2006年12月12日

ラヂオスター


ラヂオスター は、思い出の地、青春の場所です。
多くの若いアーティストやクリエイターたちがこの場所を通過していきました。そして、この店のカウンターで一晩の停泊を得て、心の会話、魂の対話が交わされたりしました。

H.Tもまたそのひとりでした。みんなで楽しく語り合ったカウンター…。彼はここの泡盛が大好きでした。船津さんをリスペクトしていました。あの夜は、スギさんのパンの詩が流れていました。あの時の僕たちは、本当に何ひとつ持っていませんでした。ただ、この暗い夜道の先に未来だけが待っていると思っていました・・・。深夜、僕たちは、吐く息も白い中で約束を交わして、それぞれの道に向かって別れていきました。最後に振り返ると、彼の後姿が夜の闇の中に消えていくのが見えました・・・。

H.Tのような舞台の表現者は、どこかツァラトゥストラ を想起します。圧倒的な孤独の中で、”竿頭を一歩前進”と断崖絶壁からダイブするような、絶体絶命の、危険な集中力で生命を燃やし尽くすような表現です。

そんなことを思い出すとき、次のようなニーチェ の詩を想起します。

あのように死のう
かつてわたしが見た彼の死にざまのように
彼はわたしの暗い青春に神々しくも
稲妻とまなざしを投げた友だった。
気ままで深く
戦闘のなかでは舞踏者

戦士のあいだにあっては最も心の軽い者
勝利者のあいだにあっては最も心の重い者
自分の運命の上にひとつの運命として立ち
きびしく、深く過去を考え、あらかじめ未来を考え
自分が勝ったということにおののき
死をもって勝利を得たことに歓呼し

死にのぞんで命令し
その命令は絶滅すべしということだった・・・・・・

あのように死のう
かつてわたしが見た彼の死にざまのように
歌いながら、絶滅しながら・・・・・・

(ニーチェ詩集「ディオニソス頌歌」から 「最後の意志」より) 

今日のような夜は、店の外がひっそりと静まりかえり、吐く息も白かった、あの夜を思い出します…。

宵の明星がそっと出て大草原にきらめく光を落としているにちがいない。
宵の明星が輝くのは、大地を祝福し、あらゆる川を闇で包み、
峰々を覆って最後に海岸を覆う完全な夜の到来のちょっと前なのだ。
そして、誰もが、みすぼらしく年をとるということのほかに
誰に何が起こるか分からないのだ。
そして、ぼくはディーン・モリアーティのことを考えるのだ。

ジャック・ケルアック 「路上 - On the Road - 」より)

2006年12月11日

地中美術館 in 直島


「地中美術館」 in 直島 を鑑賞しました。また、家プロジェクトやベネッセハウスも鑑賞しました。

地中美術館は、地下核シェルター型神殿のような美術館でした。内容は、クロード・モネ 、ウォルター・デ・マリア、そして、ジェームズ・タレル の作品たちでした。また、美術館そのものは、安藤忠雄 の設計でした。また、家プロジェクトでは、宮島達男 (角屋)、杉本博司(護王神社)、ジェームズ・タレル(南寺)、さらに、STANDARD2では、大竹伸朗 (はいしゃ)、千住博 (石橋)、須田悦弘(碁会所)を鑑賞しました。ただ、残念ながら、内藤礼 (きんざ)は要予約のため、鑑賞できませんでした。最後に草間彌生 の灯台に展示されている黄色いカボチャ「南瓜 1994-2005」を鑑賞しました。

いずれも傑作ぞろいのアートたちでした。特にジェームズ・タレルの不思議な光の体験「南寺」「バックサイド・オブ・ザ・ムーン」、ウォルター・デ・マリアの現代の神殿「タイム/タイムレス/ノー・タイム」は圧巻でした。モネの「睡蓮の池」も素晴らしい体験でした。千住博の滝も息を飲む素晴らしさでした。杉本博司の護王神社では、子供の頃、よく遊んだ神社の感覚が思い出されました。奥の院を恐る恐るのぞき見るような、秘められたものを見るような感じでした。宮島達男の角屋では、夜空の星のように、水の中での数字の瞬きでした。

そんな数を想像するとき、数学者カントール の無限への挑戦を想起してしまいます。カントールは無限にも種類があることを発見したようです。自然数の無限と実数の無限では、ともに個数は無限にあるけれど、濃度 が異なるようです。例えば、1から10までの中で自然数は10個ありますが、実数は10個以上のもっと多くの実数が存在します。このように無限にも種類があるようです。

そして、カントールは無限を捉えようとして、連続体仮説 に辿り着きます。


しかし、マトリックスのようなべき集合 で構成されたこの仮説の真偽はわかりませんでした。カントールの挑戦は前進を許されず、次第に疲弊して精神を蝕んでいったようです・・・。そんな苦闘に喘いでいながらも、カントールはいいます。

数学の本質は、その自由性にある。

禁忌とされた無限に果敢に挑んだカントール。彼は無限の彼方にどのような数学を見ていたのでしょうか・・・。

そして、カントールの対角線論法を用いて、ゲーデル が不完全性定理 という、数学や知性を根底から覆した、恐ろしく革命的な結論を導き出します・・・。

数学が無矛盾である限り、数学は自己の無矛盾性を自分では証明できない。

(不完全性定理より)

「”クレタ人は嘘つきだ”とクレタ人が言った」というような自己言及型パラドックス が容易に導かれます。そして、晩年、ゲーデルは、神の存在証明を完成させながら、餓死してゆきます…。

それにしても、いったい、有限な数直線0から1の間に実数はどのように無限個存在するのでしょうか。そんな想像をするとき、存在論としてのキリスト教の三位一体論 を想像してしまいます。三位一体は父と子と聖霊で構成されていますが、数の存在も同様なモデルな気がします。それは、0と1と間の3つで構成されているような気がします。数の存在には、0と1だけでなく、間(はざま)を必要とすると感じられます。間とは、存在を意識して初めて浮上してくるような中間的・霊的な存在です。しかし、間は顕在化した途端、例えば、0と1の中間値0.5として存在した瞬間消え去ってしまい、今度は0と0.5の間(あるいは0.5と1の間)になってしまうように思います。間は表立って顕れてくることのない、まるで聖霊や天使として表現されるような、隠されたモノ、秘められたモノ、秘数として存在しているようなモノ、そんな感じがします。(龍樹 の中観哲学 にも同様な構造を感じます。)

また、これは認識に関わる言語活動だけでなく、生命活動にも関わっているように感じます。生命体は自己と外部を分け隔てています。生命体は食物を取り込み、自身の一部として構成したり、エネルギーとして消費したり、不要な外部として排出したりするなど、まるで内と外を区別する二元論的・言語的知性のような働きを動物も植物も細胞も営んでいるように思います。言語活動も生命活動も本質的には同じ活動に感じられます。このように、言語にとどまらず、私たち生命の存在そのものにも、このモデルは深く関わっているように思えます・・・。そして、間を介して無限を自らに内包し、無限に触れているようにも思うのです・・・。

さて、無限は今のところ数学的知性ではダイレクトには捉えられないのかもしれません。あるいは、喩えていえば、ソラリスのような、人間には遠く及ばない超知性でなければ捉えることができないのかもしれません。しかし、詩的言語によって直感的に捉えることが可能なのかもしれない、そんな可能性をこの展覧会から、かいま見たような気がしました。

(未来では、人間ではなく、コンピュータ=人工知能が無限の鍵を握っているかもしれませんが・・・。)

2006年12月10日

デジタルミュージアム


岡山市デジタルミュージアム 」を鑑賞しました。
岡山市の地図型情報マトリックスや文化財・自然物などをリアルとヴァーチャルに展示したミュージアムでした。また、香りを発生する装置や情報を編集できるメディアラボなど、コンピュータの優れた設備が用意されてありました。

3Dと音響震動を体感できる装置が楽しめました。3D映像などは、古来の密教行者の観想もあのようなものだったかもしれないと想像しました。また、草間彌生 の無限に展開する万華鏡を思い出したりしました。

そんな無限展開を想像するとき、プラトン の後継者プロティノス の次のような言葉を想起します。

あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮るものは何一つない。
あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。
ひとつ一つのものが、どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており、
同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。
だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、
ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。
ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。
太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。
ものは各々自分の特異によって判然と他から区別されておりながら、
しかもすべてが互いに他のなかに映現している。

(プロティノス「エンネアデス」より抜粋)

千峰万峰を足下に見渡すような、華厳哲学 の海印三昧のようです。(また、”即”な様は、障礙のない融通無礙な事事無礙のようです。ガロア の群論 にも通じるように感じられます。)
あるいは、数式でイメージすると、何となく次式①のような展開される無限級数(あるいは超越数や循環小数)を感じます。



(展開式:)(参考

このように1(あるいは、自然数)には、2つの表現があるように感じられます。また、①式から②式が導かれ、零もまた2つの表現があるように感じられます。それは、無や空と2つに表現されたように、働きのある無と働きのない無のような2つをイメージしたりします。(また、”色即是空、空即是色”などもこれに近いような気もします。)


また、老子 の次のような言葉を想起します。

常無欲、以て其の妙を観、
常有欲、以てその徼を見る

(「老子」より抜粋)

何というか、複眼の士・老子が見るような、一切皆空・廓然無聖の後に性起する真空妙有のようです…。

また、こんなデジタルな数の想像をするとき、超意味言語ザーウミを提唱した詩人フレーブニコフ の次のような言葉が思い出されたりします。

すると不意にわかった、時間はない、と。
鷲の如く翼の上に持ち上げられ、僕はたちまちにして見た。
かつて何があり、やがて何が起こるか、を。
世界の鉄の剥製のなかに2と3のバネを見たのだ。
数たちのはずむ会話を。

(フレーブニコフ「運命の板」より)

さてさて、そんなデジタルミュージアムは、古代の直感とデジタルな感性が結びつく、未来的かつ古代的な素敵な空間です。

2006年12月4日

すりこぎ


「すりこぎ」

ひいばあさまが嫁いできた時から
我が家にある
すりこぎ
私の腕ほどの太さの
すりこぎ

ほどよくしなって
先へ行くほど徐々に太くなって
力が入る

すりばちは すりこぎに見合った大きさで
我が家でごま味噌を作るときは
台所の板の間に座布団を敷き
そこに座って両の足ですりばちをしっかりかかえ
全身に力を込めて挑むのである

ずりずりずりずり
ぷちぷちぷちぷち
ずりずりずりずり
ぷちぷちぷちぷち

味噌を入れる

にょりにょりにょりにょり
ずりずりずりずり
にょりにょりにょりにょり
ずりずりずりずり・・・・・・ず

すりこぎのはじっこについた
できかけのごま味噌 味見

「味噌、もうちょっと」

にゅりにゅりにゅりにゅり
にゅりにゅりにゅりにゅり
にゅりにゅりにゅりにゅり
にゅりにゅりにゅりにゅり

できあがったごま味噌を
香ばしいごま味噌を
ゴムベラでこそげ落とす
すりばちの上の方に付いてしまった
ごま味噌をこそげ落とす

すりこぎに付いた
ごま味噌をこそげ落とす

と、すりこぎが新しい顔を見せる

ひいばあさま
ばあさま
かあさま
わたし

四代分すり減った
すりこぎ

そのすり減った分だけ
すりこぎは
私の身体の一部になっているのだ

すられ
洗われ
日干しにされ
またすられ続けて短くなって
そのたびに新しい
すりこぎ

ひいばあさまの
ばあさまの
かあさまの
わたしの

人生

2006年12月3日

トモコさん


トモコさんは富山在住の詩人です。

しかしながら岡山での活動も多く、Okayama poetry night、mimucusなどの朗読イベントへの参加、自主制作映画への詩の提供など、幅広く活躍されています。

彼女のブログ「花を摘みながら歩こう」 は、ぐいぐい読める優れたエッセイ集です。

トモコさんの詩はいつも平明な言葉で語りかけてきます。私が彼女の詩から感じるのは、力強さと切実さ。

触れようにも触れられない
形のない魂を抱きたい
もしもそれが叶うなら
君の胸にメスを入れたい
君も僕のこの胸を切り開いてくれないか
魂で抱き合いたいんだ

(合同詩集「デスペラード3」より「今夜すべての魂が」)

寺山修司 は見るためにまぶたを裂こうと詠ったのでした。剃刀の刃には地平が映った。心の中でかまえたメスには何が映るのか。この詩には風景は一切描かれていません。もっと言えば、行為以前の願望だけが書かれている。語り手の彼には「君」以外を見る余裕などないのです。彼はひたすら、君・君・君と「君」への思いをたたみかける。トモコさんの詩の中にはときどき、世界のもどかしさに歯ぎしりする十代の少年が住んでいます。

詩集に友人と共同発行した詩集「デスペラード」があります。

このブログでは、詩作品「すりこぎ」 を掲載しています。