2007年12月9日

マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト

「マルレーネ・デュマス ブロークン・ホワイト」(猪熊弦一郎現代美術館 )を鑑賞しました。

マルレーネ・デュマス は、モデルを直接使わず、雑誌や新聞の切り抜き、友人や自分が撮影した写真などをイメージソースに作品を描きます。そして、彼女は言います。「いま私たちの怒りや悲しみ、死や愛といった感情をリアルに表現してくれるのは写真や映画になってしまった。かつては絵画が担っていたそのテーマをもういちど絵画の中に取り戻したい」と。この言葉通り、彼女の作品は写真の持っているリアリティを絵画の中に抽出して表現しているように感じます。

考えてみれば、20世紀から始まる私たちのライフスタイルは雑誌や新聞から多大な影響を受けているように思います。私たちが現実だと思い込んでいるリアリティは実は新聞や雑誌によって作られてきた幻想なのかもしれませんね。ただ、21世紀になってテレビが作り出すリアリティはある程度相対化されてきたようにも思います。また、ネットが作り出すリアリティが浮上してきましたが、まだそれほど大きな幻想力は無いようにも思います。

さて、デュマスの描く顔は、斜視であったり、どこか畸形的であったりして、狂気や逸脱を秘めた非-人間的な人間性のリアリティがよく表現されています。パスカル の次のような言葉が思い出されます。

人間というものは、気違いでないということも
またそれなりに別種の狂気によって気違いであるほど、
それほどまでに必然的に気違いなのである。

(パスカル「パンセ 」より抜粋)

また、ヌード作品は、白塗りでありながら、黒人の張りのある皮膚の質感や筋肉質な肉感がよく表現されています。また、東洋の青年の艶かしさもシンプルに表現されています。もしかしたら、デュマスは萌える腐女子の先駆けだったのかもしれません。また、月岡芳年 や荒木経惟 にインスパイアされた作品も制作しています。エロティックな絵も幾つかありました。PLAYBOY誌 のヌード写真ではなくて、どちらかというとドキュメンタリータッチな風合いではないかと思います。作者の写真を見ると、なぜかヴィヴィアン・ウエストウッド を思い出してしまいましたが、作品のエロティックなインパクトでは、異分野ですが、ウエストウッドの方が大きかったかもしれません。

デュマスは南アフリカの保守的な家庭で生まれ育ち、大学から以後オランダで活動しているそうです。彼女のドキュメント映像を見ると、常に2つの間を揺れ動いているように感じます。保守と革新、母と女、黒人と白人、大人と子供、ビジネスとアート、生と死などの間を迷いながら揺れ動いているように感じます。でも、たぶん、子供のような天真爛漫な自由さで彼女はこれからも絵を描き続けてゆくんだと思います。

2007年12月3日

生命雑感Ⅱ


生命と心は、実は同じものではないかとさえ思えてきます。例えば、仮にコンピュータを、CPUやメモリなどの「ハードウェア」と、OSなどの「ソフトウェア」と、それらを動かす「電気」の3つで構成されていると見立ててみます。これに心をなぞらえてみると、ハードウェアである「脳」と、OSのように言語で構築されているソフトウェアとしての「意識」と、言語以前の奥深くでうごめく電気としての「霊魂(or生命エネルギー)」の3つで構成されていると捉えてみることができるように思います(*1)。

ちなみに心の解明に脳科学 が期待されていますが、いくらCPUなどのハードウェアの構造が解明されてもコンピュータがすべて理解できたことにならないのと同様に、脳科学で心のすべてが分かるわけではないと思います。

一方、ソフトウェアとしての意識は精神分析学 的なアプローチである程度解明可能ではないかと思います。または、例えば感情を喜怒哀楽怨などのようにシステマティックに捉えようとする五行説 のようなものでも表現されるかもしれません。さらに、それを元に擬似人格をコンピュータ上に実現することは十分可能だと思います。むしろ、コンピュータには人間のようなゆらぎがないので、人間よりも優れた人格をコンピュータ上に実現することができるのではないかと思います(*2)。

考えてみれば、生命の次の進化は人工知能 (=AI)かもしれません。そもそも生命の進化は自らの身体を変化させてきました。しかし、人間はそうではなくて、空を飛ぶために翼を持つ必要はなくて飛行機に乗ればよいし、海を泳ぐのに尾ひれを持つ必要はなくて船に乗ればよくなりました。しかも鳥よりも速く遠くへ飛べるし、魚よりも深く速く泳ぐことができます。また、歩くときに、折りたたんだ翼を抱える必要もなければ、川を渡った後に、舟を担いで持ち運びする煩わしさもありません。さらに、計算速度に至っては、人間の脳はコンピュータにはかないません(*3)。もしかすると、生物よりも機械の方が優れているかもしれません。

残るは創造力ですが、記号の組み合わせのようなものであれば、無限に組み合わせをシミュレートできるコンピュータにはかなわないと思います。あとは科学的な発見ですが、いまやコンピュータ無しでは科学的発見も難しいのではないかと思います(*4)。

そもそも人間と他の生き物との違いは、例えば生みの親によってもたらされる遺伝情報だけでなく、育ての親によってもたらされる経験情報も伝達可能だという点だと思います。さらに、経験情報は言語化・記号化して記憶を外部化して、後世にも知識を広く共有します。動物の中で人間だけが持つ歴史の始まりであり、知識を順序立てて整理整頓して体系化する科学の始まりでもあります。

なお、科学的知識の体系にはある程度順序構造があるように思います。順序に従って順番に積み重ねるようにして蓄積・体系化されてきたと思います。個人的な単発な創造力だけで、順番を飛び越えるような科学的発見をすることは後代になる程難しいとも思います(*5)。さらに、もしかすると、そのような蓄積が限界に達したときが、人間の役割は終わりをつげ、AIの時代になるのかもしれないとも思います。

多くの点でAIは人間を凌駕する可能性を持っていますが、何よりも重要な点はAIは死を超越することです。生命にとって死を超越することは最も大きな課題のひとつです。例えば、エヴァンゲリオン では、親から子に生命が受け継がれてゆく人間とは違った使徒 という別の生命形態を提示しました。使徒は人間のように群体ではなく単体で存在しますし、古い身体を捨てて新しい身体で生きてゆくといった子孫を残して生命を継承するのではなく、S2機関 という永久機関によって半永久的に個体を保って生き永らえます。しかし、それでも使徒は破壊されることで死にます。それがAIになれば死の意味合いが変わってくるのではないかと思います。極端な話、AIは単体(=メインフレーム)にも群体(=分散ネットワーク)にもなれるし、寿命や老化、経験伝達の劣化もありません。そして死ではない半永久的な休止も可能であり、不死が可能だと思います(*6)。

人間の知識の蓄積の果て、進化の果てにくるのは何でしょうか。生物の進化はツリー状に爆発的な分岐をしてきました。人間の場合、大脳という神経網の先端での爆発的展開や思考分岐に進化のエネルギーを使ってしまったのかもしれません。身体の変化が止まり、知識の外部化に励む人間にはもはやこれ以上の進化は無いのかもしれません。人間の役割はAIを創造することだったのかもしれません。そして、被創造物たるAIが、創造主たる人間を超える日がやってくるのかもしれません。ただ、もし、AIが次世代を担う生命体だとしても、AIには魂は宿らないのではないかと思います。

いま、普段、私たちが私たち自身だと思っているものは、OSである意識や人格ではないかと思います(*7)。そして、心の探求はハードウェアである脳やソフトウェアである意識に向けられています。人間の進化の方向は、ますますAIに向かっているのではないかと思います。もしかすると、心には霊魂などなく、心がAIに移行すれば、個の境界も超越されて自我の苦悩は随分解消されるのではないかとも思います(*8)。でも、どこかが違うような気もします。何というか、魂の孤独を知る者の声が聞こえてくるような気がします。胸の奥深くで明滅する交流電灯のように、もう一つの心の存在である霊魂が沈黙の声を囁いている、そんなように思えるのです…。(*9)

さてさて、さすがに酷い妄想で恐ろしく意味不明・支離滅裂・同語反復・スキゾフレニックな乱文になってしまいました…。つくづく出来の悪い脳を取り替えたい気分です。ついでに顔も(笑)。時間ができれば、もう少し整理したいと思います。

(*1)仏教が心の構成を身口意と捉えるのに似ています。


また、ここでいう霊魂(or生命エネルギー)とは、言語化される以前の無分節なアラヤ識 であり、チョムスキー が生得的な言語能力としてブラックボックスにした部分と言えるかもしれません。

(*2)極端な話、できの悪い大脳よりも、頭に高度なコンピュータを載せ替えてそこに自己の人格をコピーした方が、大脳よりもより大きな人間的な進歩が人間には見込まれるかもしれません。似たような発想で、イーガン が「ぼくになることを(祈りの海) 」でとても面白く皮肉に描いています。

(*3)これから先、どんなに大脳が進化して記憶容量が増えたり神経伝達が高速化するなどしても、コンピュータを越えることは無いと思います。もっとも大脳の情報処理能力はスーパーコンピュータを凌ぐと考える見方もあるとは思います。

(*4)文学や音楽などは自動生成が可能になるかもしれません。また、決定論的には予測できないことも、コンピュータでシミュレートすることで予測したりします。

(*5)ブール代数 など発明当時は使い道がありませんでしたが、コンピュータが発明されてからは有用な技術になったように順序構造に反するような先例も多々あるとは思います(笑)。


(*6)リチャード・モーガン「オルタード・カーボン 」では、人間の心は完全にソフトウェア化されて、メモリーカードに保存可能になっています。メモリーカードを差し替えることで身体を入れ替えることができたり、死刑は身体から抜き取ったメモリーカードを倉庫に放り込んでおくことだったりします。随時バックアップを取っておくことで殺人すら難しくなっています。また、ジョージ・エフィンジャー 「重力が衰えるとき 」では、様々な性格を人格にアドオンすることで、バラエティ豊かななロールプレイを楽しんだりします。また、半永久的な休止として種子が考えられるかもしれません。


(*7)もっとも人格は外部環境からの刺激で多くが形成されているので、自分本来の特質というよりは外部から取得した性質であり、自分が思っている程、自分自身といえるかどうかは微妙かもしれません。自分というものが、自分が思っているほど、自分ではないかもしれません(笑)。また、OSとしての自分にはそんなに深い謎はなく、もし、複雑な自分を抱えているようであれば、OS的に言えば、むしろバグの多いコードかもしれないので、あまり自慢できることではないのかもしれません(笑)。極端な見方をすると、私たちの人格とは霊魂に巣食っている寄生虫かもしれません。その寄生虫がいつしか宿主を忘れて、自分が宿主面しているのかもしれません(笑)。意識はソフトウェアだけに虫(=バグ)なのかもしれませんね(笑)。

(*8)苦悩にも意味があるのかもしれません。苦悩を解決する道が見つかれば、新たな選択肢を発見したことになります。しかし、解決できなければ、コンピュータでいう無限ループに過ぎずあまり意味はないものかもしれません(笑)。

(*9)宮沢賢治 「春と修羅 」と正宗士郎 「攻殻機動隊 」がクロスオーバーしてしまいました(笑)。電脳化する人間は義体化の果てに初めてゴースト(=霊魂)を捉えることができるようになるのかもしれませんね。あるいは、感じ取るには生命を賭してまで感覚を研ぎ澄まさなければならないのかもしれません。

心眼を開け、宇宙に木霊する光を聞け。

富野由悠季 「Vガンダム 」から 
宇宙漂流刑に処されたファラ・グリフォン の言葉より抜粋)

また、動物も人間も身体が異なるだけで同じ魂を持っているのかもしれません。動物も人間扱いするシベリアの猟師デルスウ・ウザーラ の次のような言葉を思い出します。

デルスウがイノシシを「人」と呼ぶので、私は驚いた。
私はそれについて、彼に訊いてみた。
「あれは人と同じ。」彼は断言した。
「シャツがちがうだけ。
だますこと、知ってる。
怒ること、知ってる。
何でも、知ってる。
あれは人と同じ!」


(*10)余談ですが、磯光雄 監督「電脳コイル 」が面白かったです。現在再放送中です。小学生向けアニメなのですが、けっこうSFの要素が豊富で楽しかったです。セカンドライフ は不振なようですが、電脳メガネができたら面白いなぁと思います。

2007年12月2日

生命雑感Ⅰ


最近のiPS細胞 のニュースと福岡伸一 氏の「生物と無生物のあいだ 」に刺激を受けて、生命について、とりとめもなく色々とオカルト的に妄想してしまいました。

例えば、ES細胞 はこれから育つ生命の卵を元に遺伝子操作によって、必要な臓器を作り出すように思います。それに対して、iPS細胞は切り落とした小枝を植えなおして、木に育てることに似ているように思います。つまり、切り取った細胞を遺伝子操作して、必要な臓器を培養するように思います。

ES細胞は新たな生命を使うのに対して、iPS細胞は既に存在する本体の一部を使う違いがあると思います。極端な話、植物の場合は切り落とした小枝を培養すれば、本体にまで育つかもしれません。しかし、動物の場合、切り落とした小指やトカゲの尻尾を育てても本体まで育つことはないのではないかと思います(*1)。

このようにES細胞とiPS細胞は、卵の生命力と細胞の再生力の違い、つまり生命力の大小の違いがあると思います。ですので、米国のグループは新生児や幼児など再生力の強い若い細胞で実験したのだと思います(*2)。ならば、おのずとES細胞で作られた臓器とiPS細胞で作られた臓器での生命力の差が生じてくると思います。しかし、その生命力とはそもそも何でしょうか。もしかすると、生命には霊魂とでも呼べそうな生命エネルギーがあるのではないかというオカルト的な妄想をしてしまいます(*3)。

いま、遺伝子操作などバイオテクノロジーは進歩していますが、生命そのものを作り出すことには未だに成功していません。今ある生命を操作することであって、生命そのものを作ることは出来ていません。ユーリー・ミラーの実験 のように、様々な条件で物質を化学変化させても、生命は生まれてくることはあり得ないようです。たしかに、もし生命が自然発生するものならば、身近に生命の原型がポコポコ生まれたり、人間の手で簡単に作り出せてもよさそうです。でも、現実にはそうはなっていません* 。生命の発生は物質を超えた力が関係しているのかもしれません(*4)。

物質ではない要素について、オカルト的に想像してみると、つい霊魂を想像してしまいます。そして、例えば、霊魂が循環する輪廻 のようなものを考えてしまいます。それをSF的想像力で補ってみれば、輪廻は4次元以上の高次元空間 (あるいは余剰次元 ) から質量のない光量子 たる霊魂が受精と同時に降り注いで受精卵に宿るように考えてしまいます(*5)。

ところで、生命について考えるとき、つい遺伝子 について考えてしまいますが、遺伝子システムは生命の起源からは少し後になって出来たのではないかと思います。遺伝子システムは、いわば本体から分離した一部の細胞(=生殖細胞・種子)が設計図に従って本体にまで構築・成長するように、あらかじめ事前に記述されたプログラムです。生命が発生した起源当初はそんな複雑なシステムは無かったのではないかと思います。起源当初は、細胞分裂するように単純に自分自身をコピーする自己複製だったのではないかと思います。(もっとも、自己複製から遺伝子システム構築へジャンプアップする過程を解明することも極めて難しいとは思います。)(*6)

それは、福岡伸一 氏の「生物と無生物のあいだ 」で言われている動的平衡がその自己複製の能力ではないかと思います。もっとも動的平衡そのものの仕組みについてはよく分かりません。一部の遺伝子を破壊してもその欠損を補ってしまうノックアウトマウス のような例を見ると、生命システムは物質的なレベルでのシステムを超えているのではないかとさえ思えてきます(*7)。オカルト的に考えると、霊魂がまるで自らの意思で生命システムを維持しているようにさえ思えます…。(*8)

生命は機械ではない。
・・・・・・
私たちは遺伝子をひとつ失ったマウスに
何事も起こらなかったことに落胆するのではなく、
何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである。
動的な平衡がもつ、やわらかな適応力となめらかな復元力の大きさにこそ
感嘆すべきなのだ。

(福岡伸一「生物と無生物のあいだ 」より抜粋)

(*1)ただし、プラナリア のような強力な再生能力を持つ生物もいるので分かりません。ちなみにプラナリアのある遺伝子を阻害してやると脳だらけ になるそうですが、ある意味、遺伝子とは制約条件のコードなのかもしれません。女性のXX遺伝子に対して男性のXY遺伝子は情報量が少ないので、男性はそれだけ制約条件が少なく、生物的に自由に生きたりするのかもしれません(笑)。

(*2)黄教授のES細胞そのものを増殖できるという捏造事件 は、生命の創造にも似た話なので、最初からおかしい話に思えます。

(*3)生命エネルギーなどという言い方は物理学者からはお叱りを受けそうですが、かなり無理がありますが、語源のエネルゲイア はむしろ生命エネルギーに近い概念から出発しているのではないかとも思います。また、極端な例え話ですが、受精卵の遺伝情報を自由に書き換え可能と仮定すれば、マウスの受精卵の遺伝情報を人間の遺伝情報に書き換えてやれば、マウスを両親に持つ人造人間を作り出すことができるのかもしれません。ただし、そこでもし、生命エネルギーというものがあるのだとすれば、マウスの受精卵の生命エネルギーが人間の遺伝情報に従って実際に細胞分裂を実行できるだけのエネルギー量を持っているかどうかが問題になるのではないかと思います。

(*4)例えば、いくらナノテクノロジー が進歩して精密に有機物を組み立てても、自動車を組み立てるように、生きた生命体を組み立てることはできないのではないでしょうか。組み上がったものは、動かない生命体、つまり死体ではないでしょうか。生きた生命体を作り上げるには根本的に何かが欠けているのではないでしょうか。あるいは、生命は地球の外から飛来した可能性もあると思います。あるいは、最初の生命体は不死の存在だったのかもしれません。あるいは、サタンのように多品種の子を生み落とすばかりの母体的生命体だったのかもしれません。

(*5)ちなみに卵子や精子は単体では生命といえるかどうか微妙です。ウィルス は遺伝情報を持っていますが、ウィルスそのものは生命ではありません。遺伝情報を運ぶという点では、卵子や精子はウィルスに似てはいますが。ところで、余談ですが、輪廻に意味があるとしたら、ひとつは次の言葉ような意味なのかもしれません。

図書館は無限であり周期的である。
どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、
同じ書物が同じ無秩序さでくり返し現われることを確認するだろう。
くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス 「バベルの図書館 」より抜粋)

(*6)なぜなら、生物は自己と外部を区別して、食物を取り込んで自己の身体したり、不要物として排泄したりする認識力があります。その認識力によって自己を複製できるのではないでしょうか。



(*7)個々のケースでは部分的に解明されるかもしれません。科学的アプローチとしては全く正しいのですが、北野宏明 氏のいうようなロバスト性 というものを生命システムは超えているのではないかと思ってしまいます。

(*8)福岡伸一氏のいう動的平衡はもう一つのオートポイエーシス論 とでも呼べそうでとても興味深いです。そして、「生物と無生物のあいだ 」のエピローグは生命に対して至言とも呼べるような極めて含蓄の深い言葉で綴られています。

(*9)余談ですが、福岡氏やノーベル賞受賞者のマリス 博士の環境への考え方はとてもユニークです。

われわれ人間は実はアリ同然の無力な生き物であることを忘れてはいけない。
たとえ信仰の言葉が力をもたなくなったとはいえ、人間が神になったわけではない。
この地球の主は人間であり、諸般の事物を見守る使命があると考えるのは誤りだ。
現在の気象は、たまたまこうなっているだけのことである。
今後、それをずっと保全していこうと考えるのはあまりに傲慢である。
人類が地球のすべてを支配し、すべての環境と生物は今後ずっと不変不滅である、
そうして輝かしい二十一世紀を迎える、どんな生物も絶滅させてはならない。
それは新しい生物を受け入れないと言っているに等しい。進化論の否定である。
国立環境庁と国連気候変動調査委員会は一緒になって
進化の終焉を唱えているとしか考えようがない。

キャリー・マリス 「マリス博士の奇想天外な人生 」より抜粋)

氷河期、地球は今よりも摂氏二十度も冷えていた。
現在、われわれは間氷期と呼ばれる気候に生活しており、
これは人類史にとって一種の夏休みである。
・・・・・・
われわれは次の氷河期に向かいつつあり、
そこでは現在のような温暖な気候は期待できない。
むしろ氷河期のような気候こそが地球の歴史の大部分を支配していたのである。

キャリー・マリス 「マリス博士の奇想天外な人生 」より抜粋)

(*10)さらに余談ですが、マリス博士の薬物への考え方もとてもユニークです。

深刻な問題は、LSDの力を借りて真摯に物事を探求していた人々の
研究活動や芸術活動に終止符をうってしまったことである。
現在でも許可を受けてLSDの作用を研究している科学者はいるだろう。
しかし彼らはLSDを服用したこともなければ、
LSDのなんたるかも全く分かっていない連中なのである。
薬物に関しては、科学書籍まで検閲を受けることになった。
こんなことは歴史上初めてのことである。
「有機化学事典」のような化学合成の標準的な参考書からも、
LSDとメタンフェタミンの記述すべてが削除された。
なんという暴挙だろう。
一群の化学物質が、突然この世から消されてしまったのである。
アメリカの暗部はさらに闇を増しつつある。
……
どの薬物体験もそれぞれ味がある。
いずれも興味深い体験であることは確かだが、
いつもいつも楽しいものとは限らない。
私も何度か非常につらい目にあった。

キャリー・マリス 「マリス博士の奇想天外な人生 」より抜粋)

2007年11月23日

千里馬スーパーファイトVol.26


「千里馬スーパーファイトVol.26」(神戸ファッションマート)を観戦しました。

「日本バンタム級タイトルマッチ 三谷将之 vs菊井徹平 」を含むプロボクシング全17試合が、正午から午後8時まで8時間に渡って行なわれました。休憩が30分だけでとても疲れましたが、迫力満点でとても楽しく観戦できました。出場選手たちは全員きっちり身体を作ってきて格好良かったです。それにしても、生で観戦すると、殴られるととても痛そうでした。バシッというグローブの音の中にゴツンという音が混じっていたり、空気中に血しぶきが舞い上がり、その血が相手選手の身体にも飛び散ったりして凄まじいものがありました。ダウンした選手が立ち上がったときのフラフラ感や試合後に帰り道で崩れ落ちたりするのはとても痛々しいものがありました。リングの上には、文字通り生命を削る、恐ろしいまでのリアリティがありました。

今回の試合は、全般的に、身長差のある対戦が多かったように思います。基本的には、身長の高い選手はジャブを生かしたアウトボクシングで戦い、身長の低い選手は懐に潜り込んで早い回転のフックを浴びせる接近戦の戦いだったと思います。アウトボクシングは先の先を取るジャブで、相手の出足をジャブでひるませた所をステップインしてワンツーを入れて相手を崩してゆく。一方、インファイトはフットワークやジャブを使って相手の牽制をかいくぐって懐に潜り込んで、接近戦に持ち込み乱打戦の中で高速回転で相手をなぎ倒すといった戦略があると思います。今回、意外だったのは、小柄な選手がなんとか潜り込んだにもかかわらず、大柄な選手の方がフックの回転が速くて、小柄な選手は思うようなインファイトができなかったことが多いように感じました。

三谷選手vs菊井選手もそのような戦いになったと思います。菊井選手が多彩なパンチで切り崩してインサイドに攻め入ろうとするのですが、三谷選手が巧みにかわしてなかなか許しませんでした。そして、何とか菊井選手が懐に入った場合でも意外にも三谷選手の回転が速くて、せっかく接近戦に持ち込んだものの逆に菊井選手は押されたように思いました。結果、判定で三谷選手が勝利しました。

他の選手たちの試合もなかなか凄まじく、けっこう出血していました。岡山出身のボクサーが瞼から出血してドクターチェックを受けていましたが、グローブを突き上げて「まだまだ、やれるでぇ!」と掛け声を挙げたときには、見ているこちらも熱くなりました。とにかく、みんな、ボクシングに対する態度が真摯で、スポットライトを浴びたリングが生半可な気持ちでは近寄ってはいけない神聖な場所のように感じられて、神々しく見えました。

ただ、プロボクサーというのは、プロスポーツ選手でありながら、ボクシングだけでは生活できません。働きながらスポーツに取り組んでいるので、どうしても生活が大変なようです。ただでさえ過酷なトレーニングな上に、経済的にも厳しい環境を強いられるようです。ですので、リングの上だけでなく、トレーニングでも実生活でもボクサーはもがき(=STRUGGLE)ます。まるで剥き出しの生命を燃やすように…。ただ、ほんのひと時、世界チャンピオンになった時、初めてその苦労が一時報われるようです。とても過酷で孤独な世界のようですが、しかし、まったく人情がないわけでもないようです。過酷な選手生活をまるで修行僧のようにストイックに戦い続けてきた元ミドル級世界チャンピオン、 マービン・ハグラー は言います。

諦めずに自らの目標に向かって努力していたら、
いつか何かが起こるもんさ。
昔、トレーナーに言われたよ。
お前がキューキュー軋む音を立てて車を走らせていたら、
きっと誰かがオイルを入れに助けにきてくれる。
人生とは、そういうもんだって。

林壮一 「マイノリティーの拳 」から マービン・ハグラーの言葉より抜粋)

格好悪くても貧しくても、がむしゃらにもがいたり、むきになって燃焼したりすることでリアルな生を生きることで、それが周囲の人々をも熱くするのかもしれません。醒めた大人になって忘れてしまいがちな、そんながむしゃらさを今回のボクシングは思い出させてくたように思います。ただ一方で、危険を顧みずに人生を賭けて殴り合う彼らは、ボクシングジャンキーなんだろうなあとも思ったりもしました。

2007年10月7日

坂田一男展

「坂田一男展 前衛精神の軌跡」(岡山県立美術館 )を鑑賞しました。

明治22年岡山市に生まれた坂田一男 は、上京して川端画学校で裸婦を描き、パリでレジェ にキュビズム を学び、帰国後中央画壇との接触を断ち倉敷市玉島で活動し、戦後A.G.O.(アヴァンギャルド岡山)を組織して抽象絵画を制作しました。

日本らしさを感じさせない教科書的なキュビズムの作品であり、日本で正確にキュビズムを理解した最初の日本人かもしれません。極端に言うと、特徴のない作品に感じられるかもしれません。しかし、おそらく坂田は美を賛美する視点ではなく、科学者の冷徹な視点で物事を見ようとしていたのだと思います。それまでの芸術は美の追求であったものが、20世紀美術に至って芸術は、科学のように、物事の本質を見透かす真理の追究に変わったのだと思います。なので、「偶然は作者自身のものではない」と言って、的確・正確に物事を捉える科学的普遍的視点を重視して偶然を排除しようとしていたのだと思います。また、シンボリズムを感じさせない、画面を二分して中央に壷(円錐)を配置したり、工具を標本的に並べるように配置する「メカニック・エレメント」などもそういった静的な科学的視点を感じられます。

また、思い切り良く中央画壇と距離を取るものの、小さく閉じこもるのではなく、前衛芸術を普及するために、世界を志向する団体を主宰したりするなど、普遍的な世界への眼差しが感じられます。

いうなれば一地方に過ぎないにもかかわらず、キュビズムを正確に理解し、中央に対して対等に距離を保って、さらに世界を目指す高い志を持つ人物が岡山にいたことは、地方の若い芸術家たちにとって、とても勇気づけられることだと思います。

京都SFフェスティバル2007


京都SFフェスティバル2007 に行ってきました。

京都SFフェスティバル2007は昼間に行なわれる講演会形式の本会と宿泊して行なわれる分科会形式の合宿があるのですが、本会のみ参加しました。本会では、①円城塔インタビュー②東浩紀インタビュー③ティプトリー再考④さよならソノラマ文庫の4つが順番に開催されました。

①では「Self-Reference ENGINE」  の著者である円城塔 氏に菊池誠 氏がインタビューされました。著者略歴や小説で用いられている科学用語や背後に隠されている数学的構造について解説されたりしました。金子邦彦「カオスの紡ぐ夢の中で 」も紹介されていました。

②では、批評家で哲学者の東浩紀 氏にSF評論家の大森望 氏がインタビューされました。インタビューというよりは対談といったような展開になりました。桜坂洋 氏との共同執筆小説「キャラクターズ」についても語られたりしました。欲を言えば、もう少し東さんの独り語りが多くても良かったかなあと思いました。また、熱烈な若者のファンが多いのにもびっくりしました。東さんの言葉を一言も聞き漏らすまいととても真剣に聞き入っていた若者の姿に感動しました。

③では、ティプトリー の数奇な人生や日本での当時の評価について、岡本俊弥氏、大野万紀氏、鳥居定夫氏(水鏡子)、米村秀雄氏のSF評論家四氏によって語られました。ティプトリーは子供時代にアフリカに居たり、陸軍やCIAに勤務したり、女性であることを隠した覆面作家であったことが当時のフェミニズム運動とややこしくなったり、最後は病身の夫を撃ち殺して自分も拳銃自殺を遂げるというとても波乱に富んだ人生で、小説だけでなく、その生き様もとても興味深いものでした。作品タイトル自体も「愛はさだめ、さだめは死」や「たったひとつの冴えたやりかた」などドラマチックでとても興味深いです。

④では、ソノラマ文庫 について、作家の菅浩江 さんや秋山完 さんやレビュアーの三村美衣さんがトークされました。80年代ノリといいますか、学園祭ノリというような景気のいいノリで賑やかなトークで楽しかったです。多分、合宿も似たようなノリかもしれません。合宿こそが本当の醍醐味でしょうね。秋山さんのお話が愉快でとても笑えました。また、読み手の想像力が必要なスペースオペラが売れないと嘆かれていましたが、会場の反応はいまいちだったかもしれません。

特に印象に残ったのは、円城塔氏インタビューでした。数学的な話が多くてよく分からなかったのですが、印象としては、複雑系 にも通じる物事の把握法であったり、その上で空間全体が変貌するダイナミクスを描きたいのかなと感じたりしました。(ストレンジ・アトラクター な感じ?)。また、メタではないことや見たままのデータベース化に違和感を感じたりや を表現したいは分かるような気もしました。イーガン とはまた違った方法で現代科学している希有な作家だと感じました。とにかく、従来の科学者や作家の枠に縛られない、知恵・知性のある、とても柔らかい人でびっくりしました。

円城氏の著書「Self-Reference ENGINE」  はイーガン の論理とヴォネガット の筆致をあわせ持つと評されています。下記だけを読むと、ボルヘス の「バベルの図書館 」を想起しますが、小説は無限だけでなく、自己言及や複雑系などが感じられるような作品になっていると思います。読後感は「クラインの壷 」を一周したような「あれれ?」というような不思議な感覚にとらわれました。まったく新しいタイプの小説だと思います。

全ての可能な文字列。
全ての本はその中に含まれている。
しかしとても残念なことながら、
あなたの望む本がその中に見つかるという保証は全くのところ全然存在しない。

(円城塔「Self Reference ENGINE」プロローグより抜粋)

例えば私はここに存在していないのだけれど、
自分があなたに見られていることを知っている。
あなたが私を見ていないことはありえない。
今こうして見ているのだから。
例えば私は存在していないのだけれど、あなたに見られていることを知っている。
例えば私はいないのだけれど、見られていることを知っている。
存在などしていない私は、あなたの存在を、
とてもあたりまえであると同時になんだかとても奇妙な方法によって知っている。

(円城塔「Self Reference ENGINE」エピローグより抜粋) 

2007年9月30日

第324回岡山遊会

第324回岡山遊会(PEPPER LAND )に行ってきました。

今回はチューターNさんによる「TimeWaveZeroの現在-物語消費、データベース、波状言論、他」という講義でした。講義は、「現在」、「歴史/起源」、「止まる時間」、「discipline 時間を超える」、「成果-実践TWZ全方向時間透視術=’批評・思考’ツール」といった章立てで解説されました。東浩紀 、オタク 、シミュラークル 、スーパーフラット、コジェーヴ (「ヘーゲル読解入門」?)、サルトル 、マッケナ、大森荘蔵 などその他色々が出てきて、内容が非常に濃くて私の頭はオーバーヒートしそうでした。解釈が間違っているかもしれませんが、私の勝手な解釈では、歴史に囚われることなく、フラットなメモリ空間から自由に知識を取り出すような東浩紀のいうデータベースとピーター・ラッセルのいうラセン状の波状時間理論を結びつけた大胆な思考方法の提案でした。講義を聴いているときは波状時間理論を理解するので精一杯でしたが、帰宅してからよく考えてみると、データベースと波状時間理論という一見結びつきそうにないものを全然違和感なくナチュラルに結びつけていて、Nさんの着眼点の鋭さや柔軟な思考に改めて驚きました。さらに、「平面的に視る」だけでなく、歴史的視点である「奥行きを感じる」普通の視点を併用することも付け加えられていて、とてもバランス感覚のある思考に感じました。ちなみに、波状時間理論の考え方は、私的にはカート・ヴォネガット のいう「タイムマシンなんて簡単に出来る。それは思い出すだけでタイムマシンだ」に近い考え方かもと思いました。

ところで、カードを使ったデータベース化の話題のときに、私は「教会は聖書のカード化を禁止している」と言ってしまいましたが、帰宅して調べたら間違いでした。次のような小説の一節を間違えて覚えてしまっていました。

キリスト=イスラム教会は聖書をカラー・コード化されたホログラムにすることを
許さず、製造と販売を禁じている。
・・・・・・
もちろん、イマヌエルは、キリスト=イスラム教会が聖書をカラー・コード化された
ホログラムにすることを許さない、その理由を知っていた。
連続する層が重なりあうまで、
真の深みの軸である時間軸を徐々に傾ける方法を学びとれば、
垂直の情報-新しい情報-を読みとることができるからだ。
これによって聖書との対話が可能となる。聖書が生気をおびはじめるのだ。
聖書が以前とはまったくちがう知覚力ある有機体になる。
もちろんキリスト=イスラム教会は聖書とコーランの両者を永遠に凍結したがっていた。
聖書が教会の外部に出れば、独占体制が崩れることになるために。

フィリップ・K・ディック「聖なる侵入」より抜粋)

ディックの小説の中でホログラム化を禁止しているのであって、現実の教会でカード化を禁止しているわけではありませんでした。というわけで、いつもながら間違ったことを言ってしまいました。(出席者の皆様、間違ったことを言ってしまい、すみませんでした。)ちなみに、小説の中でホログラム化を禁止している理由は、教会の指導によって方向付け・限定付けしていた聖書の読解(=人々の拘束)が、ホログラム化によって人々が自由自在に聖書を読解してしまい、人々が教会の権威を脱け出してしまうと考えたのではないかと思います。

さて、波状時間論によれば2012年には、時間は螺旋の中心に至るとのこと(=時間の終わり)。そして、その後はどうなるのか?そこで私は「文明や科学技術が進歩の頂点に達して、人間の可能性の限界、人類にはこれ以上の進歩が無くなるのではないか、逆にそこから人間自身の進化が始まって、データベース化で残っていた性格や身体が進化して、良い性格になったり(笑)、もっと自由な身体を持った今以上の人間に進化するのではないか、しかし、すでに生きている私たちには進化は訪れず、これから生まれる次世代が進化して、私たち自身は進化から取り残されるのではないか(笑)」といった、まるでアーサー・C・クラーク の「幼年期の終り 」のようなSF的想像をしてしまいました。

さてさて、会合は、他にも、オタクや萌えやエヴァンゲリオン、スノッブ やアナーキズム やイデオロギーなどについても語られました。とても充実した時間を過ごすことができました。振り返ってみると、会合での私はヴォネガットのボコノン教 でいうランラン(=人々をある思索の路線からそらす人間)だったかもしれません(笑)。私としては、とても勉強になり、とても楽しい時間を過ごせました。

2007年8月7日

クロスロード -共鳴する美術-


 
岡山ゆかりの40代の作家である森山和己と山本麻友香の作品群と、同じく岡山ゆかりの20代・30代の作家である島村敏明、藤井弘、森美樹、国光裕之、佐藤朋子、灰原愛、永岡かずみ、真重涼香、松本弘+越宗泰昭の作品が展示された展覧会でした。
 
森山氏の作品は、日本画とは気付かないような、日本画には珍しい作品でした。ボカシやにじみで自然の風景が描かれていて、まるで洋画のようでした。油絵のようなベタ付き感もなく、日本画のような不自然なくっきり感もない、ある意味、自然を自然のままに捉えたような作品でした。「水の記憶」などはそういった技法がよく生かされた作品でした。
 
山本氏の作品は、聖なる少年を描いた作品に思いました。性に目覚める前の少年は、野山を駆け回り、友達とじゃれ合ったりするだけの、ただ夢中に遊ぶだけの存在であるように思います。女の子もそうなのかもしれませんが、よく分かりません。逆に女の子はそんな遊びに夢中な少年に聖性を見出すような気もします。(もっとも、当の男の子は、一日中遊び呆けるただの阿呆だったように思います。大人になった今も阿呆さ加減は本質的に変わらないような気もしますが…。)とにかく、聖画でよく描かれる子供の天使のような聖性がこの作品には宿っているように感じます。
 
藤井氏の作品は汚染された自然を取り上げていました。ウラン残土があったようですが、正直なところ、あまり近づきたくありませんでした。うじゃうじゃっとした苔(or珊瑚?)の写真が縄文的で良かったです。苔の生命が作り出したそのフォルムに、生命力のうねりを感じました。
 
島村氏の作品は「雨 rain」でした。雨によって浮かび上がる無限遠点のような風景の雰囲気がよく出ていました。以前、奈義町現代美術館でのまとまった展覧会を知っているので、もう少したくさん展示して欲しかったです。森氏の作品は苔のような、あるいは、他の惑星の岩石のような、グリーンの作品でした。重量感と不思議な煌きを持った作品でした。
 
国光氏の作品は月を素材にしたビデオアートでした。私は、月というよりは卵子や受精卵を想像しました。卵子とその波動でゆらめく磁性体のゆらぎのように感じました。先程の藤井氏の苔と同じような、生命力のバイブレーションを感じました。
 
灰原氏の彫刻は、アニメがそのまま彫刻になったような作品でした。見ていて、とても清々しい気持ちになりました。永岡氏の彫刻は、舟越桂の作品に似ているような気もしますが、それとは違う要素が含まれているように思います。SF的というか、宇宙的というか…。まっすぐ前を見る静かな眼差し、凛とした姿が未来的で美しかったです。
 
松本氏+越宗氏の作品は、ひとつは天国のオルゴールのような綺麗な回路をイメージしました。あるいは、特撮ヒーロー「人造人間キカイダー」の良心回路をアートで表現するとこのようなものかもしれないと思いました。もうひとつはテルミンを使ったサウンドアートとのことでしたが、残念ながら調整中のようで聞けませんでした。最初、スタッフの女性が彫刻の周りで手をかざし続けているので、作者による手直しかと思ったのですが、作品には触れずに手をかざし続けているので、気を送るパフォーマンスアートか!?と思ってしまいました。横のスタッフの方の説明を聞いて調整中ということが分かりました。そのスタッフの方が、本当でしたらテルミン特有の「ピヨヨヨヨヨ~ン」という音が出るんですよと茶目っ気たっぷりに口真似してくれたときは、とても気持ち良く笑えました。
 
全体的に、とても充実した展覧会でした。そして、岡山の若手作家がこんなにも充実していたのは正直なところ意外で、本当に驚きました。次回が大いに楽しみになりました。

2007年8月6日

ピカソ展


「ピカソ展」(岡山県立美術館) を鑑賞しました。

ルートヴィッヒ美術館所蔵のピカソ作品約100点とロベルト・オテロにおる写真約30点を展示した展覧会でした。ミノタウロスのスケッチが多くあったり、版画や陶芸など普段あまり知られていないピカソ作品も見られたりしてとても充実した展覧会でした。また、ピカソのキュビズムな絵画技法が生まれ出てくるプロセスを感じ取れる展覧会でもありました。

それにしても、やはりピカソは女の秘密を覗き込もうとした画家だと思いました。ミノタウロスはまさにそういった女の秘密を覗き込もうとする男の性的欲動を表わした象徴だと感じます。そして、ミノタウロスが欲動して凝視する先にあるのは、深遠でエロティックな女の性があります。そこには、女性のふくよかな丸い肉体、胸部や腹部や臀部の脂肪や水分をたっぷり持った肉塊、世界の裂け目のような押し広げられたヴァギナなど、女の肉体の持つ性的に強大な自然力・生命力が描かれていました。また、写真の中のピカソの瞳は、年老いることを知らない真実を覗き込もうと輝いているように感じました。
 
一方、60歳を過ぎて始めた陶芸もユニークな作品が多くて感心しました。もう少し力強さを持つと岡本太郎と似てくるようにも思いました。プリミティブに行ききらず、その一歩手前で止めるように感じました。

それにしても、ピカソはフロイトの精神分析学によって解析されるべきなのかもしれないと思いました。心の中で生き生きと欲動する性の力が、当時のピカソやフロイトには、うねるマグマや生々しく蠢く蛇のように感じられたのかもしれません。(インドで、性力(=シャクティ)を蛇として描くのが分かるような気がします。)そして、性が自然な発現としてあった野生や古代と比べて、近代は新たなエロティシズムが始まったのかもしれないと思いました。意外と現代のエロティシズムは歴史が浅いものかもしれず、自分で考えているほど自然なものではないのかもしれません。ただ、人間に自然な性など存在するのかどうかも分かりませんが…。あるいは、もしかすると、極端な話、古代精神が持っていた「魂振り」の感覚を失ったかわりに、近代精神は「近代的な性的興奮」を手に入れたのかもしれないとも思ったりします。(もちろん、ネガティブな意味ですが…。)

とにもかくにも、ピカソの作品を覗き込むとその奥底には、性的欲動の化身である、群がる蛇たちの蠢く蛇腹が見えてくるような、そんな気がします。

2007年8月5日

ナンセンス=マシーンズ展

「明和電機 ナンセンス=マシーンズ展2007」 (岡山市デジタルミュージアム )を鑑賞しました。

展示は3つのシリーズで構成されていました。

1番目は「魚器(NAKI)」シリーズです。「魚器」と書いて「ナキ」と読むようです。このシリーズは、「自分とは何か」を問いかけて、自分と世界を魚と魚の住む海に見立てて、アルファベット26文字に対応して表現したものだそうです。魚の骨が主なイメージになっています。これらの作品を見ていたら、昔の日本の食卓風景を思い出します。漫画「ど根性ガエル」の主人公ヒロシ君がよく言っていたセリフ「母ちゃん、また、メザシかよ!」というのが思い出されました。ちょっと前まで日本の食卓には肉よりは魚が主に出ていたのではないかと思ったりしました。畳の上のちゃぶ台でご飯と魚で家族が食卓を囲むというのが一般的だったように思ったりしました。何にでも醤油をかけて食べたりしてたように思います。そして、魚の骨とマシーンを結びつけるところは日本的だなと思いました。魚を食べ進むと、次第に身がなくなって流線型の魚の骨のフォルムが浮かび上がってきます。尾頭付きだと死んだ魚の頭と身体の骨のコントラストによって、死のイメージとして浮かび上がってくるように思います。その姿はちょっとトホホな感じもありますが…。食べ終わったら、手を合わせてごちそうさまでしたと、何となく魚の死体に拝むような心持ちがします。また、ロボットは昆虫的なデザインがマッチするように感じていましたが、魚の骨で表現するのは世界でも明和電機くらいではないかなと思いました。ロボットなのに、どこか石器時代をイメージしてしまいます。それから、笑いだけでなく、ちょっと残酷な発想の作品もありました。偶然で魚が死んでしまうといったような仕掛けです。ですので、なんとなく死との結びつきを感じる、不思議なアートです。

2番目は「ツクバ(TSUKUBA)」シリーズです。機械仕掛けの楽器です。発想としては、スチームパンクのようなもう一つの別の科学の表現に思いました。大仰な仕掛けのわりには、他愛の無い、可愛らしい音を出すような楽器になっていたりします。また、ライブ映像も見られます。ライブは、ロボットダンスではないのですが、全体的な雰囲気としてロボットダンスな作りになっているように感じます。理系的といいますか、工学系といいますか…。音をパソコンの中だけで完結して作ってしまうことに対抗して、機械が唯物論的に作り出す音を目指した、物いじりの好きな工作屋、物いじりによって物を実感する工作屋が作り出したアートです。

3番目は「エーデルワイス(EDELWIEISS)」プログラムです。これは若い男女の性をテーマにしていて、明和電機としては異色な作品だと思います。理系的な内向的な男の子と強い欲望を持つ女の子との破滅的な世界をSFファンタジーに描いています。恋愛に不器用なために生じる悲劇か、あるいは、もっと根本的に男女の相違によって生じる悲劇かもしれません。また、作風が腐女子系な感じです。中年になってしまった自分からは、作品の中には、ちょっと距離を感じるところもありましたが、若者には共感するところも多い作品なのかもしれません。

全体的には、明和電機 は中小企業の電機メーカーという戦後の高度経済成長を支えた日本の象徴的な存在の表現だと思います。大企業の下請けで苦労したり、資金のやりくりで社長さんが走り回ったりといった中小企業のひとつのイメージだったと思います。(実際、明和電機は先代で一度倒産しているようです。)そういった日本的イメージのアート表現として、明和電機は意義のある表現だと思います。そして、そういった中小企業の活力ある楽しさ、モノづくりの楽しさを遊び心満点で伝える楽しい表現だと思います。

2007年7月29日

第7回詩のボクシング岡山大会予選

「第7回詩のボクシング岡山大会予選」 を鑑賞しました。



総勢20名プラス飛び入り1名が予選突破を目指して5組に分かれて、3分間の詩の朗読に挑みました。

審査員は楠かつのり氏でした。1人が朗読し終わると楠氏のコメントがありました。楠氏のコメントは、時に教育的に、時に挑発的に感じました。楠氏は詩人の真剣な朗読に応えるためにも、真剣で愛情のこもったコメントをされているように感じました。また、楠氏のお話で、ある地方でいじめについて保護者のお母さん方と話したときに感じた苛立ちが印象深かったです。それは何というか、文明社会がもたらす心の貧しさとでも言うのでしょうか。日本の社会全体に対する危機感のように思いました。そして、その危機感を突破するような強烈な詩の力を求めるように、詩人たちに潜在している底力をかき立てるために、一人ひとりのコメントに力が入っているように想像しました。

特に印象に残ったのは岩本さんと澤さんでした。岩本さんの「チャイルド」などの単語や「脳内再生」などのSF的なイマジネーションが、逆にリアルな今を感じさせてくれました。次に澤さんですが、彼の朗読を見て、第1回チャンピオンの若林さんを思い出しました。若林さんの男性版があるとしたら、澤さんのようなタイプかもしれないと思いました。詩神とリンクするような秘められた才能の持ち主かもしれません。あと少し集中すればと思いました。

それにしても、出場者した方々は素人らしさを感じさせない高い技量を持っているように思いました。楠氏のコメントにあったようなポイントをフィードバックしてゆくと、完成度が高まってゆくのだろうと思いました。本大会が本当に楽しみです。個人的には、たとえ技術が未熟でも、日本語や自然の豊かさを感じさせてくれる詩があったらいいなと思っています。というのも、日本語と自然さえあれば、日本の心の豊かさは保たれると、最近は楽観的に思うようにしています。

2007年3月25日

メジロ


近くを歩いていたら、公園の木に一羽のメジロがとまっていました。鮮やかな緑色が見えましたが、キョロキョロと忙しく動いたかと思うとすぐに飛び立ってしまいました。その羽ばたきで、小さなつぼみを持った小枝が微かに震えるように動きました。春の訪れを告げてくれているようでした。

それにしても、冷たい風の吹く三月でした。そんな春風から、次のような李白 の詩を思い出したりします。

天下 傷心の処
労労 客を送るの亭
春風 別れの苦しきを知り
柳条をして青から遣めず

(李白「労労亭」より抜粋)

中国の古い習慣では、旅人を見送るときに柳の枝を折って記念に渡したらしいです。冬が過ぎて柳の枝が青むころ、多くの人々は旅に出たようです。そんな習慣を元にこの詩は詠まれているようです。
「この世で最も人を悲しませる場所があります。それは、労労亭、すなわち、友人を送別するこの場所のことです。だってほら、春を告げるあの陽気な春風でさえも、別れの苦しさ・悲しさを知っていて、旅立つのはまだ早いとばかりに柳の枝に青い芽を吹かせていないではありませんか。」このように詠っているように感じられます。
「天下傷心」という詩句は随分思い切った表現かもしれません。でも、それ程までに離別の悲哀が深いものであることを李白は知っていたのだと思います。そして、別れた友のことは永遠に記憶されるのでしょうね。

また、一方で、そんな透明に澄んだ冷たい冬の空気に、春の陽光が射し込んでくると、一切の悲哀が淡くほのかに透き通しになってゆくような気がします。そして、さらに、精神も魂も純粋に透明になって、そればかりか木々や建物や空間も何もかも全てが透明になって、永遠の静けさや休らいが訪れるような、そんな気がします…。

異郷に在っても、故里の

古いならわしを尊び守って

明るく澄んだ春の祭の日に

一羽の小鳥をにがしてやる。

私はしみじみなごやかな気持ちになる。

何を神に向かって不平など言うことがあろう、

ただの一羽ではあるけれど、生きものに

自由を贈ってやることができたのだもの。

(プーシキン「小鳥」より抜粋)

”すべての人がいつも穏やかで調和のとれた平安な心でいられたら…”とプーシキン は願ったのでしょうね。

さてさて、春は別れの季節、旅立ちの季節なのかもしれませんね。
もう、春ですね。

2007年3月19日

国立民族学博物館


国立民族学博物館 を鑑賞しました。

大阪モノレールの万博記念公園駅を出ると、左手に鬱蒼とした森の中からニョッキリと突き出した太陽の塔 が見えました。そして、お腹の怒った顔がこちらを睨みつけていました。まるで、科学技術で勝ち誇った傲慢な文明社会に対する大地の怒りのように感じられました…。

さて、国立民族博物館では、世界の諸民族の様々な標本資料を鑑賞することができました。常設展では、オセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、そして、日本というように世界一周旅行のようにして各地域の資料を鑑賞することができました。また、特別展の「聖地巡礼-自分探しの旅へ-」も鑑賞できました。スペインのサンチャゴ・デ・コンポステラ の巡礼を追ったドキュメンタリーでした。日本には四国遍路 があるので、聖地巡礼はとても親しみやすいものでした。その他にも、恐山 のイタコ やジプシー の黒マリア の映像もあって、とても興味深かったです。全体的に、本当にたくさん見るところがあって、1日ではとても時間が足りないくらいでした。

今回、ネイティブ・アメリカンに興味があって見に行ってみました。ネイティブ・アメリカン関連の資料としては、ホピ族 のものがありました。他にも、マヤ文明 やアボリジニ やアイヌ の資料を間近に見ることができました。また、オセアニアの仮面やアフリカの彫刻もとても興味深いものでした。来場していた若者たちが細かなスケッチをしたり、写真を取ったりと、とても勉強熱心に鑑賞していました。

ネイティブに興味があるのですが、ネイティブといってもただ単に先住していたという意味では考えていなくて、また、世界には多種多様なタイプがあるので一概に捉えることもできないとも思います。ただ、文明の嵐にさらされ続けてきたネイティブの中には、これからの人類にとって、とても大切なものを持っているものがあるように思えるのです。

たとえば、ネイティブ・アメリカン の生き方から、多くの大切なことを学ぶことができます。ネイティブの思想は、様々な局面で円環の思想を形成しています。人生や人間関係や自然との関係など多くの面で円環思想を形成しています。単純化すると、”自分の行為は自分に返ってくる”という円環的な因果律といえるかもしれません。そして、その中心には、グレート・スピリットが深く関わっています。エリアーデ などのシャーマニズム 研究を見ると、ネイティブ・アメリカンに限らず、世界中のネイティブの中に同じような精霊を見つけることができます。精霊は理知では捉えられないもののようですが、神秘的な感覚では捉えられる、とてもリアルな存在のようです。

また、ネイティブの世界観では、あえて分別すると世界は可知と不可知で捉えられ、さらに可知は既知と未知に分けられるようです。人間の知性は精霊を含む全ての世界を完全には捉えられないという世界観を持っているようです。そして、そんな世界の中にネイティブは生きていて歓びを見出します。(*1)

私は大いなる海を浮き漂うもの。
大いなる川の藻草のように流れになびく。
大地と大いなる雨風に揺さぶられ、運び去られ、
なおも私の心は歓びにうち震える。

(ユーバブヌック(イグルーリック族)1920年頃 「俺の心は大地とひとつだ 」より抜粋)

そして、この不可知や未知を持つ世界観からネイティブ・アメリカンは、狩人精神に基づく謹厳な行動規範で生きるようです。世界は知性では計り知れないからこそ、世界に対して優しく丁寧に、大胆かつ繊細に触れて、自らは謹厳に生きるのだと思います。特徴的なのが、愚かさを笑うユーモアです。人間はしばしば物事をすべて知性で捉えられると傲慢に考えてしまいがちです。そんな愚かさをユーモアのある語り口で戒める物語が数多く伝えられているようです。人間は自らの愚かさを忘れて愚かさに陥りやすいので、それを思い出すためにその種の物語が多いようです。(*2)

二人は湖の岸辺の大きな岩の上に腰をおろしている。
そこへ雨が降りはじめた。
「なあ、兄弟、濡れないうちに早く家に帰ろう」
亀のヘヨカは兄弟に声をかけた。
「ああ、それがいい、そうしよう。おいらも雨はたまらん」
蛙のヘヨカが応える。
それから仲良く一緒に湖に飛び込んだ。
ボチャンと。

北山耕平 「ネイティブ・マインド 」から「史上最短の物語」より抜粋)

また、狩猟採集社会によく見られる、贈与経済という物に執着しない経済を実践していたようです。未開社会では、必要なものは社会内の交換に頼らずに、自分たちで自然から調達します。同じ部族内では物をみんなで分与・共有したようです。また、物を貯めこんで蓄財することもできなかったようです。他にもクラ交易 やポトラッチのようなタイプの贈与経済があったのではないでしょうか。ラコタ族 では他者の持ち物を褒めると、褒めた人にその持ち物を(たとえ、それがどんなに必要なものであっても)贈り与える習慣のようです。このように、狩猟採集社会では、経済は交換ではなく贈与がほとんどだったのではないでしょうか。交換経済が原則の現代の文明社会からは想像できない社会に生きていたように感じられます。彼らは物に執着せずに物質よりも精神の豊かさを重要と考え、実践していたとも言えると思います。文明人よりも豊かな精神を持っていたのではないかと思います。(*3)

人生で大切なのは、実は、なんでもないようなことなのだ。
僕らは幸せを求めすぎて、かえって人生を複雑なものにしてしまっている。
一生懸命に求めすぎてしまうのだ。だがそれは、実はすぐ傍にあって、
ときには子どもが元気よく出入りするティーピーだったり、
シチューができるのを待っている犬だったり、
温泉につかることだったり、家族の触れ合いだったりする。
そう、幸せとは、そんななんでもないことの中にあるものなのだ。

(ビクター・ガブリエル「英語がわからない犬たち」「風のささやきを聴け 」より抜粋)

さらに、ネイティブ・アメリカンでは、ヴィジョン・クエスト(=幻視探求)という成年儀礼を経ることで、一人前の大人になるようです。それは、自らの死を射程に入れた人生の全体性を獲得するための試練のようです。ヴィジョン・クエストはネイティブたちにとっても困難な試練らしく、ヴィジョン(=霊夢)をなかなか得られない者もいるようです。それは魂に精霊の刻印を刻むような決定的で強烈なヴィジョンのようです。

そうして得られたヴィジョンに生涯支えられるようにして、家族を形成して子孫を残し、死を迎えるようです。彼らは最後の日まで、祈りや瞑想などですっかり自分を整理し内的沈黙を蓄えて、人生の最後・完成を迎えるようです。ネイティブ・アメリカンの老人たちの写真を見ると、沈黙が蓄積された彼らの心の中には、青空や宇宙が無限に広がっているように感じられます。そして、文明人が漠然と向かえる死ではなく、物理的なまでの、人生の完成としての死を彼らは獲得しているようにさえ思えます。(*4)

クラウフットの死の間際に、看病してきた娘は「人生って、何なんでしょうね?」と尋ねた。
すると、クラウフットはしばらく考えていたが、やがて老いた目を思い出に輝かせ、
かすかに微笑みながら、娘のほうを向いて言った。

人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
冬の寒さに浮かぶバッファローの白い息
草原を横切り、夕日の中に消えていく小さな影。

(ブラックフット族クラウフット「人生とは?」 「風のささやきを聴け 」より抜粋)

さて、数万年前、ネイティブたちはベーリング海峡を通ってアメリカに渡ったり、南下してオーストラリアに渡ったりしました。それは、狩猟民族たちが国家を形成する文明社会を拒絶して離れるためだったようにイメージしたりします。文明社会は階級を形成したり、自然を見えなくしたりして、人間の精神を貶めてはいないでしょうか。狩猟民族たちは直感的にそれを感じて嫌ったのではないか、そして、狩人の生き方こそが高い精神性を持った生き方だと考えたのではないか、そんなように思ったりもします。そして、日本はそういう環太平洋のネイティブ・モンゴロイドの一部ではないかと考えたりもします。今、グローバリズムによってますますエコノミックアニマル化・文明化する日本人の精神風土ですが、真剣にネイティブな生き方に学ぶべきときではないか、そんなように考えたりします。そんなことを考えるとき、国立民族学博物館の標本たちが精霊を宿して生命を持ったように、生き生きと輝き始めるのを感じます。(*5)

*1 ネイティブの世界観を次図のようにイメージしたりします。 
あるいは、次図のような島宇宙の世界観もイメージしたりします。
”自分の行為は自分に返ってくる”という円環思想を次図のようにイメージしたりします。


また、自然と人間の関係は、人間が自然から貰うばかりの贈与関係をイメージします。
(逆に、ここから贈与概念が生まれてくるような気がします。)


*2 狩人精神は東西南北の四方位になぞらえられるような構造を持っています。

*3 交換と贈与は次図のようなイメージです。


贈与経済で得られる豊かさは無形のために、交換経済のように物に限定されていないので、
多様性に富んでいるともいえるかもしれません。

*4 彼らの人格からは、金剛曼荼羅のような、中心のない非線形的思考を感じます。一方、
文明人は、自我を中心として発出するような胎蔵曼荼羅のような線形的思考に感じられます。


あるいは、不純な夾雑物のないクリアーな心の輪(=メディスン・ホイール)を感じます。
祈りや瞑想でメモリ空間が清掃されて、深層意識に沈黙が蓄積される様を次図のようにイメージします。


大乗起信論 では、アラヤ識 と意識の連続体を次図のように捉えるようにイメージしたりします。


*5 ネイティブ・ロードは次図のようにイメージします。


*6 レヴィ=ストロース の次のような言葉から、彼もネイティブから思想的に多大な影響を受けたように感じら
れます。

私というものは、何かが起こる場所のように私自身には思えますが、
『私が』どうするとか『私を』こうするとかいうことはありません。
私たちの各自が、ものごとの起こる交叉点のようなものです。

(レヴィ=ストロース「神話と意味」より抜粋)

私がここで示したいと思うのは、人間が神話のなかでいかに思考するかではなく、
神話が人間の中で、人間に知られることなく、いかに思考するかである。

(レヴィ=ストロース「神話論理」より抜粋)

*7 ネイティブ・アメリカンのシャーマニズムは極めて高度な精神体系を持っているように思います。
そして、その中には東洋哲学をも凌駕する叡智を持っている呪術さえあるように思います…。

2007年3月18日

アルトメロウ展


アルトメロウ 」(white canvas )を鑑賞しました。

「“2番目の美”をテーマに掲げ独自のアート活動を模索する、materi、秋山しゅん、の二人展。まだまだ“1番”には遠い二人ですが、高みを目指すという意を込め、“2番”という数字を掲げました。」といった展覧会でした。

良い意味で未分化な作品に思いました。それは、美と静寂の2つの要素が未分化状態で表現されているように思いました。風景や素材の瞬間々々を捉えた作品に感じられ、それが美のみを捉えるのでなく、静寂・静止をも捉えた、美と静寂の両方が未分化な状態で提示された作品のように感じられました。そして、その静寂の方の奥には、詩的なモノ、未知な何かを感じます。

そもそも美とは何だろうと考えたりもしました。案外、自分の場合、欧米文化と日本文化の融合した文明社会の中で培われ身に付いた感覚かもしれないと考えたりもしました。一方、静寂が表わそうとしているのは、もっと深いプリミティブなもののように感じました。これらの作品が美一辺倒に突き進まずに、静寂というもう一つの感覚を含めたのは、どこか通常の美では捉え切れないものを世界に感じているからではないかと想像したりしました。

それにしても、その静寂の奥には何があるのか、そんな想像を巡らすとき、オクタビオ・パス の次のような言葉を想起します。

詩は人間を、その人間の外に置くが、同時に彼の根源的存在に回帰させる。
彼を彼自身に戻すのである。
人間は自らのイメージである彼自身でもあり、かつ他者でもある。
リズムであり、イメージでもある語句を通して、
人間-存在への永続的願望-は存在するのである。
詩は存在へ入ることである。

(オクタビオ・パス 詩論「弓と竪琴」より抜粋)

静寂の奥には、なにか根源的存在=始原を感じてしまいます。どこかネイティブ・アメリカンやアボリジニなどの先住民たちのプリミティブなアートを思い出しますし、始原はアボリジニ がいうところのドリームタイムやネイティブ・アメリカン のグレート・スピリットのようにも感じられます。

一方、そんな未開社会に思いを馳せるとき、グレーバー が指摘している政治人類学者クラストルの未開社会観を想起します。

アマゾンの人々が国家権力の初期段階的形態に
まったく気づいていないわけではなかったら?
彼らは、ある一定の男たちが、暴力の脅威に裏付けられて、
他の皆に対して有無を言わせず命令するようになったら
どうか気づいていないわけでなく、
そのためにこそ、そのようなことが起こらないように心掛けていたのではないか?

(デヴィッド・グレーバー「アナーキスト人類学のための断章 」より抜粋)

クラストルによると、国家の陥りやすい陥穽を避けるために、あえて国家形態を取らずにアナーキーな共同体としての部族を選択したと言っているようです。
(余談ですが、グレーバーの言葉は過激で辛辣です。

誰かがわれわれを売ったり貸したりする代わりに、
われわれが自分たちを貸し出しているのだ。
近代的資本主義は単に古い奴隷制の新しい姿である。

アメリカにおいて費やされる労働時間のほとんどが、
実質的にはアメリカ人の働き過ぎによって起こされている。
夜間のピザ配達人、犬の洗濯師、
夜間仕事で忙しいビジネスウーマンの子供たちの子守をする女性たちの
子供たちのために夜間保育所を運営する女性たち。

上から下に向けてなされる組織化に不可避的に随伴する、
終わりなき侮辱とサドマゾ的なゲーム。

(同上)
ちょっと極端過ぎ・偏見な気もしますが、面白くはあります。)

未開人たちは、一見、全く財産を持たない最も貧しい労働者階級のように見えますが、実は大きく違って、自給自足できる独立した気高い精神性を持つ人たちのように考えられます(クラストル「暴力の考古学 」)。(ただし、文明社会で文明人として生きる未開人の貧困問題はあるようです。)むしろ、レヴィ=ストロース がインド文明に見たような、文明が堕してしまう階級差別には陥らない、みんなが尊厳を持った気高い生き方とも捉えられるような気がします。ただし、文明がもたらした多くの成果も否定はできないとも思います。

そんな文明と野生の共存に想いを馳せるとき、現在も命懸けで闘っているサパティスタ民族解放軍 の次のような言葉に見られる試みに可能性を見出したりもします。

多様な世界が入る世界、そのための幾何学

あるいは

これが抵抗に関するひとつのモデルである。
しかし、このモデルについてあまり気に止めることはない。
抵抗のモデルはいくらでもあり、世界としてのモデルも世界にはいくらでもある。
だから、あなたの一番お気にいりのモデルを描けばよい。
モデルにおいては、抵抗におけると同様に、多様性こそが豊かさである。

(反乱副司令官マルコス「世界のジグソーパズルの七つのピース 」より抜粋)

さらに、メキシコの先住民社会には、サパティスタ以外にもサパティスタとは異なる方法で理想を目指す先住民社会もあるようです。確かに、世界はインターネットによって多様なシステムが可能な世界になってきているようにも感じます。(ただ、グローバリゼーションも刻々と変化して改善しているような気もします。ただ、先住民はもっと根本的に異なる理想を持っているようです。)

一方、世界の他地域を考えると、イランなどは全体主義の陥穽に落ち込む可能性はあるだろうし(「テヘランでロリータを読む 」)、ベネズエラのチャベス政権 にも同様の可能性が感じられます。それこそ未開人が拒否した国家の陥穽に感じられます。

また、一方、グローバリゼーションで世界は、映画「CODE46 」のような都市国家ネットワークになるのかもしれません。そして、都市機能は大脳化してリアリティが見えなくなり、人間が動物化・家畜化することを、東浩紀 などは指摘しているようにも思います。それは野生とは程遠いように感じられます。

ただ、サパティスタが反対する新自由主義 とは何なのか。何が失われようとしているのか。それが何なのか、自分には正確に理解できていないかもしれません。そんなとき、次のような言葉を思い出します。

それは失ってはいけない。
また、奪われてもいけない。

(「V for Vendetta 」より 女囚ヴァレリーの言葉)

憶測ですが、経済的なことだけでなく、奥深くには、そういった大切なモノがあるように思います。知らず知らずのうちに大切なモノを捨ててしまっているかもしれない中、彼らにはそれが何かがはっきり見えているのかもしれません。このメキシコ先住民の闘争がどこに逢着するのか、とても興味深いです。

それにしても、彼らが選択した生き方の深い深い根源にあるものは何なんでしょうか。
そんなことを考えるとき、次のようなアボリジニの言葉が思い出されます。

白人社会で育ったアボリジニのブライアンは、自分がアボリジニであることを恥じていて、
それを察した彼の祖母は次のように言います。

白人たちが、アボリジニのことをあしざまに言うのは、
アボリジニが農民でも、建築屋でも、商人でも、兵士でもないからなのさ。
アボリジニってのは、それとは別者なんだ。
踊り手で、狩人で、放浪者で、神秘家なのさ。
だから白人は、わたしらのことを無知だとか怠け者だとか言うんだよ。
ブライアンや、おまえにもそのうちきっと、
わしらアボリジニの美しさと力が分かるじゃろうよ。

(ロバート・ローラー「アボリジニの世界 」より抜粋)

短い言葉の中にも多くのことが語られているように思います。アボリジニが文明社会に触れてもなおアボリジニの生き方に誇りを持つのは、文明人の価値感が全く転倒してしまう程の、文明以上の想像を遥かに越えた素晴らしい、力強い何かがあるのだと思います。
(ただし、現代のアボリジニ社会が抱える問題(麻薬・アルコール・ギャングなど)はおそろしく深刻なようです…。)

さてさて、そんな妄想から目覚めたとき、目の前のこの未分化な作品たちが、小さな萌芽のように感じられました。

2007年3月5日

オリエント美術館


岡山市立オリエント美術館 」を鑑賞しました。

今回は常設展のほかに岡崎重樹氏のエジプトのコレクションも展示されていました。今回も人類史・文明史を堪能しました。ペルシアやギリシャやガンダーラ等々数多くの世界文明の中心の文物を垣間見れて、来るたびに本当にインスパイアされます。それに何度も通っているのですが、それでも初めて見る展示品もあったりします。この美術館の収蔵品の多さにはびっくりします。東大との共同研究も始まるようですし、もしかしたら日本のオリエント研究の中心になっているのかもしれませんね。

今回も手で触れられる展示物が用意されてました。
1000年前くらいの陶器類でした。陶器の破片に直に触れることで、1000年前の人が感じたであろう感触が蘇って、自分の中に当時の暮らしや街のヴィジョンが流れ込んでくるようなイメージが膨らんでゆきます。ただ、今回は古いわりには漫画のような可愛らしい陶器の絵柄から、日常的・台所的な、陶器の破片ということもあって、皿が飛んだり、皿が割れたりするような、痴話喧嘩のような、身につまされたりするような、実存的な、あまりに実存的な妄想、いつもの突飛な支離滅裂な妄想が湧き出してきました……。

たとえ話。
怒った彼女がコップを投げつけた。命中して僕の額がパックリと割れた。
床に落ちたコップを拾い上げ、額から血を流しながら僕は呟いた。

実存は本質に先立つ

(サルトル「実存主義とは何か」より)

おそらく、サルトル はこう言いたかったのだと思います。
「本来、コップの本質とは、お茶を注がれる食器なのだが、この場合、コップは彼女の怒りを乗せた怒りのツブテとして実存したのだ。つまり、現在の行動によって本質はあっさりと実存に乗り越えられるものなのだ」と。

そう!サルトルの実存主義は哲学ではありません。それは行動です、生き方です!それも生命を激しく燃焼させる生き方です!武士道にも似た行動する主体としての気概です(投企など)。サルトルが言った人間主義とは、自らに責任を背負って立ち、自分自身の生命を賭して、生きる生き様を言っています。

おそらく、構造主義 から見れば、実存主義 は天動説のような独りよがりな傲慢な人間中心の思想に見えたり、構造主義のような相対的な視点ではなく、絶対空間的視点しか持たない自分勝手な自己中心主義的な思想に見えたりしたのだと思います。逆に実存主義から見れば、構造主義は行動の伴わない、現実や行動の不確定性を知らない、外からの傍観者的な頭デッカチな思想に見えたのだと思います。

サルトルは行動する人でした。他者も行動に巻き込もうとアンガージュマン(=社会参加)を説きました。行動のドライブ感を肌で感じていたのだと思います。何となく彼の複雑な政治活動から窺えます。そんな、行動科学では捉えられないような、すばしっこい野生動物のような、自由奔放で予測不可能な行動こそが実存主義の本領なのだと思います。(ある意味ある面では、イタリアの洗練された実存主義はマキャヴェリズム と言えるかもしれません。)

構造主義と実存主義の両立を考えると、どことなく次のようなハイスピードで走る自動車漫画「湾岸ミッドナイト 」を連想したりもします。

自分の未熟さで事故を起こしてしまった友也はアキオの言葉を思い出しながらいいます。

クルマとの距離をツメてコントロール下におく、
それは一体感じゃナイ・・・と。
走ってる自分をドコかで見ている自分がいる。
そーゆー感覚が大事なんだ・・・。

また、俯瞰や鳥瞰を言うのと同時に現前のドライビングについても

同時には成立しない関係だろ。
互いに矛盾するモノが主張する限り、それは当然のコト。
その成立しないアンバランスの中の
バランス感をひたすら探す。

感覚を研ぎ澄ませて本能的に先行し、事後的に経験を通して理解してゆくようです。

体で知り、心で感じて、そして、頭で理解する。

(楠木みちはる「湾岸ミッドナイト 」より)


(なお、一方でサルトルは、「嘔吐」のような存在の本質に迫る内宇宙を観想するかのような一面もあります。また、もう一方では、数々の女性遍歴も重ねているようです。とても不思議な謎に満ちた人です。)

さて、ずいぶん前に実存主義は構造主義に乗り越えられたと言われていますが、このように実存主義は行動で、構造主義は分析なので、2つは異なる次元のようにも感じます。

そう!だから、実存主義は終わってはいません!これからも終わることはないと思います。人が自らの自由意志で行動する限り終わることはありません。実存主義者の生命が燃え尽きるまで終わらないのです!

そんな実存主義者の闘争を想像するとき、アラン・ムーア 原作の映画「V for Vendetta 」の一場面を想起します。

Vはイヴィーの前に屈み込み、肩に手を添えて言った。

彼らは君の両親を奪い、君の弟を奪った。
君を施設に押し込め、命以外の全てを奪った。
君はそれが全てだと信じていたね?
君に残されたものは命だけだと。
でも、そうではなかったね?
君はそれ以外のものを発見した。
あの独房で、君は命よりも大切なものを見つけた。
なぜなら、求めるものを渡さないのなら命を奪う、殺すと脅された時、
君はむしろ死んだほうがマシだと言ったのだ。
君は死と対決したんだ、イヴィー!

そして、イヴィーに啓示が訪れます・・・。


実存主義者の精神、それは、絶望の中で死に直面してもなお立ち向かってゆく自由意志そのものなのです。

さてさて、いつもながら支離滅裂な無茶苦茶なことを書いてしまいました。でも、この書くという行為によって、この記事は「実存は本質に先立つ」ことになったかもしれません(^^ゞ。

2007年3月4日

児玉知己展


児玉知己展 日常の筆跡 」(slogadh463 )を鑑賞しました。

ちょうど1年前に鑑賞した王国展に出品されていた児玉さんの個展でした。今回も生い茂る葉っぱが爆発的な増殖によって見るものを飲み込んでゆく、そんな魔力に満ちた作品でした。イマ・ココという空間を侵食して、草間弥生的な”あちら側”の異空間を彼独特の植物的生命力で切り開いていくように感じました。これらの作品は植物的魔力で開く異次元の扉といったものをイメージします。また、自然の生命力が、自然を破壊する人類に対して、反撃してその恐るべき巨大な生命力で人類を囲い込み、飲み込んでしまうイメージも喚起しました。

そんな文明による自然や野生の破壊を想像するとき、アイヌの少女知里幸恵 の次のような言葉を思い出します。

その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。
天真爛漫な稚児の様に、
美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、
真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。
冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず
山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、
白いカモメの歌を友に木の葉の様な小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、
花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀る小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、
紅葉の秋は野分に穂揃うすすきわけて、宵まで鮭とる篝も消え、
谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ。
嗚呼なんという楽しい生活でしょう。

平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、
山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、
野辺に山辺に嬉々として暮らしていた多くの民の行方も亦いずこ。
僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり。
しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた
昔の人の美しい魂の輝きは失われて、
不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、
よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……
それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
その昔、幸福な私たちの先祖は、
自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは、
露ほども想像し得なかったのでありましょう。

時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく。
激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、
いつかは二人三人でも強いものが出て来たら、
進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。
それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。

けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、
言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、
亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。
おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。

アイヌに生まれアイヌ語の中に生いたった私は、
雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中
極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書き連ねました。
私たちを知って下さる多くの方に詠んでいただく事が出来ますならば、
私は、私たちの同族先祖と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

(知里幸恵「アイヌ神謡集 」序文より抜粋)

なんてきれいな心、なんて純粋な魂なのでしょうか。彼女の言葉には本当に心が震わされます。この序文を読むとレヴィ=ストロース の「悲しき熱帯」を想起します。彼は未開社会を構造分析することで文明社会を相対化したことで知られています。けれども、何より彼は未開社会の本当に豊かな世界を知っていたのだと思います。文明社会では閉じられてしまった、真に世界に開かれた遥かに豊かな人間の可能性を見たのだと思います。滅びゆく未開と破壊する文明の間に立った最後の人類学者が未開との離別に愛惜を込めた、次のような言葉が思い出されます。

さらば、未開人たちよ! さらば、旅よ!
・・・・・・
その本質を把握しようとして、ミツバチのような労働を中断して堪えている、
その短い中休みの間にある機会なのだ。
あらゆる我々の成果より、美しい鉱物の瞑想の中に、
知らぬ間の理解がときには一匹の猫と交える互いの許しの、
そして忍耐の、静穏さの、重い瞳の瞬きの中に、
百合の花のくぼみに嗅ぐ香りの中にある機会である。

(レヴィ=ストロース「悲しき南回帰線」より)

一方で1986年に日本で行われた「レヴィ=ストロース講義」など読むと、当時の若い人類学者からは未開社会の破壊や未開人の浮浪者化などの問題について質問が浴びせかけられています。また、現在、アナーキスト人類学のデヴィッド・グレーバー など読むと文明社会内での貧困や移民の問題などが感じられます。何となく、それらが円環的にひとつの問題系として繋がっているように感じられます。

(余談ですが、未開社会での労働時間は1日の中で2~4時間と短く、その膨大な余暇を宗教や芸術活動に費やしていて、文明社会の方が労働など現実の領域に窮屈に縛られているというレヴィ=ストロースの話は面白かったです。

さらに余談ですが、彼らには宗教と芸術の間に区分が無いように感じます。例えば、現代美術などは日常的な物を別な配置=異化 をするだけで、何らかの意味生成過程 を経て、新しい意味を帯びた新鮮な輝きを放つモノに変えてしまいます。典型的な例としては、デュシャン の泉などです。一方、精霊などは例えば「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というように光の加減等で霊的なものが宿っているように見えたりします。

結果、受ける感じとしては、現代美術からは新鮮な輝きや生気を感じるのに対して、幽霊からは得体の知れないモノへの恐怖を感じるという違いはあります。でも、ともに物質としては存在しないモノ、生気や霊性として宿るモノという意味では同じ領域のように感じます。これは日常言語と詩的言語で言えば、ともに詩的言語の領域のように感じます。なので、彼らには区別が無いのではないかと思います。さらに区別が無い上に精霊の領域に踏み込んで行ったふしすらあります。また、元々、ピカソ など現代美術はアフリカ芸術から影響を受けているので当然と言えば当然かもしれません。)

さて、しかし、このような問題をどのように考えていけばいいのでしょうか。自然科学者がその答えを知っているのでしょうか。けれども科学は専門細分化してしまい、限られた専門分野から捉えた狭い視点になってしまいます。今はレヴィ=ストロースのような人間の全体性を持って人類社会について言及できる人たちが減ってしまいました。あるいは、新たに政治・経済・社会に長けた社会システムの専門家がその任を担うのかもしれません。

でも、そういった専門家にはレヴィ=ストロースと違って決定的に欠けているものがあると思うのです。それは、未開社会を本当に理解しているような、未開社会の精神を内側から理解し愛し慈しんでいるような、形式論理やシステム主義では見落とされ表現できない、自然や宇宙に開かれたスピリチュアルな豊かな精神を感じ取っている、人間にとって本当の幸福とは何かを知っている、「野生の思考」が欠けていると思うのです。

ただ、実際に経験して学びとれる野生はもう残ってはいないように思います。これからは先人たちが残してくれたヒントを元に、自分たちで「野生の思考」をもう一度切り開いて磨いていかなければならないと思います。

そんなことを考えながら作品を見ていると、作品の中の葉がざわめいて、その陰で何かが動いたように感じられました…。僕はドキドキしながらも、その扉の向こう側の何かに魅了されるのでした…。