が原作の趣旨と違っていることを言ってきましたが、それは必ずしも、この映画がつまらない作品だと言っているわけではありません。ここまで述べてきたように、ハンナを演じたウィンスレットは実に深いレベルでハンナを見事に演じています。ウィンスレットのその演技を見るためだけでも、この映画を見る価値はあると思います。特に、原作にはない、この映画だけのオリジナルシーンは素晴らしい出来栄えだと思います。それは、ハンナとミヒャエルが自転車旅行のときに立ち寄る教会での場面です。ハンナが教会で讃美歌を聴いているとき、子供たちの清らかな歌声によってハンナの心は鎧を脱いで無防備な状態になります。そのとき、かつて燃え上がる教会に囚人たちを見殺しにしてしまったという罪の意識が無防備になった彼女の純粋な心に洪水のように押し寄せてきます。一方、マイケルはそんなこととは知らずに感極まっているハンナを見て最初は驚きますが、ハンナは単に清らかな讃美歌に感動しているのだと勘違いして、ハンナの聖母のような美しさに感激します。しかし、実際には、ハンナの心は逃げ場のない恐ろしいまでの罪悪感に苛まれて悲鳴を上げていたのでした。そのときのハンナの苦しみと怯えがウィンスレットの迫真の演技から痛切に伝わってきます。このときのウィンスレットの眼球や瞳孔が縮み上がったような目を見たとき、本当に心が押し潰されるギリギリの状態じゃないかという演技でした。こんなギリギリの心の位置にまで内面から迫れるウィンスレットの演技に本当に驚きました。芥川龍之介の小説「地獄変」で絵師良秀の渾身の屏風絵を見た横川の僧都が思わず膝を打って「出かしおった!」と感嘆の声を上げたように、私もウィンスレットの演技に圧倒されて、思わず声にならない声を漏らして、唸ってしまいました。ですので、是非、映画も観てみることをお奨めします。

というわけで、次回から「ケイト・ウィンスレット 人と作品」シリーズを掲載してゆこうと思います。

■ウィンスレットの出演作品を鑑賞するときの注意点
それから、ウィンスレットが出演している映画を鑑賞するときに次の2点を注意しなければならないと私は考えています。1つはウィンスレットの出演作品は一度見ただけでは理解するのが難しい作品が多いです。(←ただし、「タイタニック」や最近の出演作品は分かりやすいです。)もう1つは、衝撃的な演技や性的な表現も多いです。そのためか、一度見ただけでは作品の意味が分からないため評価が低かったり、衝撃的な性的表現に観客が嫌悪感を持ってしまい、それだけが強い印象となって頭に残るために作品を正しく吟味できずに評価が低くなったりすることが多いと思います。例えば、この『愛を読むひと』でもセックスシーンが多いので辟易してしまう観客が多かったのではないかと思います。(「言語」と対照的な愛情を確かめる非-言語的なコミュニケーションとして、「セックス」は重要な要素なのでセックスシーンは外せない場面だと私は思います。)

しかし、一度見ただけで分からないからといって諦めずに、作品が何を意味しているのかを何度か繰り返し見て考えてみることをお勧めします。そして、衝撃的な場面に目を背けない強靭なハートと、衝撃的な場面が出てきてもそれを受け止める事前の覚悟を持って映画を鑑賞して下さい。かなり大げさな言い方になってしまいました(笑)。念のためにお断りしておきますが、ホラー映画やサスペンスのような恐さではなくて、文芸映画的な衝撃ですので安心して下さい。

確かに映画の良さのひとつに分かりやすさがありますが、一度見ただけで分かってしまう映画は内容が浅薄になりがちです。内容の深い作品ほど一度見ただけでは分かりにくい映画になるのではないでしょうか。それは難解な本を時間をかけて読んだり、何年か後になって読み返したときにはじめて内容が理解できるようになったりするような読書の面白さに通じると思います。逆説的な言い方ですが、分からないものほど面白いのではないでしょうか。そんなわけでウィンスレットの映画は何回も観て楽しめると思います。

ウィンスレット映画に慣れるための入門編としては「日陰のふたり」が良いかもしれません。原作は英国の文豪ハーディの名作「日陰者ジュード」ですし、ウィンスレットが、丁度、うら若い乙女と大人の女性の両方の綺麗さを兼ね備えていた年齢の作品です。主人公はジュードという学者を志す石工の青年です。ウィンスレットが演じたのは彼の恋人のスー・ブライトヘッドという難しい性格の女性ですが、見事に演じています。というのもスーは両親の影響で結婚に対して複雑な感情を持っていて、恋愛に対して素直になれない、ちょっとねじれた性格の女性なのです。ですので、鑑賞後はスー(=ウィンスレット)に対して批判的なネガティブな感想を持つかもしれません。また、映画の中でキスシーンが何度か出てきますが、シチュエーションによってキスの意味が違うのですが、いずれの場面にもその情感が演技によく表れていて良い感じでした。物置の中での泣きながらのキスシーンはじーんと胸に沁みましたし、他のキスシーンでもかなり切なくなりました。また、出てくる子役の女の子が天使のようにとても可愛らしいです。私はこの子の笑顔を今でも覚えているくらいです。また、この映画の原題は「JUDE」で、俳優ジュード・ロウの名前の由来のひとつでもあります。ジュードのお母さんがこの小説に感銘を受けて、息子にジュードと名付けたそうです。なかなかお茶目なお母さんです。ちなみに、私自身、この作品のDVDを持っているので、時々、見返したりしています。音楽も耳に残る良い音楽ですし、映像の色合いも落ち着いた色合いで何回見てもドライアイになるようなことのない良い映画です。ただ、ウィンスレットの大胆なベッドシーンとかがあるので子供は見ない方が良いと思います。また、この作品はスーの性格さえつかんでいれば、他は特に難解さはなく、分かりやすいと思います。あ、それと当時の風潮で正式に結婚していない内縁のカップルは仕事がもらえないなど世間から冷たい目で見られるということも踏まえておけば大丈夫です。(それから、一応、物語の舞台は英国ですが、出てくる都市名は架空で、例えば、クライストミンスターはオックスフォードのことだと思います。)

一般に、ウィンスレットは「タイタニック」のイメージが強いですが、彼女の出演作を見比べてみると「タイタニック」が例外的な大作であって、それ以外の出演作はどちらかというとインディーズ的な映画、文芸作品が多いです。(最近は「ホリデイ」などポピュラーな軽い作品にも出演してますが…。「ホリデイ」は作品内容にハリウッドへのリスペクトがあったから出演したのではないかと私は思っています。)また、よく言われることですが、そういった個性的な映画が多いことから、彼女は出演作の選択が良いとよく言われます。うまく説明できませんが、普通は映画監督がバリエーション豊かな個性的な作品を作って一連の作品群になるのですが、ウィンスレットは女優でありながら、彼女の出演作のラインナップはとてもユニークなのものになっていると思います。もちろん、他の女優も自分のキャリアを考えて出演作を選択しているのですが、ウィンスレットの場合は映画の本来の面白さをよく分かっているんじゃないかという気がします。(←もちろん、出演作の全部が全部良い作品というわけではありませんが。)ともかく、女優としては、ちょっとユニークな存在だと思います。女優というよりは映画人といった方が良いかもしれません。ただ、映画監督の適正があるかどうかは微妙な気もしますが、やってやれなくはない人だとは思います。映画に対する情熱は女優の中でも飛び抜けていると思います。

■注釈
(*1)「ハンナに共感したり、好きになったりすることができない」というのは、ナチ時代にハンナが犯した罪があるからです。この点はこの映画を語るときに頻繁に出てくる問題です。つまり、ハンナに共感したり好感を持ってしまうことは、ハンナを許してしまうことになり、ひいてはナチの罪を軽くしてしまうことに繋がりかねないという懸念です。実際にハンナがどのような人物であったとしても、彼女の罪は許されるものではないでしょう。ここに、愛する人が許されない罪びとであったときの、どうすることもできない苦悶があります。これがミヒャエルが抱えた問題であり、観客がハンナを考えるときの難しさでもあります。ですので、この点はしつこいくらいに付きまとってくる問題ですが、かといってナチ問題に関わる大切な問題なので蔑ろにはできないという難しさがあります。そのため、この作品の関係者は発言を神経質なまでに慎重にしなければならないので大変です。

(*2)例えば、前作の「レボリューショナリー・ロード」では夫でもあるサム・メンデス監督とウィンスレット演じるエイプリルという人物像の設定で二人はちょっとしたもめごとをしています。監督と役者が集まって、それぞれ自分の演じる人物の人物像について固めてゆく話し合いの場で、ウィンスレットだけは自分の役の話し合いを飛ばされそうになったそうです。メンデス監督としては「ウィンスレットは妻だから特別に話さなくてもいいや」って思ったのでしょうね。そうしたら、ウィンスレットがそれに噛みついたそうで「自分にもちゃんとしてよ!」って声を荒げてプチ怒ったそうです(笑)。もっとも、撮影に入ってからは、撮影が終わって二人が自宅に帰ってからも、エイプリルの人物像についてずいぶん話し合われたそうです、ウルサイくらいに(笑)。本当はこの映画の仕事が始まる前に、二人は「家庭には仕事を持ち込まないようにしようね」と約束していたそうなのですが、ウィンスレットは夢中になって忘れないうちにと、自宅に帰るとすぐに「この場面の意味はどうなの?あの場面はこうすればどう?」と熱中して話し始めたらしいです。一方、メンデス監督は「まあまあ、落ち着いて。とりあえず、二人のお茶を淹れさせてくれ」って、仕事と家庭を完全に切り替えていたそうです。また、映画の中でサングラスをしたまま不機嫌なエイプリルを演じるシーンがあるのですが、「サングラスを取らせて!目で演じられるから!」ってウィンスレットが何度か頼んだらしいですが、メンデス監督からは「ダメ!絶対、ダ~メ!」ときつく断られたんだとか(笑)。まあ、映画は監督のものですからね。(そういう意味では私自身の映画選びは監督によって判断するのが普通だったのですが、唯一の例外として女優で映画を選ぶものとしてウィンスレットの出演作品があります。ウィンスレットを知るまでは女優を軽視していたのですが、大いに反省させられました。)

他にも映画初出演作「乙女の祈り」でも自分の演じる人物の残酷な行動がウィンスレットには理解できなくて、泣きながらピーター・ジャクソン監督に理由を聞いたんだとか、まあ、まだウィンスレットが10代の頃の可愛らしい話ですね。(とはいえ、この頃からすでにウィンスレットはプライベートで手巻きタバコをプカプカと吸ってたようです。この頃のウィンスレットは日本ではまだ未成年の年齢なのですが、当時の英国では16歳から吸って良かったらしい。)

ともかく、与えられた役をただ言われたままに演じるのではなく、役柄を自分で理解して、それを監督と共有した上で、ウィンスレットは演じています。彼女はインタビューの中で、

私も、大学を出ているわけではないし、古典文学もそんなに読んでいるわけではない。
だから、インテリ的な映画や芝居、文学には萎縮してしまいがちなの。
でもあえて、ちょっと待って。それってどういう意味?わからないわ、
って聞くことにしているの。
馬鹿に聞こえるんじゃないかってリスクを承知でね。
と答えて、

馬鹿に見えることも、裸になることも恥ずべきことではない。
俳優として恥ずかしいのは、役を演じきれないときだ。

と語っているそうでうす。

ところで、面白いのは、ウィンスレットは脚本に惚れ込むと監督に直接自分で電話して出演させて欲しいとオファーするそうです。「ライフ・オブ・デビット・ゲイル」でも何度も電話で自分の出演をオファーしたらしく、出演が決まるまで枕元に脚本をおいて「出たい、出たい」と思い続けたらしいです。もっとも、この映画自体はどちらかといえば不評だったのですが(笑)。ちなみに「タイタニック」も自分でジェームズ・キャメロン監督にオファーしたそうです。普通はエージェントがやることで女優が直接やることではありませんが、ウィンスレットは自分で出演依頼したいらしく、たとえ断られても、

What do you have to Lose?(ダメでもともとでしょ?)

と考えるんだとか。ただ、映画の製作が始まる前に脚本が女優に手元に来ること自体がまだまだ少ないらしいです。ウィンスレットの場合は「タイタニック」でネームバリューを得た女優だからこそ自分で役を選べるポジションにいられる面もあるので、彼女は特別なケースかもしれません。ともかく、映画女優にしては珍しく、彼女は本当の意味で脚本を重視する女優だと思います。

ちなみに、ウィンスレットの役選びについて話しているときに、夫のメンデス監督が面白いことを言っていて、監督いわく、「彼女は非常に複雑なキャラクターや映画を選びたがる傾向がある。実生活は何でもシンプルであることを好むのにね」と言っています。う~ん、それって家事などの日常生活が大ざっぱってことじゃあないのかしら(笑)。ただ、演じると決まった役については、ウィンスレットは徹底的なリサーチをするらしいです。

(*3)ウィンスレットもインタビューの中でたびたび直感という言葉を使います。彼女もまたハンナと同様に直感を重視する女性だと思います。ウィンスレットの直感については、次回以降の記事で触れるかもしれません。

(*4)ここで、かなり脱線して謎めいたことを言ってしまいますが、生命の進化の秘密も同様ではないかと思えるのです。生命が進化を意図することによって生命は実際に進化したのではないか。そして、意図はこの直感と深く関わっているように思えるのです。直感が直感ならしめるように、生命が進化を意図して進化ならしめるのです。とはいえ、そんなことを証明しようがありませんが…。

(*5)例えば、前作「レボリューショナリー・ロード」で演じたエイプリルなどはウィンスレットはけっこうクールに分析しています。インタビュアーが「エイプリルは女優になれたと思いますか?」という質問に対して、きっぱりと「無理ね。彼女には女優になる覚悟が欠けていた」とバッサリと断言しています。

(*6)余談ですが、ウィンスレットは「エキストラ!」という英国のコメディドラマに、自分自身の役で、つまり、女優ケイト・ウィンスレットという役でゲスト出演しているのですが、このドラマの中で「自分は4回もアカデミー賞にノミネートされてるのに、まだアカデミー賞を取れない!ナチ映画に出るのはアカデミー賞のためよ。障害者の映画に出るのもアカデミー賞を取るにはいい手ね!」というようなことを「シンドラーのリスト」や「マイ・レフト・フット」を引き合いに出して言っています(笑)。もちろん、本気でそう思っているわけではなくて、このドラマ自体が俳優のイメージを壊そうという趣旨なので、(ウィンスレットの場合は「タイタニック」のローズというイメージ)、イメージをぶち壊すような無茶苦茶な発言をさせられます。まあ、このドラマでは、それ以外の部分の、あまりに滑稽で卑猥な表現が驚きのメインになっています。(卑猥や下品がダメな方はこの作品は見ない方が良いと思います。)もう、バカ笑いするしかないというか、ウィンスレットによる、イメージの破壊があまりにも衝撃的過ぎて正直ビックリしました。「えっ!テレビでそんなことを言ってもいいの?」「ケイト、その手のしぐさは何?!」「ケイト、その顔だけはお願いだから止めて…」「夫メンデス監督のオスカー像をアレに喩えるなんて…」みたいな。ちなみに、ウィンスレットはこのドラマでエミー賞コメディ部門のゲスト女優賞にノミネートされました(笑)。しかし、それにしても、「普通、できないでしょう、あんなことは!」って感じです。もちろん、ここでは裸を露出するというわけではなくて、セリフや演技の面のことなんですけどね。でも、実のところ、このドラマを見て、私は「ケイトのファンを辞めようかな…」と少し悩んでしまいました(笑)。同じようなエロティックなコメディ映画「Romance&Cigarette」では、ベッドシーンなどのケイトのブロックバスターな演技に腹がよじれるほど笑い転げて、むしろ、ケイトの人間や役者としての奥行きの深さを感じたのですが、この「エキストラ!」のアホ面は、正直、私はショックでした(笑)。ウィンスレットの映画にはそれまでも何度も衝撃を受けて慣れていたつもりでしたが、なかなかどうして、やはり、彼女は侮れない女優、安心させてくれない女優で、彼女のファンであり続けるのは、なかなかタフであることを要求されます。

ところで、これとは違って、真面目なインタビューの中で、彼女は本当にアカデミー賞が欲しいということも言っているそうです。ノミネートされても受賞できなかったときには、ずいぶん、くやし涙を流したらしいです。先のコメディドラマなどこのような経緯があるので、この「愛を読むひと」でアカデミー賞にノミネートされたときには、特に評論家から厳しくナチ問題にも発言が求められたんじゃないかと思います。「もし、ナチ問題を軽視するようなことがあらば!」という厳しい目で。なので、この作品でのアカデミー賞ノミネートはけっこうプレッシャーがあったと思います。実際にアカデミー賞決定前のこの作品のお披露目のパーティでは、招待したユダヤ系作家が土壇場で欠席したそうです。ですので、アカデミー賞は少々波乱含みの要素もあったかもしれません。そんな状況でアカデミー賞主演女優賞を受賞できたのは本当に良かったです。 

2009年10月18日

『朗読者』を読む その8


■補足
この記事では、小説『朗読者』および映画『愛を読むひと』について、気が付いたことを忘れないうちに幾つか補足として書き足してゆきます。ある程度にまとまったら、本文に加筆修正するかもしれませんし、あるいは、「やはり、そうではない」と思い直して削除するかもしれません。とにかく、これまでの読解では小説を最初から最後まで物語の流れに沿って順番に読み解いて行きましたが、ここでは全体を通して総合的に振り返ってみたときに浮かび上がってくる疑問や気付いたことや感想について書いておこうと思います。

■小説編
(1)疑問1「ハンナは看守だった素性を隠そうとしていたのでしょうか?」
ウィンスレットはインタビューの中でハンナを演じるにあたって、「無意識に素性を隠そうとしているから、街中を歩いているときでも自然とうつむき加減になる」と言っています。ウィンスレットはハンナが素性を隠していたと解釈したようです。しかし、果たして本当にそうでしょうか?私もこの小説を読み始めた当初は「ハンナは素性を隠しているのではないか?」と疑ったのですが、読み進むうちに「どうもそうじゃないんじゃないか?」と考えが変わってきました。以下、この疑問について考えてみます。

名前を聞かれたとき驚いたり、非番の日のハンナの行動をミヒャエルに話したがらなかったのは、看守の過去を知られたくないために素性を隠そうとしたハンナの行動の顕れでしょうか?

名前を聞かれて驚いたのは、素性を隠そうとしたからではないと思います。繰り返しになりますが、114ページの弁護士の証言通り、警察に引越の度に届出を出しているので素性を隠そうとしたわけではないと思います。では、なぜ名前を聞かれて驚いたのかというと、「その1」で述べたように真名の習慣のためだと思います。

また、非番の日に何をしていたかは分からない点が多いですが、ひとつは一人で映画を見に行っていた可能性があります。そのことをミヒャエルに話したがらないのが素性を隠していた理由になるでしょうか?ちょっと微妙ではないでしょうか。そもそも素性を隠したいのなら、不用意に人目の多い場所に外出はしないのではないでしょうか?それに考えてみれば、車掌という仕事は不特定多数の人々に見られるので、素性を隠すのには無理があるように思えます。(ただ、映画ではウィンスレット演じるハンナは、なるほど、伏せ目がちに目立たぬように車掌を務めてはいます。しかし、小説での市電事件のとき、運転手と快活に会話していたハンナを考えると、通常業務時にハンナが目立たぬように控えめな雰囲気で車掌を務めていたと考えるのは少し違和感を感じます。やはり、テキパキ、ハキハキと仕事をこなしていたんじゃないでしょうか。その方がハンナのはっきりした性格にも合致すると思いますし、だからこそ、ハンナの仕事に対する上司の評価も高くなって昇進の話もでてきたのではないでしょうか。また、看守時代もおそらく仕事に対しては几帳面に忠実にこなしていたのではないでしょうか。ただ、囚人たちを強制収容所に送るという内容に問題がありますが…。)

それから、ミヒャエルの話し振りからすると自転車旅行も、おそらくハンナは最初は行きたがらなかったようです。これも素性を隠すためでしょうか?(p63)これは、おそらく、ハンナが自転車旅行に行く前に落ち着きがなくなったのは、半分は旅行で文盲がばれるのを恐れたためだと思います。もう半分は旅行を楽しみにしたからだと思います。ですので、これも素性を隠すためではなく、文盲を隠すためではないでしょうか。

別の観点から考えると、そもそも裁判で告訴されるまでハンナに看守時代の罪について罪悪感はあったでしょうか?私が思うに、ハンナに罪悪感がまったく無かったわけではないが、裁判までは、罪悪感が芽生えてもはねのけていたと思います(p224)。元々、ハンナの性格は間違ったことは嫌いで何事も堂々としていたと思います。ただし、ハンナにとっては文盲だけがネックであり弱点であり、それだけは隠していたと思います。ともかく、ナチの看守だったことは社会生活を送る上でハンナは特に隠そうと努めなかったと思います。また逆に、看守だったことを努めて明かそうともしなかったと思います。ハンナが過去をミヒャエルに話したとき、軍隊にいたことをさらりと打ち明けています。もし隠そうとするなら軍隊にいたこと自体を隠すのではないでしょうか。また進んで明かそうとするなら、そのとき看守だったことも話すでしょう。確かにハンナにとっては看守の仕事は不本意だったとは思いますから、進んで話したい過去ではなかったでしょうし、実際、戦争犯罪で取り締まられるナチスの人間もいたでしょうけれど、逆に隠さなければならないほどハンナにとっては重要でもなく、また、自分に非があるとも当時のハンナは考えていなかったのではないでしょうか?

以上のように考えると、結論としては、ハンナが素性を隠そうとしたとは考えにくいのではないでしょうか。

ところで、ちょっと脱線ですが、ちなみに、当時の人々がナチスドイツに加担したことについて「当時はみんながそうだったから、当時は悪いことではなく、自分はみんなに従っただけで悪くはないんだ。まったく罪悪感がゼロということはないけれど、一人で責任を負わなければならないほど重い罪ではない」と考えることに対して、私たちはどう考えたら良いでしょうか。①酷いと考えるでしょうか?それとも、②当時の、戦時中の社会にあっては、それは仕方のなかったことだと考えるでしょうか?私の考えでは、まず①についてですが、単純に酷いと考えるのは欺瞞に思えます。それは現在の観点からのみの考えだと思います。極端に言えば、現在の社会がヒューマニズムに傾いているから、まるで全体主義のように個人も社会全体に迎合して考えた結果、ハンナを断罪する、という一種の全体主義的な思考による非難に思えます。当時の社会状況を無視して、現在の社会全体を覆っている価値観に合わせるだけなのであれば、当時の社会においてユダヤ人虐殺に全体主義的に加担したのと同じではないでしょうか。では、次に②についてですが、①とは逆に仕方なかったで済ませて良いのでしょうか?それもまた人間は全体に従うものだという考え、全体主義を受け入れる考えと同じだと私は思います。それでは全体主義はいつまで経っても容認されることになって同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。

ここが難しいのですが、当時は仕方なかったことかもしれませんが、それを看過するわけにはいかず、そういった過去を断罪しなければならないという複雑な思考過程を必要とすると私は思います。もし、今は裁く立場にある私たちも、今度、ハンナと同じ立場に立たされたならば、そして、同じように全体に加担するようなことになれば、私たちもまた同様に断罪される立場に立たされることを記憶にしっかりと刻まねばなりません。そういう覚悟を持った上で私たちはハンナを裁かなければならないと思います。そして、ハンナを裁くことは、ナチスのような全体主義に対して、たとえ一人であっても闘う覚悟を持つという決意になるのだと思います。

■映画編
(1)疑問1「市電事件で喧嘩したとき、浴槽の中でのハンナの表情は何を意味しているのでしょうか?」
マイケルが「ぼくを愛してる?」とハンナに訊いたとき、浴槽の中のハンナの表情は何を意味しているでしょうか?極めて微妙なのですが、おそらく、このハンナの表情は「ハンナが何かに気づいたこと」と「気づいたことの内容に対して戸惑いのような感情」を表しているのだと思います。では、ハンナは何に気づいたのでしょうか?このハンナの”気づき”から”戸惑い”へ至る思考のプロセスについて、次の2つが考えられると思います。

①元々、この段階でのハンナは、ミヒャエルへの愛が不確かなものだったからかもしれません。つまり、ハンナにとって、ミヒャエルとのセックスは性愛であって恋愛ではなかったからかもしれません。ところが、それに対してミヒャエルはハンナに本気の強い愛を抱いているとこの喧嘩でハンナは気づいたのかもしれません。あるいは、ハンナは愛という概念があまりよく理解できていなかったのかもしれませんが、その可能性も否定はできませんが、無視されたことで怒ることから考え合わせると、ハンナにとってミヒャエルの存在は大きかったはずで、愛についても理解があったと思います。ただ、この頃のセックスを見てみると、互いに相手を利用するセックスだったので性愛の割合が確かに高かったかもしれません。しかし、無視したことに腹を立てる点からすると、性愛と恋愛の割合があるとすると、ハンナにとって恋愛の比重も大きかったのではないでしょうか。ともかく、このハンナの表情の意味は、ハンナはそうでもなかったけれど、ミヒャエルは本気で自分を愛してくれていることに気づいた瞬間の表情(=驚きと戸惑いの表情、そして、それをミヒャエルに悟られまいとする平静を装った表情)と捉えることができると思います。

②もう1つのハンナの思考過程としては、ちょっと長い説明になりますが、まず、マイケルが「ぼくを愛してる?」と問うのは、マイケルがハンナの愛を疑っているからであり、その原因はハンナが電車でのマイケルの意図に気づかなかったことにあります。そして、ハンナはマイケルの意図に気づかなかった原因を自分が文盲であることに思い至り、文盲が暗黙の内に相手の意図を汲み取る”心の通じ”が弱いことを悟った瞬間だったのではないでしょうか。

もう少し詳しくハンナの思考プロセスを追ってみます。まず、マイケルから「ぼくを愛してる?」と訊かれます。ハンナの思考は「自分はマイケルを愛しているのに、なぜ、そんなことをマイケルは訊くのだろうか?」→「おそらく、マイケルはハンナのマイケルへの愛情を疑っているから訊くのだろう」→「では、なぜ、疑うのか?」→「市電の中でマイケルの意図をハンナが気づけなかったから」→「なぜ、それが愛を疑う理由になるのだろう?」→「もし、愛しているのなら、相手の意図を汲み取ることができるはずだとマイケルは考えているに違いない」→「でも、自分(=ハンナ)はマイケルの意図に気づけなかった」→「なぜ、気づけなかったのだろう?」→「それは自分が文盲だから」→「どうやら文盲は相手の意図を汲み取る力が弱いのではないか?つまり、”心の通じ”が悪いのではないか?」→「それは愛する能力の欠如ではないのか?」→「なぜ?」→「なぜなら、マイケルが、今、こうやってハンナに「ぼくを愛してる?」と訊くように、ハンナの愛を疑っているではないか!」
つまり、このハンナの表情は、「自分は文盲であるがゆえに心の通じが悪いこと、ひいては愛情の欠如に受け取られてしまうこと」に気づいた瞬間ではないでしょうか。「マイケルはそんな風に考えるのか…」と気づいたのだと思います。「そんな風」とは「心の通じが悪い→すなわち、愛情の欠如」という論理です。そして、ここからは、後にハンナがこの気づきから考えたであろう、さらに一歩押し進めた思考なのですが、「マイケルはそんな風に考えるのか…」→「でも、困ったな。自分の文盲は直せない」→「もし、文盲だとマイケルにバレてしまえばどうなるだろうか?」→「文盲イコールハンナの愛する能力の欠如、すなわち、ハンナの愛は本物ではないと解釈されてしまわないだろうか?」→「もし、そう解釈されたら、マイケルとの恋愛も終わってしまう」→「終わらせないためには、どうすれば良いのだろう?」→「文盲を隠すしかない!」という結論に至ったのではないでしょうか。そして、これが裁判でハンナが文盲を隠す理由に繋がっていったのだと思います。(←この解釈の仕方は、「その7」での「裁判でハンナが文盲を隠した理由」という私の解釈と同じになっています。)

そう考えると、ホテルでのメモ紛失事件で、激しくハンナが怒った理由が深みを帯びてきます。単に文盲を隠すための懸命な演技だけではなく、この市電事件での経験があるのではないでしょうか?つまり、このときすでにハンナは文盲が愛する能力の欠如だと捉えられるのを恐れていたのではないでしょうか。だから、愛を守るために文盲を必死で隠さざるをえず、その悔しさや惨めさがハンナの心を苛んだのではないでしょうか?このときのハンナの心の痛みを思うと胸が痛みます。

以上、このハンナの表情には上記のような2つの解釈が成り立つと思います。そして、私としては②が正しい解釈だと思っています。ところで、この浴槽での場面は小説では淡々と描写されているだけなので、このようにハンナの表情からハンナの考えを深く読み取ることはできません。ですので、この場面はこの映画の優れて良い点だと思います。

ただ、現段階では、まだ、この映画のDVDが発売されておらず、映画を見た記憶と予告編の1カットだけを頼りに考えているので、この解釈は間違っているかもしれません。DVDが発売されて、もう一度、一連の流れを通して映画を見直したら、解釈が変わるかもしれませんことをお断りしておきます。

さて、ここからは余談ですが、ウィンスレット自身はこの場面をどう解釈して演じたのかは微妙なのです。というのも、その手前の市電事件でハンナが怒った理由をウィンスレットはどうも「無視されたから」ではなく「働く姿を勝手に見ていたから」と考えているみたいなのです。そうなると上記の私の解釈もあまり意味を為さなくなってしまいます(笑)。

(いえ、本当は俳優がどう思って演じようと関係なく、観客がどう受け止めるか、どう解釈するかが真実であって、観客の出した解釈が正しいと言って良いと思います。もちろん、監督がこういう意図でこういう演技をやらせたんだという監督の意図が本当は解釈の本筋なんですが、それも観客が監督の思ったように解釈する場合に限るのであって、監督の意図がうまく観客に伝わらず、別の解釈を生み出したのなら、その別の解釈こそが正しい解釈だと言えると思います。まあ、いずれにしろ、これは製作者たちの意図と観客の解釈にズレが生じるという演出を失敗した場合の話ですが。)

ただ、一般的にいって、これには文学と異なる映画の解釈の難しさがあります。文学は言葉から、是か非か、あるいは、判断不能まで含めて、おおよそ分析可能です。ところが、映画の場合は監督の意図の他にこの映画のように俳優の意図も加わったりします。というのも、映画は、小説のように一人で全部作るのではなくて、大勢の総合力で作り上げるものですから、どうしてもバラバラになりやすく、しかも、映像という現実から判断しなければならないので、言葉を腑分けするような論理的で明晰な分析ができにくくなります。文芸批評に比べて映画批評がアカデミックになりにくいのは、そういった不分明さがあるからだと思います。では、確証がないからといって私のような解釈を書かない方が良いのかというと私はそうは思いません。私のような解釈も条件付きや範囲が限定されたりはありますが、可能だと思います。そういった解釈を施すことで『朗読者』の世界が豊かになる、『朗読者』から得られるものが多くなると思います。喩えるなら、種から芽が1個しか芽吹かないのではなくて、ジャガイモのようにたくさんの芽がいろいろな箇所から芽吹く方が映画の解釈には良いと思います。解釈の可能性が多様なほど良いのではないでしょうか。どれか一つが正しいと捉えたがる人もいますが、言葉なら分析で限定してゆくこともある程度可能ですが、映像の場合は現実の解釈により近いので、ある程度、多様性も大切だと思います。(とはいえ、自分の解釈が正しいと私は主張しているわけですから、言っていることとやっていることが矛盾しています(笑)。)

■言い訳
思いついたままに書き足し書き足ししているので、どうにもゴチャゴチャと分かりにくい文章になってしまいました。それに同じ言説の繰り返しも多いし…。いつになるか分かりませんが、いつかは文章を整理したいと思っています。…まあ、でも、現実も多層的だと思いますので、単線的・短絡的にたった1つの論理で「こういう理由だからこういう結論になる」というのもいかがなものかと思いますので、ある程度、ゴチャゴチャするのも良いかなと思います。(←もちろん、1つの論理で表せるものもあります、というか、一般的にはその方が多いです。)でも、本当ならそれを腑分けして分解・分析・分類・整理するのが良い文章だとは思います。単に私の頭の中でまだまだ整理できていないのが原因だと思います。いえ、そうではなくて、元から私の文章はゴチャゴチャしているのかもしれません。(←ああ、また、ゴチャゴチャ書き足してしまった!)

2009年10月11日

『朗読者』を読む その7


■総評
■解釈について
この物語には、私がここで示した解釈以外に、他の解釈も成り立つと思います。もっと具体的に言えば、ハンナの直感などは存在せず、ハンナは「恥ずかしい」という理由で文盲を隠したという解釈です。例えば、この小説を映画化した映画監督のスティーヴン・ダルドリーがそうでしょう。しかし、そういった解釈では、ハンナという女性が「取るに足りないつまらない事を恥じる」というとても陳腐な人物になってしまうと思うのです。それは、ひいては、この素晴らしい物語さえも陳腐な物語にしてしまうと思うのです。読者は「物語から如何に豊かなものを引き出せるか」が物語の解釈には大切なことだと思います。もちろん、根拠や妥当性のない解釈ではいけませんが、この物語のように、テキストにこれといった確かな根拠が示されず、そして、何よりも直感という極めて不思議な力が働いている場合には、解釈の正否は読者の感性に委ねるしかないと思います。

ともかく、私はこのハンナという女性のある種の気高さを陳腐なものに貶めたくありませんでした。確かに彼女はナチに加担した罪びとです。しかし、だからといって、彼女の気高さまで踏みにじりたくはなかったのです。ネット上にある幾つかの感想を読んで、ハンナを悪くいう感想に私は耐えられなかったのです。ですから、この感想を書かずにはいられなかったです。私がこの記事を書いた動機はハンナを貶める誤解から救いたいというハンナに対する鎮魂の願いからでした。ちなみに、私はハンナには実在のモデルがいると、根拠はありませんが、確信しています。作者のベルンハルト・シュリンクも自分の体験を元にした半自伝的小説と言っているように、実在のモデルがいるのではないでしょうか。もっとも、たとえ実在のモデルがいたとしても、そのままというわけではなく、いくらかは脚色されていると思いますから、そのモデルと作中のハンナでは、それはそれで違った人物だろうと思います。ともかく、この私の解釈は架空の人物に対する想いというよりは、実在したであろう人物へのレクイエムなのです。

■ハンナ・シュミッツについて
(1)ハンナの生涯
振り返ってみれば、ハンナの人生はなんと孤独だったのだろうと思います。ハンナは自分の生い立ちを次のように語っています。

彼女は約束によって生きていたのではなく、現実の状況に基づき、
自分自身だけを頼りに生きていた。
彼女の生い立ちを尋ねたことがある。
それはまるで、ほこりをかぶった長持ちから答えを探し出してくるような具合だった。
彼女はジーベンビュルゲン (現在はルーマニアになっている地方)で育ち、
17歳のときベルリンに出てきて、ジーメンスという会社の労働者になり、
21歳で軍隊に勤めたという。
戦争が終わってからは、さまざまな仕事をして生計を立ててきた。
……
家族はいない。年は36。
そんなことを、彼女はそれがあたかも自分の人生ではなく、
あまりよく知らない、自分と関係のない人の人生であるかのように話して聞かせた。(p48)

また、裁判では、次のように答えています。

わたしは1922年10月21日、ヘルマンシュタット で生まれました。
いまは43歳です。はい、ベルリンのジーメンスで働きました。
そして、1943年の秋に親衛隊に入りました。(p112)


ハンナは17歳でベルリンで働きはじめ、文盲ゆえに21歳でナチスの看守になり、23歳の頃、囚人を見殺しにするという罪を背負い、戦後は職を転々としながら36歳でミヒャエルとの年の離れた恋愛関係になり、それも束の間で終わりを告げ、あげく43歳で裁判で自由を奪われ、ミヒャエルへの愛だけが世界との残された繋がりだったのに、最後には61歳でミヒャエルのその愛も尽きていたことを知ることになる…。なんと孤独な人生だったのでしょうか。ハンナが孤独になった原因は文盲であり、文盲を隠すことでより一層ハンナを孤独にしたと思います。ただ、文盲ばかりがハンナの孤独の原因ではないようにも思います。というのも、裁判でのハンナの嘘偽りのない答弁はハンナの実直な性格を物語っており、ハンナには普通の人にはない、ある種の気高さがあったのではないかと思います。その気高さが人を寄せ付けなかったのではないかと思います。もちろん、ミヒャエルが言うように「ちょっぴり自分を偽っていた」というようにハンナもまったく嘘偽りがないわけではありませんが、その多くは文盲に関わる事柄が多かったのではないかと思います。いずれにせよ、この世界でひとり孤独だったハンナはそれでも恨み言をいうわけでもなく、後悔や後ろ髪を引かれるでもなく、最期には、決然とこの世界との関係を断ったのだと思います。

それにしても、ハンナは一体何者だったのでしょうか?ハンナの特徴は「文盲を隠していること」や「ナチの看守だった過去」が挙げられます。しかし、それだけでハンナの特徴を捉えられるかというとそれでは不十分だと思います。なぜなら、直感という大きな要素があるからです。確かに、文盲であることが、彼女の直感力に大きく影響していると思います。しかし、文盲の人たち全員が直感に優れているわけではありません。ハンナの直感は文盲の中でも特別な能力で、ハンナには文盲だけではない何かがあると思えます。ハンナのこの特殊な能力はどこから来るのでしょうか?

(2)ハンナの正体
テキストからハンナについてプロファイリングしてみます。まず、ハンナの性格ですが、ミヒャエルとの出会いでの乱暴な介抱から、ハンナはぶっきらぼうで短気ですが親切な所もあると思います。 また、市電事件ではミヒャエルが無視したと判断した瞬間にハンナはミヒャエルを無視した挙句、運転手と仲の良いところを見せつけたりするなど咄嗟の機転で反撃する頭の良さもあります。また、ミヒャエルの再訪でいきなり裸で抱きついたり、メモ紛失事件でベルトでミヒャエルを殴るなど、何かと直接的なところがあります。さらに、ミヒャエルが朗読した本に対するハンナの反応から、ハンナには小狡いところはなく、正々堂々とした実直な性格がうかがえます。ただし、文盲を隠す点だけは例外で、嘘をついたり、狡さを発揮したりします。逆に言えば、嘘が嫌いで実直な性格のハンナからすれば、文盲を隠すために嘘をつかなければならなかったことはストレスだっただろうと推測できます。また、失踪する前のミヒャエルとの口論からは、ハンナは自分のことは打ち明けず、ミヒャエルがいくら追究しても決して口を割らない強情さや愛想の無さがあったと思います。けれども、仕事に関しては昇進の話が出るほど上司からの評価は高く、きっちりと仕事をこなしていたと思われます。また、異常なまでに清潔好きでミヒャエルの身体を平気で洗ったりします。セックスに関しても、いわゆるバタイユの言う「禁止と侵犯」のようなエロティシズムではなく、肌の接触でもたらされる快感を感じる身体感覚を基本としたセックスだったのではないかと思います。以上のようなことから、おおよそのハンナの人物像が浮かび上がってくると思います。

ところで、第1部終盤のミヒャエルのすき間の話(第1部第16章p91-p93)で、ハンナが仕事がない日の過ごし方について、ハンナは自分には話してくれないとミヒャエルは不満げに語っています。しかし、ハンナにはミヒャエル以上の親しい知り合いはいなかったと思いますので、ハンナは仕事のない日はおそらく独りで過ごしていたと思います。非番の日は掃除や料理など家事をしたり、映画を見に行ったりしていたのでしょうか?それとも何か他の事をしていたのでしょうか?家事や映画なら別にミヒャエルに話しても良さそうに思います。しかし、ミヒャエルに話さないところをみると、それ以外のことをしていたのでしょうか?それとも単に自分のことを話したがらないだけでしょうか?ハンナが何もないのに思わせぶりに隠し事をするのも不自然な気もします。あるいは、ミヒャエルに嫉妬させるためかもしれませんが、それにしてはずっと話すのを拒み続けています。あるいは、ハンナが文盲ゆえの頭の中の整理の無さからくる、漠然とした過去の回想ゆえなのかもしれません。しかし、もしかしたら、ハンナにはまだ何か私たちの知らない秘密があったのかもしれません。ですが、テキストからはこれ以上は判断しようがありません。ただ、他にも些細なことで確証はありませんが、裁判所でミヒャエルが初めてハンナを見つけたとき、「結び目ができるように頭の周りにぐるぐる巻きつけた珍しい髪型」(p112)とあるように、ハンナには他のドイツ人とは違ったどこか独特の民俗的な習俗があったのではないだろうかと思います。しかし、いずれにしても、ハンナは17歳でベルリンで働き始めているので、ハンナが何らかの異教の伝統、つまり、魔女の伝統を継承しているとは時間的に考えにくいと思います。

以上のように、ハンナには「文盲であること」や「ナチの看守だったこと」以外にも私たちの知らない秘密が何かあった可能性があります。しかし、それはミヒャエル(=作者シュリンク)にも分かっていないことなので、テキストからは推測しようがありません。けれども、その秘密がハンナの直感力と何らかの関連があるのではないかと思わずにはいられません。そして、ハンナのプロファイリングから、ハンナはある特定の人たちに気質が似ているのではないかと私は思っています。それは中世の魔女裁判に残された数少ない本物の魔女たちの証言記録から窺える魔女たちの気質です。すなわち、魔女の気質とハンナの気質が非常に似通っていると私は思っています。とはいえ、気質が似ているからといって、ハンナを魔女と断定することはできませんから、あくまで、推測の域を出ません。しかし、ハンナの直感力を考えるとき、単にハンナの個人的な特殊能力であるだけでなく、さらにその奥には魔女の伝統に基づいた根深い伝承があるように私には思えて仕方ありません。

■ハンナの心理について
さて、最後にハンナの心理について整理しておきます。「なぜ、ハンナは文盲を隠したのか?」や「なぜ、ハンナは自殺したのか?」といった疑問について整理しておきます。ただし、ここで述べる理由はあくまで私個人の推測であって、この理由が正しいと断定できる根拠はテキストからは得られていないことを断っておきます。それから、最後に私のハンナについての感想も書いておきます。

(1)ハンナが文盲を隠した理由
まず、ハンナがこれまでの人生で文盲を隠した理由は、ハンナと周囲の間にある文字を読めないことからくる隔絶が露呈してしまうのを恐れたからだと思います。周囲は文字が読めるのにハンナは文字を読めないということから、周囲はハンナと分かり合っていたと思っていたのに実はそうではなかったと気付かれてしまうことを恐れたのだと思います。周囲がハンナとの隔絶に気付いてしまうことで、ハンナは孤独になってしまうことを恐れたのだと思います。

また、裁判でハンナが文盲を隠した理由は、ミヒャエルの愛を失うのを恐れたからです。ハンナは裁判の最初からミヒャエルが法廷にいることに気づいていました。ハンナはミヒャエルに自分が文盲であることを知られたくなかったのです。ハンナは文盲であることは文字が読める人よりも相手の心と通じ合える能力が劣ると考えたのだと思います。ひいては、心が通じ合えないのだから、文盲は人を愛する能力も劣ると考えたのだと思います。つまり、文盲であるハンナの愛は本当の愛ではないと捉えられてしまうと恐れたのだと思います。もし、ミヒャエルにハンナが文盲であるとバレてしまったら、ミヒャエルにハンナの愛がニセモノだと思われてしまうと恐れたのだと思います。ハンナには自分の愛が本当だとミヒャエルに訴える術はなく、文盲を隠すしか方法がなかったのだと思います。

(2)ハンナが自殺した理由
ハンナが自殺した理由は2つあります。1つは、ハンナにとってただ一つの心残りであったミヒャエルの愛が、刑務所で再会したときにすでに失われていたと分かったからだと思います。ハンナにとってミヒャエルとの愛だけがこの世界での唯一の心残りでしたが、それが失われた以上、この世界には、最早、何の未練も無かったのだと思います。もう1つの理由は看守時代の罪を償うためだと思います。看守時代に犯した罪悪に対する罪の意識から、ハンナはいずれ自分の死をもって罪を償うことを覚悟していたと思います。自分の犯した罪は「刑務所で過ごしたから、刑期を終えたから」といって償えるものではなく、自分の死によって清算するしかないとハンナは考えたのだと思います。ただし、文字を覚えたハンナは強制収容所関連の書物を読んだことで、強制収容所の犠牲者たちの魂に触れることが可能になったと思います。そして、毎晩、死者との対話を繰り返した結果、ハンナの魂は途轍もない精神の高みへと高められ、単に罪を償うために死ぬだけではなく、ハンナの魂の全体性を持って死の世界へと旅立っていったのだと思います。

(3)ハンナへの私の想い
こうやってハンナの人生を見渡してみると、ハンナはこの世界の中でずっと孤独であり、ナチの看守となって罪を背負い、裁判で罪を問われて生活の自由を失って、挙句の果てにミヒャエルの愛を喪失してしまうという、とても悲しみに満ちた人生に思えます。ハンナの罪にしても、あの時代に生きていれば多くの人がハンナと同じように罪を犯したであろうと思います。それにハンナが文盲でなければ罪を犯す立場に立たされることも無かったと思います。元々、ハンナは根は決して悪い人間ではありませんから。むしろ、善い人間です。しかし、純粋で善い人間ほど重い罪を背負わされてしまうという悲劇が裁判では起こりました。裁判に限らず人の世とはそういった傾向があるのかもしれません。せめて、ミヒャエルの愛だけでも届けばと思っていましたが、それさえも最後には残酷にも失われてしまいます。ですから、そんなハンナのことを考えると、とても可哀想に思ってしまいます。ですが、半面、ハンナは文字を覚え、死者の魂に触れることでハンナ自身の魂もこれ以上になく高めることができたので、苦難に満ちた人生だったけれど、苦しんだ分報われたようにも思います。ですから、私は、ハンナの最期は苦しみや悲しみなど人間の営みの向こう側(=彼岸)に達して超然とした気持ちで死の世界に入っていったのだと思います。ですので、ハンナについて想うとき、彼女の人生に哀しみを覚えると同時に、その死に深い静寂を私は感じます。

■ミヒャエル・ベルクについて
ミヒャエルはハンナによって人生を大きく変えられてしまいました。ミヒャエルはハンナと付き合ったことで女性のあしらい方が上手になった反面、人格形成において自分の人生に無関心・無感動な醒めた冷たい人間になってしまいました。また、ハンナが忘れられず、他の女性と付き合っても長続きしませんでした。もっとも、長続きしなかった原因はミヒャエルの人間的な冷たさもあったと思います。それに、裁判の欺瞞を見抜くような、言葉の作り出す幻想に縛られない冷徹な視点をミヒャエルは得ることができたとも思います。しかし、他人と比べて比較的客観的な視点を持っているであろうミヒャエルでさえも、最後までハンナの真意を理解することはできませんでした。なぜなら、文盲を隠した理由を恥と捉えたり、ハンナの遺産の寄付を罪の軽減をハンナが望んだと考えたりしたからです。結局、言葉のひとミヒャエルは最後まで直感のひとハンナを正しく理解することはできませんでした。

さらに、ミヒャエルの失敗から得られる教訓は行動だと思います。裁判のとき、ミヒャエルが裁判長にハンナの文盲を話していれば、もっと違った結果になっていたかもしれません。たしかに、文盲をバラすことは、ミヒャエルの父の言うようにハンナを傷つけてしまうかもしれません。また、実際に行動しても、うまく行ったかどうかも分かりません。ですが、私の個人的な人生経験からの見解ですが、やはり、行動すべきだったと強く思います。

■直感と言語
この物語は具象的なレベルではハンナとミヒャエルの愛を描いた物語ですが、抽象的なレベルでは、この物語は言語と非-言語の相克の物語でした。簡単にいえば、言葉と直感の相克です。言葉の側からは、言葉の人として、言葉を職業とする人たちが3人登場します。哲学者であるミヒャエルの父と法律家であるミヒャエルの先生と法制史を専門とする歴史学者であるミヒャエル自身です。一方、直感の側からは、直感の人としては、ハンナが登場します。しかし、この3人の言葉の人はいずれも現実や直感の人ハンナを正しく捉えることはできませんでした。

まず、哲学者であるミヒャエルの父はミヒャエルに理路整然とした理(ことわり)を教えて正しい道を説きますが、ミヒャエルに実際に行動を起こさせることができずにミヒャエルの失敗をみすみす見過ごしてしまいます。また、法律家のミヒャエルの先生はその葬儀でも見られたように、社会との軋轢から孤高の人生を歩み、偏屈な人格に陥ってしまったようです。この先生は強制収容所の裁判を通して、法に疑義を抱き、法を現実に即したものに正そうとした態度だったのですが、結局、現実と法の狭間で擦り切れてしまったのだと思います。そして、ミヒャエルは裁判を”グロテスクな単純化”と嫌悪して、現実を言葉で捉える最後の道である歴史学に進んだのですが、そんなミヒャエルでさえも、ハンナが文盲を隠す理由にも、手紙の返信を待つハンナの愛にも気づかず、死後のハンナの気持ちさえも誤解するといった有様で、結局、ハンナを正しく理解できていませんでした。つまり、極端に言えば、現実に対して3人が異なった言葉のアプローチをしたのですが、言葉は現実の前にあえなく敗北したのです。

一方、ハンナはどうだったでしょうか?ハンナの直感は的確にミヒャエルの真意や本質を見抜いていました。もちろん、ハンナの直感も完璧ではありません。例えば、市電の事件では、ハンナはミヒャエルの意図を見抜けませんでした。おそらく、「2両目で人目を忍んでイチャイチャしたい」というミヒャエルの浮ついた気持ちや下心が、ある意味、よこしまな心・邪心としてハンナの直感に映り、ハンナは「ミヒャエルがハンナを無視した」というネガティブな意味に受け取ってしまったのかもしれません。いずれにしろ、ハンナの直感も百パーセント完璧なものではありませんでした。しかし、より本質的なこと大切なことに対しては、ハンナの直感は比較的正確に反応したのではないでしょうか。つまり、極端に言えば、すべての局面でというわけではありませんが、多くの局面において、直感が現実を把握する能力は言葉よりも優れていると思います。いえ、そこまで極端に考えなくても、少なくとも、言葉による現実の把握を補うだけの力を直感は有していると思います。(脱線ですが、もっと言えば、言葉だけでなく、直感によっても現実の把握を補うことができれば、この世界をバランス良く捉えることが可能になり、ひいては世界そのものの全体性を回復することができるのかもしれません。)

言い換えれば、現実を断面的に捉える言語よりも、現実を全体的に捉える非-言語(=直感)の優位性です。さらに、言葉は現実ばかりか、ハンナという直感の人を理解できませんでした。つまり、ミヒャエルがハンナを理解できなかったように、言葉は精神の全体性を捉えることはできないのではないでしょうか。その結果、言葉は現実や精神をある断面的な捉え方に押し込めて誤解してしまい、ひいてはこの物語のような悲劇が起こってしまったのではないでしょうか。

■死の可能性
最後に、私はこの作品に1つだけ不満があります。それはハンナの死についてです。私は「ハンナは清々しい気持ちで決然として死んだ」と考えていますが、作品ではハンナの死がどのようなものであったかがまったく描かれていません。ですから、ハンナの死が実際はどうだったかは正確には分かりません。ハンナの死をどのように考えるかは、読者の想像に大きく任されています。

では、ハンナの死をどのように捉えればよいのでしょうか?例えば、ハンナはミヒャエルの愛が失われたという失望のあまり死を選んだのでしょうか?ミヒャエルの愛が失われたからといって、死ぬことはないのではないでしょうか?この世界と決別するために決然とした気持ちで死んだとしても、やはり、普通に考えれば、死ぬこと自体に、死ぬことの先に希望などないのではないでしょうか?それとも本当に絶望して死んだというのでしょうか?ハンナの性格から絶望のあまり、悲しみのあまり死を選ぶというのは考えにくいと私は思います。もう生きる必要がないと思ったのだとしても、逆に死ぬ必要もないのではないでしょうか?では、ハンナはどのような気持ちや考えで死んでいったのでしょうか?私たちと違って、ハンナには死になんらかのポジティブな意味があるとでもいうのでしょうか?ハンナの死に大きな謎があるように思います。

しかし、ここでは、これ以上、ハンナの死の謎について答えることはできません。けれども、私には、この謎の答えは魔女の死生観の中にあるように思えてなりません。いえ、正確には魔女も死生観について具体的なことは何も残していないと思います。ですが、魔女に似た女性で、哲学者であり作家でもあるアイリス・マードックがそれに近い死生観を有しているのではないかと私は思っています。この「死の可能性」については、この私的魔女論で最後に取り上げる第3の女性アイリス・マードックで詳しく書いてみようと思っています。

ですが、その前に女神モリガンに表れたような強力な女性性、すなわち、女性の持つ強力なエネルギーについて、先に詳しく見てみたいと思います。というのも、「私的魔女論」の第一論考である、この”『朗読者』を読む”では、ハンナ・シュミッツを通して”直感”の話をしました。私的魔女論では、魔女を”女のシャーマン”として捉え、特にその”女”という部分に焦点を当てて魔女の本質を掘り下げてゆこうと思っています。そして、”直感”の次に外せない魔女の本質として、”エネルギー”があると私は考えています。ですので、次回からは、”エネルギー”に注目して、第2の女性、女優ケイト・ウィンスレットについて考えてみようと思っています。

2009年10月5日

『朗読者』を読む その6


■第3部第8章(p219-p225)
この章では、出所前のミヒャエルとハンナの再会が描かれています。 
この章はこの小説の最大の山場です。ここでのポイントは2つあります。
1つは下記のようなハンナの反応です。

ぼくは彼女の顔に浮かんだ期待と、
ぼくを認めたときにその期待が喜びに変わって輝くのを見た。
近づいていくと彼女はぼくの顔を撫でるように見つめた。
彼女の目は、求め、尋ね、落ちつかないまま傷ついたようにこちらを見、
顔からは生気が消えていった。
ぼくがそばに立つと、彼女は親しげな、どこか疲れたようなほほえみを浮かべた。
・・・・・・
ぼくはもっと彼女のそばに寄った。
さっき近づいてくるときに彼女をがっかりさせてしまったらしいと気づいていたので、
今度はもっとうまく、埋め合わせをしようと思った。
(p220-p222)

最初、ハンナはミヒャエルと再会して喜んだものの、すぐに直感でミヒャエルがハンナをもう愛していないことに気づいて落胆したのではないでしょうか?さらに今後の朗読に話が及びます。

「本はたくさん読むの?」
「まあまあね。朗読してもらう方がいいわ」
彼女はぼくを見つめた。
「それももう終わりになっちゃうのね?」
「どうして終わりにする必要がある?」
そう言ったものの、ぼくは彼女にこれからもカセットを送るとか、
会って朗読するとかいう相談はしなかった。

(p222)

ハンナはミヒャエルの愛が終わっていることの最終確認のために朗読の終わりを尋ねます。そして、ミヒャエルは朗読を続けるような素振りを見せますが、今後の朗読の計画を立てませんでした。”計画家”のミヒャエルなのに、です。おそらく、ハンナはミヒャエルがもう朗読しないだろうことを見抜いたと思います。(次章の電話でより鮮明になります。)ともかく、ここでも、ハンナの直感が働いたと思います。

2つめのポイントは、ナチ時代のハンナの罪の問題です。ミヒャエルが次のように問います。

「裁判で話題になったようなことを、裁判前に考えたことはなかったの? 」

(p223)

それに対して、彼女は次のように言います。

わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、
私が何者で、どうしてこうなってしまったかということも、
誰も知らないんだという気がしていたの。

(p223) 

ハンナは何を言いたいのでしょうか?

確かに、ハンナは文盲ゆえに自分の人生の履歴を客観的に整理できていないのかもしれません。しかし一方で、おそらく彼女はこの世界で、ある意味、生まれてからずっとたった独りだったのではないでしょうか?家族も身内もなく、心を開ける親しい者など誰ひとりいない、圧倒的なまでに孤独なひとだったのではないでしょうか?そして、さらに文盲であることがより一層彼女を孤独にしたのではないでしょうか。文盲であることは、言葉からの隔絶と他者からの隔絶の2つの孤独があると思います。彼女の魂は、まるで真闇の宇宙の中でポツンとひとつだけ輝く小さな星のような孤独な存在だったのではないでしょうか。

先のミヒャエルの質問に彼女は続けて言います。

誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。
裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。
ただ、死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。
その場に居合わす必要はないけれど、
もしそこにいたのだったら、とりわけよく理解してくれる。
刑務所では死者たちがたくさんわたしのところにいたのよ。
わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。

(p224)

これは一体どういう意味でしょうか?

まず「本を読む」ことについてもう一度考えてみます。「本を読む」とはどういうことかというと、それは読み手と書き手との対話です。しかもただの対話ではありません。日常会話のようなうわべだけの言葉のやり取りではありません。読み手と書き手が真正面から向き合って、互いに対等の立場で真剣に話し合う心の対話、真の対話を意味します。特に、ハンナの場合はミヒャエルと本について話し合うことができたので、より豊かな対話になったと思います。しかし、それさえも、言葉であることに変わりはありません。現実と言語の関係にあるように、言葉は現実の一面に過ぎないのです。では、現実を一面ではなく全体で捉えることは可能でしょうか?言い換えれば、現実の全体性を得ることは可能でしょうか?

ここでいう全体性とは何でしょうか?ひと言で言えば、それはイデアのようなものです。では、イデアとは何か。例えば、”花”という物理的存在を”花たらしめている本質”を花の純粋イデアと言います。幾種類もある種類の異なる花たちや同じ種類でも一面に咲く花々のように現実に存在する数多くの花たちの、それらに共通する”花であること”の本質を花のイデアと言います。では、全体性とは何か?イデアは花のイデアのように物が対象だったりしますが、全体性は、物だけでなく全て、すなわち、現実を対象としています。現実には、物や人だけでなく、事も関係もすべてが含まれています。それらすべてをひっくるめた総体が現実であり、言うなればその現実のイデアが現実の全体性というものだと思います。ただし、花の場合は、野に咲く花があったとして、その花の具体的な名前は知らなくても、花のイデアが知覚されて花であるという認識が働き、それを単に”花”と名指しできます。しかし、現実は極めて複雑な複合体であり、花のように特定の名前で名指しすることはできません。しかし、名指しできなくても全体性は存在すると思います。

たしかに、全体性はイデアのように輪郭の明確なものではなく、輪郭である境界線は曖昧なぼやけたものである場合もあるでしょう。いえ、もっと言えば、どこからどこまでが全体なのかその全体像がまったく掴めない場合だってあるでしょう。しかし、それでも現実の全体性が存在すると考えられる理由は、この世界の物事には必ず因果関係が存在するからです。ただ、人間にはすべての因果関係を把握することはできません。けれども、全知全能の神を想定すれば、言い換えれば、全知全能の神だけが現実の全体性を把握することが可能だといえると思います。では、全体性は人間には手の届かないものでしょうか?いいえ、そうではないと思います。たとえ、神のような完全な全体性を把握することはできなくても、不完全ではあっても人間にも把握できる全体性もあると思います。なぜなら、すべての事象が人間の把握できない因果関係を含んでいるとは限らないからです。言い換えれば、人間に把握できる因果関係だけで動く事象もあると思います。ですから、人間にも把握できる全体性があると思います。

さて、ここで話をハンナの言葉に戻します。ここでのハンナの話は全体性の次元の話です。イデア界の次元の話です(下図参照)。ここでの現実とはナチ時代の囚人の選別や見殺しの事件を指していますが、全体性の次元に当てはめると、事件の全体性とは事件の真実や真相です。さらに、死者にも当てはめると、死者とは死んでいった人間たちの全体性、すなわち、俗世によって見る目が曇らされた生前の状態ではなく、死ぬことによって目の覆いが取り去れた客観的な視点を持った魂のことです。全体性の次元では、死者は言葉を介さずに事件の真実を理解してくれるのだと思います。また、ハンナは、強制収容所の本を読んだことから、その言葉を通してその言葉の背後に存在した犠牲者たち、その本に書かれていた犠牲者たちの魂にまで到達した、あるいは、彼らの魂を招き寄せたのだと思います。それが、すなわち、「死者たちが毎晩やってきた」ということだと思います。ここでのハンナと死者との対話は、先に説明した言葉を介した対話ではなく、言葉を介さない、直接的で真に真実の、魂と魂が触れ合う対話なのだと思います。ここでは言葉という不純物や夾雑物のない深いレベルの直接の理解があるのだと思います。そして、「毎晩やってきた」というのはハンナの罪の意識が死者の魂を招きよせる原動力にもなっていると思います。さらに、あるいは本当に死者の魂とハンナは触れ合ったのかもしれません。ともかく、ここでは、言葉の世界よりもさらに上昇した抽象的な次元、イデア界的な次元、霊的な次元での、真に真実の対話、超直接的な理解が描かれているのだと思います。そして、ハンナの直感もこの次元の世界からやってくると言えるのではないでしょうか。



そして、当然、そこでは欺瞞やウソは通用しません。いいえ、そこにはウソなど存在しようがないでしょうし、仮にウソをつこうものなら、それは自分自身の苦悩や責苦となって返ってくるでしょう。そういった死者たちとの真の対話によって、次第にハンナの魂は精錬されて、絶対的な孤独の宇宙の中でも慄然とした輝きを放つようになったのだと思います。後に判明する刑務所内でのハンナの変化(p235参照)はこの死者との対話による精錬から生じたのだと思います。しかし、そんなハンナにも、たったひとつだけ、この世界との絆があったと思います。それはミヒャエルとの愛の絆です。しかし、それもミヒャエルに会うまででしたが…。

それにしても、ナチスを選んだ世代のドイツ人がハンナを裁けるのでしょうか?いいえ、そうではないと思います。ハンナの言う通り、唯一、死者だけがハンナを裁けるのだと思います。しかし、既にこの世にいない死者は手を下すことはできません。死んでしまって、もうこの世にはいないのですから。だから、死者に代わって、生き残った者が裁かねばならない。でも、それはあくまで代理であって、その人自身には裁く資格はないのではないでしょうか。(*1)

この章で一箇所だけ分からない点があります。それは次のハンナの言葉です。

裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに

(p224)

裁判以降は、ハンナの罪が白日の下にさらされたので逃れようがなくなったのかもしれませんが、では、裁判の前まではどうやって彼らを追い払っていたのでしょうか?ハンナはとても実直な性格だと思いますから、何某かの意味があると思うのですが、それがどういった意味なのか、いまひとつ自分を納得させられる考えが見つからないでいます。なんとなく思うのは、ハンナが文字を覚える前はモヤモヤした混沌で曖昧な心象であり、記憶さえも未整理だったために、自分の罪に率直に繋がらずに強い気持ちで死者たちを追い払っていたのかもしれません。また、ホロコースト関係の書物も読んでいなかったので、死者たちの境遇も知らなかったので追い払いやすかったのかもしれません。しかし、文字を覚えた後では、すべてが鮮明になってハンナは死者たちから逃れられなくなったのではないでしょうか。

■第3部第9章(p225-p228)
この章では、出所前日のミヒャエルとハンナとの電話での会話が描かれています。ここでのポイントは、ミヒャエルの計画好きとハンナの電話の声です。

ミヒャエルは出所日のハンナの予定を計画したがります。これは本来ならハンナへの朗読にも当てはまるはずです。しかし、ミヒャエルはハンナに朗読する計画を立てませんでした。すなわち、ミヒャエルはもうハンナに朗読する気がないことの表れだったのです。そして、そのことにハンナも気付いたということなのでしょう。

さらにミヒャエルはハンナの電話の声が昔のままだったことに気づきます。

刑務所で再会したハンナは、ベンチの上の老人になっていた。
彼女は老人のような外見で、老人のような匂いがした。
あのときのぼくは、ぜんぜん彼女の声に注意していなかった。
彼女の声は、まったく若いときのままだったのだ。

(p228)

すなわち、外見は変わってもハンナの気性は昔も今も変わらないことを表していると思います。

■第3部第10章(p228-p237)
この章では、ハンナの死とそれを悲しむミヒャエルが描かれています。ここでのポイントはハンナの気持ちです。

おそらく、ハンナはもう生きる必要はないと考えたのだと思います。ミヒャエルとの愛情も終わったと直感したのだと思います。愛のないミヒャエルとの今後の生活など無意味で虚しいものでしかありません。ハンナのミヒャエルへの愛は変わっていませんでした。それはハンナがミヒャエルのギムナジウム卒業の姿が写っている新聞の切り抜きを持っていたことやミヒャエルからの手紙を待っていたことからも分かります。しかし、ミヒャエルのハンナへの愛は失われてしまった。ミヒャエルが愛したのは過去のハンナという幻想になってしまった。ハンナからすれば、出所したら、ハンナは愛しているにもかかわらず、今はもう愛してくれなくなったミヒャエルの世話にならなければならない。それはどんなにか辛いことだったでしょう。孤独だったハンナが唯一この世界と繋がりのあるミヒャエルだったのに、今はその繋がりが断たれてしまった。しかも、その断たれたミヒャエルに世話にならなければならない。ただでさえ孤独だったのに、さらに孤独感がいや増すのではないでしょうか。だから、愛のない生活で過去の愛を汚すよりも死を選ぶ方が愛を完成させられると考えたのかもしれません。この世界との最後の繋がりである愛が無くなってしまったのだから、もうこの世界にとどまる必要はないと感じたのでしょう。残された遺書にミヒャエルへの用件以外の言葉が書かれていなかったのも、愛のなくなったミヒャエルに対しては何を言っても意味を為さないから書かなかったのだと思います。むしろ、何も残さぬ方がミヒャエルの迷いにならずに済む、ミヒャエルのため、とまで考えたのかもしれません。彼女はきっぱりと旅立っていったのです。

ただし、ここで注意しておきたい点が1つあります。それは何かというと、ハンナは孤独を嫌がったり恐れたりして自殺したのでしょうか?私はそうではないと思います。刑務所長の話では、ハンナの刑務所内での暮らしは途中で変化して、刑務所内でもさらに孤独を求める姿勢に変わったと言っています。ですから、孤独を恐れたようには思えません。しかし、私の以前の解釈では、文盲を隠した理由のひとつは「世界や人々と隔絶していることを隠すため、文盲が万一バレれば恐ろしい孤独感が襲うと恐れたため」だったと第2部読解で書きました。確かに以前のハンナは隔絶や孤独を恐れたのかもしれません。市電事件でミヒャエルに無視されたと勘違いして激しく怒ったのも、孤独への恐れの裏返しもあったといえるかもしれません。ですが、ハンナは刑務所内で途中で変わってしまった。その原因は第8章で書いた死者との対話です。毎晩やってくる死者との対話を通して、ハンナの心は精錬されていったのだと思います。その結果、どうなってしまったのか?おそらく、まず、リアリティの違いに至ったのだと思います。死者の魂と生者の魂のリアリティの違いです。考えてもみてください。死者の魂との対話には迂遠な言葉を必要としません。ダイレクトな心と心の対話であり、そこには欺瞞や嘘は存在しません。極めてリアリティの高い真実の対話です。それに対して、生者との対話はどうでしょうか?裁判での看守たちや裁判長は人を裏切ったり、欺いたりと欺瞞に満ちていました。ミヒャエルにしてもハンナの愛を分かっていません。生者の魂は身体こそ生身の人間として生きていますが、心は恐怖(≒保身)や幻想に囚われて、世界の真実の姿を見ようとしないではありませんか。極端に言えば、心が死んでしまっている。心が死んでいる人間は機械と一緒、いや機械よりタチが悪いかもしれません。いずれにしろ、心が死んだ魂と触れ合っても、そこにリアリティはありません。ですから、ハンナにとって死者との対話はリアリティのあるものでしたが、生者との対話はすでに触っても手応えや手触りのない幽霊のようなリアリティのないものとの接触に過ぎなくなってしまったのではないでしょうか。そして、さらに変わったのは、以前は孤独を恐れていたのが、死者との対話でハンナ自身が精錬されてからは、孤独を”良し”としたのではないでしょうか。なんて言えばいいか、ハンナは魂の完全性や独立性を得たのではないでしょうか。自己の魂の全体性を獲得したのではないでしょうか。喩えて言えば、深遠な宇宙の中でたったひとり孤独に輝く星となることに”足るを知る”如く充足したのではないでしょうか。うまく説明できませんが、その結果、ハンナは孤独を恐れなくなったどころか、孤独を好むようにすらなったのだと思います。ですから、生者の世界はハンナにとってはほとんど意味のない世界になってしまったのだと思います。そして、ミヒャエルまでも心のない生者の部類に入ってしまっている。だから、ハンナは生者の中で喜びを分かち合える者がいなくなってしまったという孤独はあるでしょうが、それはハンナの置かれた状態であって、ハンナはそれを恐れてはいないと思います。

ですから、ハンナは悲しみの内に自殺したのではなく、清々しい気持ちでこの世界に別れを告げたのだと思います。もちろん、この世界を否定するものではありません。彼女は自然の詩や絵を残しているように自然を愛でていたのだから、この世界の美しさも十分に分かっていたと思います。ただ、時(≒タイミング)が来たのだと思います。生物の老いは残酷で徐々に身も心も蝕んでゆきます。彼女は老いさらばえて醜く朽ちるのを自然にまかせるよりも、自らの意思で潔くきっぱりと別れを告げたのだと思います。

それから、次の点をどう解釈すべきかで迷っています。それはハンナがミヒャエルから送られてきたカセットを元に読み書きを覚える話を刑務所の所長が話しているところです。

彼女はあなたと一緒に字を学んだんですよ。
あなたがカセットに吹き込んで下さった本を図書室から借りてきて、
一語一語、一文一文、自分の聞いたところをたどっていったんです。
あまり何度もカセットを停めたり回したり、早送りしたり巻き戻したりしたので、
レコーダーがそれに耐えられなくて、何度も壊れてしまい、修理が必要になったんです。
修理には許可が必要なので、わたしもとうとう、
彼女のやっていることを聞きつけたというわけです。
彼女は最初、自分のしていることを言いたがらなかったのですが、
字を書き始めて、自分で本の題名を書いてわたしに頼むようになってからは、
もうあまり隠そうとはしませんでした。
彼女は読み書きができるようになったことをほんとうに誇りに思っていて、
その喜びを誰かに伝えたかったんでしょうね

(p232-p233)

主旨としては「あなたと一緒に字を学んだ」という点に重点があって、ハンナがミヒャエルに感謝の念を持っているだろうこと、愛を感じた、愛を持ったであろうことを言っているのだと思います。ですが、それとは別の話なのですが、これをハンナが文盲を隠した理由である”恥じている証拠”と考えるべきか否かで私は迷っています。いえ、正確に言うと、私は「ハンナが文盲を隠した理由は恥ではない」と今までずっと訴えてきましたので、私はこれを否定したいのです。しかし、とはいえ、「自分のしていることを言いたがらなかった」となっているので、やはり、自分のやっていることがバレて、さらに自分が文盲であることがバレるのが恥ずかしかったのは恥ずかしかったのだろうと思います。では、やはり、ハンナが裁判で文盲を隠したのも、恥ずかしかったからでしょうか?実はそれがちょっと釈然としないのです。なぜなら、裁判という重要な場面で恥ずかしいからという理由で罪が重くなろうとも文盲を隠すというような頑なな性格と、たとえ所長に文盲がバレてもレコーダーを修理してもらって読み書きを学ぶという勉強熱心な姿勢が結びつかないのです。絶対にバレたくない人なら、レコーダーを修理せずに読み書きの勉強を投げ出してでも文盲を隠したのではないでしょうか?いや、しかし、読み書きを学べる絶好のチャンスゆえに、あれほど隠した文盲がバレることも厭わなかったのかもしれません。また、裁判という重要な場面で文盲を隠すという極めて強い動機として”恥”があるのだとしたら、その証拠として、この所長の話は動機としては少し弱いのではないかと思います。実際、所長には文盲がバレているわけですし…。しかし、それもハンナが文盲ゆえの無知のために裁判の重大性が分からずに、裁判でも意地を通した、とも考えられなくもないです。しかし、恥が理由だとした場合、「なぜ、そこまで恥じるようになったのか?」という、その強力な根拠が示されれば良いのですが、テキストには見当たりません。いえ、しかし、それも恥などというものは、自分が勝手に重大に思っているだけで、そもそも強力な根拠などありはしないものなのかもしれません。あるいは、恥と考えているかどうかはともかく、「文盲を隠している」のだから、恥に関係なく、「言いたがらない」のも当然と言えば当然かもしれません。ともかく、これを恥の証拠というには、いまひとつ、納得いかない思いが私にはあります。いずれにしろ、読み書きができるようになったハンナは第8章でミヒャエルから「読み書きができるようになって嬉しい」といわれても、特に動じる様子も描かれていませんから、恥という感覚は読み書きができるようになって以降はなかったのだと思いますし、読み書きができるようになって文字に対する畏怖の念や神秘性を克服して、今までハンナに欠けていた部分が埋められた結果、第8章の「死者との対話」という言語を超越するような高みへと達しているので恥などというちっぽけなものに囚われる小さな精神性ではなくなっていると思います。逆にさかのぼって考えれば、そういう人が恥に囚われていたのかというとそれは違うんじゃないだろうかと疑問に思えるのです。しかし、私の主張も明確な根拠はテキストでは示せません。ですので、この件、「文盲を隠す理由は恥なのか?」という疑問に関しては、はっきりとこうだとは断定できない、あくまで推測の域をでない、釈然としない感じなのです。(もっと言えば、ここは読者がどう考えるかの選択の問題と言えるかもしれません。読者を試すかのような…。ですが、私などはハンナへの思い入れが強くなったために客観性を欠いているだろうし、すでに恥かどうかなんてそういうレベルの問題でもないと感じていたりもします。)

■第3部第11章(p237-p244)
この章では、ハンナの遺言で生き残ったユダヤ人にハンナの遺産を渡しに行く話が描かれています。

ここでのポイントは2つあります。1つはミヒャエルが見たハンナです。ミヒャエルはハンナの刑務所での強制収容所の勉強を下記のように罪の償いと許しと捉えました。

「それでシュミッツさんを許してやれとおっしゃるの?」
ぼくは最初、そんなことはないと言おうとした。
しかし、ハンナは実際、多くのことを求めていたのだ。
服役した歳月は、他者から課された償いの日々というだけではなかった。
ハンナ自身がそれらの日々に意味を与え、
意味を与えることで他者からも認められることを望んでいたのだ。

(p240)

このミヒャエルの解釈は大きな間違いだと私は思います。ハンナは確かに本を読んで勉強しましたが、それは死者との対話そのものではなく、死者との対話のきっかけに過ぎないと思います。そして、死者だけはハンナに弁明を求めることができるとハンナは言っています。ハンナの罪を追及することが死者にはできるのです。翻って言えば、ハンナの犯した罪は決して許されることではないのです。それをハンナも認めているのです。さらに、ハンナは死者はハンナのことを理解してくれると言っています。偏った恣意的な裁判ではなく、真実に基づいて、そして、ハンナという人間丸ごとを捉えた全体性をもってハンナを理解してくれると考えていると思います。(p223-p224参照)ともかく、ミヒャエルは最後までハンナを理解することができなかったのだと思います。

もう1つのポイントは、ユダヤらしさとこの問題の困難さです。生き残ったユダヤ人女性は下記のように言って、ハンナを許しません。

このお金をホロコーストの犠牲者のために使ったりすれば、
ほんとに彼女に許しを与えることになってしまいそうだけど、
わたしはそんなことはできないし、したくないの

(p243)

このことには2つのことがいえると思います。1つはこのホロコースト問題が決して許される類の罪ではないということです。これは裁判で罪を償ったからといって許してしまえるような罪ではないと思います。この点が、罪深さであり、この問題の困難さのひとつです。もう1つは決して許さない妥協しないというユダヤ性です。ここからは推測ですが、ユダヤ人以外であれば、ハンナのケースを個人的には許す者がいるかもしれません。しかし、ユダヤ人の場合はこれを決して妥協せずに許さない民族性があると思います。そういったユダヤ性が透けて見えるように思います。それがユダヤ人が反感を買う理由のひとつかもしれません。ですが、先に書いたように、この問題の困難さが示すように、正しさはユダヤ人の側にあると思います。その情の無さがよりユダヤ人を私たちから引き離す原因になっていると思います。これはあくまでまったく根拠のない推測であり、私自身、ユダヤ人を差別するつもりはまったくないのですが…。

■第3部第12章(p245-p247)
この章では、この物語へのミヒャエル自身の評価と墓参りが描かれています。

ここでのポイントは2つです。ひとつは言葉の一面性です。作者はこの小説は物語のひとつのバージョンに過ぎないと言っています。たくさんのバージョンの物語を書いたけれど、この物語が最も本当らしいと言っています。しかし、裏を返せば、この物語もやはり物語のひとつであって、真実の一面に過ぎないとも言えるのです。

いつも少しずつ違う物語が、新しいイメージや、ストーリーで、思考を伴って書かれた。
ぼくが書いたこのバージョンの他にも、たくさんのバージョンがある。
ここに書いたバージョンが正しいという保証はぼくがそれを書き、
他のストーリーは書かなかったということで与えられる。
書かれたバージョンは書かれることを欲しており、
他の多くのバージョンは書かれることを望まなかったのだ。

(p245-p246)

そして、最後のポイントは、ミヒャエルが一度しかハンナの墓参りをしなかったことです。

その手紙をポケットに入れて、ぼくはハンナの墓へ行った。
それが初めての、そしてただ一度の墓参りになった。

(p247)

もし、ミヒャエルがハンナへの愛情がもっと深いものなら一度だけの墓参りで済むでしょうか?いいえ、そんなはずはありません。ハンナを忘れられずに何度も墓参りに行ったのではないでしょうか?しかし、実際には、たった一度の墓参りで終わっています。結局、ミヒャエルのハンナへの愛はもう随分前に終わっていたのではないでしょうか。つまり、ハンナの直感は正しかったのです。ミヒャエルのハンナへの愛はすでに尽きていたです。ハンナが最後にミヒャエルに会ったときに、ハンナの直感は見事にそれを見抜いたのだと思います。この最後の一文がハンナの直感の正しさを証明していると思います。

刑務所でミヒャエルからの手紙を待ち続けたハンナでしたが、実際に会ってみれば、ミヒャエルの愛は終わっていたのです。ハンナはそのことを再会して瞬時に見抜き、そして、この世界との最後の絆も失われたと感じたのだと思います。最後の絆が失われた以上、ハンナはもうこれ以上この世界に未練はなく、とどまる必要性が無くなったのでしょう。それに出所後に愛のないミヒャエルに面倒を見てもらうことはハンナにとってはこれ以上にない苦痛に満ちた経験になるかもしれません。それよりはきっぱりとすべてと決別することを選んだのだと思います。この最後の一文は、そういったハンナの直感の正しさの証明になっており、さらに、この物語を貫くハンナの直感すべての証明にもなっていると思います。この最後の一文は、推理作家らしいQ.E.D.(証明終わり)であり、この物語の謎、すなわちハンナの直感の有無や正否を解く最後のピースになっていると思います。(*2)

■第3部まとめ
第3部はおおまかに2つのパートに分けられます。朗読を再開した前半(第1章~第6章)とハンナの死を描いた後半(第7章~第12章)の2つです。前半はミヒャエルの裁判以後の様子からハンナに朗読テープを送りはじめて、ハンナが読み書きができるようになるまでの様子が描かれています。後半は出所のためのハンナとの再会からハンナの死後の事後処理までが描かれています。

第3部の問題点は2つあります。1つは「なぜ、ハンナは死を選んだのか?」です。これはミヒャエルの愛が失われたのが原因だと思います。ハンナにとって、この世界への執着・未練はミヒャエルの愛しかなかったのだと思います。そして、そのミヒャエルの愛が失われたいま、ハンナはこの世界にこれ以上とどまる必要性を見出せなかったのだと思います。それに愛のないミヒャエルに面倒を見てもらうことはハンナにとって反って辛いことだったとも思います。ですから、もう、ハンナはこの世界に未練は一切なく、きっぱりと決然とした気持ちでこの世界に別れを告げたのだと思います。

そして、もう1つの問題点は、ハンナの直感の真偽の問題です。これについては、再会でのハンナの失意とその後の自殺、そして、一番最後の一文がすべてを物語っていると思います。もし、愛しているなら、たった一度の墓参りで済むはずがありません。しかし、「ただ一度の墓参り」とあるようにミヒャエルのハンナへの愛は終わっていたのです。再会でハンナの直感が捉えたように!この最後の一文でこれまでのハンナの直感がすべて本物であることが証明されたと思います。

さて、それにしても、ハンナは一体何者なのでしょうか?恐るべき直感力の持ち主であることは間違いありませんが、しかし、それ以上にハンナはどのような人間なのか、今までどのように生きてきて、どのような考えを持って最後に死を選んだのでしょうか?次回の総評では、物語全体の主題やハンナの人物像に迫ってみたいと思います。

■注釈
(*1)ここで全体主義の問題を考えてみます。

①ナチの問題
ネット上の感想文の中には、ハンナの行いを非人間的で酷い行為だと非難する感想がけっこうありました。でも、国家が全体主義化してしまった社会ではほとんどの国民は国家権力に逆らえずにハンナと同じような行動を取るのではないでしょうか。そうでなければ、そもそもホロコーストなど起こりようがありません。善良な市民であっても、次の日には処刑執行人になってしまう。それが全体主義の恐ろしさだと思います。私たち人間は自分の死を顧みずに正義を貫けるほど強い人たちばかりではないでしょう。また、強くとも多勢に無勢で駆逐されてしまうかもしれません。ほとんどの人間は当時のナチスドイツのような状況下におかれれば、やはり同じような行動を取ったのではないでしょうか。(もちろん、中にはユダヤ人を救った偉大な人たちもいます。ですが、それは限られたごく少数の人たちです。)そして、ここが難しいのですが、だからと言って、ハンナたちの犯した罪が許されるわけではありません。誰かがハンナたちを裁かねばならないのです。誰かがハンナたちの犯した罪を問わねばならないのです。しかし、ナチスドイツの国民だった戦後のドイツ市民に裁く資格があるでしょうか。そもそもナチスドイツを国家権力の中枢に据えたのは選挙でナチスを選んだ一人ひとりのドイツ国民だからです。そういう意味では、ドイツ国民もハンナと同罪だと思います。

では、誰がハンナを裁くことができるでしょうか?生き残ったユダヤ人なら裁くことが可能なのでしょうか?これには、半分は肯き、半分は首を横に振ります。彼らは生命の危険にさらされましたが、なんとか生き残ることができた人たちです。被害者ではあるけれど、一番の被害者ではないと思えるのです。(そして、厄介なのがユダヤ人らしさの問題がありますが、ここでは省略します…。)では、誰が一番の被害者なのでしょうか。それは殺された死者たちだと思います。そう、ハンナを裁くことができるのは、唯一、殺された死者たちだけだと思うのです。しかし、死者たちはもうこの世にいませんから、直接、死者たちが裁きの剣を振り下ろすことはできません。誰かが代わりに裁くしかないのです。しかし、それはあくまで死者の代理であって死者本人ではないのです。代理人はそのことをしっかりと意識しなければなりません。代理人たるドイツ人たちもやはり同じ罪びとなのだと思うのです。

この小説や映画をホロコーストを軽視するものだという批判があります。そういった批判する意見が幾つか出てくることは健全だと思います。しかし、その批判が増大して、全体の総意となって、作品そのものを抹殺するものとなってはいけないと思います。それではホロコーストと同じで全体主義が社会を抑圧することになってしまいます。ナチスという全体主義を抑えるために反ナチスという別の全体主義で社会を抑圧しては元も子もないと思います。真実の声を抹殺してはいけないと思います。全体主義を別の全体主義で裁いてならないと思います。地道な作業ですが、全体主義に流されないためには、全体の制度で防ぐのではなく、一人ひとりの個人が全体主義に抗う精神を培わなければならないのだと思います。

②全体主義の問題
ナチの問題はドイツの問題だけでなく、人類全体が抱えている問題だと思います。SF作家のフィリップ・K・ディックは次のように言っています。

二十世紀最大の脅威は全体主義だ。

(「フィリップ・K・ディック・リポート」のインタビューより抜粋)

私も同じように思います。そして、全体主義の問題は二十世紀に限らずに人類社会に常につきまとう問題だと思います。私たち人間は自分の中に悪を抱えて生きていると思います。その悪によって人間は誰しもナチのようなものを生み出す可能性を持っていると思います。ナチ的な要素を自分とはまったく無縁のものとして排除してしまうことは不可能だと思います。むしろ、そう思ってしまうことこそが、自分の悪に無自覚になり、いつしかその悪に自分自身が呑み込まれてしまう危険があると思うのです。人間は自分の中に悪が眠っていることを忘れてはならないと思います。ナチのような全体主義は私たちの心に内在しているものだと思います。そして、それを意識して行動することで、人間は悪を退けることができるのだと思うのです。

ナチ問題から学んだ教訓で全体主義に陥らないために、いくつか気をつけなければならないことがあります。

1つは有名なマルティン・ニーメラー牧師の次のような詩があります。

ナチ党が共産主義を攻撃したとき、
私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。

ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。
私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。

ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。
私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。

ナチ党はついに教会を攻撃した。
私は牧師だったから行動した。しかし、それは遅すぎた。

(マルティン・ニーメラー牧師「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」より)

他人事だと見てみぬふりをして見過ごしていれば、いつか自分たちに危険が迫ってきても、すでに手遅れとなっているかもしれません。

もう1つは、ナチは正当な手続きに則って選挙で民主的に選らばれた政党だということです。
ナチは政権を取るまでは比較的まともな政策を主張していたそうですし、実際に政権を取った後も経済政策では優れた実績を残しています。アウトバーンの建設など公共事業による需要を喚起するケインズ的な政策や直接税である所得税を導入して貧しい労働者に優しい政策を打ち出しました。ドイツの失業問題は大きく改善し、ドイツは第1大戦後の大きな賠償による行き詰まりから奇跡的な復興を遂げたそうです。また、そもそもナチが政権を取るまでの間、国内のナチの対抗勢力を暴力で黙らせたのが、ナチス党とは別組織の突撃隊(=SA)であり、その突撃隊もヒトラーの独裁体制が確立されると”狡兎死して良狗煮らる”の如く「長いナイフの夜」と呼ばれるヒトラーらの粛清によって一斉に逮捕・処刑されました。SAの最高幹部レームは「わが総統よ…」と言って自害したそうです。一方、ドイツ国民は評判の悪いSAが粛清されたことに喜んだそうです。しかし、ナチス・ドイツはそれからどんどんと危険になって行ったそうです。何が言いたいかというと、ナチスが最初から悪の権化なら見分けもついたでしょうが、実際にはそうではなくて、最初は比較的まともな政党だったということです。ナチスを悪の権化として悪魔的な政党という幻想を作って排除することで安心しているだけでは、第二第三のナチが台頭してしまう危険性があると思います。ですから、全体主義に対しては、よくよく”意識”して気をつけなければならないと思うのです。しかも、全体主義を封じるのに別の全体主義で封じたのでは元も子もないので、個人的に気をつけなければならないだろうと思うのです。

③南京事件
ここまで、ナチスドイツや全体主義の一般論を書いてきましたが、日本も、明治以降、戦争を続けてきたわけで、特に南京大虐殺などの戦争犯罪を犯しているのでドイツ人と立場は似ていると思います。ところが、「南京大虐殺は無かった」という意見がマスコミを賑わしたことがあったと思います。アカデミズムはそれを批判せずに無視したのですが、その結果、意外にも多くの若者が南京大虐殺は無かったと考えるようになったのではないかと思います。それはあまりにも目に余り、まったく無視してこのまま看過することは危険と考えて、私は、一時、ささやかながら、南京大虐殺についてネット右翼と議論したことがありました。ですが、最近はさすがに疲れたので、たまたま見つけた南京事件FAQ を引用するようにしています。このサイトの主張を支持して済ませるようにしています。いずれにしても、ドイツは他人事ではなく、ドイツにナチ問題があるように、日本も南京事件などの戦争の問題を抱えているのです。

ところで、脱線ですが、ネット右翼と言葉を交わすうちに、彼ら若者たちの気質の変化に気づきました。ネットで探したら、「なるほど!」と思えるまとめを書いてあるサイトがありました。iwatamさんの「ネット世代の心の闇を探る 」です。どうやらネット世代といわれる若者たちの現実認識が変化しているようなのです。実際に私も彼らと話したとき「変だな?」と実感しました。少し記憶に止めておきたいと思います。

④戦争の悲惨さを知るドイツと日本
第二次世界大戦の敗戦によって日本はドイツと似たような経験をしました。戦争に対してこれだけの反省をした国は世界でもドイツと日本をおいて他にはないと思います。私たちが積み重ねてきた戦争そのものに対する反省は決して間違ったものではないし、世界の中で先行した考え方でさえあると私は思います。他国も実際に同じような敗戦経験をしなければ、なかなか受け入れられない考え方なのかもしれません。ですが、戦争の悲劇が起こってからでは遅いのです。再び多くの血が流されてしまいます。だから、戦争の悲惨さを知っている私たちは容易に理解は得られなくとも、挫けずに戦争の悲惨さを人々に伝えていかなければならないのだと思います。

(*2)私が初めてこの物語を読み終えたときの読後感は、漠然とした印象でした。そのときは、まだハンナの直感に思い至っていませんでした。ただ、いろいろな問題が含まれており、モヤモヤとした感じでした。ただし、この最後の一文だけは、妙に心に引っ掛かって仕方ありませんでした。「なぜ、ミヒャエルはたった一度しか墓参りをしなかったのだろう?なぜ、何度も墓参りしなかったんだろう?」とぼんやりと不思議に感じていました。しかし、物語を頭の中でよく整理してみて、どうやらハンナの直感なるものがあることに気づき、この最後の一文と結び合わさったとき、すべての謎が解けました!すなわち、「ミヒャエルの愛は終わっていたのだ、最後にハンナが直感した通りに!」ということに気付いたのです。まるで、ドミノ倒しのように、物語のすべての謎が一挙に解けるおもいでした!それまでは「なぜ、ハンナは文盲を隠したのだろう?」や「なぜ、ハンナは自殺したんだろう?」という疑問はありましたが、この最後の一文に対する引っ掛かりがこの物語の鍵であるハンナの直感を確信させ、この読解を生み出すきっかけとなったのです。もちろん、「一度だけの墓参り」の意味が「愛が終わっていた」ことを意味しないと解釈することも可能だと思います。ですが、「一度だけの墓参り→愛が終わっていた」と解釈すれば、ハンナの直感という縦糸で物語に一本の筋が通り、物語全体が非常に首尾一貫したものになると思います。そして、ハンナの、謎めいた死者との対話もこの直感の延長線上にあるので見事に繋がると思いました。本当にこの最後の一文は、世界文学史上でも他に類を見ない見事な”鍵”になっていると思います。

余談ですが、もし、この小説が作者のベルンハルト・シュリンクにとって実話に近いものであった場合、もし、シュリンクが本当は何度も墓参りに行っていたとしたら、この小説は彼の贖罪を意味しているのかもしれないとも思いました。でも、そうだとしたら、ハンナの死の意味も少し違ってくるかもしれませんし、遅すぎたのかもしれませんが、シュリンクの本当の気持ちがどうであったかも、考えれば胸が痛むようで、深く考えさせられてしまいます。人の気持ちというのは本当のところは誰にも分からないものなのかもしれません。

2009年10月4日

『朗読者』を読む その5


■第3部読解
■第3部第1章(p191-p196)
この章では、ハンナに終身刑の判決が下された後の、ミヒャエルの心境の変化が描かれています。裁判が終わった後のミヒャエルはハンナを忘れるために勉強に専念しますが、偶然、スキーに行ったときに、寒さの感覚が麻痺したままスキーを続けてしまい、その結果、高熱で倒れてしまいます。そして、回復したときには、ミヒャエルは変わってしまっていました。その後、大学を卒業して司法修習生になっていたときには、アンビバレンツな苦悩の中にいることにミヒャエルは心地良ささえ見出していたのではないでしょうか。

ぼくはほんとうならハンナを指ささなければいけないのだった。
しかし、ハンナを告発すれば、それは自分に戻ってきた。
ぼくは彼女を愛したのだ。愛しただけでなく、選んだのだ。

(p195)

ハンナを愛することによる苦しみが、ある程度ぼくの世代の運命でもあり、
ドイツの運命を象徴し、そしてぼくの場合はそこから抜け出たり乗り越えたりするのが
他人よりもむずかしいのだ、と言われても、それが何の慰めになったろう。
それにもかかわらず、自分がこの世代に属しているという感覚は、
当時のぼくには心地よいものだったのだ。

(p196)

ここでのポイントは、第2部の冒頭でミヒャエルはハンナを失ったことがトラウマとなって親しい人間関係が築けなくなっていたのが、この第3部の冒頭では、さらに悪化して、罪びとであるハンナを愛することの苦しみによって、どこか感覚の麻痺した複雑な人間になってしまったことです。

■第3部第2章(p196-p199)
この章では、ミヒャエルの結婚と離婚と娘ユリアのことが描かれています。それから、離婚後の女性関係についても描かれています。ここでのポイントは、ミヒャエルが女性に求めたものはハンナであり、ミヒャエルはハンナを決して忘れられない点です。

ゲルトルートと抱き合っているときも、何かが違う、彼女ではない、
彼女のさわり方、感じ方、匂い、味、すべてが間違っていると思わずにいられなかった。
ぼくはハンナから解放されたかった。
しかし、何かが違うという思いは、けっして消えることがなかった。

(p196)

ちなみに、関係した女性たちにミヒャエルがハンナのことを話しても、彼女たちは聞きたがらなかったり、トンチンカンな分析をしたり、すぐに忘れたりします。言葉に対する思い入れが男女で違うのかもしれません…。さらに、ミヒャエルは言葉よりも行動の真実性についても少し触れています。

話の真実の中身は、ぼくの行動の中に含まれているのだから、
話はやめてしまってもいいのだった。

(p199)

言葉と本質、言葉とその言葉の意味するところ、つまり、シニフィアンとシニフィエ、ここではシニフィエは話の真実の中身ですが、ミヒャエルは、それは行動の中にあるというわけです。

■第3部第3章(p199-p204)
この章では、ミヒャエルのゼミの教授の葬儀に参列した様子が描かれています。まるで運命の糸に引かれるようにハンナの裁判という過去に遭遇します。ここでのポイントは2つあります。1つは亡くなった教授の人となりです。

教授の人生と業績についての弔辞からは、教授自身が社会の圧力から身を引き、社会との接点を失っていって、孤高の道を歩むと同時にいささか偏屈になっていった、ということがうかがえた。(p201)
やや思い切った推測になってしまいますが、この教授は現実と法の摩擦から厭世的になってしまったのではないでしょうか?ここでいう法とは、現実を仕切ってゆく言葉のことです。現実の前に(真摯な)言葉のひとの無残な末路のようにも捉えられないでしょうか?おそらく、教授は現実を真摯な言葉=法学で切ってゆこうとしたのではないでしょうか?ナチ時代の裁判に興味を持ったのも、裁判のあり方に疑問を持ったのが理由であるはずです。しかし、それは虚しく現実の前に敗れ去ったのではないでしょうか?そこまで推量で言ってはいけないのかもしれませんが…。(逆に言えば、他の法関係者は現実と言葉に適当なところで折り合いを付けていると言えるかもしれません。)
さて、もう1つのポイントはハンナとの関係を詮索した同窓生の話です。ミヒャエルは、結局、この同窓生の話を無視して電車に駆け込んで去ってしまいます。これは1つはミヒャエルがハンナのことをまだ人に話せるようには整理できていないことを表していると思います。もう1つは過去との出会いを表していると思います。

■第3部第4章(p204-p207)
この章では、ミヒャエルの仕事の選択について描かれています。

ミヒャエルは弁護士や検察官や裁判官など、実際に現実を裁く仕事には就きたくありませんでした。理由は裁くという行為が”グロテスクな単純化”に思えたからでした。結局、ミヒャエルは法史学の道に進むことを選びました。でも、それは逃避でした。その反面、歴史を学ぶことは、過去に閉じこもるわけではなく、現在に対してアクチュアリティのあるものでもありました。

歴史を学ぶことの意義の難しさがここにはあります。例えば、歴史は繰り返すというけれども、現実という複雑な複合体はまったく同じ条件などなかなかありません。仮に条件が異なってしまえば、まったく違った結果になることはよくあることです。ですから、歴史から単純化された規則性を見出すのは極めて困難でもあり、たとえ規則性を見つけても、現実は実験室ではありませんから、条件は一定ではなく、どんどん変わってしまい、結局、得られた法則は実用性に乏しい無駄なものになってしまうことが多いでしょう。ならば、歴史を学んでもあまり意味はないということになります。ですが、私たちはそれでも歴史を学ぶことに何らかの意義があるのではないかとあてのない期待を胸に歴史から学ぼうとします。

ぼくは当時『オデュッセイア』を再読していた。初めて読んだのはギムナジウムの生徒のときだったが、帰郷の物語としてずっと記憶にとどめていた。しかし、それは帰郷の話などではなかった。同じ流れに二度身を任せることができないと知っていたギリシャ人にとって、帰郷など信じられないことだった。オデュッセウスはとどまるためではなく、またあらためて出発するために戻ってくる。『オデュッセイア』はある運動の物語にほかならない。その運動には目的があると同時に無目的であり、成功すると同時に無駄でもある。法律の歴史だってそれと大差ないのだ!(p207)

今までのミヒャエルの人生の中では、哲学や法学による言葉のアプローチは現実の前に虚しさを曝け出してきました。そして、今度は、歴史という言葉で過去の現実を切り出してゆく道、歴史という新たな言葉のアプローチをミヒャエルは選んだのでした。ミヒャエルは哲学や法学では得られなかった知見や教訓を歴史からは学ぶことができるでしょうか?

■第3部第5章(p207-p211)
この章では、朗読の再開が描かれています。

ミヒャエルは離婚して不眠症になります。ミヒャエルは自分の人生を整理するために眠れない時間を読書にあてます。そして、ミヒャエルの人生で中心的な存在はハンナであることに気づきます。ミヒャエルは熟睡するために睡眠にメリハリをつけるために声を出して朗読を始めますが、その朗読の仕方はハンナのための朗読でした。そこでミヒャエルは朗読をカセットに吹き込んでハンナに送ることにします。ここでのポイントは、ミヒャエルはハンナのことを一番に思って朗読を始めたわけではないことです。カセットを送ることは確かにハンナのためでした。しかし、それは自分のためでもあったのです。

カセットには個人的なコメントは入れなかった。ハンナに問いかけることも、ぼく自身について報告することもしなかった。作品のタイトルを言い、著者の名前を言うだけで、あとはテクストの朗読をした。(p211)

■第3部第6章(p211-p215)
この章では、ハンナから手紙がやってくる話が描かれています。

ここでのポイントは、ハンナから手紙を受け取っていながら、ミヒャエルからはハンナに手紙を送らなかったことです。これはミヒャエルがいかに心を触れ合わせる対話をしなかったのかが表れています。そして、このことがハンナを大いに失望させたと後になって判明します。

この章では他にも、ハンナの人となりが分かるようなエピソードが出てきます。たとえば、ハンナは草花や小鳥や天気のことに注意深かったことが窺われます。また、文学に対しても鋭い感性を持っていることが分かります。また、筆跡からハンナの努力や進歩が分かり、さらに筆跡からハンナの精神性が読み取れたりします。

流れるような筆跡になることはなかった。しかし、生涯にそれほど多くの字を書かなかった年配者たちの筆跡にふさわしい、ある種の厳しい美しさがその筆跡にはあった。(p215)
ハンナの精神は決して硬直したり偏ったりしたような曲がった心の持ち主ではないと思います。むしろ、普通の人よりも、まっすぐな心の持ち主なのではないでしょうか。

また、ここでは文盲のひとの苦労についても書かれています。

それまでの何年にもわたって、ぼくは文盲についての記事を探しては、目を通してきた。文盲の人々が日常生活を送る際の寄る辺のなさや、道や住所を見つける際の困難、レストランで料理を選ぶときの大変さ。与えられた模範や確立されたルーティンに従う際の不安や、読み書きができないことを隠すために、本来の生活とは関係のないところで費やされるエネルギー。(p212)

■第3部第7章(p215-p219)
この章では、ハンナの出所が近い知らせが刑務所の女所長から知らされる話が描かれています。
ここでのポイントは、ミヒャエルがハンナに会いに行かなかったことです。ここでもミヒャエルの気持ちは複雑なものでした。出所後のハンナの生活環境を準備しているにも関わらず、ハンナには会おうとはしません。ミヒャエルが心の底からハンナを愛しているというわけではないのが見て取れると思います。ミヒャエルという人物の複雑さがあります。

ハンナとはまさに自由な関係で、お互い近くて遠い存在だったからこそ、ぼくは彼女を訪問したくなかった。実際に距離をおいた状態でのみ、彼女と通じていられるのだという気がしていた。……ぼくたちのあいだにあったことを蒸し返さないまま、顔を合わせることがどうやってできるのだろうか。(p218)

もしかしたら、ミヒャエルが愛したハンナとは、現在のハンナではなく、過去の幻のことなのでしょうか?
(その6へつづく)